• ベストアンサー

福音派で科学者は自己内部で分裂しないんでしょうか?

福音派でありながら科学者という方は 世にたくさん折られると思います。 例えば物理学などの学術論文を書いたりするとき、 質量保存則などを使った公式は 常識的に使われると思うのですが、 そうした一方で、五千人のパンと魚の記事などの 聖書中の記事も事実とする主張するとき、 自分の中で両者の自己矛盾をどのように処理しているのでしょうか? それとも何か矛盾をきたさない説明付けがあるのでしょうか? あるいは学位は学位、信仰は信仰、 それはそれでといった感じで使い分けているのでしょうか? (※なおこの質問は質問文のとおり、 福音派で科学者の方の自己のあり方を聞いているのであって、 聖書中の記事と科学の矛盾をあげつらう様な内容ではありません。 行き場のない問答にならないことをお願いします)

noname#17662
noname#17662

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.10

7番です。 多分、私とr_bocoさんは、それほど異なる事を言っているのではないと思います。 >福音派の地質学者はこの記事を一笑にふせるでしょうか? 一笑にふせるのではないでしょうか。 神の英知は、人間の及ぶところではない。 人間や、自然では起こりえない事ができるのが神であると考えれば。 >聖書は原子の結合から生命が生まれたことを否定しています。 ですから、進化論は否定されるのだと思います。 そこに神の意志の介在が有るとすれば、福音派の科学者も納得するのではないでしょうか。 それを物語っているのが、 >世界と生命は神の言葉とわざによって「突如」生まれた ではないかと思います。 >福音派の科学者が、「質量保存則」を知っていながら、「水がワインになった」と主張するのと同じ作用だと思うのですが。 この件について、神の意志の介在が有る場合と、介在が無い場合とに分けて考えていれば、彼らの頭の中では、全く矛盾しない事になりはしませんか? 私自身は、科学者でもなく、福音派でもありませんから、想像だけですが。 つまり、福音派の科学者が、質量保存の法則に関して、神の介在が有る場合と、無い場合を、分けて考えているとすれば、彼らの頭の中では、全く矛盾していないと思われます。 それに対し、進化論は、神の介在を否定しますから、かれらにとって、許す事ができない理論だと考えているのだと思います。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >多分、私とr_bocoさんは、それほど異なる事を言っているのではないと思います。 私がnacamさんの回答から教えてもらったのは、 >私福音派の科学者が、質量保存の法則に関して、 神の介在が有る場合と、無い場合を、分けて考えているとすれば、 彼らの頭の中では、全く矛盾していないと思われます。 ということです。私の場合この表現が、 福音派の科学者が、自分の知識に関して、 福音派に身をおく場合と、科学者に身をおく場合を使い分けているとすれば、 彼らの自己はまったくは分裂しない という表現になるのかもしれません。 >そこに神の意志の介在が有るとすれば、福音派の科学者も納得するのではないでしょうか。 私はむしろ、福音派の科学者が科学に身をおくとき、 大なり小なり進化論を納得していると思います。 それは、先の試験管の実験もそうですが、 しばしば科学によって聖書の記述事実であることを証明しようとする事件があるからです。 恐竜の化石の下の地層に、人工物をこっそり埋めて、 掘り出してみせるというのは、本当に涙ぐましいほどの信仰だと思うのですが、 その行為自体がすでに恐竜の存在を認めていることになります。 結局、彼が掘り出したのは、信仰という地層の下に埋まった科学知識だったのかもしれません。 福音派は何があっても進化論を認めないと思います。 それは、進化論が聖書の創世記と、お話にならないほどあまりに違いすぎているからです。 こうした場合、福音派の科学者(この場合は生物学者でしょうか)は、 結局、福音派に身をおくとき、科学に身をおくとき、 二つをうまく乗り分けていることになるのでしょうね。 もちろん私こそ想像だけになりますが。

その他の回答 (16)

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.17

失礼な書き方があったかもしれませんが、とても丁寧なお礼を書いていただいてありがとうございます。ようやく、質問された方が意図する「コチコチの福音派」という語の意味がわかってきました。僕自身、聖書に書いてある奇跡を信じているのですが、個人的には、いわゆる科学知識と、神学的な理解は、相補的ではないかと考えています。 ところで、コリンズ博士も、C. S. ルイス博士も、(前者は研修医当時の大学の牧師を通して、後者は同僚で「指輪物語」作者の J. R. R トールキンなどを通して)成人してから聖書の内容を検討し、その後、信仰をもったという経緯が自分にとって興味深いです。このような学者のエッセイやインタビューは、英語であれば検索すれば他にも見つかりそうです、 例、http://www.origins.org/articles/schaefer_wayofdiscovery.html。 また、信仰を否定する立場としては、例えば、無神論者であるバートランド・ラッセル博士やスティーブン・ワインバーグ博士の意見などを読んでみたのですが、後者はアインシュタインの考えにも触れており、質問された方も興味をお持ちになるかと思いました。 http://www.positiveatheism.org/hist/russell0.htm http://www.meta-library.net/transcript/wein-body.html はじめの質問内容から外れてしまったかもしれないのですが、賛否いずれの立場にせよ、聖書について深く考えた学者の意見が紹介される機会が日本では特に少ないように感じたので、すでにご存知であったかもしれませんが、再度投稿することにしました。以下のような本にも興味をお持ちになるかと思いました。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061326864/249-9178171-5906731 ところで宣教っぽく聞こえるので言いづらいのですが、敢えて言わせていただくと、こういった質問はやはり、教会で神父や牧師、あるいは信者である科学者に、また、できれば多くの信者に直接聞いていただきたい気がします。なんといっても、研究ではたくさんデータがある方がよいので。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 ご紹介いただいたサイトはゆっくりと読ませていただきます。 >こういった質問はやはり、教会で神父や牧師、あるいは信者である科学者に、 また、できれば多くの信者に直接聞いていただきたい気がします。 確かにそう言う機会がありました。 しかし残念ながら、納得のいく答えというのは、 あまりえられなかったように思います。 (「アメリカではね、進化論はもう否定されてるんです。」というような) 科学者の方は創造論についてさすがに明言は避けましたが、 「神にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」ので、 創造論は必ずしも間違いではないと言うようなことを示唆されました。 (それでも進化論とは似ても似つかないわけですが) 「では創造は七日ではなく七千日のことなのか」と問うてみたくもなったのですが、 あいにく雰囲気が悪くなりそうでしたので止めました。 思うに、この「一日は千年」理論は、 恐竜の地層の下から、人工物の遺跡を取り出してくる反応と 案外どこかで通じているのではないかと思いました。 すなわち、信仰と科学的データには埋めがたい径庭があることを、 他ならぬ福音派の科学者自身が一番よく理解していて、 (コリンズ博士によれば埋める必要のない)その矛盾を埋めようとして醜い形で表出するのが、 こうした作用なのではないかと思います。 本人自身も気づかないこうした作用力を何と呼べばいいのか分かりません。 しかし確かにこれは福音派の科学者に働く何某かの作用力です。 >いわゆる科学知識と、神学的な理解は、相補的ではないかと考えています。 そこで、引用が前後しますが、科学と神学というより信仰の相補性の話になります。 別の宗教家の方はこうもおしゃっていました。 「科学はどんどん発達していいです。 発達すればするほど、聖書の確かさが証明されます」 私はこの説教には首をひねらざるを得ません。 科学によって証明されたのは、聖書の不確かさのほうが圧倒的だからです。 私がもし福音派の宗教家なら、科学の発達を、 苦虫を噛み潰す思いで見ると思います。 そこで、先のお礼の繰り返しになるかもしれませんが、私はこの質問において、 結局、信仰と科学は共存ということが、調和のとれた形ではないかと思いました。

noname#17662
質問者

補足

「では創造は七日ではなく七千日のことなのか」と、 ↓ 「では創造は七日ではなく七千年のことなのか」と、

  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.16

要するにダブルスタンダードなのですね。 仕事(科学者)のときと、仕事(福音派)のときでは、とる規範(standard)が違うという回答と理解してよろしいでしょうか。 そうです。私の仕事でも人を切らなければいけないという仕事もあり、それをするなら信仰と相反する このような悩みはありますね

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうござしました。 >そうです。 分かりました。 >私の仕事でも人を切らなければいけないという仕事もあり、 それをするなら信仰と相反する このような悩みはありますね 大変重大な責任のあるお立場なのですね。 イエスから信仰を誉められた百人隊長の話を思い出します。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.15

何回も、申し訳有りません。 私は、福音派の科学者が、「ダブルスタンダード」だとか、「あいまい」とか「科学がそこまで発展していない」とは、思っているとは思えません。 かれらも、「水がワインになる事はない」と完全に理解していると思います。 当然、死んだ人が生き返らない事も。 それがあたりまえだからです。 しかし、そこに、「全能なる神」の意志が加わったらどうでしょうか? 「神のちからにより、水がワインになった」「神の力で死者が生き返った」とするならば、福音派の考えと、科学が一体化していても、自然現象として、十分受け入れられるのではないでしょうか。 自分から、「ダブルスタンダード」との認識を持っていたら、福音派などに、とっくに見切りをつけているでしょう。 福音派にとって、「質量保存の法則」は、受け入れるのに全く問題を感じない理論ですが、「進化論」は、絶対に受け入れられない理論でしょう。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >福音派の科学者が、「ダブルスタンダード」だとか、 「あいまい」とか「科学がそこまで発展していない」とは、 思っているとは思えません。 やはり、話し合うというのは大切なことで、 ダブルスタンダードというのは、 #12さんの紹介してくださった、 フランシス・コリンズ博士のスタンダードも合わせて、 少し違って見えてきました。 次元が違うのだと云ってしまったらそれまでですが。 >「神のちからにより、水がワインになった」「神の力で死者が生き返った」とするならば、 福音派の考えと、科学が一体化していても、自然現象として、十分受け入れられるのではないでしょうか。 私のきわめて個人的な意見ですが、 福音派が進化論を絶対受け入れないように、 科学もまた神の力を埒外に置くと思います。 乱雑な云いまわしをすれば、 「あずかり知らない」ということになるのかもしれません。 少なくとも、福音派の考えと科学が、 一体化することはないと思います。 試験管版、世界の洪水の実験のような 数限りないぶざまな実験を見る限りにおいてはですが。 >福音派にとって、(略)「進化論」は、絶対に受け入れられない理論でしょう。 そうなんでしょうね。神の在不在に決定的にかかわってきますからね。 いつか進化論についても考えてみたいと思います。 そのときはぜひまた、nacamさんのご高察も聞かせてください。

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.14

1番で回答したものです。補足があったので追記しておきます。 >科学を聖書に「おっつける」形で、解決していると理解していいでしょうか。 私が思う質問者さんの疑問とは 全く不要な補強工事やシロアリ退治を勧めてお金を騙しとっているような営業マンが感じているはずであろう罪悪感を、この手の科学者たちは感じていないのでしょうか。仕事と割り切っているのでしょうか。 というようなことでしょうかね? でまぁこの例への回答としては、明らかな詐欺行為をしてしまう裏には 金銭的な事情があったり色々ある訳でしょうということになりますが、 問題の福音派の件で言えばこれはそうではなく、別段それは詐欺行為ではないという認識なだけです。 例えて言うならば普通の製品を扱っている営業マンと同じ。メリットを多少誇張しつつ他社製品よりも良いものですよと言う程度のことでこれは極一般的に行われていることです。 つまり指摘されているようなパンや魚の記述は科学的に全く有り得ない(=100%詐欺の営業)という大前提がまず大きく違うと思うわけで。 聖書を字義通りに解釈しても現代科学で十分に理解できると本当にそう思っており、もちろん解説/証明できない出来事も部分的にはあるかもしれないが、それは単にまだ科学技術がそこまで発達していないだけのこと。でこういった思考は別段特殊なものでも無いですよね。 彼らにしてみれば進化論も創造論もどっこいどっこい、というか同じ程度は信頼性があると本当に信じ込んでいる(実際のところ進化論にしてもまだまだアナだらけな学説です)わけで、自己矛盾はそもそも発生しません。 >アインシュタインに「神様はサイコロ遊びをしない」と言わせたものに興味があります。 アインシュタインの場合は信仰心が特に強かったということではなく、 ニュートン力学的な神観からの反発だったと思います。 この世のあらゆる事象は物理の公式にて表現できるというような考えは ニュートン物理学時代においてはそれが正解で、 極論すれば「ラプラスの悪魔」という超越的存在すらその存在は肯定されます。 これは神に置き換えることも可能ですが、宗教的な意味での神ではなく、 宇宙規模でも通用する絶対的なルールということだと思います。 公式では丁半博打のようにしか表現できない事象はあってはならないことであり、 単にまだ分かってない部分があるから、曖昧な解答をするのは良いけれど 全て分かった上で曖昧な解答が大正解となるのが許せなかったということでしょう。 まぁアインシュタインにとっては物理の教科書が聖書だったということです。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >私が思う質問者さんの疑問とは全く不要な補強工事やシロアリ退治を勧めて(後略) 罪悪感とまでは言い過ぎですが、 少なくとも、月曜日の講壇で、 「あれ?今日の私の言ってる事、昨日言ってた事と違うな」 という自己分裂を起こさないのだろうかという疑問です。 >聖書を字義通りに解釈しても現代科学で十分に理解できると本当にそう思っており、 もちろん解説/証明できない出来事も部分的にはあるかもしれないが、 それは単にまだ科学技術がそこまで発達していないだけのこと。 ところがこうなってくると、私はそのような輩を 詐欺師とレッテルを貼らざるを得ません。 もし本当に聖書を字義通り解釈したらば、現代科学では 「解説/証明できない出来事も部分的にはあるかもしれない」どころではない、 とうてい理解も証明もできないことだらけだからです。 >彼らにしてみれば進化論も創造論もどっこいどっこい 進化論が切れた鎖のように、アナだらけなのは良く知っています。 炭素測定法などが発達はしましたが、基本的には出土した骨を順番に並べてみて、 なんだか形がだんだん変わっているように見えるぞとやっていた時代と、 学者は対して変わらないことで満足しているのかもしれません。 しかし一方で創造論には、科学が受け入れがたいもっと重大なことがあります。 それは「無いから有るを作り出したことです」 実は私が、popesyuもご存知の、福音派と科学の相克の最重要テーマである 「進化論」を避けたのは、こういった理由です。 >アインシュタインの場合は信仰心が特に強かったということではなく、 ニュートン力学的な神観からの反発だったと思います。 不確かですが、アインシュタインは、 「自然法則としての神なら信じる(けれども意志としての神は信じない?)」 というような事を口にしたと思います。 たぶんアインシュタインが「神様はサイコロ遊びをしない」というとき、 あくまで物理学のフィールドでの天才特有の語り口だと思います。 つまりpopesyuさんの、 「まぁアインシュタインにとっては物理の教科書が聖書だったということです。」 という言葉をそのままいただきます。

  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.13

仕事は仕事、信仰は信仰です 極端な言い方ならダブルスタンダードですね たとえばサッカー選手にもクリスチャンがいます 敵を愛せよと書いてあるから敵にボールを渡す人はいません

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >仕事は仕事、信仰は信仰です 極端な言い方ならダブルスタンダードですね サッカーの例えが少し分かりにくかったのですが、 要するにダブルスタンダードなのですね。 仕事(科学者)のときと、仕事(福音派)のときでは、 とる規範(standard)が違うという回答と理解してよろしいでしょうか。 ちなみに「汝等の敵を愛せよ」という言葉は 私は、人類史上、革命的な言葉だと思いますし、 それが可能不可能に関わらず好きな言葉です。

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.12

いわゆる「福音派」ではないと思うのですが、米国立衛生研究所ゲノム計画責任者の Francis Collins は以下の英語のインタビュー記事で(最後の段落)彼の奇跡についての理解に触れています。多分僕のいい加減な訳をつけるべきではないと思うので、リンクだけ掲載します。 http://www.pbs.org/wgbh/questionofgod/voices/collins.html 別のインタビュー記事(ページ6と8で彼の信仰について触れています): http://www.achievement.org/autodoc/page/col1int-1 Francis Collins の経歴他: http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Collins ところで、以上のインタビューにでてくる Collins が影響を受けたという C.S. Lewis の “Mere Christianity” という本は(日本語では「キリスト教の精髄」という題で売られているのですが)質問された方も興味をお持ちになるのではないかと思いました。また、すでにご存知かもしれませんが、C.S. Lewis は「ナルニア国ものがたり」の作者で、「科学者」ではないですが、University of Oxford や University of Cambridge で medieval literature を教えた学者だそうです。 http://en.wikipedia.org/wiki/C._S._Lewis ところで、質問された方がほぼ絶対的な前提としてとられている立場はおおよそ「自然主義」と呼ばれる一つの立場ではないでしょうか。僕も(それが何であるのか詳しくは理解していないものの)内心共感しなくもないのですが、ただ、それ以外の立場をとる人を「科学者」ではない、とはいえないように思います。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1?kid=79317

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >Francis Collins(博士) ご紹介いただいた段落のみですが、興味深く読みました。 博士の名前と偉業だけはさすがに耳にしていました。 それはさておき、博士が個人的な信仰について、 しかも自分自身の科学と信仰との関係(共存)について語ったインタビューは 大変面白かったです。 私も博士が福音派かどうかは分かりませんが、 「奇跡は頻繁に起こるようには思えない(後略)」とあるのを見る限りでは、 #7さんの言われたような、いわゆる「コチコチの福音派」ではないように思います。 博士における科学と信仰の共存の仕方というのは、 神様というものが「自然界の外部」に在り、 自然に対して時としてintervene(やはり#7さんの使った「介在」がいいでしょうか)すると、 それは奇跡としか言いようがないということでしょうか。 その上で、博士における科学と信仰の位置関係というのは、 「神は科学を通して自然界を理解する機会を与えるように思う」 という言葉に代表されると思いますが、 これを見ると、私が福音派の科学者に見るような、 その場その場での使い分けとは少し違うように思いました。 >ただ、それ以外の立場をとる人を「科学者」ではない、とはいえないように思います。 誤解を招いたなら遺憾ですが、 私は決して福音派を科学者ではないとは主張していません。 むしろ、福音派で科学者の存在を認めた上で、 福音派であることと、科学者であることの対立項 (博士によれば対立ではないわけですが)を、 どのように処理されているのかを聞きたかったわけです。 誤解を解くために、私の勝手な想像で例をあげますね。 福音派で地質学の先生がいて、 学校では、1万年以上前からの極東アジア地域に見られる きわめて漸進的な海水面の上昇という歴史を教えたとします。 その先生が、教会では自分の子供に、 つい数千年前まで、世界は水の底に沈んだということを教えたとしたら、 それは前述したコリンズ博士の言う科学と信仰の共存のしかたとは、 いささか違ったものではないかと思うわけです。 >C.S. Lewis の “Mere Christianity” という本 「ナルニア国ものがたり」は知っていました (私は実はこういうのも大好きです)が、 ご紹介いただいた本は知りませんでしたので、 機会があれば手にしたいと思います。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.11

NO.9です。 科学というより学者の分類に入るかもしれません。 >世界が七日で創られた話も、世界が水に没した話も、 7という数字は完成とか完璧という概念。 水に没したというのは、氷河期の終わりの頃だったか、気候が安定せず、世界各国で大洪水が起こったようです。 地質でそれは確かめられています。 今では日食はどうして起こるのか理解できますが、当時の技術では理解できず、神の業として片づけられていたようです。 同じように大洪水もある程度今では理由がわかりますが、 >海が割れる話も これはこういう説もあります。   ↓ http://ntv.naver.co.jp/go.php?url=http%3A%2F%2Fwww.ntv.co.jp%2FFERC%2Fresearch%2F20020804%2Fm005.html >天から火が降って街が消え去った話も これはストーリーとストーリーが混在して伝えられ、まるで不徳の町が神により崩壊させれたという伝説になってしまったようです。 >処女受胎も、   ↓ http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/virgin.html >水とぶどう酒も、 親戚の結婚式ではなくイエスの結婚式の事で喜ばしい席なので、水すらぶどう酒のようになるほど、幸福感に酔いしれたってことじゃないでしょうか。 確か民族と民族の代表者の結婚のことだったと思います。 中世でも、政略結婚により、違う国同士が親戚になって仲良くなっていましたよね? >死人のよみがえりも、 これはラザロのことだったと思いますが、教会が故意に聖書の中からある一行を削ったために、死んだ人を蘇らせたような内容になってしまったのだそうです。 本当はラザロは捕らえられ棺に閉じ込められていたのだそうです。 それで閉じ込められているところにイエスが駆けつけ、彼を救い出し、「棺から出てきなさい」というのが真実のようです。 だから死者を蘇らせたのではない。 >すべて文学的表現からくる比喩で、 上記の説明は比喩とはちょっと違います。 ドラマ 破線のマリスってありますよね? 編集者がカットしたことで、全く違う内容になってしまったってのがドラマの内容。 その編集者のカットした改造されたものが、真実としてテレビに流れ、人々は「こいつが犯人だ」と思ってしまい、冤罪の人を追い込んでいくという過ちを犯した。 >そこには別の深い意味が隠されているなら、 >聖書の記事と科学の諸法則は一致を見るわけですから。 え? どうしてですか? >聖書と同時代の歴史的背景や文学的云いまわしの知識不足から、 >こうした象徴表現をありのまま受け取ってしまうことは、 >確かに考えられます。 それは上記に説明したとおりです。 >実際そうした、はっきり云って「間違った読み方」は頻繁になされているのだと思います。 「いとおもしろい」というのは日本の古語で、「興味深い」という意味で、「愉快」という意味ではありませんが、それを知らないと、昔の人はこういうのを愉快だと思っていたんだと<誤解>してしまうわけです。 >たとえ、当時のヘブライ語やアラム語、古代ギリシア語に通じていたとしても、 はるか極東の島国の人間が理解するのは到底不可能なことだと思います。 確かにそうですが、上記のように説明すると、意外と<どうしてイエスは神格化されたのか>がわかってくるように思います。 無知が原因でそうなってしまった。 >一方で私は、kigurumiさんが言うように、問題が簡単だとは思いません。 問題は簡単ではない。 確かに。 どうしてもイエスを神としたい人は、それはその人が望むのであって、現実が違っても、そう望む人はそう信じる。 今までいくら祈っても暗闇は消えてかったのに、<読み誤まっていた>と理解したことで新しいというか元来のイエスの思想と思えるくるかもしれません。 イエスが言った本当の意味は現実可能なものだと考えることの方が、ただの妄想的にイエスは神だ と無理やり信じるより容易だと思います。 神がやってくれるのを指をくわえて待っているしかないと妄想により路頭に迷うしかない。 理解したことで自分達で天の国は作れるという現実的なビジョンが見えて、方向も明確になってくると思います。 >それは、福音派の科学者が、「質量保存則」を知っていながら、 「水がワインになった」と主張するのと同じ作用だと思うのですが。 等価交換。 それで代償として、自分に苦痛を与えるのが流行したようです。 自分が苦しめば苦しむほど、天の国に入る率が増えると信じる宗派も存在するようです。 【人は何かを得るために同等の代価を支払わなければならない】 これは鋼の錬金術師に毎回出てくるセリフです。 その後にこういう言葉が続きます。 「あの頃 ぼくらはそれを真実だと思っていた】 錬金術。 ただの鉄を金に変えるというものですが、本当の意味は、物質的なものではなく、精神を金に変えるという意味なんだそうです。 科学者が宗教者でもあることは割りとあるとは思いますが、キリスト教の教義のようなものではなく、万物の法則のことを言っているのだと思います。 だから直読みはしないと思います。 直読みする程度の能力しかないのなら、科学者にはなれないと思います。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >え? どうしてですか? kigurumiさんが一々説明したように 聖書の諸々の奇跡が宗教的象徴表現や歴史的事件による言い回し、 あるいはテキストの改竄や欠落によるものなら、 これらすべての奇跡はすべてがフィクションないしはウソや誤解であって、 聖書の記事にはすべて、歴史学的、文学的に矛盾のない説明が通るということです。 つまり「水がぶどう酒に変化することはない」という科学法則は、 聖書の上でもまかり通ることができるという意味です。 さて、こうしたからくりを聖書の外に資料を求めて聖書を読み解いてゆこうとする試みは、 今日、特にジャーナリズム系ライターの間で非常に盛んのようです。 しかし私はそういった聖書の読み方にはあまり興味ありません。 そうした読み方から生まれるには、実際kigurumiさん自身が仰ってるように、 「どうしてイエスは神格化されたのか」の理解であって、 イエスを神格化する信仰とは、あまり関係がないだろうからです。 私はキリスト教徒がイエスという人間を神格化することについては、 世界の諸宗教が、路傍の石ころやお人形を神格化するのと同様、違和感は感じません。 >理解したことで自分達で天の国は作れるという現実的なビジョン見えて、 方向も明確になってくると思います。 そういう方は立派なのだろうと思いますが、 私などはせいぜい「なんだあ、やっぱり嘘っぱちじゃないか」で終わってしまうと思います。 >科学者が宗教者でもあることは割りとあるとは思いますが、 キリスト教の教義のようなものではなく、万物の法則のことを言っているのだと思います。 だから直読みはしないと思います。 福音派の科学者が、福音派としてふるまうとき、間違いなく聖書を直読みすると思います。 彼らにとって「聖書は誤謬(ごびゅう)なき神の言葉」であり、 世界は七日で創られたというのは、象徴表現でも宗教的言い回しでもないというのが、 福音派の基本的モットーだからです。 >直読みする程度の能力しかないのなら、科学者にはなれないと思います。 むしろ私が疑問なのは逆で、「直読みしない能力」があり、 「直読みしない」ことを知っているにもかかわらず、 聖書を前にすると、イエスを前にすると、神様を前にしたとたん、 「直読み」してしまう科学者に働く力が理解できなかったのです。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

聖書は沢山比喩によりかかれていますよね。 イエスが言ったとされる例え話にしろ。 5千人分のパンと魚。 これは自分の分を他の人に分けて一緒に空腹を満たすって意味。 例えば月100万稼ぐ人もいれば0の人もいる。 100万稼ぐ人は所得税を取られ、そのお金は所得が無い人を養う社会。 人間は高度な表現というか、そういうのを使う人がいます。 例えば「広場」と「公園」似ていますが、別々に使います。 学級新聞を発行するにあたり「みんなの広場」とするが「みんなの公園」とは書かない。 例えば、牛乳をこぼしたとき、おかあさんが「こぼしてくれてありがとう」といった場合、おかあさんが喜んだとは思わない。 この比喩というか遠まわしな表現を理解する能力があまり発達しないと、おかあさんをまたよろこばせようと、牛乳をこぼしてしまう。 この子が聖書を読むと、高度な表現が理解できないので、「イエスはマジシャンだから手品のように5千人分の食料をポイと取り出すことができた。 神様だからできたんだ。 神様についての物語で全部実際にその言葉とおりの奇跡を起こしたんだ」となってしまうわけです。 福音派が国語の能力が低い人たちばかりが集まるのかを調べるのが科学者だと思います。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >聖書は沢山比喩によりかかれていますよね。 イエスが言ったとされる例え話にしろ。 もし聖書のさまざまな奇跡の記事が、イエスのたとえ話のように、 比喩や象徴として書かれているのなら、説明は一時に解決します。 世界が七日で創られた話も、世界が水に没した話も、 海が割れる話も、天から火が降って街が消え去った話も、 処女受胎も、水とぶどう酒も、5千人のパンと魚も、死人のよみがえりも、 すべて文学的表現からくる比喩で、 そこには別の深い意味が隠されているなら、 聖書の記事と科学の諸法則は一致を見るわけですから。 聖書と同時代の歴史的背景や文学的云いまわしの知識不足から、 こうした象徴表現をありのまま受け取ってしまうことは、 確かに考えられます。 実際そうした、はっきり云って「間違った読み方」は頻繁になされているのだと思います。 たとえ、当時のヘブライ語やアラム語、古代ギリシア語に通じていたとしても、 はるか極東の島国の人間が理解するのは到底不可能なことだと思います。 しかし、一方で私は、kigurumiさんが言うように、問題が簡単だとは思いません。 私は福音派の方々の国語の能力が低いとは決して思いませんし、 仮にあらゆる聖書の象徴表現に通じている方も多いと思います。 では、そういう方は、聖書の記事に対する見方は変わるでしょうか? 私は、変わらないんじゃないかと思います。 5千人のパンと魚の記事が、 「これは自分の分を他の人に分けて 一緒に空腹を満たすって意味」だと知っていたとしても、 「それでも」イエスは5千人分のパンと魚を裂いて見せたと主張すると思います。 それは、福音派の科学者が、「質量保存則」を知っていながら、 「水がワインになった」と主張するのと同じ作用だと思うのですが。

noname#17662
質問者

補足

仮にあらゆる聖書の象徴表現に通じている方も多いと思います。 ↓ 寧ろあらゆる聖書の象徴表現に通じている方も多いと思います。

  • 2199
  • ベストアンサー率14% (74/525)
回答No.8

2199です。 「奇跡」と「法則」を厳正に峻別しかつ認識できる方法が「科学」であると思います。 使い分けとかTPOとかそういうレベルの話ではありません。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >「奇跡」と「法則」を厳正に峻別しかつ認識できる方法が「科学」であると思います。 「科学」や「法則」から零れ落ちる不可思議な現象を、 人間はひとまず「奇跡」と呼ぶと思います。 しかし、「科学」はそうした不可思議な現象を「奇跡」とは呼びません。 科学者は、研究の場では「奇跡です」とも「非科学的」とも口にしないからです。 そうした場合、科学者として口にするべきは、 「分からない」「説明できない」と云うのが妥当だと思います。 つまり、科学者は、少なくとも科学の場では、「法則」は認識しても、 「奇跡」を「法則」と峻別して認識はしないと思います。 福音的信仰者の科学者は、しかも科学の場で、 「これは法則で、これは奇跡です」と口にするでしょうか。 一方で、単に福音的信仰者は、いついかなるときでも、 不可思議な現象を「法則」とは別の「奇跡です」と容易に口にできます。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.7

5番です。 私自身は、キリスト教徒ではありませんので、聖書の解釈、福音派の考えの詳細を理解しているわけではありません。 そもそも「コチコチの福音派」でしたら、科学者ではなく、聖職者がそれに類する人になろうとするでしょう。 >聖書は『「本当に」水がぶどう酒に変わっった』と言っているからです。 のみならずイエスは「見ずに信じる者になりなさい」と教えているからです これを、「神の力」とするのであれば、了解できるのではないでしょうか。 通常は、絶対にありえない事が、神の奇跡として起こる。 「神の奇跡を信じなさい」とこの場合、理解しているとすれば、全く問題ないわけです。 >化学式には「神の意志とか、神の奇跡などの介在」がありうるが、 という信仰と同じ前提に立つものも見ません。 これは、「通常ありえない(有ればそれこそ奇跡)ので、記載する必要が無いと考えれば、あえて言う必要が無い」と考えれば、通用するのではないでしょうか。 つまり、「神の奇跡が起こらない限り、そんな事は有り得ない」と考えているのではないでしょうか。 逆に、常に変わるのであれば、それは奇跡でも神の介在でもなくなってしまうわけです。 もっと言うと、この世に物質ができた事、原子の結合から生命が生まれた事、物質が規定の反応を起こすようになった事こそ、神の奇跡、神の介在と考えているかもしれません。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そもそも「コチコチの福音派」でしたら、 科学者ではなく、聖職者がそれに類する人になろうとするでしょう。 コチコチの福音派で聖職者が神の奇跡を説くのは、私には何の疑問もありません。 神の奇跡を信じるのが聖職者の業(なりわい)だからです。 一方で、コチコチの福音派で科学者という方も案外多くいると思います。 福音派に限らず、宗教がその宗教施設の次に建設するのは決まって学校と病院だからです。 >通常は、絶対にありえない事が、神の奇跡として起こる。 「神の奇跡を信じなさい」とこの場合、理解しているとすれば、全く問題ないわけです。 仰るように、この回答がなんとなく私にもしっくりきます。 科学は科学、神の奇跡は神の奇跡(学校は学校、教会は教会)という具合に、 時と場所で分けて考えるというのは、とても人間らしいふるまい方だと思います。 つまり「いいかげんな福音派の科学者」なら私もすごく理解できるのです。 しかし時にこの科学と福音派の境界線が不明瞭になることがあります。 以前、世界の全ては大洪水に没したということを証明するために 試験管を使ったささやかな実験を発表した記事を読んだことがありました。 もちろん真っ当な出版物ではありませんし、現代の地質学者は一笑にふすでしょう。 しかし、福音派の地質学者はこの記事を一笑にふせるでしょうか? 科学者として世界の全てが没してしまうほどの洪水は起こりえないとしているひとりの人間が つい最近まで世界は水の中にあったということを 同時に併せ持つことができるものだろうかと疑問でした。 >この世に物質ができた事、原子の結合から生命が生まれた事、 物質が規定の反応を起こすようになった事こそ、 神の奇跡、神の介在と考えているかもしれません。 私はまさしくそこに科学と神の奇跡の混同があるように思います。 聖書は原子の結合から生命が生まれたことを否定しています。 聖書によれば、世界と生命は神の言葉とわざによって「突如」生まれたのであって、 聖書の記者は原始やたんぱく質の結合などについてはおそらく無知だからです。

関連するQ&A

  • 聖書と科学の矛盾をキリスト教信者の方はどう捉えているのでしょうか

    宗教というカテゴリーがなかったので、こちらにに質問させて頂きます。新年に神社でお参りし、教会で結婚式を挙げ、死んだら寺の墓に入る無宗教の日本人の素朴な疑問なのですが、キリスト教を信仰してるであろう国の科学者達は(科学者だけではないかもしれません)、聖書の中に書かれている内容と、人類学や科学などで考えられたり証明されたりしている事実との矛盾を、どうとらえているのでしょうか。 例えば、人間は猿から進化したものとされていますが、キリスト教では神が創ったとされています。(正確にいえば人間ではなくアダムですが)学問と宗教で真実が異なるわけですが、宗教を信仰している科学者は科学と相反する教えをどのように捉えているのか、無宗教の私にはずっと疑問であり謎でした。どなたかこの疑問にお答えいただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

  • 宗教と科学について

    理科や数学が全然不得意な私ですが、以前にEテレの100分で名著「相対性理論」をみてアインシュタインに興味を持ちました。 興味を持ったといってもネットで調べる程度ですが、アインシュタインが言ったという「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」という言葉を読みました。 私には、よく意味がわからないのですが、科学と宗教は対立するものではないのかなと思いました。 それで「科学と宗教」をキーワードのネットで調べると以下のような記事を見つけました。 ライス大学が米国の主要大学の研究者に対して行った調査の結果、「宗教と科学は常に衝突している」と答えた科学者は 15 % であったとのこと (NETWORK WORLD 記事、本家 /. 記事より) 。 調査の対象となった大学 21 校の自然科学者及び社会科学者 275 名に対しインタビューが行われたが、「宗教と科学は常に衝突している」と答えたのは 15 %、「全く衝突しない」と答えたのが 15 %、そして大半の 70 % が「時々衝突する」と答えたという。 宗教と科学は矛盾するという論争がこれまで多くなされてきたが、今回の調査から科学者らが宗教と科学の両方を、重要な答えを導くための「まっとうな知の技法」と捉えていることが明らかとなった。 理科と数学は本当に苦手な私ですが、最近たまにですがEテレの高校講座で物理や化学を見たりしています。 また、宗教についても少し興味を持っていて、漫画で描いた聖書や仏教の本を読んだりしています。 まだ、私はよくわからないことが多いのですが、宗教と科学は対立するものなのでしょうか? すみませんが、お教えいただけましたら助かります。 よろしくお願いいたします。

  • 求道者です。諸々の悩み(中途半端な長文)

    現在、教会に通っています。 聖書を読むのは好きだし、学ぶことも多く、その点は満足しています。 受洗はしていません。 大きく見れば福音派やその系統に属する教会にいますが ネット上での福音主義に関しての批判的な意見を多く目にし、 その点で悩んでいます。 福音主義(厳密な福音主義ではなく福音派とその系統も含むと解釈して下さい) は原理主義的側面が強く、カルトとまで言われる方もおります。 教会で使用している新改訳も一般の書店では取り扱っていませんし、 (一応、新共同訳や口語訳も教会内には置いてあります) 周囲(この場合はネット上)の意見を聞いていると もしかしたら自分が間違った方向に進んでいるのではないと不安になることがあります。 一方で信仰を単純に道徳やボランティアと同義に扱うのなら それは真の信仰とは言えないとも思います。 自分が真の信仰を得るために正しい道を進んでいるのか、 あるいは狂信(カルト)への道を進んでいるのかそこが不安です。 また、今まで培ってきた科学的、論理的思考も捨てきれません。 科学は個々の事象から普遍的規則を見いだしますが 信仰は結論が先にあり、それを信じるか否かで解釈が180度変わります。 カトリックや他の伝統的プロテスタントへ移るか あるいはこのまま今の教会に残って学びを続けるかそこが今の一番の悩みであり、 キリスト教そのものを今は捨てるつもりはありません。 今、私は何をどのように考えればよいのでしょうか.... (質問にならない質問で申し訳ありません)

  • 新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を

    新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を超えた普遍的真理の書物なのか? 教えて下さい。 私は中年の男です。20代後半で 洗礼を受けました。 その後人間関係に悩み、牧師に 相談をしたのですが、牧師の尊大な態度に失望し、教会へは行かなくなりました。 洗礼を受ける前は三浦綾子氏や遠藤周作氏の著作を 読んでいて、今にして思えば福音派とリベラル派の違う考えの本を同時に読んでいて、自分の中でも整理がついていませんでした。 しかし、ある日カール.ヒルティの幸福論を呼んで、福音派よりのリベラル的要素を持った著作にふれ、洗礼を 受けたのですが、上記説明のように牧師につまずき挫折。 最近も福音派の教会に2ヶ月程通いましたが、やはり 牧師に躓きました。私が最初に通っていた教会はリベラルな教会でした。福音派牧師の痛烈なリベラル派批判。カトリックは異端だと裁き、リベラル派はクリスチャンでないかのような発言。本当に参りました。 福音派の方で、神社.仏閣に悪霊がいる等。極端な 考えをお持ちの方も存在いたします。 福音派の中で聖書信仰と言うのがありますが、個人的に旧約の神とイエスが同一とはどうしても考えられないのです。聖書にも矛盾を感じるんです。 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。 23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。 29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。 箴言を一部抜粋しましたが、これが神の言葉だと心から 思えません。 恐らく、理性的な日本人にこれを読んで頂きこれが 神の言葉だと思うかと問えば、恐らく殆どの方が「思わない」と回答するでしょう。 福音書のイエスの言葉には威厳があり、やはり非常に 高いタイプの何かを感じる事は出来るのですが旧約と パウロ書簡は懐疑的に考えてしまいます。 例を出すと1コリント11:5「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」この訳は新共同訳です。 聖書を時代背景も考えず、文字通りの真理だと考えるなら礼拝やまた個人の祈りの中で祈る時は女性は頭にかぶりものをしなければなりません。 私は神を信じない生き方は虚しいと思いますが、聖書に 矛盾、新約と旧約に整合性を感じられず、苦悩して います。信仰は捨てたくないのですが。今は正直どうしたら良いのか解りません。 リベラルな教会も考えてはいるのですが、それでも、聖書に確信が持てなくて 困っています。 乱文で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。

  • どの教会(教派)に通えばいいか迷っています。

    こんにちは。大阪府東部に住む学生(諸事情ありましてまだ学生)です。 卒業論文ではキリスト教文学を扱いました。 それ以降キリスト教の信仰を持ちたい(受洗したい)と考えるようになり、 教会に通おうと思ったのですがどの教会(教派)に行けばいいのかわかりません。 キリスト教に関心を持ったのはずいぶん前なのですが(親がクリスチャンなので)、 無教会主義のことしかわからないらしく、図書館などで自力で調べていました。 けれども調べれば調べるほど教派などの違いが複雑に感じられ、 どこに行けばいいのかわからなくなってきました。 何件か回ったのですが、ローマ・カトリックと東方正教会は儀礼重視に見えて 失礼ではありますが何だか合わないような印象を受けました。 また、聖書無謬説を採る福音派の教会も通いたいという印象をあまり受けませんでした。 自由な聖書理解を許容し、かつ他派にも寛容な姿勢をもつ教派がありましたら ぜひご紹介いただけませんでしょうか。 わがままで勝手なことは承知しておりますが、 それでも皆様のご意見・アドヴァイスを頂けたらと思い質問を書き込ませていただきました。 一人でも多くの方のご回答、何卒よろしくお願いいたします。

  • キリスト教で最も戒律の厳しい(あるいは信仰の篤い)宗派はどこでしょうか?

    キリスト教で最も戒律が厳しい(あるいは信仰の篤い)宗派はどこでしょうか?(クリスチャンの方に質問です) 私は20代前半の男です。これまでの二十余年、無宗教(厳密に言えば家系は父母ともに浄土真宗です)を貫いてきましたが、今現在クリスチャンになること(=洗礼を受けること)を検討しています。 聖書を学生時代に読んで大きな衝撃を受け、また実際にクリスチャンの知己を得た体験がきっかけなのですが、私の現在のスタンスとしては、日本語で聖書を読み、あれこれと自分の頭をたよりに思索にふけるという、いわば無信仰の自由主義神学派の様な曖昧なものです。 私としてはそろそろ聖書を「読む」ことから「生きる」ことにシフトしなければ、これ以上安らかな心境で生きてゆけないという危機的な情況に対峙しており(精神が弱いのです)、教会に通うことも検討しているのですが、その際にどの宗派を選ぶのかという点で迷いが生じています。 もちろん、細かな教義を一つ一つ検討するのが良い方法だとは思うのですが、これまでさんざんエセ自由主義神学の方法で自分勝手に聖書を解釈してきた私にとって、そうした出口のない教義問答に明け暮れていたらいつまでも洗礼に辿り着けない気がするのです。 そこで至ってシンプルに、己を律するという意味合いも含め、最も戒律の厳しい宗派に身を投じてみたいと考える様になりました。 もちろんパウロが云う様に「律法よりも信仰が先立つのだから、戒律の厳しさを尺度にするのは本末転倒」というご批判があるかもしれませんが、自分にはやはり、その信仰を他者に対し裏付ける律法の遵守がとても重要なのです。これは勝手な意見ですが、やはり上の言葉を隠れ蓑に、多少戒律に違反したって構わないじゃないかと言って過度の飲酒や姦淫を平気で行う「なんちゃってクリスチャン」だって少なからずいると聞きますし、そういう信仰の薄い信者の多い宗派に入って幻滅する位なら、いっそ自己のマキシムに厳格に生きる無信仰者でいるほうがよっぽどマシだと本気で思うのです。 モルモン教などの新興派閥も含め、この宗派は戒律が厳しい、といわれるキリスト教宗派があれば、あるいは実際に信仰されていれば、その内実を教えてください。カトリックやバプテスト、エホバの証人などは厳しいと聞きますが、実際の所をお聞かせ頂ければ幸いです。

  • 聖書って経典としてどうなんでしょうか?

    聖書って経典としてどうなんでしょうか? 私は宗教に関しては無関心というか、知的好奇心の対象ではあっても信仰の対象ではない、そういう人間です。 学生時代、仏教系学校に通っていたので、仏教の考えや般若心経の和訳などを学びました。その内容は非常にロジカルで、無宗教の自分もなるほど、と思う内容でした。人間の認識機能や思考法など、現代の脳科学にもつながってくるのではないか、と思ったほどでした。 般若心経など、まるで学術書のようです。 ただ、そんなに優れた思考法を伝える仏教が変な儀式(オカルティックな思想とかひたすらお教をつぶやくとか、煌びやかなご本尊を崇めるとか死者の何回忌をやってお金を取るとか)ばかりなのは理不尽に思いましたが、まあこれは釈尊の教えではなく、現世組織としての仏教が存続するための営利行為として必要悪であると認識しています。 そこでほかの宗教の経典(に当たる書物)もそういう優れた思想で出来ているのだろうと思い、世界的な宗教であるキリスト教の聖書を読んでみました。 しかしながら、聖書は小説としては非常に面白い読み物であるとは思いましたが、教えと言いますか、ロジカルさが欠片も感じられませんでした。 ただのファンタジー小説、あるいは神話をより歴史的な形式にした読み物、といった感じです。 しかも神は全知全能と銘打ってる割にいきなりサタンにアダムとイブを騙されたりとか、増えすぎた人類を自分で手綱を取れず、大洪水で滅ぼしてしまうとか、全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、なんでこれが世界的に信仰されてるのかさっぱり理解できません。 確かに読み物としてはそこそこ面白い。それに良くも悪くも、寓話的な話も多いので、内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、そこからなんらかの知恵というか思考法を読み取るものなのかもしれません。 しかし、そういうのってただのイソップとかそういう寓話と同レベルな気もしますし。 般若心経のほうが経典としてはずっと理路整然としてて分かりやすくてシンプルに思うのですが…… なんというか、般若心経は学術書、聖書は俗っぽい小説、という感じで、これが宗教における経典として同じものなのか、と驚きました。 でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? 僕の理解力が悪いのかそういうふうにしか感じられないわけですが、キリスト教に詳しい方、解説をお願いできないでしょうか?

  • エホバの証人は 神を信じているか?

     表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。  その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。  次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。  ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18  新共同訳) ~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。  13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。  △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~  http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/  11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。  12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。  13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち:  ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~  ▽ (1:13)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013   οἳ  οὐκ  ἐξ  αἱμάτων  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  σαρκὸς  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  ἀνδρὸς  ἀλλ᾽ ἐκ  θεοῦ  ἐγεννήθησαν  ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.  △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。  しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。  △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~   http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/    はい,信じています。  イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6)  わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16)  わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28)  イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。:  (あ)  △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。  (い)   △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。   ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。  (う)  △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。  想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。  さしづめ以上を問います。どうでしょう。

  • 自己の分裂とは

    最近、哲学を学び始めたものです。 ある哲学書の文章で、次のようにありました。 「たしかに、日常生活において、(自己)という言葉は、それだけで用いられることは少ない。一見すると、その固い言葉は日常生活に根ざしていないかのように見える。しかし、(自己)という言葉が単独で使用されることは少ないにしても、他の名詞や動詞と結びつけて用いられることは多い。 たとえば、自己批判、自己分析、自己暗示、自己満足、自己卑下などといった多様な表現がしばしば用いられている側面を見れば、すでになんらかの仕方で自己が了解されている。そうした漠然とした了解の仕方を反省して、その背後に隠されているものを明らかにする作業は、安易に否定されるべきではない。自己批判、自己分析といった表現において、自己は、批判の対象、分析の対象、満足、卑下の対象、めざされるべき対象として把握されている。こうした言い方が可能になる背景には、自己が、自己との間で分裂するという現実がある。」 最後の 【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。】の部分が分かりにくいです。自己の分裂とはどいううことですか?

  • イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?

     聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為のみを問題とします。  たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。  ▼ (マルコ福音 12:30)  『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。  ☆ そして   ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。  ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?  《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?  《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?  世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。  ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~  6: キリストは、神の身分でありながら、    神と等しい者であることに固執しようとは思わず、  7: かえって自分を無にして、僕の身分になり、    人間と同じ者になられました。    人間の姿で現れ、  8: へりくだって、死に至るまで、    それも十字架の死に至るまで従順でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか?   これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?    要領を得ないのを承知で ひとまづ このように問うてみます。