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哲学の実効性について

このカテで初めて質問します。私も読書の一環として哲学書を手にし、その面白さがわかるような気がしてきました。  しかしある日、ふと疑問が湧いてきました。パスカル、デカルト、ライプニッツらの偉大な科学の功績が人類の生活向上に大きく寄与したことは論を侯たない。しかし彼らの哲学がいかに世界に貢献したかどうして量れるのか?  哲学全般は考察を検証するに熱心でも、効果を測定するに無関心ではないか、あるいは回避に努めているのではないか。とどのつまり哲学とは堂々めぐりなのではとの考えが頭を離れません。  今まで読んだ文献を理解できていないことは自覚しております。どなたか浅学な中卒の私に、現代社会における哲学の実効性を具体的にご説明いただけますか?また仮に哲学が存在しなければこの世はどうなるのか、ご教授ください。理解に必要な文献を示していただけたら幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.6

他の回答者さんは皆、哲学の素晴らしさを語っておりますので、その反対に、哲学に魅了されてしまった連中の悲劇(喜劇?)について触れてみましょう。所謂反面教師と言う奴です。それが何であるのかを探るのに、その反対を考えると、前には見えなかったものも見えて来ると言うのは、我々の経験則のようです。 哲学で飯を食べている方を哲学者と呼びますが、日本では哲学者ではなく、哲学学者とか、哲学輸入業者と呼ばれる先生方も多くいると聞きました。ただし、これは日本にだけある特異な現象ではないようです。質問者さんは、もうすでに知っているかもしれませんが、ソーカル事件と言うのがありますね。もしまだご存じなかったら、ウェブサイトのウィキペディアなどで調べてみて下さい。人間て何だろう、学問をするって何だろう、哲学って何だろう、哲学者って何だろう、哲学学者って何だろうと言うことを、良く分かるように抉り出してくれる大変良い反面教師です。また、哲学を一生懸命考えている質問者さんのような方に、頭休めの大変良いエンターテイメントでもあります。

pokoperopo
質問者

お礼

「ソーカル事件」は小耳に挟んだことがあります。しかしあまり興味を持たず概要も理解しないまま忘却の彼方にありました。ご指摘を受け、たった今記事をざっと読みました。それにつけても恐ろしいですね。思い起こせばそう遠くはない昔、人類は科学的社会主義という名のエセ科学(「マルクス主義的内燃機関学」などという噴飯ものもありました)に踊らされ、大きな悲劇を招きました。これもとりわけ詭弁的な科学と哲学の使い分け、弁証法の作為的に誤った運用に対する指摘を無視し続けた結果だと考えております。『「知」の欺瞞』の背表紙は幾度となく目にしましたのに、いやはやお恥ずかしい。私も無学を隠すために時折衒学的言辞を弄してしまいます。私が疎まれるだけなら自業自得ですが、他に与える影響を熟慮します。ギマンとはまさにゴーマンから生ずるのですね。肝に銘じます。

その他の回答 (6)

noname#81313
noname#81313
回答No.7

 参考になるかどうか、自分の体験を交えて答えさせていただきます。  日常の暮らしのなかで感じる些細な問題、誰でもひとつくらいはあると思いますが、そういうものに対して、ある程度の距離を置きながら(共存というのではないですが)影響を受けないで暮らしていけるのならば、特に哲学は必要ないだろうと思います。けれど、些細であったはずの問題が、にわかに見過ごせなくなり、やがてちょっと耳にうるさいくらいに大きくなってきますと、放っておくことができなくなります。  それは病気であったり、仕事上のことであったり、人間関係であったり、人さまざまだと思うのですが、病気ならとりあえず病院へ、仕事のことなら上司か、経験者に、人間関係なら友人にでも、というふうに何らかの処方箋が見つかるものは、その処方に従うでしょう。  けれど、なかにはどうしたら良いのか判然としないものがでてきます。  例えば、病気でいうと風邪なのか頭痛なのか、あるいは肩が凝っているのか、どれとは判別できないけれど、うずくような痛みが続く。そこで医者へ行ってみると、意に反して正常ですと言われたりする。そうなってくると、どうしたら良いのだろうと考えてしまいます。  ひょっとして複雑な原因の病気ではないか。手遅れになるのではないか。  そういうとき、あなたならどうするでしょうか。「自分はいったい、どうしたら良いか」もしも、そう思う自分を見つけたとき、哲学はその役割を担い始めます。  目立った外傷がないのなら、まず、慌てずに冷静になることです。自分は病気だと思っているが、それは医学が解決してくれるか。それとも、医者のいう言葉を信じ、不安定な心を逞しくするためにスポーツ、あるいは趣味、そういったなにか夢中になれる技芸を見つけるべきか。いやいや、この不安は何かのよすがに頼るしかない。そういう信仰を求めるか。  悩むうちに、学問であったり、技術、芸術、宗教など、そういう特定の領域のものが解決してくれると「わかっている」のなら、そもそも苦労なんてしない。ということに気付くでしょう。そうではなく、問題はもっと漠然としており、どういうふうな解決が一番自分のためになるかということすら、判然としないなかで、何かを選ばないとならない。  そんなとき、いったい「どうすれば良いか」。  僕はこれが、いちばん素直な哲学との向きあいだと思っています。  例えばニュートンの本を読みますと、遠心力を前にして深く考え込んでいる彼の姿が見えてきます。彼は、運動の法則について本を書こうと思ったんですね。そして、書くならば、本当のことを書きたいと思った。なかに水を入れたバケツにひもをつけて吊るし、くるくるとねじって手を放すと、バケツは勢いよく回転します。それにつれて、なかの水も回り凹型になる。彼はそれを本に書こうと思ったんです。  何度も実験を繰り返したところで、彼はふと思う。水が回るのは、バケツとのあいだに摩擦があるからだ。もしも摩擦が無ければ回らない。だとしたら、もしも地球や宇宙が回っているとしたならば、どこかに摩擦が無ければおかしいじゃないか。  本当のことを書きたいと思ったばかりに、彼はふと湧いた宇宙の疑問が頭から離れない。万が一、宇宙の話をそっちのけで本を書いてしまったら、きっと誰かに聞かれるに違いないだろう、そのときになってあたふたするのは困る。考えに考えた彼は、見たことも聞いたこともない宇宙だけど、そこには「絶対空間」があって、水のようなものが満たされていると本に書いたんですね。彼は、万物を支配するのが神ではなく、運動の法則だと信じていたし、それなりに自分は賢いと自負していたわけですが、その自分が、事もあろうに神と同じ「絶対空間」なるものしか思い付かなかったことを、後に日記で悔やんでいます。  プライドが許さなかったんですね。  けれど、彼の考えたエーテルの満ちた宇宙というアイデアは、やがて20世紀のアインシュタインに引用され、それが有名な相対性理論を生み出します。アインシュタインは、自著のなかで光の満ちた液体状の空間を、たびたび引用します。検証方法すら思い付けなかったニュートンの哲学的考察が、後に大きな成果を生んだ例です。  もうひとつ現実的なはなしを残します。    社会とお書きなので、身近な社会ということで家庭の問題についてお話します。今でこそ、路傍で男女が抱き合うとか、誰にでも親しく話し掛けるという習慣はとくに奇異なものには映らなくなりましたが、ほんの五十年ほど前の社会では、家父長制度のなごりといいますか、家長を主として厳しい躾、言葉遣い、そういった習慣が世界のどこででも生きていました。同じ社会に所属する者通しが、お宅の躾は甘いんじゃないかしらとか、そういう指摘を他家にするのはさしたる問題にはならないですが、ある文化圏の者が、別な文化圏の者に対して、「そちらの文化は、程度が低いんじゃないの?」という言説が公になされてくると、これはちょっとした問題になります。  人種差別や、植民地支配は、まだ現実のものとして存在した時代のころです。夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子は決して口をきかない、という習慣は、文化の程度が低く、文明的ではないから改善する必要がある。――これは、実際にインドシナを支配していた西欧社会から強制された価値観でした。神のもとに平等である人間はつまり、基本的に誰でも同じ価値観、習慣を持つはずであるから、夫婦が口を利かないとか、親子が口を利かないなんていうのは、人間道徳に反すると言ったんですね。  もちろん、後世から考えればそんなバカなということですが、当時はこれに対してほとんど反対意見は出なかった。むしろ、良心と優しさを込めて彼らは矯正したわけです。  この意見に「そうかな?」と疑問を持った人物のひとりにレヴィ・ストロースがいます。彼は、ある民族の家族間における親密さ、疎遠さを調査し、不思議な法則を発見した。父と息子は親密だが、甥と母方のおじさんが疎遠である場合と、甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠である場合のふたつのうちひとつに家族の有様がはっきり分かれるのを見つけたんですね。その結果を用いて彼は、すごい哲学を試みます。  要するに、人間はふたつの対立する組み合わせを連続させて、複雑な日常の表現を可能にしているということ。そして、人間に生来宿っていると考えられていた内発的な感情、親子の愛情表現とかは、実は社会の役割演技にすぎず、社会が変わればそれらは違ったあり様があるということです。これが本当かどうかはわかりません。けれど、  彼のお説によって、それまで信じられていた神から授かった「自然な感情」に従い、家族は構成されるという考えから、社会構造がその家族のあり様を決定するというふうに風潮が変わったのですね。やがてそれは、多様な家庭のあり方を認めることへと繋がり、そして別な社会に対して行われた蔑視や偏見を取り払う役に立った。本当の意味での多民族社会は、彼の疑問が無ければ、これほど早くには実現しなかったでしょう。  このように、哲学は日常の些細な疑問、そして身に降りかかる「ちょっと嫌だな」と感じるくらいになった抑圧に対して、「どうするか」というところから始まると思います。

pokoperopo
質問者

お礼

日常的な細かな事例を挙げてのご回答ありがとうございます。なぜ学校に行かなければならないんだろう→学校なんて失くなってしまえばいいのに→学校がなかったらどうなるんだろう→学校はあったほうがいいのかな→学校には行くべきだ。哲学を知らない子供も哲学しています。科学も社会評論も哲学なしには方向性すら定まりません。ご回答を拝読しているうち私は類型的な哲学に捕われていることに気づかされました。キング牧師が公民権を主張した際にも、哲学がなければ明確な論理を示せなかったでしょう。あえて哲学を唱えなくとも哲学的姿勢を保つよう努めます。

  • aai1
  • ベストアンサー率13% (46/335)
回答No.5

No4追記 もっともっと高い次元に視野を移して言えば、 考える対象は現実であり、思考は哲学することなら、 このサイトはすべてその哲学の議題ではないでしょうか。  >>アリストテレス「汝自身を知れ」とあるように 人は考える脳、哲学する脳をもっていて、現実に無自覚で働かせて生きているのだと思います。  汝自身すらわかってないことが多いです。  恋愛相談でよくある質問を見ればわかります。 メールの返事がきませんとか、彼女とどうしたらいいでしょうとか すべて現実の事象であり 、哲学の対象である現実問題   で、相手がどう思って、立場がどうか、返事の内容は、自分はどうしたいか、 多くの観点材料から現実を把握しようとし、(現実を考えるとは哲学) 次にどうするか(行動と答え) 告白します。とか もう少し待ちます。とか あきらめます。とか と生きる姿勢態度に結びつく で、 結果どうなるかわかりませんが正直に告白します。という勇気の行動が生まれてくる。哲学の発見、結論を出す。 また、どう生きるかにつながる。 みんなそれをやっているとおもいますが。。。 しかし面白いのが、現実が把握できず これはパワハラですか?の問いに パワハラです。と言う答えがあったり、違う意見が合ったり、ひとそれぞれと言う意見もあったりでとても面白い。質問者が現実を把握してなかったり  ここで重要なのは回答者が自分の思うように正直に意見してる所。 つまり、哲学しようなどとは意識して考えず、、正直に答えてる、思うこと自然に、を述べている、と言う重要点が大事ですね  視点や意識、経験レベルで答えが変わってくる。また哲学にもそういう部分を感じます。私は枝葉哲学とか視点哲学と勝手に名前つけてますが。 仏教は仏教哲学であり、生老病死を扱い、人の逃れられない苦しみをどう乗り越えるかも入ってます。 一番古いコーナーとは、人生相談と聞きます。これは哲学の分野であり 、現実把握もあり、思考あり、仏教哲学であり、現実問題でもあると思います。  難しい文献と現実を結んで考えるというのはどうでしょう。 女性から送ったメールを会社の女子社員に見せびらかすと言う相談には 、 極端ですが、社会って人の本心も上っ面の心も全部ばれるぞ、騙せないぞ、だから厳しいぞといってくれる人がいましたが、メールは流れる、他者に見つかる。だから注意して差し障りない内容にしておくとか考える。また知ってる人はメールの内容が他者に流れていくという現実的な人間社会を把握している人もいます。ですから、そこまで知って流れてもいいように内容を変えたりまた本心が伝わるようにしたり知恵を使って工夫します。 これは現実把握の多くの視点観点を持ちどう考え相手の気持ちを読み取ろうとし、どう現状を把握しどうするか  すべて哲学の「考える脳」「把握しようとする脳」の働きだとおもいます。 現実の中で人は無意識に哲学する脳を使って生きています。 当然、存在し、「ある」ので使っているでしょうし、無自覚でもあります。 考える脳、哲学する脳や、また前頭葉や記憶海馬など、、働いたらランプが光ればわかりやすいですが。 脳の深部で持っていて、だから現実にも働いているでしょう また使われているでしょう。 というのが個人の意見です。

pokoperopo
質問者

お礼

追ってのご回答ありがとうございます。思えば私も生まれついての四流哲学者であり、それを自覚せずに年を重ねました。我々は日々疑問を抱き、未知の概念に邂逅し、あらゆる瞬間に意識せずとも判断しています。その源泉は自己をも含む無数の問い掛けでしょう。これからもこの果てしない旅は続きます。

  • aai1
  • ベストアンサー率13% (46/335)
回答No.4

真理を聞くのではない、真理を生きるという言葉をきいたことがありますが、 哲学とは生きる姿勢であり、どう生きるか、人の振る舞いですから。生々しい現実ですね。 それ以外はそこまで成長させる枝葉の部分の話であって、全体への架け橋であると思います。 全体として自分の人生に跳ね返るもの 人生哲学とか生命倫理とはそうゆう大事な生きた現実の生命全体像にむすんで自己ないし自分の人生の行動、生き方、態度、姿勢  つまり人間をより良く生き生きさせて発展させることができる教育など自身の人生に帰着して真理を生きるということになるんじゃないかと思います。生きた哲学とは生活法が入ってると思いますし、また今の社会は1面で言えば優れて取り入れている人が多くいると思います。  他者を大事に心まで見るようにして気を使うというのが大事な1面の生きた哲学だと思います

pokoperopo
質問者

お礼

全くもって同感です。私は生きるに必要な問い掛けを、人生の充実や科学の発達、ひいては社会の円滑に役立てることが哲学の神髄だと考えています。

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.3

よくわかりません。 先日、古本屋で1960年代の岩波講座哲学の本が1冊300円ででていました。第2巻「現代の哲学」と第6巻「自然の哲学」の2冊を購入しました。不思議なことに、昨年ノーベル物理学賞を受賞した、名古屋大学出身の二人の物理学者、その大学で素粒子の研究をしておられた坂田昌一博士の対談、論文が見つかりました。 大学受験の浪人のとき、NHK高校講座国語の授業で、坂田昌一博士の「科学の現代的性格」という文章に出会いました。感動しました。 湯川秀樹博士の「中間子論」の発見には、しっかりした哲学の基礎があったのです。自然観、物質観です。また、対話と討論で、理論が鍛えられたそうです。弁証法(産婆術)ですね。 哲学のことは、くわしくないので、NHK高校講座の現代社会、倫理をのぞいてみてください。 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_syakai/index1.html http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_rinri/index1.html

参考URL:
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/
pokoperopo
質問者

お礼

開口一番「よくわかりません」とおっしゃる潔さを嬉しく思います。私は偉大な科学者がいずれも、研究以前に強固な哲学的基盤をあることに驚嘆し、哲学に興味を持ちました。自然科学と哲学の深い造詣には、高い相乗効果があると考えています。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.2

「けだし、驚異することによって人間は哲学をはじめた」 (アリストテレス『形而上学』) 「驚くというその感情は特に愛知者(哲学者)のものだ。 そうじゃないか、それより他に愛知=哲学のはじめはないんだ」 (ソクラテス―プラトン『テアイテトス』) 「驚異が哲学のはじめをなす。不思議のないところに学問の発展は期待できません」 (田中美知太郎著『古代哲学史』) 『本当に哲学することとは、哲学さえなかったはずの場所へ身をおき、その誕生に立ち会うことである、とオルテガは言う。彼はまた弁証法とは考え続ける義務である、とも言う。純粋理性ならぬわれわれ歴史的理性は常に目の前の具体的現実を、一様相を認識するほかにない。われわれが手にする真理が常に部分的な真理であるならば、われわれは考えることをやめることはできない。であればオルテガは「哲学とは存在への問いかけである」という手垢にまみれたフレーズに安寧しない。それではまるで「存在」なるものがわれわれの眼前にあるかのごとくではないか、と彼は言う。むしろ彼はその存在なるものが要請される場へと向かうのである。』 (ホセ・オルテガ・イ・ガセット 『哲学の起源』 書評) 問題意識というか、問いを掘り下げていく思考力と言語能力とは切り離すことができませんが 最初の問いが、ずっと問われ続けているというのでしょうか、それは また決して解消されることがないゆえに、仰るような「堂々めぐりなのでは」という印象を持ちやすいのかもしれませんね。 「哲学の実効性」と聞くと、倫理哲学などが すぐに脳裏に浮かびますが 科学一般、社会学とか、その他の分野でも、それらの発した根元に、なにものからの要請があったのかを考えてみたとき、よく目にするところの、「哲学は問いそのもの」「哲学は学問の太母である」というコトバに思い当たります。(その哲学にも、また「母」に相当するものがあるわけですが) ですから私は、科学をはじめとした諸学問こそ、哲学の手足、つまりは「哲学の実効性」の体現であるというみかたもできると思っています。 そして、誰かエラい人の言った理論等を丸呑みしてソックリなぞるというようなことではなくて、自ら問いを発露させ、自ら掘り下げていく哲学的思考力批判力を鍛える、そうした教育の実施も、いずれ「哲学の実効性」へと結びつけていく有力な下地となるのだろうと思います。 およそ学問に疎いうえ怠け者ときてますので「具体的に」説明する能もありませんで、以下のURLも流し読み程度で済ませているのが申し訳ないのですが、お気が向かれますなら御参考に。 『ワークショップ「哲学教育を考える」』 http://philosophy-japan.org/download/308/file.pdf 『「行為の哲学」の可能性』 http://www.shujitsu.ac.jp/shigaku/hf/data08/saraga_m.pdf

pokoperopo
質問者

お礼

怠け者にこれほど役に立つ言辞は抜粋出来ませんよ。実効性を問うこと自体がナンセンスかもしれません。お勧めの文献とサイトは少しずつ読んで行きます。

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.1

それが一番堂々巡りの根源です。w 哲学に実効性は全くなく、存在の根源であるため、哲学がないとすべてが無に帰す。 考えるという行為の全てが哲学です。 哲学が存在しないと一番影響を受けるのは、言語がなくなります。 自分の思索を他人と共有する為に言語があるので、哲学がないと言語が不要になります。 思考を言語化することが哲学の最大の意義です。言語化できないものは哲学になり得ません。

pokoperopo
質問者

お礼

ザッツ哲学ってわけですね。あながち無為な思惟ともいえませんね。助かりました。

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