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吉本隆明の思想について
次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。 それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・ では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・ レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。 つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。 だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。 これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。 だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。 まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。 あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・ (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 論点は 次の二点です。 (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。 ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。 なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。 (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。 ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる? 以上よろしくお願いいたします。
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お礼
☆ かたて落ちは 差別用語だと言います。どう扱うか どう対処するか 考えるところだと思います。わたしの方針は 無難な行き方で 済ませるところは そうするというものです。この場合 使いません。 ☆ きぐるみさんの件で ひと言としては 《神は 善悪を超えている》のであって かのじょの伝える神は 善の極致なる存在であるようです。これは 道徳です。経験思考です。非思考ではありません。といったところです。
補足
arayata333さん わたしの回答歴とのおつき合いを わづらわせ申し上げて まことに 到らない対話者だと思い すみませんという言葉そのものです。(じつは きぐるみさんの件で 今回も あるのですが)。ご回答をありがとうございます。 まづその過去の質疑応答歴のあるのを ご紹介しましょう。いくつもあります。ほぼ最初に 昨年の五月六月に 次の質問で持ちました。ほかの回答者のを容れて 22件の長いものですが よく問答の経過がわかっていただけるのではないでしょうか。それゆえ あえて ご紹介します。 ○ 《Q3043372:〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3043372.html?ans_count_asc=0》 ★☆ 信仰論 ☆ たとえば 《絶対》の概念を持ち出すことのミソの一つは こうです。 ○ “「無限の感性」の世界への謙虚さ”という言い回しを持つとき 《無限》と言えば すでに 最終の到達地点を 意識した場合には もちろん そうでなく 暗にでも無意識のうちにでも 知っているということです。そのことが 分かるということです。 《無限・彼岸・涅槃・絶対》という言葉を持ち出したなら そのとき ただちに ひとは 意識してかどうかを別として 自己がその絶対のもとにあるということを 知っているのです。それが 信仰です。しかも 非思考として生じる心の伸びです。だから 関心を持つことになります。そうでなければ 何のために 勉強や修行をしようと思うでしょうか。 昔は 《かみ》と言っても 最終の境地のことを知り得たかどうか分かりませんが 今は 数学で《絶対》をおしえるでしょうし 一般に《唯一神》ということが耳に入るようになり これは 《絶対》のことだと 何となくにでも 分かるようになっています。したがって 《絶対》が《相対》を越えてあると 想定したなら ひとは おのれの魂のふるさとを知ったと知るのです。 日本人は そのあと――つまりこの《〈絶対〉との対面体験》のあと―― もう 放っておくのが 一般です。世界の人びとと交通対話を持つとなれば この《絶対》なる概念は 一般に 用いて おのれの世界観を説明することが ふつうだと思われます。そのために おのれの無神論を 絶対という概念のもとに位置づけて 説明するという課題があります。日本人と同じく 少なくとも日本の ブッディストは この絶対観をあいまいにしておこうとします。 ★ 感性教育 その具体的な措置などの提案 ☆ これらは 専門家を交えての井戸端会議で 練っていくとよいと考えます。実践には実践の課題や手法があると思います。 一点 技術的・事務的なことで 反論を持ったのは ★ PCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。 ☆ のは 指摘されているとおりに 理数科の問題であり それに限るのだと思います。あるいは あくまで 補助装置であると思います。そうでない場合には ロボットは それ自体が ひとから おそわることはない機械であるということを 子どもたちに しっかりと分からせる必要があるように考えます。 ☆ 理念の問題として 抵抗があるのは ★ 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく ☆ のは 少々 革命が不徹底ではないでしょうか。つまり これまでの教え方でうまいことと これからうまい教え方をするそのこととは 同じであるかどうかです。《検討し合って》ということですが それでも すでに 従来の教え方の効果が大きいほうが これからも 有効であろうと前提しているように思われ それでいいのかと抵抗を感じましたが いかがでしょう? ☆ エホバの証人は 言いたくありませんが 自分以外のキリスト教界を ばかにしていて 一般に 逆からも 相手にされていないのが 実情です。もちろん 問題は 中身ですが そういう実態もあるということを お知らせします。そういう実態のたぐいのことは ほとんど わたしは これまで話題になっても 素通りして来ましたが きぐるみさんの件で やはり 見解の相違があることを発見して 言っていく必要もあると感じたところです。――エホバの証人は 例の 輸血を拒否するという教義を守る宗派です。