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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.10

すみません。 もう一度新約聖書を読めるネット上のサイトを教えていただけますか? 旧約とかは、神話の解釈や宗教の専門家でなないですから、興味無いのですが、新約聖書はもう一度読んでみたくなりました。 学生時代に ともかく何度も読みました。 でも、その時には解からなかったことがたくさんあります。 ただ、疑問とかは惹かれた分、残り続けました。 >《わが神 わが神 なにゆえ わたしを見捨てられたのか?》という言葉を発したということです。  そこで 見捨てられたということにおいて 見捨てられてはいなかったと 分かったのでした。< というそちらのコメントの部分ですが、 キリストが十字架上で息絶える寸前のような時に言われた「エリ エリ(神よ、神よ)レマ サバクターニ(なぜ、わたしを見捨てられたのか?)」という言葉と対応したものですよね。 (この部分も 聖書が単なる創作ならば、なぜ書かれることになったのか?解かりがたいところですよね。  創作であったとしても、この部分がリアルですよね。) 神が そんな必要(ご自身の存在とかにとっての)無いのに「わざわざ」人間として弱い姿まで さらされた? という「謎」の世界ですよね。 私の場合は、この意味合いは解かっても、 そのようにキリストという人間が神とはということを啓蒙するために演出したというふうに理解してしまうのですが、     いずれにしても、 純粋な知性の人がこの「謎」にぶつかると、特に絶望状態を経験したことのある人は、 ここにこそ「光」のようなものをあびたほどの感動を受けるようですね。 bragelone様が 自らをキリスト者と言われるお気持ちの根っこのようなものが垣間見えてくるような気持ちになりました。 私の場合、人生や存在に絶望したというより神に絶望したという感じのときがあり、 でもそのおかげで自分の弱さを肯定できるようになった経過があったりします。     でも弱い時の自分の状態がどんな  とてくつもなくあるような状態だったかを思えば、そのすべてが灰色のような状態でなぜ自分に絶望しなかったのか?    これが子供の頃の さらに惨めな体験の記憶があったからでしょう。       考えてみればたくさんの体験をしている者です。      キリストの最後のメッセージの意味も 少し理解できる気がしています。 * >《衣食足りて 礼節を知る》<、 これは、マズローという心理学者のいう欲求7段階説ににていますね。 6段階を経て、やっと7段階目の自己実現欲求に目覚めるという心理法則?のあたりがです。 でも 「衣食足りて」という言葉は、 私の体験からはとてもリアルな表現として感じられます。    お金が無く、見も知らない土地にて公園のトイレで冷たい雨をしのいで、公演で水を飲んで生き延びた時の 死への恐怖とか惨めさとか 心のユトリの無さとかとかの精神状態を思い出せば、   昔の人たちの想像をぜっする生活からの言葉に思えて、これは解かる気がします。 人間として、軍杯を上げるとすれば儒教の勝ちです。   でも、資本主義のお金と心理ということでは、あるい植え込まれたニーズの世界ということでは、マズローの心理学はいやに統計的に当てはまる世界ですし、より科学的ではあるということなのでしょう。 しかし、いざ自己実現?して、自己の欲求がすべて満たされ、幸せになり、自分自身はお金も地位も名誉もいらなくなるという人は少ないし、すでに私有財産制にはすっかりなじみになりなれ親しんでいて、それを越える力もなく?           というより、 この自己実現 という言葉自体が抽象的なままなのですから、そこがすでに私には疑問だということなのです。 仕事も充実していて趣味もやりたいことを自由に出きる心と経済体制があったとして、 その趣味がほんものの境地にたどりつけば、始めて自己実現できるというのであっても、 それがなんであるかは一つも語っていないわけです。   心理の学問というより、 あやしげな催眠術みたいに使われてしまっているという感じです。  役に立つほうが多い怪しげさ^^なので笑けれど(笑)。 つまり 幸せって何なのか?  そのへんが結局語られていなくて、 その理論とかの網の目からは、  ほんとうは一番大切な人間の宝が むしろかえって見えなくされているかのような感じなのです。 卓上論理からいくら心理実験を科学的にこなしたからといって、「しあわせ」についてだけは、解からないことなのでしょうから それは仕方ないのでしょうが。 おそらく 「衣食足りれば、真に自然な礼節への可能性が開かれる」というのが正しいのでしょうが、 儒教も、 可能性に過ぎない点を 結局見落としていたということだと思います。  マズローの方は そのへんもっとマズくて、ローギアがかかってる感じです^^。 いずれにせよ、 やっぱり、ここに必要なのは 感性教育の たぶん、ほんとうに革新的な進化だということになるかと思うのです。 * 思い切ったことが必要と思っています。  経済的に大勢の人がお金持ちの人も不安に巻き込んで 切羽詰ってきています。   今こそ、ちょうどもしかしたら、その大変革とかが可能な時なのかもしれませんね。 《当番制》というのは、でも、ほんとうは荒削りな表現と思えています。 《リーダー・フォロアーの 回り持ち体験を、充分体験できたそのへんの卒業者達の当番制》としたほうが、これもよりしっかりした未来論としての目標になるかと思っています。   でもそれへの道についての具体策ということが回答であっていいのですから つづけさせていただきますね。  感性教育についての発表の機会を与えてくださりありがとうございます。  (つづく)

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ キリストが十字架上で息絶える寸前のような時に言われた「エリ エリ(神よ、神よ)レマ サバクターニ(なぜ、わたしを見捨てられたのか?)」という言葉  ☆ については 一説として 次の《旧約聖書・詩編》の一節(つまり 22章の冒頭の一句)を引いていると言います。その章は そのあと 神の讃美へと変調していますので そのように解釈するという捉え方です。  ▲ (詩篇22:1~2、22) ~~~~~~~~~~~~~~  わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。  わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。  ・・・ 22:22 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 聖書のオンライン検索は 次です。  http://ebible.echurch-jp.com/  語句からも 福音書や書簡ごとにも 検索できます。章と節を 算用数字で打ちこむときには 半角になります。その点 やっかいかも知れません。案内にしたがってください。  ★ 神が そんな必要(ご自身の存在とかにとっての)無いのに「わざわざ」人間として弱い姿まで さらされた? という「謎」の世界ですよね。  ☆ このなぞについては 一応 答えが出ています。イエスは ふつうの人間でしたが 同時に キリストとして 神の子である・つまり神であるという想定です。つまり 相対的な存在であると同時に 絶対の存在であるという虚構です。人として 大声で泣きながら 十字架に就いたのですし 神として みづから望んで はりつけになったと言います。  ★ マズロー および 礼節をめぐる儒教  ☆ いづれも その昔 初めて知ったときには 新鮮で学ぶに値すると思ったのですが 申し訳ないのですが いまでは 世間の知恵というふうに 受け取っています。経験的な努力によって人格を磨くと言いますか そういう知恵であり 経験思想だと思います。  ですから どうしても 一たん 何ものからも見放され 無となった状態を経て たとえば《当番制》による共同自治をおこなうようになると いまのところ 考えております。  権力の闘争やその執行についての秘密の部分などが すべて 情報公開になったとしたばあい――つまり すべての人が あらゆる問題や事実を知ったばあい―― 《人間はほろびる》という見方があるわけです。そういう従来の考え方をする人間は 存続できなくなるというわけです。たしかに 分かりませんが そこには 一たん 目を見張るような現実の様変わりが起こるのではないでしょうか。そうでなければ 権力からは もはや まったく自由な人間と そのような人間による共同自治が 実現するかは あやふやであり 見当もつかないと思われます。  わたしたちは 権力を回避せよというのではありませんが 権力を奪取せよという方針でもないわけです。むしろ 水嵩を増していって 政治を 共同自治の状態へと還元するように持っていくのだと思うからです。  ですから たとえば 権力の地位にある人びとの中から もはや そのままでは 立ちゆかないというような見通しを持つ者が出るようになるのではないでしょうか。そういう変革が起こって 水嵩を増して行き どこかで どんでん返しが起きる。こんな予想を立てています。  外れても いいわけです。要は 一人ひとりが 感性・知性ともども 日から日へ 変えられていくのだと思います。

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