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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.14

「エホバの証人」について、詳しいことは知りません。 「ものみのとう」にしてもです。    ご紹介のURLの部分の質疑はすべて見させていただきました。 そちらは「エホバの証人」の世界について詳しいようですね。 “信仰では無い”とのこと。  bragelone様のような方が見ればそのように見抜けてしまうのでしょう。 「信仰を正しい意味での無限の謙虚さ(無限ですから無思考となるかと思います。)を 人間の良心の知恵が発見すれば それが信仰」という定義については、 bragelone様はどう思われますか? 私はそういう感じで信仰という事を定義しているようです。  そしてそれならば私は確かにキリストを信じていると言えてしまうと思います。 そのへんがキリスト者なのでしょう。 おそらく「エホバの証人」についての考えは そのへんからも信仰とは呼べない段階の思索の世界と言えるのだと思います。 * けれども、kigurumiさんに関しては 違う見解を私は持っています。(見解であり 実際についてのすべては神様しかまったく解からないのでしょうが、 推理の浅い深いは、見解の中にもあるかと思います。) >都合が悪くなると 姿を消して行かれますし。――欠席裁判ですが ここまで言っておけるのは これまで同じことの繰り返しだったからです。< と言われている部分についてですが、 これは 善の行為を理解してるからだと思います。  できるだけ右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように ということを考えるのではなくそっと実践しているのだと思います。 純粋で頭の良い方だと思います。 感性は 唯一この有限な生物の世界で、無限を垣間見せてくれる世界です。 私の場合は そこから神を信じないわけにはいかない、というか、それがいつしか自然になってしまっただけです。  無限なのですから 後は信じるべき、 あるいは無限だという理性が働くことが出きるまでの深い感性の記憶が自分の内にある限り、信じるのがあたりまえとなってしまっただけのことです。   それはけだし、表象自体の奥が無限ということでもあるのですから、経験や体験自体の奥にあるものです。  表面的な印象(演劇では そのような捕らえ方がその本質的な捕らえ方であるはず)からこそ、確かに ドラマの配役の感性の全体像や特質を直感できたりします。  が、それはその配役は そのコツさへ捕まえれば演じることが出来ますよということにすぎません。    あくまで表象は その奥の無限の可能性の世界をとらえることは出来ないのです。 そうそう kigurumiさんのお話でしたね。 おそらく彼は 「十字架上のキリスト」の意味をもしかしたら私よりも理解してるというのが あくまで見解ですが、私の見解です。 ただし、 左の手にさへそれを隠している方なのです。 宗教についても 信仰についても その権力の世界の怖さを ありとあらゆる手で表現して、去って^^、行きます。 私も 「エホバの証人」にしても、「カトリック」にしても、 問題はその組織にあると思います。  その組織を哲学的に深めさえすれば(私の頭の中では、最近、そういう哲学がアカデミックな哲学の歴史に育っているのか疑問になってきていますが、…) おのずと それは信仰の段階にまで指導者達がたどりつくという考えです。 そのためには、一つにはですが、私たちは権力の怖さについては、あるいは権力欲の怖さについては 知っておく必要があると思うのです。 それを人の批判を省みずに、黙って実践されてる方がkigurumiさんだと思います。  彼はこのような評価も求めていないでしょうけどね。(でも、孤独は誰にとってもつらいものですから、全く求めていないとも言えないで笑。) * 吉本隆明は 庶民的な例えも使う方なのですね。  私の場合は、パチンコ屋の店員だった時もあり、 わかりやすい例えだとおもしろく読ませていただきました。 感性の問題も、 問題点として、重大な観点は 確かに、 >プロとアマとの違いを分析していて これは 権力闘争や資本主義的行動の問題にかかわっているように考えました。< と言われている部分に大きく関るとわたしも思っています。 やはり、権力、あるいは権力意識と関ってしまっている点が問題なのだと思います。 資本主義社会のプロ意識が 正しく、最後の最後まで“その商品の人にとっての生涯価値”に対して責任を持つ意識 とは成っていないことに問題があるともいえます。   儲かったり、クレーム処理さへうまくこなせれば、後は責任は果たせたとしてしまう浅さと、 がゆえに、 真のフロ意識がその道途上にて、人間の権力欲のほうに負けて行く姿 が問題なのだとも言えそうです。 そこに藝術の世界までが、 同じく負けてしまっている?  とうのが私の中で、大きな大きな疑問となって浮かび上がってくるのです。 吉本隆明とう人は知的な人であるだけでなく、やはりよほど純粋な人でもあったのでしょう。  遊びの世界にても「単なるプロ(それで生きていける)」ことに後ろめたさを感じた様子が描かれているわけです。 藝術の孤高性とかを認めないというのではありません。 でも孤高性がそこにあるのならばあるほどに、 それは本来そのプロということは、その孤高性をより多くの人のものにすべくあるゆる教育法を学んででもまたあるゆるジャンルの表現法を学んででもその努力をすべきものと考えます。  その責任を放棄して、それは絵なら絵の教室、歌なら歌の先生達にまかせればいいというのは、 これは本来アマチュアだと私は思います。   もちろん、それが困難である場合は多々あるでしょうが、《その努力こそが実はその結果よりもそのプロ性、責任性を意味しているはず》なのです。  (《 》は、カッコ内の重要性を強調する意味で使っています。) だから ピカソに私は批判的だということです。   彼がプロ中のプロと言われている点においてです。   同じく音楽の世界ではレイ・チャールズも お金持ち達からそのプロ根性を絶賛されていますが、 其の地点は あくまでおかしな話だということです。 その作品でも商品でも 欲しい人がいればビジネスは成り立つということ自体を否定しているのではないです。 お金を出してでも欲しい人がいるということをです。 それによってマッチングの世界が成り立ち、商売の世界が回っていて、その中に藝術もおかれてしまっている限り、藝術価値も其の中に巻き込まれてしまうというのも解かります。 でも、まず簡単に言えば、心までもそれに巻き込まれてしまうのは、あるいは利己的にわざと巻き込まれるのは、 藝術の可能性の世界をこの存在に贈ってくださった神への冒涜だということです。 哲学者はそれを見抜くべきだと思います。 * なかなか、本題の感性教育大改革のお話に入れませんが たしかに重要な点の論議となっています。   ここはゆっくり進むことにしました^^。 ピカソは、 ある人が「いくらでもお金を払うから 絵を描いてくれないか」と言った時、 さらっと3秒で何かを描き「はい、これは200万円です。」と言ったそうです。  「 えっ でも いくらなんでも たった3秒で、200万円とは高すぎる」とその金持ちは言いましたが、そこをピカソはすかさず「いや、3秒ではない。これは私の歳プラス3秒もの時間があって今ここに描かれたのだ」と言い返したそうです。  もちろん、さらっと描いた絵が、何年もかかって描いた駄作よりも優れている場合も確かにあります。 しかし、どんな画家であれ、 歳の重みがまったくない画家はある意味いないとも言えます。 つまり、ピカソは 説明の責任を放棄しているわけです。  自分の絵に孤高性があればそれで良しとしてしまっているわけです。  これこそ資本主義社会の「プロ(吉本隆明が 意識した世界のプロ)」の手本でさえある姿ということなのでしょう。 でも、其の世界は、おそらくこれからの資本主義社会にては 滅びてゆくと私は思います。  死んで行くと思います。  生き延びられないと思います。      本物と言えるプロ達が やがて登場してくるだろうからです。  そう思いますし、 そのために私は急進的になっています。 以上です。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ★ 「信仰を正しい意味での無限の謙虚さ(無限ですから無思考となるかと思います。)を 人間の良心の知恵が発見すれば それが信仰」という定義について   ☆ まづ 《信仰》の定義については 《Q4492916:現代の黙示録=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4492916.html?ans_count_asc=20》のNo.1に投稿したところです。  arayata333さんのこの定義については 非常に細かく見て こう考えます。  1.《無思考》は 《思考し得るが しない》という意味にも取れますので 《思考を超えている》という意味を出すために 《非思考》と言おうとは しています。  2.《無限》は すでに 《絶対》という概念と同じです。  3.《謙虚》は 人間の思考がかかわる思惟であり振る舞いであり その経験を積んで得られる境地のことです。  4.そのように倫理や人間の境涯を 理性と感性との努力によって 体得するという人為の極致は ブッディスムの思想形式だと思います。  5.そのとき たとえば 《絶対ないし涅槃ないし空観》にたどりついたと言うのは 非常にあいまいであり 微妙だと考えます。  6.《たどりつく あるいは 実現する》というのは 《非思考の絶対を 思考で捉えようとしている》はづです。これは 信仰ではありません。あくまで道徳なのだというぶんには 何の問題もありません。  7.《人間・良心・知恵・発見》 これらはすべて 人間の経験的な思考であり行為であり相対の世界に属します。  8.ですから 相対の世界を超えた領域に対面したという想定から 非思考という状態ないし態度が生まれるのですから その信仰という原点に立って 《人間としての良心と知恵を活かし 謙虚の姿勢を得て行く》という生の動態が生きられるのだと思いますが いかがでしょうか。   ★ きぐるみさん  ☆ については 見解が百八十度ちがうようです。非思考については――ちなみに 女性 だそうです―― かのじょは いっさい 言っていませんし その認識を述べたこともありません。《神は 法則だ》という世界観だそうです。微妙ですが 要するに 《経験法則》のことであり したがって 《神は 経験領域の科学的な つまり思考に納められ得る科学思考的な因果律》だということです。ですが 経験法則を超えたところに――つまりたとえば単純に言って 光速を超えたところに―― 絶対は 想定されるものです。そういう意味で 非思考です。無神論であるのは 何の問題もありませんが 非思考じたいを 知らないはづです。  ★☆ 藝術もその孤高性から抜け出て 一皮剥けなさい  ☆ について おもしろく読みました。報酬という点では プロに徹するほうが 安定するでしょうけれど。    あたらしい論点は 出しません。

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