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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.12

◆「聖書で聖書を読む」は、解かりやすそうですね。  ありがとうございます。 ネットでの著作物の無料購読システムには、いろいろ難しいところがあるようですね。   それこそ、私有財産制の生み出した感性とともにはそれを越えた情報化の波はいきなりは起こらないのでしょう。 図書館や出版社側の情報公開の努力も課金性(その収益を出版社や著者に還元する)という形のものを模索しているようです。 グーグルは、それを越えた知の共有化を目指しているといいますし、アメリカではそのへんが、むしろ進んでいるとも聞きます。 昔 ビルゲイツがマックに対して、「その新技術は公開すべきだ」と迫ったことがありました。   他社に対してなのにすごい抗議魂だと思いました。    もちろん「公開したほうが見返りとしれて得られる協力からの利益の方が  これこれこういう具合に大きいですよ。 」という数字を示してのアドバイスでもあったのですが、  その中で「 それに、社会的にも、それだけの技術の公開には意義が大きい」という意味の説得もありそこに私は面白みを感じたのです。 利益追求の資本主義の会社、しかもアメリカのちゃきちゃきのそれに対して、社会的な正義を求める。 しかもしかも世界一の金持ちになった人が。  なるほど、アメリカという善悪極端な国にては、情報公開に関しては善に傾いたわけだと いう感想を持つところです。 しかし、聖書は神のもの、あるいは神の心のもの、という感覚からは、これが私有財産制とともにある点が引っかかってしまったところです。 昨日、エホバの証人でしたか その信者のような人がパンフレットを配ってきたのですが、 その内容の中のたしか「6つの疑問に聖書は答えている」という記事の中の(哲学的に答えとなっている文はひとつもありませんでしたが^^)「神は私たちを気遣っておられるか?」といった疑問には疑問自体にあきれてしまいました。      でも、哲学者のほうでも 神が一番苦しんでるとか その当体だとか、一番ミゼレーレと泣いている存在だとか、いう論議を聞いたことが無いですね。    これでは、 しかたないですよね。 偏在という言葉はあっても その意味こそ重要なのに哲学者がまともに考えてこなかったのなら、盲目的な信仰者が そのような疑問?を持ってもおかしくないですからね。 むしろ、私たち哲学者は、 今は、エホバの証人にしろ 「ものみのとう」でしたか、 そういう集団にたいしても 寄り添うように理解もしてあげるべき時かとおもいます。    これはその盲目性の怖さに目をつぶるということではないです。  むしろ、最も早く、 宗教の中のその「恐ろしい」世界を破壊する方法としてです。 解かってあげ、寄り添ってあげる、 これこそ力だと 最近より強く思うようになりました。 これ抜きに 感性教育の革命も無いですね。 *  キリストの十字架に意味があるならば、とあらためて考えてみたのですが、 それが やはり私たちとともに苦しんでいるということをキリストは最後に示す必要があったということだと思います。 寄り添う心の直感、あるいは《息吹》、 考えてみれば そのへんをいつもbragelone様から気づかされていたところです。 《無思考》の意味合いが今一よくわかりませんが、 そういう関係性の知を超えた世界というか 人間性の良心の世界のことだった、という感じで受け取らせていただきます。 それがキリスト者だというふうにです。 夏目漱石も キリスト者だったのでしょうか^^。  かくされた形としてはそれが真実なのかもしれませんね。(ニセオコリザルより) * 私の考える「感性教育」の革命の話は、たぶん面白いので 続けますね。 なかなか 進みませんけど^^。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  最近 朝寝坊があります。昔は 寝坊しようと思って遅くなったのですが ここ二週間くらいのあいだで 何回かは 知らずに寝坊しています。  吉本隆明と江藤淳との対話は 主題を互いに煮詰めて 非常に深まっています。もう四十年近く前のものです。  今回も その一端をご紹介して さらにその展開をこころざしたいと思うのですが。吉本が プロとアマとの違いを分析していて これは 権力闘争や資本主義的行動の問題にかかわっているように考えました。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  僕はかつて スマートボールの景品で食ってた時があるんですよ。失業時代にね。その時 これは方法は簡単なんだけれども ただ どうしてもプロになりきれない最後の一線というのはあるんですね。そして それはやはり屈辱感ということに関連するわけだけれども。  結局最後は 自分の方法で一番よく入る台というのは ある店によってもうすでに決定的に決まるわけなんです。だから 客がだれもいない 開店直後の時期に すーっと坐れば それはもうプラスなんですよ。利潤なわけですよ。ところがそこにパッと坐ることがどうしてもできないわけです。そのできないということの中には あん畜生また来やがったという様子をされはしないかということ。それでも素知らぬ顔をしていればいいわけで 自分自身でつくりあげた屈辱感であって 案外店のものはどうでもいいと思っているのかもしれないですけれども 素早く所定の場所 ここなら完全におれの方法でやればプラスなんだという台へすーっと だれもまだ客がこない時に行けばいいわけですがね。  それができるか出来ないかということが プロであるか アマであるかということの分岐点だと思うのです。そして僕は どうしてもそれができなかったんですけれどもね。できなかったというのは 善悪 二つの意味があるので あんまりよくないことだと言えばよくないことだと思うのです。つまり そこまで出来ないくせにそれで食おうとはおこがましいじゃないか という意味合いもあると思いますけれどもね。  その場合に あえてそこを耐えれば 平気な顔をしていれば スマートボール屋が お客さん いくらか落とし前を出しますからご遠慮下さい と言ってくるか だまってやらせるか どちらにしても利潤なわけですね。そこまでいけばプロなわけです。ところが どうしてもそこは限界だというふうになりまして プロになれなかったな ということがたいへん後悔でもあるんですけれどもね。  なんかそこの屈辱感というのは 己を低くしなくてどうして王道に達することができようか というようなふうにも思えますしね。しかしこれはそこまでやるのが重要であるのかという 一面ではそういう感じもありますしね。そこが僕なんかの たいへん関心をもっているところですけれどもね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 引用をここまでとして あとは バトンタッチとしたいところです。感性は 何を求めているか。  ★ 情報公開 図書の開放  ☆ なるほど 私的におこなう場合もあるでしょうし 公的におこなう場合もあると思いました。わたしも 剽窃でなければ 自由引用でよいと思うのですが。  ★ エホバの証人  ☆ は おわかりのことと思いますが どうも 会としては 信仰とは別であるようです。聖書研究会ならびに生活相互応援活動の集まりだと考えます。《Q4074250:キリスト教とエホバの証人との違い= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4074250.html》No.5&7が わたしの回答です。ちなみに 信仰とは違うという意味〔だけ〕では きぐるみさんの出される見解は そういうことのようですね。いえ 信教・良心の自由を認めた上でなら いいんですけれど そもそも《信仰》はないという立ち場であるようにしか受け取れない場合が しばしばです。都合が悪くなると 姿を消して行かれますし。――欠席裁判ですが ここまで言っておけるのは これまで同じことの繰り返しだったからです。  ★ 十字架上のキリスト  ☆ 人間イエスは おそれもあったでしょうし 望むところではなかったでしょう。それでも 神の子キリストとしては もとより 人間イエスとしても みづから 勝手に その木に上ったのですよ。  自己の存在や他者との関係性を消滅させたなどというブッディスムまがいのことではなく そうではなくて 自分勝手に はりつけになったのですよ。そうでなければ 無償ではありません。

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