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吉本隆明の思想について

 次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

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回答No.5

>南島(沖縄)論<というのは、たしか以前そちらが質問していた内容と関わる問題ですよね。  忙しくて議論に参加できなかった時でしたが、チラッと目をとおした覚えがあります。 素朴な人の習慣の一つの例として興味を惹かれたからです。 分かち合いというのは人間本来の本質的な心理と関わるものだと思うからです。  うれしいことがあると、遠くの知人にまで知らせに駆けつけたりする心でもあるし、おいしいものがあると、他の人にも食べて欲しくなる心です。 でも、それをそのまま文明の社会での制度とかとして取り入れるのには、問題があるはずです。  心が素朴ではなくなっている問題です。  そのままでは制度は成り立つものであっても、心はついていけなくなる場合が出てきて  真心、あるいは自然は心が「分かち合いたい」からの行為なのかというあたりにウソが生まれ文明社会の人の心をより複雑にしてしまいます。 それで、簡単に回答とかに参加しても意味無いと思い時間が無い中で参加しなかったのだと思うのですが、はっきり憶えていません。  * 性の問題、あるいは男女関係の問題は、すでに頭を使う人の間、あるいは文明の社会にて、めちゃくちゃ複雑な問題となっているようですね^^。 笑い事にも思えてしまうところ、笑い事なんかじゃない問題でもあるのですよね。 しかし、その超一流?とか超一流に関わる知性の人たちが、そちらのご紹介くださった文章にみられるような混乱をおこしてるのだとすれば、 これはどう言ったらいい問題か、考えあぐねてしまいます。 昔、支配階級が反抗を抑えるためにセックスを奨励したとかとか、そういう話を聞いたりしますが、 そんな類の論議に 超一流でなくても一流と言えそうな人たちもひっかかっていたのでしょうか? 感性教育も始まったばかり?(まだその内容には疑問があったりもしますが)のようですが、 やはりこここそ、感性教育が基礎から必要なところなのだと思います。 この問題が ここでの対話のたたき台になることは確かだと思います。 でも、この人たちの論議とあまりつきあいたい気持ちは起こりません。 エンゲルスという人は たしかエンゲル係数とかを語った人ですよね。 数字で消費を計算する一つの単純な数式を提示した人ですよね。 エンゲルスの書いた文ということで紹介してくださった文ですが、 最後の>それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。< という「第二章家族」とかのまとめは、 「それで、家族関係はおしまいだ。」という意味合いのものでしょうか?    よくはわかりませんが 前段の文からすればそのように読めますよね。 でも、これは感性が発達して正常な成熟をした男女ならば いつの時代にても権力関係や楽な生活とかとは別の惹かれ方をする問題ですし、かつほんとうに成熟したら、欲望とかも大きくなる(快も深くなるのですからあたりまえですが)と同時に 欲望のコントロール力もそれ以上に無理なく大きくなるので、 結局は一夫一婦制は、制度以前の重みを回復するだけの話です。 未熟な間は 恋愛は巨大な感性教育の力となる世界です。 その巨大とさへ言える価値へのチャンスです。 でも 成熟すればその必要もなくなります。   すべての人が 一夫一婦制の中でも 素朴な時代にそうであったように、いや現代ではさらにゆるぎない確信を持って愛し合え、かつお互いが力となりあえるはずなのです。 男女関係の中には、そのような大きなチャンスがさまざまな色合いで文明の中にも存在してると思います。 おそらくブルジョアという言葉の中での男女関係も 知的なだけの人たちには 家族とは利益共同体というイメージとしてのみ写っていたのだと思います。  自分達家族の私有財産を守ること、それが肉感的な愛情だ、という感覚です。 そういうふうな家族は、  >その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代< つまり共産主義のん時代がやってくれば、 終わりを告げる ということなら 文章は通じますが、 その時代以前にも 正常な男女関係にては そういうセックス関係は終わっているわけですし、  もしこれが フリーセックスの関係を暗示してるならば、フリーセックスが自然な開放された心の帰結だという反欠けのイメージのせいにすぎないことだと思いますよ。 逆に言えば、 ちゃんとした共産主義が来ても そのような男女関係の健康な回復にすぐにつながったりするようなことはありえないということです。 >男女関係が 《前史が終われば》変わると見ているようです。< というふうに 日本の思想(?)が思っているのであれば、 考えが浅いというより おそらく未熟なままでの知性だけ進んでいっての帰結だったりする世界なのかと思います。 * しかしながら、 この家族の正常な肉感的な愛情につながる論議は、これからの資本主義にとっても 大きな力となる世界ですし、また 出きるならば思想家達が真剣に話し合えればなあと思ってしまう問題のひとつです。 というよりも、  私は実は 総合哲学さへあるならば、総合的な事業は今のビジネスをはるかに越えた力を持つと考えていますので、 生物学の「複雑系の科学」ではないですが、 そういう哲学をまがりなりにも持っているだけで私自身、 競争に勝つビジネス案ならいくらでも総合的な地点からですけど持ち合わせてもいるのです。  ちょっと考えただけでも 事業領域とかをマトリックスにして縦横からアイディアのひねり出すなどといった単純な作業とかよりも はるかに多くのまったく新しい事業案はつぎつぎと生まれていくようなものです。   これは私にその能力があるというのではなくて、 総合的にすべてを考えようとするとそうなるということです。 が それを具体的に 今後のその商品の見通しとして語ったら、 利己的な段階の人も それを応用してしまうわけです。   ですので、そういったことは 公の対話では語りえません。    それなりに、若い有能な人達へのヒントとかは書けたりしてもです。 でも、 今物事を総合的に考える力が無いのは、一つには感性の部分の進化が遅れていて、物事を総合的に考えているようでもその部分がぬけているからだと思うのですが、     その面からも この男女関係の議論は意味ありますし、   なによりも 成熟した もはや嫉妬とかいった雑念のない男女関係は、何よりも、個人的は利益よりも 人間の利益を優先する資本主義への道を大きく開きます。  またその知恵自体も そういう人たちからは膨らんでゆきます。 会社には理念が必要だと言いますけど、 今のままでは簡単に言えば「ごまかし」です。  理念などなくても 社員を情熱でまとめることができれば同じようなものです。 ある意味「理念」はいらないと思う。 競争でいいんです。  でも大きな正常な総合的な成熟した男女の会社には、やがて誰も勝てなくなるんじゃないですか。 企業競争の終焉ならば やがて、その向こうにはやってくると思います。 その闘いの向こうにはです。  けだし何もしなければ、たしかに怖い世の中のようです。 どこへ向かっているのか ?  奈落の底なのだろう? 怖いいいいいいいいいいいいい? ナあああああああ! ああああ!(シュールレアリスムより^^)。

noname#80116
質問者

お礼

 社会的な支配関係 これが――情報公開の問題ともからんで―― どうなるのか。競争の行方と同じように やがて どこかで 支配関係が この場合は ひっくり返ると言うよりは もはや 消えていくでしょうか。権力闘争(競争)も 行き着くところまで行って 勝ち負けがなくなり そうすると 指導者・責任者は 支配関係から出るのではなく 従って 単純な《当番制》へと 移行していく という方程式を描くことが出来るでしょうか。  わたしは 自分が 信仰を持っているから言うのではなく そうではなく 信仰や神という言葉を出さずに どこかで 社会全体として 何かの変革が起こるような気がしています。  かつては いったい 何だったんだと言って 振り返るような回転が 起きるかに思います。これ以上は 分からないだけではなく 憶測で言うことの物足りなさがあります。また 聞く人に 失礼になります。言ってしまいましたが。  こんなかたちです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回のご回答としては 感性教育の前途は別とすれば わたしにとっては 総じて まだ 満足できないですね。  社会主義者エンゲルス――ちなみに エンゲル係数のエンゲルとは 別人ですよ――も けっこう いいことも言っていると思います。  性を経済とからませることのない社会が来ると言うのですから。  ▲ 婦人の共有  ☆ などという物騒なことについては かつて わたしは  ○ 霊的な婦人の共有  ☆ と言ってみたことがありました。これは 女性差別になるのかどうかも 分からないのですが もし 或る程度 あたかも寅さんのように――ほんとかどうか知りませんが―― 女性の気持ちをやさしく包むことが 社会的な自発的な務めとして あるとすれば そういう表現になるかも知れないと思ったまでですが。  問題は 《いまのままの人間・今までの人間》が そのまま 未来社会において 男女の おそらくふつうの関係を実現することができるか だと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、これは感性が発達して正常な成熟をした男女ならば いつの時代にても権力関係や楽な生活とかとは別の惹かれ方をする問題ですし、かつほんとうに成熟したら、欲望とかも大きくなる(快も深くなるのですからあたりまえですが)と同時に 欲望のコントロール力もそれ以上に無理なく大きくなるので、 結局は一夫一婦制は、制度以前の重みを回復するだけの話です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは 素直に そのまま 新しい人間関係へ入っていけるとおっしゃっています。このとき 上の  ○ 霊的な婦人の共有 と言うよりは 霊的な人間どうしの関係  ☆ も 同時に 伴なって実現すると見ますか?  いまのところ わたしは 基本的に言って なにか どこかで どんでん返しのような革命が起こるような気がしています。政治革命でもなければ 必ずしも経済制度の革命でもなく 人間じたいが 旧い人から新しい人へ 変えられることだとは 予想しています。  エンゲルスが  ▲ それでおしまいだ。  ☆ と言っているのは 資本主義的な人間関係だと思うのですが かれらは まづ 政治経済革命を経て 社会主義的な生産様式へ移行するにつれ そうなると言うはづです。これには もうこだわらなくてもよいと考えますが たとえば いくらかわたしが arayata333さんよりも悲観的なのは これだけ豊かになった段階で 《衣食足って礼節を知る》というようにはならなかったからです。  もっとも  ★ しかしながら、 この家族の正常な肉感的な愛情につながる論議は、これからの資本主義にとっても 大きな力となる世界ですし、また 出きるならば思想家達が真剣に話し合えればなあと思ってしまう問題のひとつです。  ☆ というように この主題を さらにこれからの課題として位置づけてもおられますので 将来へ向けて やはり井戸端会議を推し進めて行ってもよいと思いました。  ★ 総合哲学とそれの事業への応用  ☆ ともども そしてあらためて 感性教育ともども 課題となっていくのでしょう。  ★ ある意味「理念」はいらないと思う。 競争でいいんです。  でも大きな正常な総合的な成熟した男女の会社には、やがて誰も勝てなくなるんじゃないですか。  ☆ というふうに ちらっと 述べておられるのですが 今回 いまひとつ はっきりしなかった嫌いも残りました。  つまり 人間とその歴史にとって 《前史から後史へ》などという見方をする必要はないのかどうかに関してです。《競争》については いまの競争方式を そのまま つづけていけば どこかで 要らない会社は 立ち行かなくなり 要らない競争は なくなっていく。そのようなどんでん返しが やってくるという見方でしょうか。

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回答No.4

★シュタイナーについては、URLでご紹介くださったところを読みました。 これですと、エーテル体とかアストラル体もヨガでのお話と変わりないですし、実証主義といっても「将来それは科学的にも立証されるであろう」ということで、なんらその方法についてさへ明言していたわけではなかったわけですね。  今回感性は 深く学ぶべき地点の人であることが私には解かりましたが、 premeapeさん式にですが、哲学に関してはこう言っておきたいです。 「のほほん村」の村長さんでも感性は健康でとても豊かでありえる点を 日本感性教育学会に入れたら その点も専門的に論議課題の一つとして取り上げる必要があることを 今回知りましたが、 急進的な私としては「のほほん村」自体は後回しにしておきたい。(ニセオコリザルより) * 吉本隆明さんという方は、全共闘世代の思想家のようですね。 でも、では計画経済の具体的ビジョンを何か掲げられていますか? 過去のそれでしたら権力欲という暗い部分もやむおえないなどという哲学が生まれてしまうのもやむおえないかもしれません。 でも、それなら、すでに過去形でしょ。 これだけ計画経済が大きく失敗したのに、巨大な改善案無しに共産主義を語るには「夢見る村」のお役人にでもなりたい人なのでしょうか? あるいは、高度資本主義についてでもいいです。 何か具体的な進展の方向を掲げられていますか?  総合的グローバル企業(この回答では 詳しい書き方をさけています。)が独占すれば、 競争という概念も競争の自由と言う概念も資本主義社会から企業に関しては消えていってしまいますが、    それへの具体的第一歩さへ語らない段階で、その時が来たら人間が消滅するとか その先のビジョンは解からないだとか、これは そんな夢うつつの論議に思えてしまうことです。 その段階を 縁起がすべてわかったような段階とはとても思えませんし、(それに縁起というなら、それは人間には完全には読みきれない世界だと思います。)  《前史》、《後史》でくくれるようなほどの区切りの時とも思えません。 競争自体さへ無くなるわけではないですしね。 また逆にそのときまでに「競争」を「見つめる目」が誰においても完璧に育ってるなんてことも無いと思いますしね。 文字通りの「復活」は ここで論じるテーマではないでしょうが、 人間本性の復活、「見つめる目」の深まりと安定化も、つまりその面の<復活>も、経済のその変化とはま別の次元で変化進展してゆくと思います。 * わたしは、今は、資本主義の発展のことしか考えて無いですが、 たとえばその人たちは、 貧しい国の人たちの仮設住宅とかの材料の化学とかは、また食料の配布のためにコンビニやさらなる流通革命、あるいはドメステックのそうした国での進展状況をどのように考えているのでしょうか?  せめてそのへんだけでも語ってほしいですが。 * 対話も大切ですが、 そのへんの対話は ここでは難しいですね。

noname#80116
質問者

お礼

 ブルジョアの結婚は 実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えうるとすれば せいぜいで 共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代わりに 公認の 公然たる婦人の共有をとり入れようとするという非難ぐらいであろう。いづれにせよ 現在の生産諸関係の廃止とともに この関係から生ずる婦人の共有もまた すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。 (《共産党宣言》第二章 大内兵衛・向坂逸郎訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点 エンゲルスがさらに 次のように見通しを述べています。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。  だが 何が付け加わるだろうか。それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。  このような人びとが出てきたばあい 彼らは 今日の人間が彼らのなすべきことだと考えていることなど 意に介さないであろう。彼らは 彼ら自身の実践と それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。 (F.エンゲルス:家族・私有財産・国家の起源  第二章 家族) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たたき台には なりますでしょ?

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん 論点が定まって来て おもしろくなって来ましたね。ご回答をありがとうございます。  ★ シュタイナーについては・・・実証主義といっても「将来それは科学的にも立証されるであろう」ということ  ☆ なるほど。了解しました。長い目で見ることも大切です。  ★ 「のほほん村」  ☆ は 分かるような分からないような ですが これも 今後へと進めましょう。  ○ 吉本隆明については 趣旨説明として述べるべきことが まだ あったようです。と言っても それは わたしが もう二十年 へたすると三十年近く 故意に=つまり かれを棄てたかたちで 遠ざかっているということです。  きわめて魅力的な思索を残していて 大いにおそわったのですが 全体として ついて行けない / これは まちがっていると結論した結果です。《関係の絶対性》を言います。人について 独立存在であるほかに それと同時に 関係存在でもあると わたしが 自分の見解をつくったのは 影響されてのことです。南島(=沖縄)論で 外からやってきた種族が 土着の思想(宗教)を 自分のものとして――そして土地の人びとには むしろ 自分たちの持っていた宗教を 持たせるようにして―― とうとう 島全体を 乗っ取ったという理論についても 学びました。そこから ムライスムやスサノヲイスムを 立ち上げました。  でも 全体として かれの思想には ついていけない。というより どちらへも向かわない / 議論だけだと位置づけました。  ☆ コミュニスムに対する・考えうる批判を出しておられます。逆に ここでは かれらの側に わたしが まわって 応えてみましょう。と言っても もはや一点です。  吉本も言っているように 《人間の〈前史〉が終わるまでは そのあとの〈本史〉なり〈後史〉なりについては 分からない》という大前提に立ってですが 人間関係の中でも 男女関係が 《前史が終われば》変わると見ているようです。  まづ コミュニスム全般にかんして 次のようです。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・  共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。  この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。  ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。 (ドイツ・イデオロギー 古在由重訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あえて『共産党宣言』から引きましょう。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そして 共産主義者よ 君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう と全ブルジョア階級は いっせいにわれわれに向かって叫ぶ。  ブルジョアにとっては その妻は単なる生産用具に見える。だから 生産用具は共同に利用させるべきである と聞くと かれらは 当然 共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。  ここで問題にしているのは 単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ ということにはブルジョアは思いもおよばない。  何しても 共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわくわがブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は 婦人の共有をあらたにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。  わがブルジョアは かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても かれらは 自分たちの妻をたがいに誘惑して それを何よりの喜びとしている。

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回答No.3

こんばんは、brageloneさん。 *******************************************************************************  ☆ 言ってみれば 空観として 世の中の縁起共生の関係・その歴史事実は すべて 知って公表すべきであるか。そうしたら 《全部終わり。人間社会は 存続しなくなる》か。  吉本に言わせれば 《人間が滅びる》そのこと自体を 超一流のイデオローグは ほんとうは 求めたのだと言います。そのあと どうなるかは 分からない 分からないまま そう求めたのだというのが かれです。  ここでは そのとき 人間の《前史》が終わって その《本史》が始まるのか。《復活》するのか。こう問うています。おしえてください。一緒に考えてください。 ******************************************************************************* ↑ うん、 【会社更生法と民事再生法の違い】 http://www.shinenet.ne.jp/~kikuchi/bengoshiron/bengoshiron03.htm 【倒産法制】 http://www.nct9.ne.jp/s12/kie/e10.html 【『新入社員のやるき』質問番号:403255】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa403255.html と、いうふうに読み替えて考えたらちょっとは読みやすくはなんないかな?

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 【『新入社員のやるき』質問番号:403255】ANo.10  ☆ いわば 全員経営者論だと思います。その方向を わたしも 思っております。《知るべきものは すべて 知るべきである》となりましょうか。  江藤淳が こんなことを言っています。掲げておきます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 個人的な欲求不満は われわれが皮膚で仕切られた個人である限りは その範囲で処理すべきことであって 一般的社会正義に解消すべきものではない。  もし政治をやろうというなら その政治をやろうという決意のもとに立って 踏み切らなければならない。つまり正義のためにではなく 進んで悪を行なう決意がなければならない。それは人間が社会生活を通じてでなければ存在できないのだから仕方がない。  人間の共同生活を支えているのは いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動でしょう。政治は この力に触れなければ 動いていかない。そのためには 常識的に考えたら 嫌なことでもあえてしなければならないだろうと思う。だからスターリンなども あながちに排斥しようとは思わない。それは一つの様態だろうと思う。  これは実は家庭を治める上にも通じるのです。家族関係は一面で倫理だが他面では政治ですから。  (前掲の吉本隆明との対談) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうすると たとえ どんな悪でも すべて情報公開すべし となるでしょうか。隠しているから おもしろくないし ちっとも 良くはならないと言えるでしょうか。  どうでしょうね。  あるいは もし《復活》というのならば それは   ▲ 人間の共同生活を支えている・・・いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動  ☆ を 明るいものへと どんでん返しすることも 関係しているかも知れませんが。

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回答No.2

おはようございます、brageloneさん。 ふぅー。 あいてた。 河岸はこっちですか。探しまわりましたよ。 どっこもこっこも締まってるしー。 おかげで寄り道ではないですが、 地の底深く、みてまわりましたよ。 ふぅー。 【大陸移動説からプレートテクトニクスへ】 http://georoom.hp.infoseek.co.jp/7old/3litho/24platehistorical.htm 【プレートは動く】 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/archive/resume015.html http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/archive/chapter025.html http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/index1.html http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/index.html http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/index3.html 【プレートテクトニクス理論と光磁気ディスク】 http://www.tdk.co.jp/techmag/inductive/200808/index2.htm 《吉本隆明の思想について》 うーん、吉本隆明さんといえば… 『詩的リズム -音数律に関するノート-』  菅谷規矩雄著 大和書房 ↑ この本の中でちょいちょいその名が挙がってた。 p49 三、発生の原基 §I 前=言語あるいは場面 吉本隆明が韻律の本質にふれて、言語の条件の底辺に想定した < 非言語時代の感覚的母斑 >に対応するものを、現在における 非言語的表出の形態のうちにさぐりもとめてゆくとき、 非言語的であるとともにかならず前=言語的であるような ひとつの恒常的な発生領域にあたるだろう。 ↑ とりわけ、謎めいた言葉が措かれていたのが印象に残ってた。 で、本棚に手を伸ばし本を手に取りページを開く。 ****************************************************************** 【進化のきっかけとなる大量絶滅】 http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/44/research_11.html ――環境劣化の原因はやがて消え去り、地球環境は生きものが暮らしやすい元の状態に回復する。すると、生態系に大きな空白がうまれ、幸運にも生き延びたたわずかな生物は、それを埋めるように急速に広がる。そこでの頻繁な遺伝子組み合わせの試みの中で、種の多様化が急速に進んだだろう。このように、大量絶滅は、既存の生物の消滅と同時に、進化の次の段階を促すアクセルの役割をもっている。―― ******************************************************************

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。   そうですね。質問趣旨での引用をさらに広げて その背景説明を述べます。  江藤淳は そもそも 自己および日本人とその社会にとって いちばん大切なものとして 《社稷》を持ち出します。《土地の神と穀物の神》のことですが 簡単に言えば 《国家》のことです。必ずしも 厳格な概念ではなく また学問や政治だけのことではないようです。いわば《情感の共同性》から社会が成り立っていて その核とも言うべき意味で 《社稷》の概念を持ち出しています。そのあとでは 当然のごとく この社稷をあずかる政治の行為に 焦点を当てていきます。そのあとでは この社稷を守る政治行為のもとに 少なくとも かれ自身の時間(生)は あります。  それに対して 吉本隆明は  伝統と言えども 共同自治が 制度化し社会支配体制となった側面については きびしく それと対峙します。結果として あとで 伝統を守ることになっても構わないのですが 一たんは 日本の歴史伝統的な体制と自己との結びつきから 完全に自由なる《時間》を主張します。そのためには たとえば支配体制に残されている共同祭儀・その秘儀をあばくべきだと言い それに対して社稷に拠る江藤は そうなると《全部終わり。つまり 人間社会が存続しなくなる と思う》と応えています。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【吉本】・・・僕に言わせれば その秘儀の実体ははっきりさせろということです。とにかくはっきりさせればすべて終わりであるとおもいます。・・・江藤さんは そういうのはあったほうがいいし またそれは別の形では どんな社会がきてもあるんだというふうにおっしゃるかもしれないけれども 僕は どんな社会がきても 全部秘儀はあばいたほうがいいと思います。・・・  【江藤】・・・思想というか イデオロギーといいますか・・・これはもともと言行不一致のもので だからといってあながち責めることはできない。つまり それはプロジェクションですから 何か努力目標として投射したわけですから。ただ僕は 思想と言う時 そういう努力目標としての思想というものを あまり信じないのです。現実にどう生きているかということを正確に言うものが思想である。あとは 時代は崩れ 人は滅びる それだけだという そういう心境です。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言ってみれば 空観として 世の中の縁起共生の関係・その歴史事実は すべて 知って公表すべきであるか。そうしたら 《全部終わり。人間社会は 存続しなくなる》か。  吉本に言わせれば 《人間が滅びる》そのこと自体を 超一流のイデオローグは ほんとうは 求めたのだと言います。そのあと どうなるかは 分からない 分からないまま そう求めたのだというのが かれです。  ここでは そのとき 人間の《前史》が終わって その《本史》が始まるのか。《復活》するのか。こう問うています。おしえてください。一緒に考えてください。

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回答No.1

吉本隆明という人も江藤淳という人も知らないのですが、お二人の対談の中での吉本隆明氏のこの発言をめぐり、 brageloneさんの論点に絞って私のほうからの回答を書いてみます。 超一流のイデオローグというのが、 未来をごみ当番が首相でもいいというところまでの先の先を読みきっているのかどうかは、 わたしには想像のつかないところです。   (私という肉体労働者が おとなしいもんでごみ当番のようなものですが なんという光栄な世の中がくるんで笑。) でも、まず、私たちは過去と今さへ読みきっていない姿にもっと気づくべきときなのだと思うのです。(ムムム偉そうなこと言ってます。) 感性教育の遅れのこともそうですけど、 では神智学から実証主義を採用して反逆した人智主義のシュタイナーのことはどれだけ私たちは理解してるのでしょう。   これは 私自身の現在の反省ですので少し書いてみます。 でも 若い頃私は、 人智主義とかいっても、結局は中身はどうせ同じだろうという頭がありました。 神秘主義の一種で、見せ掛けの科学性をまとっているだけだというふうにです。 そこで実際に 専門であった踊り心の研究の一環として、シュタイナーが教育とかで取り上げているオイミュトリーという名の リズム体操のようなものを調べてみたことがあるのです。 いくら動いてみても わたしには、そのどこがいいのか解かりませんでした。 しかたなく、今度は本をもう少し読んでみたら、 色鉛筆でのシュタイナー自身の絵が描かれてるのを見て、  これで私は 失望してしまったのです。 ウソだと思ってしまったということです。   これじゃあ、そのへんの宗教教祖のごまかしじゃないか。  鉛筆ならばどこまでも細かいタッチの変化に精神の深みも豊かさも無限といっていいほど描き分けることが出きるのに、まず、この人は色で人をひきつけようとして、こぎれいな色の色鉛筆を使っているけど、  物理的な色鉛筆の性格そのままに、出ているのはそのまま こぎれいな色合いでしかなく、 タッチはむしろ、子供のような絵そのまま幼稚なだけの絵じゃないか。 というふうに見てしまったということです。 でも それから30年近くたって、  それがもう、虹の絵だったか花の絵だったかも忘れているというのに、 この色の粉に過ぎないはずのその絵が、 なんとも客観的に優れた絵として私の心の中に 今になってよみがえるという 記憶現象を、  私個人の中だけの迷想と考えていいものなのでしょうか? 私は 絵に描けるものは、声にも出せる(音声の躍動の豊かさとして歌のなかとかでは同じ感性を表現できる)と思っています。 逆は難しいですが、たとえばゴッホならたぶん難しくなかっただろうと推理していたりします。マチスも同じです。 ピカソはわかりません?     そのわたしが、 声で試してみても、 それは深い色合いで、心の中のよみがえってきた色合いだということが解かりました。 科学的にはどういうことか? 鉛筆のタッチならば、描き分けてるところをビデオで撮れば、 大勢の人にその違いとか豊かさの世界は かなり簡単に教えることが出きるはずです。  でもそれが色鉛筆では、 いったいどういう魔法をシュタイナーが使ったのか?    あ わたしが魔法という言葉を使ってはいけないですね^^。 それは どう実証可能なのか?        もしそれが今ここにての深い実証であるというのなら、よほど深い世界ですね。 私という鑑賞者を通して、30年の年月を経て 歌の世界にて声の変化の世界にて実証的に観測された世界。    これでは、 感性教育の革新性の前に、 私自身が過去の超一流の精神の世界の人たちのことを知らないことになります。 おそらくオイミュトリーも 私の方が理解できなかっただけでしょう。 動き自体は、もう憶えていなくても(すっかり関心がさめてしまったので、記憶には残らなくなってしまった)、それにも関わらす、 そうか そういうことだったのか、というような  その動きのコミュニケーション性のようなものはわかる気がしてきましたけどね。  でもやっぱりはっきりと解かるような動きの世界ではないです。 あくまで 幽玄のほうが私にとってはるかに解かりやすい動きですし、奥は深いと思えてしまいます。     もし、色鉛筆の この実証?の世界が本当ならば、 けれど、これもさらに深い世界なのかもしれません? こうなると、ヨガでは単なる方便だと思っていたアストラル体の話も彼の説の中では真実味があるのではとも思えてきます。 21歳まではアストラル体という ヨガでは言わないかなり概念の違うアストラル体についての話です。 また、彼の農業や医学についての見解とかも その後の関連の社会活動とかも すべて無視できなくなってきます。 いずれにせよ、 悟った人とか神秘主義の人の絵を墨絵の白隠以外見ていません。  白隠の場合は 墨絵ですからタッチではないので、私には最初から判断不能な世界ですが、これも結局 感性教育の改革だなんて言いながら、  ただ単に何も 気がついていないだけなのかもしれません。 シュタイナーはキッカケにすぎず、そのへんすべてに、今自信を失ってもいます。 他の人は解かるのでしょうか? 超一流ならば、やっぱり過去や今もそして未来も そこから究極まで見通せるのでしょうか? 書く資格なんかないような人間からの回答だったかもしれませんが、 いままでのよしみで、 一番強く心にひっかかってしまったことを書いてみました。 せっかく意気込んでいた感性教育改革、 今ちょっと、いや、かなり、自信を失いかけてます。     これこそ、私たちの (あ)の道の現実なのかもしれないですけどね。   こうして誰もが反省しながら進んでいくしかないところなのかもしれないですけどね。 倒れて起き上がる人が強い、という言葉を聴いたことがありますが、 今の自分も そうあって欲しいと祈るばかりです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ひとに 《前史》や《本史》がありますか?  ★ シュタイナー  ☆ に関して ヰキぺディアの解説を読み 《シュタイナー研究室:http://www006.upp.so-net.ne.jp/ekorange/》というサイトを こちらは ちらっと 見ました。  全生涯をつうじて みづからの持ち前の能力を保ち 発揮しようとしたように まづは 思われます。結局は 中身ですが まだ 詳細をつかみ切れていません。  ちょっと見た限りでは まづ 重要なこととして 《教条主義、律法主義に陥らない》ようにと うたっているのですが そのあと 人智学の初めを読むと なにやら――わたしには――七面倒な倫理的な目標となるような境地が説明されていました。つまり いづれにしても《おしえ》ですね。  オイリュトミーや絵の方面は 分かりませんが 問題は こういう神秘思想にかんしては 一点に絞られるのではないでしょうか。重要な判断基準があるということです。例によって 聖書からですが 人びと一般に分からない言葉として《異言》があると言います。神秘思想の内容は そういう種類になるかと思うのです。それよりは わかるように解釈した《預言》を大事にせよと パウロは 言っています。  ▲ (コリント前書 14:1~&)~~~~~~~~~   ・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。  異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。  しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。  異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。  あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。  だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人智学というほどですから 理解できるように表現しているようですが まづは それこそ《感性》や 生活態度としての《境地》が 言葉で表現されていて その言葉が たぶん初めは 窮屈に感じられると思いますが どうでしょう?   どうなんでしょう。たとえば こういうことを思います。つまり 感性教育よりは 人間教育であり 人間教育よりは 話し合いであり 対話をとおして どれだけ心が通ったか その小さな分かり合いから 出発するというように考えるのですが? 単純にです。  おっしゃっていたように 《関係》の側面ですね。自分の存在のいま一つとしての側面 つまり社会的な《関係》という側面ですね。ここから 世界に広がるように思うんですけれど。

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