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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.1

吉本隆明という人も江藤淳という人も知らないのですが、お二人の対談の中での吉本隆明氏のこの発言をめぐり、 brageloneさんの論点に絞って私のほうからの回答を書いてみます。 超一流のイデオローグというのが、 未来をごみ当番が首相でもいいというところまでの先の先を読みきっているのかどうかは、 わたしには想像のつかないところです。   (私という肉体労働者が おとなしいもんでごみ当番のようなものですが なんという光栄な世の中がくるんで笑。) でも、まず、私たちは過去と今さへ読みきっていない姿にもっと気づくべきときなのだと思うのです。(ムムム偉そうなこと言ってます。) 感性教育の遅れのこともそうですけど、 では神智学から実証主義を採用して反逆した人智主義のシュタイナーのことはどれだけ私たちは理解してるのでしょう。   これは 私自身の現在の反省ですので少し書いてみます。 でも 若い頃私は、 人智主義とかいっても、結局は中身はどうせ同じだろうという頭がありました。 神秘主義の一種で、見せ掛けの科学性をまとっているだけだというふうにです。 そこで実際に 専門であった踊り心の研究の一環として、シュタイナーが教育とかで取り上げているオイミュトリーという名の リズム体操のようなものを調べてみたことがあるのです。 いくら動いてみても わたしには、そのどこがいいのか解かりませんでした。 しかたなく、今度は本をもう少し読んでみたら、 色鉛筆でのシュタイナー自身の絵が描かれてるのを見て、  これで私は 失望してしまったのです。 ウソだと思ってしまったということです。   これじゃあ、そのへんの宗教教祖のごまかしじゃないか。  鉛筆ならばどこまでも細かいタッチの変化に精神の深みも豊かさも無限といっていいほど描き分けることが出きるのに、まず、この人は色で人をひきつけようとして、こぎれいな色の色鉛筆を使っているけど、  物理的な色鉛筆の性格そのままに、出ているのはそのまま こぎれいな色合いでしかなく、 タッチはむしろ、子供のような絵そのまま幼稚なだけの絵じゃないか。 というふうに見てしまったということです。 でも それから30年近くたって、  それがもう、虹の絵だったか花の絵だったかも忘れているというのに、 この色の粉に過ぎないはずのその絵が、 なんとも客観的に優れた絵として私の心の中に 今になってよみがえるという 記憶現象を、  私個人の中だけの迷想と考えていいものなのでしょうか? 私は 絵に描けるものは、声にも出せる(音声の躍動の豊かさとして歌のなかとかでは同じ感性を表現できる)と思っています。 逆は難しいですが、たとえばゴッホならたぶん難しくなかっただろうと推理していたりします。マチスも同じです。 ピカソはわかりません?     そのわたしが、 声で試してみても、 それは深い色合いで、心の中のよみがえってきた色合いだということが解かりました。 科学的にはどういうことか? 鉛筆のタッチならば、描き分けてるところをビデオで撮れば、 大勢の人にその違いとか豊かさの世界は かなり簡単に教えることが出きるはずです。  でもそれが色鉛筆では、 いったいどういう魔法をシュタイナーが使ったのか?    あ わたしが魔法という言葉を使ってはいけないですね^^。 それは どう実証可能なのか?        もしそれが今ここにての深い実証であるというのなら、よほど深い世界ですね。 私という鑑賞者を通して、30年の年月を経て 歌の世界にて声の変化の世界にて実証的に観測された世界。    これでは、 感性教育の革新性の前に、 私自身が過去の超一流の精神の世界の人たちのことを知らないことになります。 おそらくオイミュトリーも 私の方が理解できなかっただけでしょう。 動き自体は、もう憶えていなくても(すっかり関心がさめてしまったので、記憶には残らなくなってしまった)、それにも関わらす、 そうか そういうことだったのか、というような  その動きのコミュニケーション性のようなものはわかる気がしてきましたけどね。  でもやっぱりはっきりと解かるような動きの世界ではないです。 あくまで 幽玄のほうが私にとってはるかに解かりやすい動きですし、奥は深いと思えてしまいます。     もし、色鉛筆の この実証?の世界が本当ならば、 けれど、これもさらに深い世界なのかもしれません? こうなると、ヨガでは単なる方便だと思っていたアストラル体の話も彼の説の中では真実味があるのではとも思えてきます。 21歳まではアストラル体という ヨガでは言わないかなり概念の違うアストラル体についての話です。 また、彼の農業や医学についての見解とかも その後の関連の社会活動とかも すべて無視できなくなってきます。 いずれにせよ、 悟った人とか神秘主義の人の絵を墨絵の白隠以外見ていません。  白隠の場合は 墨絵ですからタッチではないので、私には最初から判断不能な世界ですが、これも結局 感性教育の改革だなんて言いながら、  ただ単に何も 気がついていないだけなのかもしれません。 シュタイナーはキッカケにすぎず、そのへんすべてに、今自信を失ってもいます。 他の人は解かるのでしょうか? 超一流ならば、やっぱり過去や今もそして未来も そこから究極まで見通せるのでしょうか? 書く資格なんかないような人間からの回答だったかもしれませんが、 いままでのよしみで、 一番強く心にひっかかってしまったことを書いてみました。 せっかく意気込んでいた感性教育改革、 今ちょっと、いや、かなり、自信を失いかけてます。     これこそ、私たちの (あ)の道の現実なのかもしれないですけどね。   こうして誰もが反省しながら進んでいくしかないところなのかもしれないですけどね。 倒れて起き上がる人が強い、という言葉を聴いたことがありますが、 今の自分も そうあって欲しいと祈るばかりです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ひとに 《前史》や《本史》がありますか?  ★ シュタイナー  ☆ に関して ヰキぺディアの解説を読み 《シュタイナー研究室:http://www006.upp.so-net.ne.jp/ekorange/》というサイトを こちらは ちらっと 見ました。  全生涯をつうじて みづからの持ち前の能力を保ち 発揮しようとしたように まづは 思われます。結局は 中身ですが まだ 詳細をつかみ切れていません。  ちょっと見た限りでは まづ 重要なこととして 《教条主義、律法主義に陥らない》ようにと うたっているのですが そのあと 人智学の初めを読むと なにやら――わたしには――七面倒な倫理的な目標となるような境地が説明されていました。つまり いづれにしても《おしえ》ですね。  オイリュトミーや絵の方面は 分かりませんが 問題は こういう神秘思想にかんしては 一点に絞られるのではないでしょうか。重要な判断基準があるということです。例によって 聖書からですが 人びと一般に分からない言葉として《異言》があると言います。神秘思想の内容は そういう種類になるかと思うのです。それよりは わかるように解釈した《預言》を大事にせよと パウロは 言っています。  ▲ (コリント前書 14:1~&)~~~~~~~~~   ・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。  異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。  しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。  異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。  あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。  だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人智学というほどですから 理解できるように表現しているようですが まづは それこそ《感性》や 生活態度としての《境地》が 言葉で表現されていて その言葉が たぶん初めは 窮屈に感じられると思いますが どうでしょう?   どうなんでしょう。たとえば こういうことを思います。つまり 感性教育よりは 人間教育であり 人間教育よりは 話し合いであり 対話をとおして どれだけ心が通ったか その小さな分かり合いから 出発するというように考えるのですが? 単純にです。  おっしゃっていたように 《関係》の側面ですね。自分の存在のいま一つとしての側面 つまり社会的な《関係》という側面ですね。ここから 世界に広がるように思うんですけれど。

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