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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.4

★シュタイナーについては、URLでご紹介くださったところを読みました。 これですと、エーテル体とかアストラル体もヨガでのお話と変わりないですし、実証主義といっても「将来それは科学的にも立証されるであろう」ということで、なんらその方法についてさへ明言していたわけではなかったわけですね。  今回感性は 深く学ぶべき地点の人であることが私には解かりましたが、 premeapeさん式にですが、哲学に関してはこう言っておきたいです。 「のほほん村」の村長さんでも感性は健康でとても豊かでありえる点を 日本感性教育学会に入れたら その点も専門的に論議課題の一つとして取り上げる必要があることを 今回知りましたが、 急進的な私としては「のほほん村」自体は後回しにしておきたい。(ニセオコリザルより) * 吉本隆明さんという方は、全共闘世代の思想家のようですね。 でも、では計画経済の具体的ビジョンを何か掲げられていますか? 過去のそれでしたら権力欲という暗い部分もやむおえないなどという哲学が生まれてしまうのもやむおえないかもしれません。 でも、それなら、すでに過去形でしょ。 これだけ計画経済が大きく失敗したのに、巨大な改善案無しに共産主義を語るには「夢見る村」のお役人にでもなりたい人なのでしょうか? あるいは、高度資本主義についてでもいいです。 何か具体的な進展の方向を掲げられていますか?  総合的グローバル企業(この回答では 詳しい書き方をさけています。)が独占すれば、 競争という概念も競争の自由と言う概念も資本主義社会から企業に関しては消えていってしまいますが、    それへの具体的第一歩さへ語らない段階で、その時が来たら人間が消滅するとか その先のビジョンは解からないだとか、これは そんな夢うつつの論議に思えてしまうことです。 その段階を 縁起がすべてわかったような段階とはとても思えませんし、(それに縁起というなら、それは人間には完全には読みきれない世界だと思います。)  《前史》、《後史》でくくれるようなほどの区切りの時とも思えません。 競争自体さへ無くなるわけではないですしね。 また逆にそのときまでに「競争」を「見つめる目」が誰においても完璧に育ってるなんてことも無いと思いますしね。 文字通りの「復活」は ここで論じるテーマではないでしょうが、 人間本性の復活、「見つめる目」の深まりと安定化も、つまりその面の<復活>も、経済のその変化とはま別の次元で変化進展してゆくと思います。 * わたしは、今は、資本主義の発展のことしか考えて無いですが、 たとえばその人たちは、 貧しい国の人たちの仮設住宅とかの材料の化学とかは、また食料の配布のためにコンビニやさらなる流通革命、あるいはドメステックのそうした国での進展状況をどのように考えているのでしょうか?  せめてそのへんだけでも語ってほしいですが。 * 対話も大切ですが、 そのへんの対話は ここでは難しいですね。

noname#80116
質問者

お礼

 ブルジョアの結婚は 実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えうるとすれば せいぜいで 共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代わりに 公認の 公然たる婦人の共有をとり入れようとするという非難ぐらいであろう。いづれにせよ 現在の生産諸関係の廃止とともに この関係から生ずる婦人の共有もまた すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。 (《共産党宣言》第二章 大内兵衛・向坂逸郎訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点 エンゲルスがさらに 次のように見通しを述べています。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。  だが 何が付け加わるだろうか。それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。  このような人びとが出てきたばあい 彼らは 今日の人間が彼らのなすべきことだと考えていることなど 意に介さないであろう。彼らは 彼ら自身の実践と それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。 (F.エンゲルス:家族・私有財産・国家の起源  第二章 家族) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たたき台には なりますでしょ?

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん 論点が定まって来て おもしろくなって来ましたね。ご回答をありがとうございます。  ★ シュタイナーについては・・・実証主義といっても「将来それは科学的にも立証されるであろう」ということ  ☆ なるほど。了解しました。長い目で見ることも大切です。  ★ 「のほほん村」  ☆ は 分かるような分からないような ですが これも 今後へと進めましょう。  ○ 吉本隆明については 趣旨説明として述べるべきことが まだ あったようです。と言っても それは わたしが もう二十年 へたすると三十年近く 故意に=つまり かれを棄てたかたちで 遠ざかっているということです。  きわめて魅力的な思索を残していて 大いにおそわったのですが 全体として ついて行けない / これは まちがっていると結論した結果です。《関係の絶対性》を言います。人について 独立存在であるほかに それと同時に 関係存在でもあると わたしが 自分の見解をつくったのは 影響されてのことです。南島(=沖縄)論で 外からやってきた種族が 土着の思想(宗教)を 自分のものとして――そして土地の人びとには むしろ 自分たちの持っていた宗教を 持たせるようにして―― とうとう 島全体を 乗っ取ったという理論についても 学びました。そこから ムライスムやスサノヲイスムを 立ち上げました。  でも 全体として かれの思想には ついていけない。というより どちらへも向かわない / 議論だけだと位置づけました。  ☆ コミュニスムに対する・考えうる批判を出しておられます。逆に ここでは かれらの側に わたしが まわって 応えてみましょう。と言っても もはや一点です。  吉本も言っているように 《人間の〈前史〉が終わるまでは そのあとの〈本史〉なり〈後史〉なりについては 分からない》という大前提に立ってですが 人間関係の中でも 男女関係が 《前史が終われば》変わると見ているようです。  まづ コミュニスム全般にかんして 次のようです。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・  共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。  この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。  ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。 (ドイツ・イデオロギー 古在由重訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あえて『共産党宣言』から引きましょう。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そして 共産主義者よ 君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう と全ブルジョア階級は いっせいにわれわれに向かって叫ぶ。  ブルジョアにとっては その妻は単なる生産用具に見える。だから 生産用具は共同に利用させるべきである と聞くと かれらは 当然 共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。  ここで問題にしているのは 単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ ということにはブルジョアは思いもおよばない。  何しても 共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわくわがブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は 婦人の共有をあらたにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。  わがブルジョアは かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても かれらは 自分たちの妻をたがいに誘惑して それを何よりの喜びとしている。

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