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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.5

>南島(沖縄)論<というのは、たしか以前そちらが質問していた内容と関わる問題ですよね。  忙しくて議論に参加できなかった時でしたが、チラッと目をとおした覚えがあります。 素朴な人の習慣の一つの例として興味を惹かれたからです。 分かち合いというのは人間本来の本質的な心理と関わるものだと思うからです。  うれしいことがあると、遠くの知人にまで知らせに駆けつけたりする心でもあるし、おいしいものがあると、他の人にも食べて欲しくなる心です。 でも、それをそのまま文明の社会での制度とかとして取り入れるのには、問題があるはずです。  心が素朴ではなくなっている問題です。  そのままでは制度は成り立つものであっても、心はついていけなくなる場合が出てきて  真心、あるいは自然は心が「分かち合いたい」からの行為なのかというあたりにウソが生まれ文明社会の人の心をより複雑にしてしまいます。 それで、簡単に回答とかに参加しても意味無いと思い時間が無い中で参加しなかったのだと思うのですが、はっきり憶えていません。  * 性の問題、あるいは男女関係の問題は、すでに頭を使う人の間、あるいは文明の社会にて、めちゃくちゃ複雑な問題となっているようですね^^。 笑い事にも思えてしまうところ、笑い事なんかじゃない問題でもあるのですよね。 しかし、その超一流?とか超一流に関わる知性の人たちが、そちらのご紹介くださった文章にみられるような混乱をおこしてるのだとすれば、 これはどう言ったらいい問題か、考えあぐねてしまいます。 昔、支配階級が反抗を抑えるためにセックスを奨励したとかとか、そういう話を聞いたりしますが、 そんな類の論議に 超一流でなくても一流と言えそうな人たちもひっかかっていたのでしょうか? 感性教育も始まったばかり?(まだその内容には疑問があったりもしますが)のようですが、 やはりこここそ、感性教育が基礎から必要なところなのだと思います。 この問題が ここでの対話のたたき台になることは確かだと思います。 でも、この人たちの論議とあまりつきあいたい気持ちは起こりません。 エンゲルスという人は たしかエンゲル係数とかを語った人ですよね。 数字で消費を計算する一つの単純な数式を提示した人ですよね。 エンゲルスの書いた文ということで紹介してくださった文ですが、 最後の>それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。< という「第二章家族」とかのまとめは、 「それで、家族関係はおしまいだ。」という意味合いのものでしょうか?    よくはわかりませんが 前段の文からすればそのように読めますよね。 でも、これは感性が発達して正常な成熟をした男女ならば いつの時代にても権力関係や楽な生活とかとは別の惹かれ方をする問題ですし、かつほんとうに成熟したら、欲望とかも大きくなる(快も深くなるのですからあたりまえですが)と同時に 欲望のコントロール力もそれ以上に無理なく大きくなるので、 結局は一夫一婦制は、制度以前の重みを回復するだけの話です。 未熟な間は 恋愛は巨大な感性教育の力となる世界です。 その巨大とさへ言える価値へのチャンスです。 でも 成熟すればその必要もなくなります。   すべての人が 一夫一婦制の中でも 素朴な時代にそうであったように、いや現代ではさらにゆるぎない確信を持って愛し合え、かつお互いが力となりあえるはずなのです。 男女関係の中には、そのような大きなチャンスがさまざまな色合いで文明の中にも存在してると思います。 おそらくブルジョアという言葉の中での男女関係も 知的なだけの人たちには 家族とは利益共同体というイメージとしてのみ写っていたのだと思います。  自分達家族の私有財産を守ること、それが肉感的な愛情だ、という感覚です。 そういうふうな家族は、  >その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代< つまり共産主義のん時代がやってくれば、 終わりを告げる ということなら 文章は通じますが、 その時代以前にも 正常な男女関係にては そういうセックス関係は終わっているわけですし、  もしこれが フリーセックスの関係を暗示してるならば、フリーセックスが自然な開放された心の帰結だという反欠けのイメージのせいにすぎないことだと思いますよ。 逆に言えば、 ちゃんとした共産主義が来ても そのような男女関係の健康な回復にすぐにつながったりするようなことはありえないということです。 >男女関係が 《前史が終われば》変わると見ているようです。< というふうに 日本の思想(?)が思っているのであれば、 考えが浅いというより おそらく未熟なままでの知性だけ進んでいっての帰結だったりする世界なのかと思います。 * しかしながら、 この家族の正常な肉感的な愛情につながる論議は、これからの資本主義にとっても 大きな力となる世界ですし、また 出きるならば思想家達が真剣に話し合えればなあと思ってしまう問題のひとつです。 というよりも、  私は実は 総合哲学さへあるならば、総合的な事業は今のビジネスをはるかに越えた力を持つと考えていますので、 生物学の「複雑系の科学」ではないですが、 そういう哲学をまがりなりにも持っているだけで私自身、 競争に勝つビジネス案ならいくらでも総合的な地点からですけど持ち合わせてもいるのです。  ちょっと考えただけでも 事業領域とかをマトリックスにして縦横からアイディアのひねり出すなどといった単純な作業とかよりも はるかに多くのまったく新しい事業案はつぎつぎと生まれていくようなものです。   これは私にその能力があるというのではなくて、 総合的にすべてを考えようとするとそうなるということです。 が それを具体的に 今後のその商品の見通しとして語ったら、 利己的な段階の人も それを応用してしまうわけです。   ですので、そういったことは 公の対話では語りえません。    それなりに、若い有能な人達へのヒントとかは書けたりしてもです。 でも、 今物事を総合的に考える力が無いのは、一つには感性の部分の進化が遅れていて、物事を総合的に考えているようでもその部分がぬけているからだと思うのですが、     その面からも この男女関係の議論は意味ありますし、   なによりも 成熟した もはや嫉妬とかいった雑念のない男女関係は、何よりも、個人的は利益よりも 人間の利益を優先する資本主義への道を大きく開きます。  またその知恵自体も そういう人たちからは膨らんでゆきます。 会社には理念が必要だと言いますけど、 今のままでは簡単に言えば「ごまかし」です。  理念などなくても 社員を情熱でまとめることができれば同じようなものです。 ある意味「理念」はいらないと思う。 競争でいいんです。  でも大きな正常な総合的な成熟した男女の会社には、やがて誰も勝てなくなるんじゃないですか。 企業競争の終焉ならば やがて、その向こうにはやってくると思います。 その闘いの向こうにはです。  けだし何もしなければ、たしかに怖い世の中のようです。 どこへ向かっているのか ?  奈落の底なのだろう? 怖いいいいいいいいいいいいい? ナあああああああ! ああああ!(シュールレアリスムより^^)。

noname#80116
質問者

お礼

 社会的な支配関係 これが――情報公開の問題ともからんで―― どうなるのか。競争の行方と同じように やがて どこかで 支配関係が この場合は ひっくり返ると言うよりは もはや 消えていくでしょうか。権力闘争(競争)も 行き着くところまで行って 勝ち負けがなくなり そうすると 指導者・責任者は 支配関係から出るのではなく 従って 単純な《当番制》へと 移行していく という方程式を描くことが出来るでしょうか。  わたしは 自分が 信仰を持っているから言うのではなく そうではなく 信仰や神という言葉を出さずに どこかで 社会全体として 何かの変革が起こるような気がしています。  かつては いったい 何だったんだと言って 振り返るような回転が 起きるかに思います。これ以上は 分からないだけではなく 憶測で言うことの物足りなさがあります。また 聞く人に 失礼になります。言ってしまいましたが。  こんなかたちです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回のご回答としては 感性教育の前途は別とすれば わたしにとっては 総じて まだ 満足できないですね。  社会主義者エンゲルス――ちなみに エンゲル係数のエンゲルとは 別人ですよ――も けっこう いいことも言っていると思います。  性を経済とからませることのない社会が来ると言うのですから。  ▲ 婦人の共有  ☆ などという物騒なことについては かつて わたしは  ○ 霊的な婦人の共有  ☆ と言ってみたことがありました。これは 女性差別になるのかどうかも 分からないのですが もし 或る程度 あたかも寅さんのように――ほんとかどうか知りませんが―― 女性の気持ちをやさしく包むことが 社会的な自発的な務めとして あるとすれば そういう表現になるかも知れないと思ったまでですが。  問題は 《いまのままの人間・今までの人間》が そのまま 未来社会において 男女の おそらくふつうの関係を実現することができるか だと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、これは感性が発達して正常な成熟をした男女ならば いつの時代にても権力関係や楽な生活とかとは別の惹かれ方をする問題ですし、かつほんとうに成熟したら、欲望とかも大きくなる(快も深くなるのですからあたりまえですが)と同時に 欲望のコントロール力もそれ以上に無理なく大きくなるので、 結局は一夫一婦制は、制度以前の重みを回復するだけの話です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは 素直に そのまま 新しい人間関係へ入っていけるとおっしゃっています。このとき 上の  ○ 霊的な婦人の共有 と言うよりは 霊的な人間どうしの関係  ☆ も 同時に 伴なって実現すると見ますか?  いまのところ わたしは 基本的に言って なにか どこかで どんでん返しのような革命が起こるような気がしています。政治革命でもなければ 必ずしも経済制度の革命でもなく 人間じたいが 旧い人から新しい人へ 変えられることだとは 予想しています。  エンゲルスが  ▲ それでおしまいだ。  ☆ と言っているのは 資本主義的な人間関係だと思うのですが かれらは まづ 政治経済革命を経て 社会主義的な生産様式へ移行するにつれ そうなると言うはづです。これには もうこだわらなくてもよいと考えますが たとえば いくらかわたしが arayata333さんよりも悲観的なのは これだけ豊かになった段階で 《衣食足って礼節を知る》というようにはならなかったからです。  もっとも  ★ しかしながら、 この家族の正常な肉感的な愛情につながる論議は、これからの資本主義にとっても 大きな力となる世界ですし、また 出きるならば思想家達が真剣に話し合えればなあと思ってしまう問題のひとつです。  ☆ というように この主題を さらにこれからの課題として位置づけてもおられますので 将来へ向けて やはり井戸端会議を推し進めて行ってもよいと思いました。  ★ 総合哲学とそれの事業への応用  ☆ ともども そしてあらためて 感性教育ともども 課題となっていくのでしょう。  ★ ある意味「理念」はいらないと思う。 競争でいいんです。  でも大きな正常な総合的な成熟した男女の会社には、やがて誰も勝てなくなるんじゃないですか。  ☆ というふうに ちらっと 述べておられるのですが 今回 いまひとつ はっきりしなかった嫌いも残りました。  つまり 人間とその歴史にとって 《前史から後史へ》などという見方をする必要はないのかどうかに関してです。《競争》については いまの競争方式を そのまま つづけていけば どこかで 要らない会社は 立ち行かなくなり 要らない競争は なくなっていく。そのようなどんでん返しが やってくるという見方でしょうか。

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