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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.7

前々回の回答に、自ら反省するべきことを感じたのは、その回答の非対話性のあたりです。   空回りしてるのではないかと感じたのです。 でも それがなんであるか解からず、急遽追加補足文を書くこととなったという感じです。 * 私自身が、 美人とブスとの間に差を感じる必要性を完全に卒業して、やっと男女関係の正常な出発点に立てたのは、なんとかなり遅く、59歳になってからです。  もちろん、これではまだよちよち歩きでもあるでしょう。 よく考えてみれば、それ以前は、そんなにも長い間、私自身が(結婚していませんが)もし、結婚をしていたらそこに女性の所有感を完全に克服していたなどとは言えないこととなります。 対等な人間としてもお付き合いしつつ、でも心の奥ではその関係にとらわれていたはずだと思うわけです。 それはたしかに 歳とともにその所有感とやらは薄らいでいたでしょうし、わたしが結婚していたら、もしかしたらですが、もっと早くその地点は卒業できていたかもしれませんが、  いずれにしても、ここに思い出すのは次の 私自身の若い頃の汚点です。 たしかに恋愛も経験していたので、その中ではセックスは純粋な心としてのみ経験したわけですから、それにおぼれてる状態の中にては美人もブスも関係なかったとも言えます。 しかし、それ以外の女性はやはり美人でないと、女性として感じられず、その恋愛経験がゆえに、逆に女性として感じることができない女性とはセックス関係に入ってはいけないという観念を持ってしまっていたことは事実です。 しかし、 そのおかげで、実際に私は、ある女性の心を大きく傷つけてしまうことにもなったのです。 それをブルジョアの女性所有感、あるいはそういう感じの無意識界というふうに、コミュニスト達は考えたのでしょうか。 ブルジョアは 女性所有の選択肢を持っている関係でもある、 といったふにです。 家族とは、家族自体が大切というのではなくて、そのとき、そのぶん、意識すると否とを問わず、 会社や家族という所有権を保証してくれる資本主義を守る生殖という生産手段としてそのブルジョアの心に映っているはずだという論理があったということでしょうか? ブルジョアの心と言えば、資産をコントロールもして私有財産を守り増やし それが社会的不平等を生み出しても省みず、家族を守るという大義名分のために鬼となる心というふうにも そのへんの思索の幅を広げることが出来たりするかとおもいますが、  コミュニストの論述は、そのへんの関係が共産主義となれば終わるので、 それによって家族制度はともあれ、男女関係のお互いの関係性が一気に変わっていくはずだ、という論議なのでしょうか? わたしは、現在の私たちの間でさまざまな男女関係の問題が起き、未熟さがはびこっていたりするのは あくまで文明病とその克服の過程(の困難さ)の問題だと考えている者なのです。 その観点から考えるならば、共産主義が仮にいきなりやってきたとして、変わる可能性があるのは、むしろ家族制度の方かと思います。 心自体がそれほど大きく変化するとは思えません。  共同体の中で心通う男女たち、愛称のあう男女たちが いままでの一夫一婦制の枠を越えて肉体関係も持ち、共同体メンバーはその男女関係によってかなり規定されて変化しつつ、あらたな構成員に常に生まれ変わりつつ(変わりつつ変わりつつ)存続していく形で、 子供たちのいままでの親に当たる人たちは、必ずしも自分の親だけでなく共同体の大人たち全員だ、というような関係の制度化です。 結婚式とかはなくなるわけです。婚姻届とかもたぶん無くなるかと思います。 大人も子供もより さまざまな性格の人と交わり、より多くのコミュニケーション力をみがき、 こうしてそのまま自然にても、今までの家族の問題もなくなり、より豊かな文化の原点としての第一次共同体が生まれることになる とう考えです。 おそらく、 もしかしたら そんなふうになるかもしれないし、 それはその時が来てみないと解からないけれど、 ともかくきっと所有関係が終われば男女関係は大きく変わっていくだろう。 というのが《「共産党宣言」》とかでの見解だという感じでとらえていいのでしょうか? 新たに自分自身の過去の女性観とかを振り返ってみたりして、考えてみましたが、 実はそのへんのそちらの文は 無学と読解力の限界で読み取れていなかったところだったのです。 おおよそは、こんな感じで受け取ってよろしいでしょうか?(すでに、自分の意見も混ざっていますが) * もし、そのようなことだとすると、 やはり、制度によって、男女関係の心自体が大きく変化するということは私の考えではあまり考えられません。 今までの家族に変わる共同体が生まれて、たしかに新たな支配関係やその心がその真集団に生まれる可能性は 極端に少なくなるでしょうけど、それが人間の心に 支配欲とか権力欲とかがいきなり無くなる大きな因になることだとは 思えません。 また、そういった変化を予測するのは、むしろ混乱を招くだけだと思います。 たとえば、家族制度はそのままでも、私有財産の心自体を感性の成熟で克服していれば、人の心はそのために不平等の大義名分を持つことも無くなるわけですし、  肉感的愛情自体が成熟すれば、そこからはあらゆる創造意志がみなぎるでしょうから、 家族を超えた付き合いは、子供たちも巻き込んでどんどん豊かになってゆくでしょう。    そうすると、 では、この男女関係の問題で重要なのは何かということは、 遠い未来や 巨大の制度の改革(共産主義)以前の、 現体制内にての、その中での資本主義の理想的な発展の力としての、男女を中心とした愛情の問題ということになるかと思います。 情報化社会には、その力は巨大になる可能性を秘めているというのが私の考えの中にあります。 * ここで、かの「のほほん村」の先生の お話の中にて、 自我の真の確立と男女関係がほのめかされてる部分も、 たぶん、同じことをやはり神秘主義からのメッセージとして語っているのではないかと思われる部分があったことを思い出します。 「のほほん村」というのは、この存在から苦という存在を無くす切実さ(あるいは福祉の面の切実さ)に欠けている欠点を彼らが持っているという批判を オコリザル風に言ってみた形ですが、要は、詳しくは略しています。 欠点は、それがなんであれ、長所の中に封じ込めてできる限りはそのようにして語りたいところだからです。 彼らは 彼らの立場を きちっと誇示しつつ(方便も交えつつ)、ほんとうは、男女関係についても、感性的にしっかりとした考えを持っていたとう長所の部分がそこに見られるということです。 * bragelone様の言われる「霊的な婦人の共有」という言葉は さらに深いと思います。 信じてるから考えることはおこがましいという智や知の盲目状態を作ってしまったような信仰の世界とは逆に、 信じてるからこそどもまでも疑うことさへ出きるという純粋で知的な立場にたっておられるbragelone様のような「信仰」の世界からは、 それが他の人がそうであっても、そのような深さが生まれてくる客観的地点なのかもしれません。 私が 59歳のあたりを堺に、 感じるようになった少しも分け隔ての無い男女愛の世界は、 東洋医学の発祥の元、医学のふるさとの心とも言われる仁の心を生み出した人たちの発見した気脈の世界を知ることからやってきています。 それ以前の私の 女性観はまだ 恋愛時点でのそれにおぼれた感覚の方がまだ真実味のある世界だったとも言えます。 でも今の私なら、そのへん寅さんにも負けない^^かもしれません。 その感覚は、 では どういったものかというと、 魂の感覚を知るという感じもものでもあるのです。  言葉で言うとそういうふうにも言えます。 「霊的な愛情」あるいは>霊的な婦人の共有<という言葉の「霊的な」と言う言葉のあたりが、幻想的なといった意味とは逆の《知的な認識での「魂」》という言葉の世界をとらえたものであるならば、   これは同じ 仁のふるさとの世界でもあると思います。 神様からの贈り物としての生物でもあり人間でもある存在の、全存在をやさしく抱きしめる世界です。 仁という言葉には、神も セックスも出てはこないわけですが、 肉感的愛情という点においては、ここで通じる世界だと思います。 * 「のほほん村」の村長であり教育長でもあるシュタイナーも、 方便はいろいろ交えつつも そのような男女の肉体関係の健康な発展は、のほほんとした表現ながら暗に語っているわけですし、 では、そのへん、すこしでも早く、無策の日本が(すみません、無策じゃなかったですね一策さくでしたね。  急進的皮肉氏より。)大変なことにならないうちに、  では、まず日本はそのへんどうすべきなのかということに 回答の筆を進めていってよろしいでしょうか?  *    今度は  対話の空回りは かなり克服されてると思うのですが。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  arayata333さん 今回は わたしも思案に思案を重ねている主題ですので arayata333さんにも さらに 考察をつづけていただこうと 勝手に 思いました。たたき台を述べ続けるかたちになります。  まづ 《共産党宣言》が そんなに 決して みだらなことを想定しているのではないことを 示す文章を 引用のみしておきます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。  だから どの程度まで人間の自然的態度(* 自然児スサノヲの人間語)が人間的(* 品格を重んじるアマテラス人格語 もしくは スサノヲ=アマテラス統合語)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。 (マルクス:経済学・哲学草稿  第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム 城塚登訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 《霊的な婦人の共有》ないし《人間の 自然的・感性的かつ人間的な 社会関係》のことを言っていると見てよいと思います。《感性が人格を形成する核である》とさえ言っているようですよ。  ☆ かえって 聖書にも 女性蔑視の文章があると しばしば 指摘され批難されている箇所をめぐって アウグスティヌスは 次のように論じています。男の側からの見方が現われていて 擁護しがたいかも知れません。考察を加えていくべき主題だと考えます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~        男が神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽     いをかぶってはならない。しかし 女は 男の栄光である。     (パウロ:コリント前書2:7)   ・・・男は神の似像であり したがって 女には被るように勧めるその蔽いを 頭から 取り去るように〔使徒=パウロは〕語っている・・・。  精神は 永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は 頭に蔽いを被ってはならないのである。  しかし 物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは 危険である。だから それは 頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を 持たなければならない。  ・・・神は 時間によって 見たまうのではない。また 或るものが 時間的・暫定的に生じるとき 動物や人間の内的な感覚 また天使たちの天的な感覚さえも 影響されるのであるが そのように神の直視と知においては 新しいものが 生起するのではない。  ・・・  それでは 信仰篤い婦人は 身体の性を失ったのであろうか。  そうではない。かれら(かのじょら)は 神の似像――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない――によって 言い換えるとその精神の霊において人間が造られたのである。  それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。  女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性の(*――理性の である――)あの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神が その部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は 留まらない。この精神は 男のみならず 女も持つことは 明らかである。  だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論12・7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《理性のあの部分》については 直接の解説はありません。《経験的な あるいは むしろ 経済的な ものごとを管理する知恵のはたらき》のようなことでしょうか。    要するに けっきょくは 未来社会における人間の人間との関係を 変なことばですが 先取りして 考えてみておこうという課題ですね。男と女との関係を 捉えられれば――マルクスではありませんが―― 人間と人間との交通関係が 分かるようになるかも知れません。

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