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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.8

南島(沖縄)の漁村から生まれた分かち合いの 素朴な姿というのは、文明以前や文明の始まった頃には、人間の世界ではほとんど似たような姿がみられていたようです。 動物は 高度なチンパンジーやゴリラにいたるまで、食べ物を分かち合って食べるという行為は、 本能が故の社会集団の仲間うちでさへ行われなかったと聞いています。  類人猿研究家のような方が言われることですから間違いないでしょう。 (本能としての家族行動のことではありません。動物も親は兄弟達には平等に分配する知性があったりしたと思います。彼らにとって集団も本能の内ということを考えるとわたしには疑問も出てくるのですが?) それが、人間社会が生まれたとたん、狩の場では男が主に狩をして得た獲物は女性や子供たちや老人達に平等に分配されたということです。 性も 同じ分かち合いの感覚とともにあったわけですが、 これが「自然本性」の場では、  快楽はみんなでというフリーセックスになったわけでは無いということです。 自然にも最初から一夫一婦制(制度としては最初は無かったと思いますが)だったわけです。 それをむしろなんらかの素朴な宗教であれ抑圧が始まった後に、原始的はハーレムの習慣を持つ民族とかも生まれたのだと私は推測しています。 それは、なぜかというと、動物の脳が人間の脳に進化したとき、何が一番変わったのかというと、それが「自他を見つめる」能力だったからです。 だから いきなり目と目をみつめあい、笑いかけあえるユトリを脳が得たと言うことなんです。 ここでは反省の能力とか自由意志の能力とかについての論議は進めませんが、 ともかくその同じ変化がすべてをもたらしたわけです。 本能も欲望も 五感すべても、自然に人間としての出会えた喜びやリスペクトの中で    たぶん ごくふつうに、     「見つめる」ことができたと思います。 言葉以前には、特に、 赤ちゃんみたいに くったくない感性のままにても、 やがて大人になれば、その生活の全体を「見つめる」ことができたと思います。 すると、これは ごく普通の生物としての、家族関係を 性の分かちあいのためにわざわざ壊すという考えが、そこから生まれたとは考えられないという推理です。 一夫一婦という家族形態は、もともとは自然な帰結だったと思います。 * そのへんの 歴史とかをマルクスがどこまで 調べたり、推理を働かせたり、研究し考えたかは知りませんが、  食べ物だけでなく 生産物すべての分かち合いを考えた学者が、 自然な男女関係が、私有財産のような 利己心からではなく、人間関係の自然な帰結であるような関係として「見つめられていた」と気がつくのも 納得できそうです。 * 吉本隆明氏の言われる「関係の絶対性」と言う言葉も、 自然な関係の絶対性という感じもものであるとすれば、 言いたいことは解かる気がします。 でも、もともとは、おそらく弧も関係も両方とも あたりまえに「見つめる」ことができていたのだと、私は思うのです。 けして 家族どおし、別々な存在になってしまうということなど、全く無しにです。 コミュニストとして、私有財産制への反旗を翻す必要から おそらく同じことを「関係の絶対性」という言葉で表現したのだとおもうのです。 権力関係の絶対性とかではなくて、 やはり、もともとの自然な人間関係の絶対性を 心に深く希求した人なのでしょう。 個々の命が、そのままで深く尊敬されるべき 尊い存在だと言う意味での「弧」とか「個」の否定ということなのではなくて、 その自然なもともとの関係性に、立ち帰れば、 関係から「個」は自然に大切にされるし、 そこには不自然な ごますりの笑顔とかの不純な尊敬の姿とかも消えるといったことが言いたかったのかと思います。 しかし、そうだとすれば、気持ちはわかりますけれども、  私有財産制が無くなれば、いきなりその 本来の性が復活したり、本来の人間性が戻ってきたりするというのは ?  その辺が「夢見村」という感じだということです。 * つまり、やはり、まず先に、制度としては私有財産のあるうちにも、 性の問題を解決することのほうが先決だという考えであることです。 そのへんは、いろいろ考えてみましたが、私の場合、変わりそうにありません。 * シュタイナーについても、一言また触れておけば、 もしかしたらですが、このへんについては急進的でありたかった人なのだと思います。 むしろ、その時代に急進的であろうとしすぎた人というふうに考えると正しい全体像が見えてくるのかもしれません。 * アウグスティヌスという方の 性についての模索は現代にてもそのまま充分考察にあたいするものなのだろうと感じました。 しかし、 ここは、先に現代において性とは何かという問題を、彼抜きに考えておくべきなのではと 私には思えたところです。 真の神話の世界の帰結は、もしかしたらその近代人の発言のあたりにあるのかもしれません。 最初の近代人のその苦悩と告白の思索に すでに答えもあるのかもしれません。 でも、それをさぐるためにも、 私たち自身が、もう一度はっきりと性の問題と取組む姿勢を持つべきところかと思うというのが、 私の考えなのですが。 * 食べ物の味わいを現す言葉として、とろりとした味とかとかの表現を日本人は他の国の言語よりも、はるかに多く持っていると聞いています。 また身体の部位を使って 精神的な意味合いを表す言葉もこれは日本のみの文化と言えてしまいそうな深みと広がりを持って日本には存在します。 ひざを突き合わせて語る。とか 手まめ、足まめ、とかなかなか骨のある人だとか、  これ自体が外国にはほとんど無いところ、あっても意味は浅いところ、なんと、さがぜば何百と そういう言葉がある国が日本なんです。 これを私はですが「肌文化の国」と呼んでいます。  お体を大切に という挨拶の国にふさわしい文化とも言えるかと思います。 医学のふるさとである仁の思想は、薬草のとれない北方の広大なきびしい大地に生まれ、 友として、おそらく最初はなんとか苦しみをなんとかしたいだけで肌をさすってただけだと思うのです。 そのへんの私の中に働いてしまう想像力の世界とか、推理とかは ここでは略しますが、 結果として残り記録されたのは、経絡の医学の世界だったわけです。 でも、医学そのものが仁であるわけではないじゃないですか。 もともとの仁は、上下関係、支配関係、ビジネス関係、すべていっさいなしの、いたわりのあたりまえの人間関係だと思います。 この経絡の世界の、気脈の世界は、わかりにくいとは思いますが 書けばともかく肌上のつぼの位置の流れの世界です。  つぼ自体が、現代にてどれだけ現代医学のこれからと関係するのかについては、私はなんら専門ではありません。  しかし、私はこれが もともとの仁の感性とつながっていることは解かりますし、 それは、「肌文化」の日本人の仕事と考えます。     感性と気脈のつながりを研究するのは 発祥の国である中国より以上に日本にこそその責務があると考えているのです。 話がそれてしまったようにも思われるかもしれませんが、 わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。 日本感性教育学会でも、気の世界と感性との関係は研究課題の一つとなっているようなのですが、 くわしいことはまだ解かりません。  気といっも、“中途半端に医療とむすびついたりする怪しげだったり、もじ通り中途半端立ったりする”世界もありますし、 気にかかるところです。 * 究極的には、こうして私の場合、性の問題は59歳あたりの時に仁の世界と重なったわけですが(さまざまな解決してなかった性の問題がこれで卒業できました。 それもまたあらたな出発地点にすぎないことなのですが) そこから考えると、 逆に恋愛はもちろん、フリーセックスの世界とか新たなセックス共同体とか、その他の火遊びとか言われてる世界も、要はきちっとした、成熟への過程としてみとめ、安全に責任を持って指導できるような遊びの広場として開放できるはずだという考えが生まれます。 そして、「みだらな」とか「いやらしい」とか「不浄」とか言う言葉も、しっかりした信頼の出きるそのシステムの中では、やがてその心ともとに消えてゆくと私には思えます。 おおらかな優しさと尊敬の息吹のみが その「みだなら」「いやらしい」「不浄」の心の変わりに 徐々にかもしれなくても広がってゆくと思います。 (逆に、日本人の特性でもあるような言葉や心の文化も、このままでは消えていってしまうと思います。 …。 だから私はあせっているのだと思います。 だからせめて急進的?になるのかもしれません。) ここで、その実現への道をどこまで論議したり出きるのかはともかく、 おそらく吉本隆明氏は「関係性」と言うことの中に、そのような「関係性」の世界を求めていたのではないでしょか?

noname#80116
質問者

お礼

 ここで 訂正があります。  趣旨説明で  ▲ 《吉本隆明と江藤淳の対談:文学と思想――『文芸』1966・1》=A とした出所は 勘違いで 次が 正しいのでした。お詫びします。  ▲ 《吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点――『文芸』1970・8》(『江藤淳著作集 続5』1973所収)=B  そうして 他の引用について 明らかにしておきます。    No.2補足欄―― B    No.3補足欄―― A  このようですので よろしくお願いいたしたいと存じます。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。正直申せば こういうご回答を かなり わたしは 待ちましたね。一たん ご自分はキリスト者ではないかとおっしゃった時点で 同感し 共鳴していましたが その後は いくらか 揺らいでおられました。(どうも わたしは あけすけで いけませんが 乗りかかった船です)。今回 まづは 錨を降ろして 帰港されたのではないでしょうか。  えらそうに言ってすみませんなのですが 全体として 共感しました。  わたしへの批判 アウグスティヌスを出してくる旧いわたしへの批判も 大いに 出していただくこととして 今回について あえて いくらかでも違和感があったと思われる所は 次の二箇所です。  ★ わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。  ☆ シュタイナーのサイトで  ▲ ここで人智学を学ぶものにとって気をつけなければならない一つは教条主義、律法主義に陥らないことであると私は思う。  ☆ と言っていたことを No.1補足欄でわたしは触れたのですが その重要性は 日頃 思っていることなのです。  ★ 仁  ☆ に何の抵抗も反対もないのですが その主張が つねに 《おしえ》になって出されると 《教条主義・あるいは 〈仏性〉なり〈悟り〉なりの標語主義》となってしまうように感じています。その意味は  ○ 愛 だとか 自然本性の回復 だとか  ☆ のように 標語としては 漠然とした言葉のほうが(つまりは なるべく道徳から離れていて その規範化し難いような)言葉のほうが ましだと思っております。《仁》は 広い内容を持つとすれば よいかも知れませんが すでに《倫理規範化》した歴史もあると見られます。つまりは たとえば《〈自然本性〉と言っても 昔は〈仁〉という概念で捉えた思想もあったんだよ》といったふうに 持ち出してくるのは どうでしょう? とは言うものの 《愛》も すでに 手垢がついているかも知れませんね。  ▲ 「関係の絶対性」  ☆ この概念は 何せ 昔のことですから 今ではもう 歪曲して解釈しているかも知れませんが 要するに  ★  《絶対個 であって関係がある。》  ☆ とおっしゃる意味だと取っています。つまり 《関係性》というからには 関係しあう存在がいるということです。もし解釈がちがっていたとしても もうそのことには触れないことにします。つまり しかるべきときには 別の課題として取り上げることにしましょう。  というのも 吉本のばあい 取り扱いにくいのは 《絶対の反体制》を標榜するからです。《ただ単に〈資本主義体制への反対〉として 〈私有財産制への反旗を翻す〉》のとは 違うという論陣は 張っていると思います。《反旗》には じつに 《仁》や《自然本性》とも書いてあると言いかえすと思いますよ。手ごわい相手ですよ。  すなわち  ★ おそらく吉本隆明氏は「関係性」と言うことの中に、そのような「関係性」の世界を求めていたのではないでしょか?  ☆ と その概念の発展性において おっしゃるとおりなのですが まったくそのとおりなのですが そのことの中身は もう少し複雑です。つまり 趣旨説明に掲げたように 《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》と見ていることも 重要だろうと思われることです。  むろん ここは arayata333さんと 論点を形成するところなのです。わたしも その点では 《屈折 ないし 変容》が どこかで 起こるのではないかと見ている口です。存在じたいの革命が 起こって 前史を閉じ あらためて 後史なら後史に入るのではないかという推測です。  応答が適切に出来ていないようですが とりあえず このようにお返しすることに致します。

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