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吉本隆明の思想について

arayata333の回答

回答No.15

「現代の黙示録」へのそちらの回答(No1)も読ませていただきました。 仏教における“「無限の感性」の世界への謙虚さ”についてですが、それしか言葉では語れていないのに、その奥の世界を絶対視している曖昧さの問題は確かにあると私もあらためて理解しました。 しかし、現実に 仏教もキリスト教も教え(道徳)の文化として巨大な師弟システムの内に存在してしまっていることを考えると、 ぶっちゃけた話ですが、 キリスト者と名のる者が 仏教を批判する形の中では、その肝心の《絶対》への正しい理解の前に、感情的な壁が生まれて 其の理解はかえって遅くなるということも  私はですが考えてしまいます。 純粋な哲学者と、 其の土台は大切にしていても表現者であることに使命を感じる者との違いが その文に現れてしまう現象自体はか仮に越えられないものだとするならば、  そちらの理論の正しさを理解する私のような表現者の役割はなおのこと大きいのかもしれません。 「絶対」という言葉自体が 悲惨な歴史を生んできてしまった人間の弱さを 同じ言葉を使って変えようとしても、 それが本来“そうとうに大きく必要な観点”であっても そのままでは実情にあわないものとなってしまうと思うからです。 *、 個人の感情を越えた地点でも、宗教戦争のような世界をふくめたひどい争いを早く無くしたいという意志が働く者です。 ほんとうに《絶対》ということを理解できる人が増えれば、 相対にすぎない世界の言葉争いの世界は無くなるわけですが、  これこそ、あらゆる組織に寄り添ってこそ其の理解をさそってゆけるもの とも考えます。 あくまで 哲学の論理の世界がしっかりしたものであることは前提の上でのことです。 * 同じ音楽を聴くにも、大自然と個との関りや、人間との関りの場によって聴きかたの深さが違ってきます。 そのへんの教育体制を根っこから変えてしまうというのが 私の中に芽生えたユートピアです。 まず、大きく言えば、知育自体が感性教育をじゃまするという考えは無く、知育もまた幼児教育において 早期の段階に(頭の柔らかいうちに)基礎教育を終えることに反対ではないです。 ただ、それが受験戦争とかいう競争に知育が巻き込まれるのを避けるべきだという点は 絶対条件とした上でのことです。 競争は遊びの中でこそ習得すべきであり、格闘技やスポーツのよりいっそうの振興をもむしろ幼児の頃から必須とする考えも裏にあったりします。 この裏の考えは、ここでは略しておいて先を進めますが、 其の知育については、  特に理数系が充実すればいいと考えているのです。 それに特化するかわりに、実はそれはPCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。  というのがまず第一点の 巨大教育改革の目玉となります。 簡単に言うと、 世界一の教師のモデリングをロボットとPCにやらせるということです。  詳しくは略しますが、 そのロボットや 有効画面は大量生産が出きるのですからね。    あるいは 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく ということでもかまわないわけです。(ここは そのための具体案というのではなくて、 そのような考え方として理解してください。) そうすると、いわゆる学力の世界に大勢の児童がそれこそ ほんとうの「ゆとり」を手に入れる形となります。( それ抜きの「ゆとり教育」が、しかも受験体制はそのままに行われても効果が無かったりするのは当たり前の話です。というより それは最初から矛盾しています。) これにより、次の段では 急ぎ学校の死と再生^^が行われます(笑)。 学校という名前が無くなって 遊校となってしまうということです。 学び舎は、人生全体となります。 学校は遊校化していきます。 遊びの深い理解者が よき教師として採用されることになります。 上述の第一の改革にも それをネットコミュニティの力でやってゆくことにいよってお金は極力かからない形を求めるわけですが、  科学実験遊びにしても お金のかかることは実際にはしないですむ方法も考え出し、 あらゆるお金のかからない友好事業をしてゆきます。   つまり家族という社会単位にしめる教育費の負担の大幅な軽減も同時に求めます。    これが感性教育の 実質的な最初の土台の部分となるということです。 教育をビジネス化して考えている人にとってはこれだけでは脅威の案となるでしょう。 しかし あくまでそれは総合ビジネスの一部として考えるということなのです。(この詳しい考えも略しますが) ひとつ重要なのが 教育のホテル事業化です。 世界中の子供たちが 世界中の街や村にホームステイできるようにホテルが中心となって其の役割を果たしてゆくということなのですが、そういうホテル事業と教育のドッキングということです。 中身は、実はこれが 写真革命という形での、最初の「感性教育論」となってゆきます。 ホテルには当然 あらゆる写真機が用意されています。 また“その地の自然や動物その他のあらゆる被写体の知識を持った心豊かな大人”が待機してもいます。 たとえばですが、釧路湿原のホテルならば、その湿原にはどのようにしたら臆病な蝦夷じかを写せるチャンスが訪れえるのか といった知識を深くそなえた現地のカメラマンがすでにおられるとうのが前提だといったことです。 やがて、いつの日かはロボット機能に私たち人間は写真技術を追い越される時が来るでしょう。 そこまで考えての写真芸術の本質とはというならば、 写真は藝術であるよりも、子供たちの感性教育の最もすばらしい道具の一つと考えたほうがむしろ深いとも言えます。 (今の時代ではまだ簡単に言えるることでもないのですが。) こうして、感性の豊かさへのその過程に、子供たちは映像の構成の世界をどこまでも学んでもいきます。 写真と絵画の本質的違いである、手という不思議な“心と連動した世界”のタッチとシャッターの違いとして正確に理解する  画家にも育ってゆくことになります。 そうした子供たちの新しい能力によって デザインの世界ももちろん大幅にさらに豊かな世界となってゆくでしょうが、   何よりも  私は 次の革命、 絵画革命がここにこそ 起こってくると考えているのです。 あるいは その世界的な規模の感性の変化の流れとともに、一方で、絵は線のタッチが大事だという本質的な教育ももちろん行ってゆくということです。 ここでは 写真という一ジャンルを中心として、それを語っているだけです。 (詳しい中身は すべて略しているということです。) * ここで話を 仏教への疑問のお話にもどして 今回はそれを持って「回答」とさせていただきます。 アメリカ在住のある写真家が しばらく以前、白鷺という昔は日本にも渡ってきたという鳥が おそらく何万羽もいっせいに飛び立つ様子を 一メートルぐらいの大画面に写した写真を見せてくれたことがあります。 その迫力には どぎもをぬかれる想いでした。  それこそあらためて童心にも帰りました。   遠くの鳥達の極一部一部が鴈の三角形を描きつつも全体は まるで偶然のあらゆる変化を示しつつ 一斉に一羽としてぶつかることもなく飛び立つ様の  命の不思議を その見えない糸の荘厳さを その奥の奥に垣間見える空のそれぞれの色合いの変化とともに、写し撮られたその映像は 「こんなの今までみたことないよ」と思わず思ってしまうような感動を私に与えていました。 地球という青い星の大地のすばらしさを 私たちの大地の奥深さを広さをほんとうに知ってゆくのは、これからの世界の子供たちの世代であるはずです。 が、その先に、さらに無限があります。 釈迦が 最高度の安らぎの境地に達し それが揺るぎ無いことは 信頼するとして、 でも彼がそれだからと言って 流体力学どころか 分数も知らなかったかもしれないことを認めないかのような理論を展開するのがおかしいように、   その時代に、映写のすばらしさを少しでも認識できたはずもなく、 ドボルザークの音楽に感動できたわけでもなく、 その意味では《絶対》ではないのだという点を忘れてはならないことは 現代仏教なら明確にすべき時期なのだと思います。 そうでないと、おそらく釈迦への謙虚さという地点すら価値の無いものとなりかねないと思います。 * 「エホバの証人」も、キリストの言葉ではなくて、仏教哲学やそこからも生まれた教えの世界を研究すればよかったのかもしれませんね。  彼らなら総合仏教研究互助組織を実現したかもしれません。  その組織はそんな感じなのかもしれませんね ☆きぐるみさん については、女性だとは知りませんでしたが、 見解の相違はおそらく私に 判断能力が欠如しているためだろうと思います。 ただ、だとすると、kigurumiさんに関しては《絶対》という概念が必要でないまれな人と思いますが、キリストを語るなら それでは片手落ちだという批判でしょうか?    そうですね、 彼女の新約聖書創作論については、プラトン主義のコピーとのみの表現は 片手落ちではあるでしょう。   でも私は それは彼女の「演技(ウソ)」と見ているわけです。   あくまで私はですが 彼女の本心はキリスト者と見ているわけです。  これは自信があるとかではなくて、そう感じるという問題ですので、一見解すぎないわけですが。

noname#80116
質問者

お礼

 ☆ かたて落ちは 差別用語だと言います。どう扱うか どう対処するか 考えるところだと思います。わたしの方針は 無難な行き方で 済ませるところは そうするというものです。この場合 使いません。  ☆ きぐるみさんの件で ひと言としては 《神は 善悪を超えている》のであって かのじょの伝える神は 善の極致なる存在であるようです。これは 道徳です。経験思考です。非思考ではありません。といったところです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん わたしの回答歴とのおつき合いを わづらわせ申し上げて まことに 到らない対話者だと思い すみませんという言葉そのものです。(じつは きぐるみさんの件で 今回も あるのですが)。ご回答をありがとうございます。  まづその過去の質疑応答歴のあるのを ご紹介しましょう。いくつもあります。ほぼ最初に 昨年の五月六月に 次の質問で持ちました。ほかの回答者のを容れて 22件の長いものですが よく問答の経過がわかっていただけるのではないでしょうか。それゆえ あえて ご紹介します。  ○ 《Q3043372:〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3043372.html?ans_count_asc=0》  ★☆ 信仰論  ☆ たとえば 《絶対》の概念を持ち出すことのミソの一つは こうです。  ○ “「無限の感性」の世界への謙虚さ”という言い回しを持つとき 《無限》と言えば すでに 最終の到達地点を 意識した場合には もちろん そうでなく 暗にでも無意識のうちにでも 知っているということです。そのことが 分かるということです。  《無限・彼岸・涅槃・絶対》という言葉を持ち出したなら そのとき ただちに ひとは 意識してかどうかを別として 自己がその絶対のもとにあるということを 知っているのです。それが 信仰です。しかも 非思考として生じる心の伸びです。だから 関心を持つことになります。そうでなければ 何のために 勉強や修行をしようと思うでしょうか。  昔は 《かみ》と言っても 最終の境地のことを知り得たかどうか分かりませんが 今は 数学で《絶対》をおしえるでしょうし 一般に《唯一神》ということが耳に入るようになり これは 《絶対》のことだと 何となくにでも 分かるようになっています。したがって 《絶対》が《相対》を越えてあると 想定したなら ひとは おのれの魂のふるさとを知ったと知るのです。  日本人は そのあと――つまりこの《〈絶対〉との対面体験》のあと―― もう 放っておくのが 一般です。世界の人びとと交通対話を持つとなれば この《絶対》なる概念は 一般に 用いて おのれの世界観を説明することが ふつうだと思われます。そのために おのれの無神論を 絶対という概念のもとに位置づけて 説明するという課題があります。日本人と同じく 少なくとも日本の ブッディストは この絶対観をあいまいにしておこうとします。  ★ 感性教育 その具体的な措置などの提案  ☆ これらは 専門家を交えての井戸端会議で 練っていくとよいと考えます。実践には実践の課題や手法があると思います。  一点 技術的・事務的なことで 反論を持ったのは  ★ PCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。   ☆ のは 指摘されているとおりに 理数科の問題であり それに限るのだと思います。あるいは あくまで 補助装置であると思います。そうでない場合には ロボットは それ自体が ひとから おそわることはない機械であるということを 子どもたちに しっかりと分からせる必要があるように考えます。  ☆ 理念の問題として 抵抗があるのは  ★ 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく  ☆ のは 少々 革命が不徹底ではないでしょうか。つまり これまでの教え方でうまいことと これからうまい教え方をするそのこととは 同じであるかどうかです。《検討し合って》ということですが それでも すでに 従来の教え方の効果が大きいほうが これからも 有効であろうと前提しているように思われ それでいいのかと抵抗を感じましたが いかがでしょう?  ☆ エホバの証人は 言いたくありませんが 自分以外のキリスト教界を ばかにしていて 一般に 逆からも 相手にされていないのが 実情です。もちろん 問題は 中身ですが そういう実態もあるということを お知らせします。そういう実態のたぐいのことは ほとんど わたしは これまで話題になっても 素通りして来ましたが きぐるみさんの件で やはり 見解の相違があることを発見して 言っていく必要もあると感じたところです。――エホバの証人は 例の 輸血を拒否するという教義を守る宗派です。

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  • 吉本隆明氏の講演ビデオ

    1987年(昭和62)9月に品川の倉庫で開催された「いま、吉本隆明25時」のイベントを収録したビデオが翌年発売されましたが、その販売会社(インタービジョン?)と発売月日について調べています。ご存知の方、お知らせください。

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     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。           したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会という           ヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづりなるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごくふつうに       自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手       に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめあっ       ている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるようにそ       れが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人工的な性格の       もの とがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性格のも       の》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度として固定さ       せようとして出来たもの。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》との二階建       ての構造として固定する国家における身分制度としての社会力学       的な(=世間のシガラミなる)交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されている社会       のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ扱われる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?     言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?