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歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

tyr134の回答

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  • tyr134
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回答No.15

ANo.11、14です。 塩野氏の該当の記事はまだ拝読していませんが、彼女の書籍は『ローマ人の物語シリーズ』を始め、数冊読んだ事があります。 私も、この場では深入りしませんが、概ね近い「歴史観」を持っていて、好感を持ってますね。 イタリアに移り住んで、海外から日本を眺める彼女の視点は非常に参考になりますしね。 さて、本題ですが >私が申し上げたかったのは、例えば同じ文系の学問である経済学や法律学などには必ず「○○理論」とか「○○の法則」といった、自然科学における法則とか定理と同様のものが必ず存在するのに対し、歴史学においては、例えば「歴史的事実繰り返しの法則」(?)といった理論や法則のようなものがこれまで全くと言っていいほど見受けられなかったため、そうした理論や法則を歴史に求めるのはナンセンスなのでは そうでしたか。 こちらこそ、誤解と憶測で書いてしまいすいませんでした。 確かに、「歴史的事実」としての「法則性」というのは、未だに発見されたのはない気はします。 ただ、「歴史は繰り返す」というように「全く同じではないが、似たような現象」というのはありますので、そういった視点から「歴史を分析し」「未来予測する」という方法は存在します。(歴史学そのものというより、他の社会学分野の援用ですが) まぁ、社会学は「近々の歴史を扱う学問」だと私は考えていますが。 また、一般に「歴史は直線である」と言われますが、個人的には「歴史は螺旋である」と思ってます。 >もっとも塩野氏によれば、18世紀の歴史家は皆、主観を交えて歴史を書いていたのに対し、現在のアカデミズムでは「実証主義」がうるさく言われているため主観を排除している、これに対し同氏の書く歴史小説は、史料を「眼光紙背に徹する」まで読み込み、ローマやヴェネティアの指導者と同じになるまで頭で考える、という趣旨のことを言われていましたので、それは回答者様のご回答でいえばランケのいう歴史学に該当するのではないか、 そうですね。 18世紀頃までの歴史は、ほぼすべて著者の「主観」が先行して書かれた物が多いです。 その後、科学革命の影響で「歴史にも(自然科学分野のような)客観性が必要だ」という事が考えられるようになりました。 そして出てきたのが、レオポルト・フォン・ランケです。 彼は「史料をして語らしめよ」という言葉を残しています。 つまり、「史料批判」を徹底的に行い、その批判に耐えられた「史料」だけが真実を語っていると考えました。 そして、この立場が「実証主義」として現在の日本でも主流の立場となっています。 結果として、「主観の排除」に繋がり「歴史」がただの「好事家の蒐集」に成り下がってると言えます。 >「歴史を見る目」を養った後に読むに値する歴史書などございましたら、ご紹介頂けますと幸いです 私なりの主観ですが、幾つかお薦めを紹介してみます。 『ヴェネツィア―東西ヨーロッパのかなめ,1081-1797』 (岩波書店) W.H.マクニール (著), 清水 廣一郎 (翻訳) 中世から近世にかけて、東地中海貿易で隆盛を極めたヴェネツィア共和国が東西ヨーロッパをつなぐ役割を担ったという視点から書かれた本です。 文化と文化は相互に影響を及ぼしあっており、その点をヴェネツィアという都市国家に光を当てて浮き彫りにした書です。 『中世イタリア商人の世界―ルネサンス前夜の年代記』(平凡社 ) 清水廣一郎(著) 上記の本を翻訳した、清水廣一郎氏による中世イタリア商人の生活を記した本です。 史料を丁寧に検討し、歴史著述をされているのが分かります。 『中世シチリア王国 』(講談社現代新書) 高山 博 (著) 中世に存在した両シチリア王国という国の通史です。 新書で手軽に読めるように纏められています。 この王国は、キリスト教国家でありながらイスラム教徒と共存共栄していました。 その「異文化共存」がどのようになったかを浮き彫りにしています。 そして、「異文化共存」はグローバル化が進む現在、重要な課題であると言えます。 著者である高山氏も、そうした「問題意識」を持ちながら研究されているようです。 他の書は、まだ拝読していませんが、注目している方なので参考URLも載せておきます。 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~tkymh/1Kenkyu.html 『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き Der Cicerone』1855年(古代編が筑摩書房、建築編が中央公論美術出版、主流な芸術家に絞って編集したのが青土社) ヤーコプ・ブルクハルト(著) ランケの弟子であり、ルネサンス研究の大家であるブルクハルトの書の一つ。偉大な大先生が、ルネサンス美術の見方を教えてくれます。 『モンゴル帝国の興亡』(筑摩書房) 岡田 英弘 (著) 独特の歴史観を持つ著者が、モンゴル史を書いた書物です。 中国とヨーロッパが接触したモンゴル帝国がに、「世界史」を求めていたり、「漢文は中国語(話し言葉)とは無関係」と言い切ったり、独特な視点を持ってる方です。 また、積極的に政治的な発言もされており、ややナショナリズム的な言動も目立ちますので、その辺りは気を付ける必要があります。 『日本よ国家たれ―核の選択』(文芸春秋) 清水幾太郎(著) 安保闘争のおり反米運動の指導者的立場で活動し運動の挫折を経験した著者が、その経験を元に、日本人に向けて危機管理意識を説いた本。 「国際政治の戦国時代を生き延びるためには、如何に辛くても、核の問題をリアリストの眼で見なければいけない、アイディアリズムやセンチメンタリズムは、どんなに悲壮でも、現実の役には立たない」との著者の言には唸らされる。 ただ、「短絡的なナショナリズム」に陥らないように注意して読む必要もある。 ついでに、こちらの質問でも回答していますので、参考にしてください。 http://okwave.jp/qa3666956.html 思わぬ長文になってしまい、失礼しました。 参考になれば、幸いです。

se_tutoie
質問者

お礼

三度に渡る詳細かつ分かり易いご説明を行って頂きましたことに対しまして、心よりお礼申し上げます。 回答者様のおっしゃる通り、歴史は何も「好事家の蒐集」でもなければ、ましてや受験で人間をふるいにかける「暗記科目」でもなく、現在を、そして未来を考え、生きる上で有効な、大いなる力を秘めた「宝物」だと改めて思いました。 しかし、宝物を見極める鑑定眼を持ち合わせていなければ、それこそ「宝の持ち腐れ」で終ってしまうでしょうし、ましてや受験勉強での苦い経験でその後の付き合いを止めてしまうというのも、「宝物」の本当の価値を知らずに一生を終えてしまうようなものですので、これもまた大変もったいない話です。 ただ、そうとは言え、歴史に関しては専門的な勉強を行ったことのない私としては、一体この「宝物」に接するにはどうすればよいのかが分かりませんでした。そして以前から抱いてきた疑問と共に、今回少々得たばかりの僅かな知識に基づいて質問させて頂いた次第でしたが、回答者様の一連の素晴らしいご回答に邂逅したことは、私の今後の人生において大変有意義であろうと思われます。 些少ですが、ポイントを贈呈させて頂きましたので、ご査収下さいます様お願い申し上げます。また、今後、もし何か分からないことがあった場合には質問させて頂きたいと存じますので、その節は何卒よろしくお願い申し上げます。

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