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歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

tyr134の回答

  • tyr134
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回答No.14

ANo.11です。 丁寧に回答を読んでいただいたようで、光栄です。 少し補足しておきますね。 >そして、「歴史」に主観が入り込むことは止むを得ないけれども、そうするともし百人の歴史家なり歴史著述者がいれば百通りの「歴史」が書かれてしまうことになるわけで、それでは非常に不都合なので「客観に近付ける」ことが行われている、それが「歴史」というものである、と理解しましたが、いかがでしょうか そうですね、概ね私の認識と同じです。 百通りの「歴史」があるので、「歴史論争」が行われ、結果として「客観に近づく」という事になります。 ただ、それにも限界があって、「永遠に埋まらない空白部分」というのが存在していて、その点はいつまで経っても「論争」が続くことになります。 その空白に政治的・思想的な「主観」が入り、「(国家や社会的影響力のある人による)扇動」に利用される危険が常にあります。 その事を認識して気を付ける必要が、全ての人にあると言えます。(本来なら、義務教育課程でこの「歴史を見る目」を養う必要がある気がするのですが、日本の「歴史科目」は「暗記物」になってしまってますね。。。) >まず、歴史(学)においては自然科学的アプローチ、つまり一定の法則なり理論なりを探すことは無意味ということなのですね。 「無意味」と言ってしまうと、少し語弊がある気がします。 それを説明するのに、まず「歴史」というのを3つの段階に分けてみます。 1・「問題意識を持ち、歴史を見ること」 この段階は、所謂「研究テーマを決める」ことです。 例えば、『イワクロ.COM』のテーマや問題意識は「日米開戦回避の可能性」と「今後の日米関係」である思います。 このテーマや問題意識は研究者の「主観」であると同時に、日本という国やこれからの日米関係が重要であるという、社会や時代の要請に基づいていると言えます。 この段階の内容は、「研究方法云々」という以前に、人の欲求・社会の欲求は常にあるので、あまり議論にはなりませんね。 あるとすれば、個々人がどう「問題意識」を持って「テーマ」を設定できるかということでしょうか。(この点は、「歴史」に拘わらず必要な点だと思います) 2・「事実の追求」 こちらは、歴史的事実をどう追求していくか、という段階です。 この段階については、様々な試みがなされています。 そして、この段階での「一定の法則なり理論なりを探すこと」は重要で、それこそ「(自然)科学的アプローチ」が必要となります。 「歴史学」の基本は、「文字史料」を読み解くことからはじまりますが、書かれている内容が「事実かどうか」を判定するのに、「科学的アプローチ」というのは非常に有用です。 例えば、「660年に私(A)がこれを書いた」という本があったとします。 この時、本当にAが660年に書いた物かを判定するには、「660年にAは本を書いた」というBが書いた史料があれば、事実に近いと言えます。(C,やDがあればあるほど、事実である可能性が高くなる) しかし、他に史料がなかったら判定しようがありません。 そこで、「炭素14年代測定法」という「自然科学的技法」を使います。 これは、簡単に言うと「炭素の量を量って時代を特定しよう」という事です。 これを使って、その書物に使われている紙が「600年には存在した」と分かれば、事実である可能性が高くなります。 逆に「紙がつくられたのは1300年頃」という結果が出た場合、少なくともその本自体は「660年には無かった」事になります。 そうすると、「事実は無かった」か「事実はあったが書物自体は写本など、現物ではない」ということになります。 こうした、「事実判定」に関してはどう「客観的に事実を見つけるのか」という方法論なり技法が必要で、そのための追求は必要といえます。 3・「歴史記述」 最後は、研究して見つけた「事実」に基づいて、論文なり書物なりに纏める段階となります。 この段階では、また「主観」の問題が大きくなってきます。 例えば、「明智光秀が織田信長を暗殺した」という事実があります。 しかし、これを「光秀が信長を殺したから、天下統一が遅れたんだ」とするか、「光秀が信長をころしたから、秀吉によって天下が統一されたんだ」とするかでは、大きく意味合いが違ってくることになります。 つまり、記述者の「主観」で「歴史的意味や価値」が変ってしまうのです。 この部分では、なかなか「客観性」を求めるのは難しいと言えます。 クローチェやカーの言う「過去と現在の対話」や「生きた歴史」というのは、1と3において重要な視点となります。 逆に2の段階については「科学的であること」が重要となります。 ここが「客観的」でないと(歴史記述などの)拠って立つべき「土台」が築けない事になります。 ただ、この段階ではやはり「限界」があり最終的には「受けて(主観)」に委ねられることになると言えます。 参考になりましたら幸いです。

se_tutoie
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。 回答者様のご回答は、推測ですが、現在の歴史学のアカデミズムの最先端を初心者にも分かり易くご解説頂いたものと推察致します。その意味で、大変貴重なコメントをお寄せ頂きましたことに対し、厚くお礼申し上げます。 歴史に自然科学的アプローチが不要と私が書きましたのは、私が言葉を省略してしまったために、舌足らずなものとなってしまいました。私が申し上げたかったのは、例えば同じ文系の学問である経済学や法律学などには必ず「○○理論」とか「○○の法則」といった、自然科学における法則とか定理と同様のものが必ず存在するのに対し、歴史学においては、例えば「歴史的事実繰り返しの法則」(?)といった理論や法則のようなものがこれまで全くと言っていいほど見受けられなかったため、そうした理論や法則を歴史に求めるのはナンセンスなのでは、という趣旨のことを書きたかったのですが、うまくお伝えできずに申し訳ありませんでした。

se_tutoie
質問者

補足

ところで、本質問後、偶然、文藝春秋2008年3月号(↓)を読む機会があり、 http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/index.htm そこに、「特別対談 インテリジェンスなき国家は滅ぶ 歴史を抹殺する日本外交の罪」というタイトルの記事で、「ローマ人の物語」シリーズ等で有名な歴史小説家の塩野七生氏が、期せずして回答者様と似ている発言をされていたのには、正直驚きました。もっとも塩野氏によれば、18世紀の歴史家は皆、主観を交えて歴史を書いていたのに対し、現在のアカデミズムでは「実証主義」がうるさく言われているため主観を排除している、これに対し同氏の書く歴史小説は、史料を「眼光紙背に徹する」まで読み込み、ローマやヴェネティアの指導者と同じになるまで頭で考える、という趣旨のことを言われていましたので、それは回答者様のご回答でいえばランケのいう歴史学に該当するのではないか、回答者様の言葉をお借りすれば歴史といっても問題意識や主観が入り込む余地は大いにあるということになると思いました。もっともここは塩野史観(?)を討論する場ではありませんのでこれ以上深入りすることは止めておきますが、少なくとも、歴史とは現代との対話である、とか、現代的問題意識が必要、という回答者様のご回答に対しては、私も全く賛成であり、その意味においてはそうした歴史書こそ真に価値のある、読むに値する書物であると思われます。 そこで回答者様に質問させて頂きたいのですが、ご紹介頂いた渡辺二郎氏の書籍を読み、「歴史を見る目」を養った後に読むに値する歴史書などございましたら、ご紹介頂けますと幸いです。一応高校までの日本史、世界史は学んでおりますし、最近、趣味で『中公バックス 世界の歴史』(中央公論社)シリーズを、13巻(帝国主義の時代)から16巻の現代(といっても内容は1960年頃で止まってしまったままですが)まで読みました。岩畔豪雄の名も実はこのシリーズの15巻(ファシズムと第二次大戦)で初めて知った次第です。 よろしくお願い致します。

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