• ベストアンサー

歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

harepandaの回答

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.7

文系です。 この分野で著名なのは、カーという人が書いた「歴史とは何か」というそのものずばりの本で、岩波新書で手に入ります。これがまず、勉強のスタート地点としては、優れているでしょう。彼の理論によると、歴史とは現在と過去の対話であり、過去の事象は現代人の意識の枠組み内部でしか理解ができず、時代や状況に応じて、過去の事象の評価は変わってくるということになります。マルクスの場合は、同じ現象を、「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する」という言い方をします。ようは生れ落ちた環境によって、人間の思考様式は大きな影響をうけてしまうというわけです。 歴史を貫く法則があるかと言われたら、強引に「ある」と言い切ったのはヘーゲルという哲学者です。歴史とは、人類社会がどんどんと自由なものになっていくプロセスだというわけです。これを単純化し、アメリカのネオコン思想に適合させ、すでに世界はアメリカ同様の自由社会になっているのだから、歴史は既に終わっているという意見を表明したのが、フランシス・フクヤマという人です。 過去の歴史から経験則を学ぶと、確かに、現代社会の現象も理解し易くなります。このあたりがアメリカ人に欠けている能力で、彼らは高々200年程度の歴史しかもたないため、過去の歴史に学ぶという態度に欠けているのです。第二次世界大戦後の日本の戦後処理において、江戸時代から残存していた地主・小作人関係を一掃し、多数の自営小作農民を作り出すという農地解放をやっています。しかし、GHQはこの時、フランス革命の前例があったことに気がついていなかったのだと思います。すなわち、土地をもらった農民は必ず保守化し、それ以上の民主化を望まなくなり、ナポレオン独裁の支持者となってフランス革命を止めてしまったということに。日本の場合、かつては共産党支持だった農民が、一斉に自民党支持に切り替わり、自民党的な地域密着型・利益誘導型政治を生み出したという、悪い副作用を発生させてしまったのです。 理科系の世界でも、法則とは言っても実は不十分なものであり、後に、それを含んだより高度な法則が提案されるということはありますよね。ニュートン力学から相対性理論への進化は、まさにそのようなものです。理科系学問においても、法則というのは絶対のものとは言えません。このレベルのものであっても理科系の人たちは法則は存在すると主張するわけですから、だったら歴史にも同じ程度のレベルの法則は存在すると、文系からは主張することが出来ます。そして、私がベースとしているヘーゲルという哲学者の場合、次のような理論があります。「現実的なものと、理性的なものは必ず一致する。理論と現実は違うなどといっている人は、単に偏見にとらわれているだけだ。偏見にとらわれない意識と同様、あらゆる哲学は現実的なものと理性的なものは一致するという確信からスタートするのである」。そう、明確に、社会科学の分野においても、法則は存在するとしている立場の人なのです。これは「法の哲学」という本の序文で明確に表明されているもので、のちにマルクス主義者が誤解し、「ヘーゲルは現実に存在する間違った社会体制を、理性的なものであるとして肯定する保守反動だ」という説をばらまいてしまったのです。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 大変興味深い内容のご回答で、眼から鱗が落ちる思いが致しました。 まず、E.H.カーはその名は知っていても内容まで踏み込んだことはありませんでしたので、今回のご説明で大変よく分かりました。 しかし、今回の回答者様のご回答の中で最も興味をそそられたのは、ヘーゲルに関するとても分かり易いご説明でした。私の以前の知識では、まず弁証法の産みの親である、ということと、ヘーゲル哲学は神の存在と密接だということから、キリスト教色の強いものだという偏見がありました。ですから、今回の回答者様のご説明により、ヘーゲル哲学に対する認識が全く変わりました。 アメリカの対日占領政策についても、歴史から学ばないとどうなるかという実証例を詳細かつ平易にご説明頂き、誠にありがとうございました。 自然科学の分野でも、おっしゃる通りニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論へと「法則」そのものが進化しているのですから、絶対不変な法則なるものはあり得ないと思われます。であれば、社会科学でも歴史の「法則」そのものが進化してもよさそうなものではないか、などとふと思ったのですが、いかがでしょうか。

関連するQ&A

  • 自然科学について教えてください!!!!!

    最近とても自然科学や宗教といったものに興味が湧いてきて自分なりに勉強している者です。知識がほとんど無いため、質問も分かりにくいと思うのですが…。 今回は、古代文明(また、その後ルネッサンスなど大きな転機を経てからの現代までの流れなども)においての西洋と東洋の科学(特に自然科学、プラトンやアリストテレスといった、そのあたりの話)について教えていただきたいのです。この2つの間の類似点や相違点について知りたいです。 また、宗教と科学の発展の関係や、西洋と東洋の科学技術の交わりや発展の歴史なども出来ればお願いします。 他の質問文でも似たようなものはいくつかあるのですが、私自身の知識が浅いため、さらに分かりやすく、詳しくお願いいたします。

  • 科学の先にある疑問

    もしも今後、科学が究極的に発展し、森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かしたとしたら もはやそれ以上、科学的な研究をする余地がなくなり、科学という営みは完結してしまいます。 そんな完結した科学の先にある疑問は、なぜ、もしくはどうして存在するのかというものだと思うのです。 例えば、なぜエネルギーというものが存在しているのか、なぜ素粒子が存在しているのかなど 未来の人々はそれらの存在理由を探っていくと思うのです。 科学では客観性や普遍性、整合性などを拠りどころとして自然を理解しようとしますが 存在理由の探究についてはなにを拠りどころにすれば、納得できる答えが得られると思いますか? 回答よろしくお願いします。

  • 「科学」と「自然科学」と「科学的」。あいまいさ。

    元になっていると思われる外国語の背景については以下の質問で回答を戴いているところです。 「science という言葉の語弊」 http://okwave.jp/qa/q6919627.html 国語のカテゴリーでは主に対処法を相談させてください。 「科学」(Goo国語辞書) http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37739/m0u/%E7%A7%91%E5%AD%A6/ によると、 「…、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。」 なのですが、一般的にも、専門家の用語としても、狭義の意味の方で広く使われているのが現実だと思います。 使われ具合で決めると、もはや自然科学をさす言葉としての「科学」になっていると思います。 私としては文系の学問が科学とされる事実を尊重して、広義を”全く”無視した使い方に抵抗と無責任さを感じます。狭義の科学という言葉が使われるのは、文系と対比させた趣旨でつかわれるのですから、なおさらですよね。この狭義の問題は他の言葉の狭義問題よりも、断然ややこしいのです。 そう考える私としては、自然科学という意味の「科学」を活かしにくいことになります。狭義の使用が途絶えてしまいそうなのです。 (1)いちいち「自然科学」と表記しなければならないのでしょうか。重たいですよね。 (2)「科学」は明治期の造語だと思うのですが、当初から、文系の学問に対しても使われていたのでしょうか。つまり当時の日本においては、広義の意味だけだったのでしょうか。 ★私が問題にしているのは「社会科学」という看板が存在するから使われているという建前論的な説明ではなく、学問の分類作業とは全く関係しない、文章や対話の中で、「科学」という言葉が文系学問の意味で使われるかということです。生きていたか、ということです。その意味で、今日、広義の方は死に体だと思います。 「その説明は科学的じゃないと思います。ヒトの先祖は猿と同じですよ」 「そうか、君はそんなに科学が好きなら将来、科学者になったらいいよ」 「うん、生物学者になりたいんだ。先生みたいに政治学や文学は好きになれないもん」 「私は科学は苦手だからね。だから逆に科学教育の必要さが身にしみて分かるんだよ。がんばって将来科学者になりなさい。図書館に行ったら、子供にも分かる科学の本があるよ。直接、科学の楽しさを教えてあげられなくて申し訳ないけどね」 (3)なぜ科学と言えば自然科学をさすようになってしまったのでしょうか。 (4)皆さんは日頃、「科学」の使い方に問題を感じませんか。日常会話と、説明や議論においても同じ使い方でしょうか。 こういう事を考えずに、上の対話のように使いまくってもいいのでしょうか。

  • 自然科学の次(長文)

    自然科学の次に来るものは「直感」ではないかと、素人ながら考えています。 勿論、相当な危険性を、はらんでいる事は事実でしょう。 しかしながら、すでに古代ギリシャ哲学が、物体を三態ではなく、プラズマを加えて四態としていました。 ですから、私は言葉に於ける「矛盾」という概念は、存在すべきだと考えています。 来る時代の「量子コンピューター」を受け入れる為には、人類は現代の自然科学を超えた物を持ち合わせていないと駄目なのではないか。 その受け渡しには、やはり、「数学」が必要不可欠な物となるのではないかと予測した訳ですね。 どうでしょうか?「直感」を表す数式はできないものでしょうか? 御教示よろしくお願い申し上げます。

  • 人間はついに自然を克服するのか

    歴史上、農耕、工業で、細々と自然を改革しては来ました。 しかし、いまだに、地震ひとつ、台風ひとつ阻止することもできません。大局的にみれば、自然に翻弄されている存在であるという事実には、太古とさほど変わらないと思われます。 これが、いつの日か、本当の意味で自然を克服し、自然の驚異から完全に自由な存在、神に近い存在になる日が、人間には来るのでしょうか?それとも、ある限界点に近づくだけで滅亡するでしょうか?

  • 人間はついに自然を克服するのか

    歴史上、農耕、工業で、細々と自然を改革しては来ました。 しかし、いまだに、地震ひとつ、台風ひとつ阻止することもできません。大局的にみれば、自然に翻弄されている存在であるという事実には、太古とさほど変わらないと思われます。 これが、いつの日か、本当の意味で自然を克服し、自然の驚異から完全に自由な存在、神に近い存在になる日が、人間には来るのでしょうか?それとも、ある限界点に近づくだけで滅亡するでしょうか

  • 科学的な見地からの宗教

     日ごろから不思議に思っていたことなのですが、日本人は「宗教は非科学的だ」という言葉を耳にすることがあります。これは日本人が無宗教でいる一つの要因であると思います。日本人にとって「非科学的だね」といわれるのは、現代においては非常に侮辱的な言葉であると思います。では本当に宗教は非科学的なのでしょうか?? (1)宗教のどういった部分が非科学的なのでしょうか?? (2)私はここで言う「非科学的」というときの科学は「自然科学」を基準にしていると考えます。宗教(宗教学)は人文科学に属するわけですが、自然科学の視点から人文科学の研究成果を「非科学的」と判断できるものなのでしょうか?? (3)科学に無知な私が思い浮かべる科学は「実験により証明された事実(データ)を基に、そうした事実の間に法則を見出す営み」と考えています。このように、宗教は非科学的であることを、どなたか実験から証明された事実に基づいて、非科学的であることを立証した研究者をご存知なら教えていただけないでしょうか??またその科学的な実験方法や、その人の著作をご存知であれば教えてください。 どうぞ教えてください。よろしくお願いします。

  • 国立科学博物館は事実上、国立自然史博物館では?  

    そう思うのは自然、生物関連の展示がメインで科学技術関連の展示は地球館の2階のワンフロアしかなかったからです。 あくまでも構想(実現は難しいかと思われます)ですが、 科学技術関連のみを別の建物に移転して「国立自然史博物館」と改称し さらに移転先に0系新幹線などの新たに科学技術系の資料を追加して「国立科学技術博物館」とするのはどうでしょうか? 日本の科学技術の歴史を展示する博物館です。 技術大国には、自国の科学技術の歴史を展示した博物館がありますが 例、ロンドン科学博物館(イギリス)、ドイツ博物館(ドイツ)、レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館(イタリア)など 日本にはありません。 ですから、日本にも必要だと思うのです。 あくまでも構想ですがいかがですか? 追伸 私が主張しているのは最先端技術を展示した博物館ではありません。 それでしたら。日本科学未来館、テピア、科学技術館があります。

  • 歴史ってなぜ学ぶ必要があるの?

    学生時代、歴史が苦手だったものです。ひがみと捉えられても構わないのですが…。 「日本最古の通貨は和同開珎」とか「任那という国があった」とか「弥生時代は○○年頃に始まった」とか、最近になって覆ってしまった事実を、私が学生だった頃に覚えさせられた記憶があります。 そんなことを覚えさせる学校の先生も浅はかだな、と今では思うのですが、実際にテストで出るのですから仕方がないとも言えるのでしょう。社会の教科書も含めてそうだと言えると思うのですが、こんなに不確定なことを覚えさせて何の役に立つと言えるのでしょうか。 こういう話をするとよく「自然科学も同じだ」と言われる方がいますが、理科の先生や教科書に書かれていることは、最先端科学的観点では既に覆っているため、その点に関して気を使って書いているように思うのです。 結論の出ない質問かと思いますが、歴史好きの方に意見をお聞きしたいと思います。

  • 当事者に争いのない事実と経験則

    判決が当事者間に争いのない事実を基礎とするのは当然ですが、仮に当該事実が自然法則、科学法則及び経験則上あり得ない場合には、どうなりますか?仮に自然法則、科学法則及び経験則上あり得ない認定事実を控訴理由とするとすれば、いかなる控訴理由になるでしょうか?