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歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

harepandaの回答

  • harepanda
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回答No.9

ANo7 harepandaです。 > 社会科学でも歴史の「法則」そのものが進化してもよさそうなものではないか、などとふと思ったのですが、いかがでしょうか。 歴史の法則が進化するかと言われれば、歴史は何世代にもわたってゆっくり続いていくものものであり、進化は存在しても、後になってみないと、その意味が分からなかった、というケースのほうが多いと思います。過去から学び近い未来を予想することは可能ですが、遠い未来のことを予測するのは非常に困難でしょう。社会の潮流を読み解くための前提が、どのように変化するか予想もつかないからです。たとえば、化石燃料が完全に枯渇する前に、人類が核融合発電を実用化しているか否かによって、社会のありかたは大きく変わるでしょう。核融合は高度な技術につき、開発に成功した国や企業がその能力を独占して特許登録してしまったら、現在以上に、電力輸出という現象が発達するでしょう(現在でも、電力の輸出・輸入をやっている国は、多数、あるのです)。 より広く社会科学全般を考えてみると、昨今のサブプライムローン問題を見ていて、よく感じることがあります。果たして、古典的な景気循環論は、今でも有効なのだろうか?と。 景気循環論自体が複雑な進歩を遂げており、その全体像を、マクロ経済学の専攻ではない私が理解しているわけでもないのですが、どうも、やはり、現実社会に合わなくなっているような気がします。景気循環論は基本的に製造業的な発想からスタートしているからです。すなわち「好景気→生産力増大→市場での商品の飽和→在庫の発生→不景気→生産能力の削減→在庫の消化→また、好景気→また生産力増大…」というのが、景気循環論の基本です。 さて、この景気循環論以前の経済学者の以前には、マルサスのように根暗な人がいて、経済は必然的に悪くなっていく一方だという発想をしていました。しかし、彼の考え方は当たりませんでした。景気循環という現象が、その後、発見されたからです。 そして、古典的な景気循環論は今でも有効なのか、考えて見ましょう。産業界の構造は大きく変わり、製造業が今でもある程度の重要性を持っている事実にはかわりはありません。しかし、新しい現象として、サービス業という、在庫調整の概念がないビジネスセクターが成長してきました。さらには、サブプライムローン問題に見るような、信用力が現実の返済能力を超えて高く設定された金融商品が世界を引っかき回す時代がやってきています。この状況でも、本当に古典的な景気循環論は有効なのだろうか?と、日々、TVの株式市況ニュースを見るたびに思うのです。昨今、「目の前の株価は下落しているが、ファンダメンタルはしっかりしているから大丈夫だ」という立場のアナリストがTVに出るたびに、「でも、そのファンダメンタルっている思想自体が、製造業的な時代遅れの発想なのに、信用力の暴走状態から生じたサブプライムローン問題を前に、ファンダメンタルを語る意味があるのかね?」、と。

se_tutoie
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。 私も経済学を専門的に学んだことはありませんので、素人の発想でしかコメントできず、大変恐縮なのですが、回答者様が提示された命題、「古典的な景気循環論は今でも有効なのか」に関してははっきりしたことは分かりません。 ただ、アダム・スミスなどの古典派経済学の理論に基づいて「夜警国家論」という政策が採られていたのが、やがて大恐慌後、これではいかんということでケインズ経済学を生み、それがアメリカでルーズヴェルトのニューデール政策として現実のものとなって、その後、ブレトン・ウッズ体制ができて閉鎖的なブロック経済はやめましょう、という、まあ、いうなれば国際版ニューデール政策(?)の下、IMFや世銀なんかができていく。ところが音頭を取ってたアメリカ自身がニクソン政権時代に金・ドル交換制を止めてしまうというスミソニアン合意があって、この国際版ニューデール体制(?)が崩壊してしまう、さらに80年代にはもう国家財政が大赤字になったので「大きな政府」は止めようということで、これに理論的根拠を与えたのは新古典派経済学なのですが、政策としてはサッチャリズムとかレーガノミクスなんかの「小さな政府」を指向するようになる。日本でも小泉政権下で行われた構造改革とか規制緩和なんてのもこの類というわけでして、まあ、ざっと経済の理論と政策の歴史の流れを見てきたわけですが、経済の世界ではまず明確な理論があって、その理論に基づいて政策が実施されているわけですが、歴史の場合、理論というか法則というのが私には見えてこないものですから、今回、質問させて頂いた次第です。

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