• ベストアンサー

歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

kgu-2の回答

  • kgu-2
  • ベストアンサー率49% (787/1592)
回答No.8

高校の世界史の馬渕先生、亡くなられたと訊いているので、哀悼を捧げる意味で、書き込みます。  世界史は、本の装丁の話から始まりました。表紙、裏表紙、奥付など。さらに改訂や重版。和とじと洋綴じの相違など。こんな話が3回ほどあり、『世界史はいつから始まるのか』と感じ始めたころ、ようやく始まりました。それが強烈。歴史の話をしながら教室を歩き回られるのですが、教科書はとりあえず片手で持たれて広げているだけ。歴史の授業ではなく、物語を聞いている感じで、必死にノートを走り書き。家に帰って清書をすると、大学ノート8冊になりました。  ノートは、始まりから重要人物、文化も建築物、美術品、科学的なものと、整然していました。そして、喜劇でもあるが(裏切り者などどうしようもない人物がいる)、悲劇の滅びの過程。黒板はほとんど使われず、この繰り返しでした。 >それが具体的にどういう形で繰り返されるのか、あるいは繰り返されてしまうのか、ということを教えて頂けませんでしょうか?よろしくお願いします。 その中で、何度もおっしゃった言葉が「歴史は繰り返す」。ヘロドトスの言葉だそうですが、授業を受けているときは「そんなことはない」と反発していました。しかし、今では自分流には解釈できます。  授業では、各国の興亡を話されていました。その国がどのようにして始まり、どのような文化があり、そして何故滅んだのか。すなわち、歴史が始まってから、このパターンでない国はありません。平家物語の栄枯盛衰、これを伝えたかったのでは、と思っています。  日本で言えば、藤原氏、鎌倉氏、足利氏、徳川氏の幕府は、同様のパターンで滅んでいます。300年は続いていません。中国の王朝も、エジプト、イスラム文化も、現在の世界を代表しているとは言えません。長期間続くと、中興の祖なんぞが出てきても、矛盾を取り繕えなくなるからです。  日本も、アメリカの土地を買い漁り、地球を跋扈していましたが、もう四苦八苦しています。団塊の世代が表舞台から去っていますので、日本の力を延ばせる原動力が見当たりません。  アメリカも、一人勝ちしているように見えますが、いつまでワガママを言えるかどうか。原水爆で世界を脅しているだけです。  ちなみに、中国全体が日本並の暮らしをできることはありません。エネルギーから計算すると、現在の日本の100倍のエネルギーを必要とします。石炭が300年ぶん埋蔵されているそうですが、日本並の生活をすると3年で使い切ります。地球温暖化で、アウトでしょう。まったく新しいエネルギーが開発されれば別ですが。  日本や中国の歴史を見ると、一つの国家、あるいは王朝が栄えるのは、300年が限界、と結論しています。ただ、これからは変るかもしれません。というのは、第二次大戦までは、武力に物を言わせて滅ぼせました。が民主主義が共通認識になると、征服することができないからです。腐ったままの国家がどうなるのか、興味があるところですが。 >そして未来をどのように解析することが可能なのでしょうか? 予言が当たるのではなく、当たった予言が残るのです。外れた予言は、消えていきます。当たる占い、ではなく、当たったものが歴史に残るのです。中国の歴史書には、「この戦いは不利」と占ったのに出陣して負けた、占い師が「この国の母になる」と占って、周囲は笑ったが皇帝の母になった、なんぞが残っていますが、これは当たったから残ったということです(阿刀田高氏の受け売り)。  この子は、将来横綱になれる、なんぞを予言する人は多くのひとが言いますが、まあ横綱になれるのはほんの一握り。ほとんどの人はハズレです。そうでなければ、プロ野球の評論家がシーズン前に順位予想して、ほとんどハズレルにならないと・・・。阪神ファンの私が、「優勝は阪神」と予想しておけば、阪神が優勝すれば、世間は「よく当たる」と持ち上げてくれます。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 回答者様の恩師の馬渕先生、いいことをおっしゃいますね。私の高校時代の世界史の教師など、ただ教科書を棒読みするだけ。面白くも何ともありませんでした。貴重な体験をされた回答者様が羨ましいです。 「歴史は繰り返す」は、ギリシアの歴史の父・ヘロドトスの言葉でしたか。そして馬渕先生はそのことを実証されるために世界史の授業をされた、というわけですね。私もふと、ある方から伺った、「一度世界史の表舞台に上がった国や文明が滅ぶと、同じ国(文明)は二度と表舞台には登場しない」という法則(?)の話を思い出しました。ちょうどバブルの頃で、もう日本は世界から学ぶものは何もない、と言われていた時代でしたから、その後の凋落ぶりは改めて説明を要しないと思われます。 たった一つだけ、国家300年限界説の例外があるとすれば、それはローマ帝国でしょうか。もっとも、ローマ帝国時代の紋章か何かを、旗のマークだったか何か忘れましたが、それに使ったムッソリーニのファシスト政権が300年どころかその1桁少ない数字さえもたなかったのは、悲劇というより喜劇にさえ思えますが…。 回答者様の現代社会の分析も鋭い洞察力に満ちたものだと感服致しました。また、当たった予言が残り外れた予言が消えるなら、過去に予言されたことは全て当ったことになりますね。やはり洞察力の鋭い方(阿刀田高氏)の物の見方は私のような凡人とは視点が違うなと感心しました。 いずれにせよ、大変貴重なお話を伺えましたことに改めてお礼申し上げます。

関連するQ&A

  • 自然科学について教えてください!!!!!

    最近とても自然科学や宗教といったものに興味が湧いてきて自分なりに勉強している者です。知識がほとんど無いため、質問も分かりにくいと思うのですが…。 今回は、古代文明(また、その後ルネッサンスなど大きな転機を経てからの現代までの流れなども)においての西洋と東洋の科学(特に自然科学、プラトンやアリストテレスといった、そのあたりの話)について教えていただきたいのです。この2つの間の類似点や相違点について知りたいです。 また、宗教と科学の発展の関係や、西洋と東洋の科学技術の交わりや発展の歴史なども出来ればお願いします。 他の質問文でも似たようなものはいくつかあるのですが、私自身の知識が浅いため、さらに分かりやすく、詳しくお願いいたします。

  • 科学の先にある疑問

    もしも今後、科学が究極的に発展し、森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かしたとしたら もはやそれ以上、科学的な研究をする余地がなくなり、科学という営みは完結してしまいます。 そんな完結した科学の先にある疑問は、なぜ、もしくはどうして存在するのかというものだと思うのです。 例えば、なぜエネルギーというものが存在しているのか、なぜ素粒子が存在しているのかなど 未来の人々はそれらの存在理由を探っていくと思うのです。 科学では客観性や普遍性、整合性などを拠りどころとして自然を理解しようとしますが 存在理由の探究についてはなにを拠りどころにすれば、納得できる答えが得られると思いますか? 回答よろしくお願いします。

  • 「科学」と「自然科学」と「科学的」。あいまいさ。

    元になっていると思われる外国語の背景については以下の質問で回答を戴いているところです。 「science という言葉の語弊」 http://okwave.jp/qa/q6919627.html 国語のカテゴリーでは主に対処法を相談させてください。 「科学」(Goo国語辞書) http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37739/m0u/%E7%A7%91%E5%AD%A6/ によると、 「…、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。」 なのですが、一般的にも、専門家の用語としても、狭義の意味の方で広く使われているのが現実だと思います。 使われ具合で決めると、もはや自然科学をさす言葉としての「科学」になっていると思います。 私としては文系の学問が科学とされる事実を尊重して、広義を”全く”無視した使い方に抵抗と無責任さを感じます。狭義の科学という言葉が使われるのは、文系と対比させた趣旨でつかわれるのですから、なおさらですよね。この狭義の問題は他の言葉の狭義問題よりも、断然ややこしいのです。 そう考える私としては、自然科学という意味の「科学」を活かしにくいことになります。狭義の使用が途絶えてしまいそうなのです。 (1)いちいち「自然科学」と表記しなければならないのでしょうか。重たいですよね。 (2)「科学」は明治期の造語だと思うのですが、当初から、文系の学問に対しても使われていたのでしょうか。つまり当時の日本においては、広義の意味だけだったのでしょうか。 ★私が問題にしているのは「社会科学」という看板が存在するから使われているという建前論的な説明ではなく、学問の分類作業とは全く関係しない、文章や対話の中で、「科学」という言葉が文系学問の意味で使われるかということです。生きていたか、ということです。その意味で、今日、広義の方は死に体だと思います。 「その説明は科学的じゃないと思います。ヒトの先祖は猿と同じですよ」 「そうか、君はそんなに科学が好きなら将来、科学者になったらいいよ」 「うん、生物学者になりたいんだ。先生みたいに政治学や文学は好きになれないもん」 「私は科学は苦手だからね。だから逆に科学教育の必要さが身にしみて分かるんだよ。がんばって将来科学者になりなさい。図書館に行ったら、子供にも分かる科学の本があるよ。直接、科学の楽しさを教えてあげられなくて申し訳ないけどね」 (3)なぜ科学と言えば自然科学をさすようになってしまったのでしょうか。 (4)皆さんは日頃、「科学」の使い方に問題を感じませんか。日常会話と、説明や議論においても同じ使い方でしょうか。 こういう事を考えずに、上の対話のように使いまくってもいいのでしょうか。

  • 自然科学の次(長文)

    自然科学の次に来るものは「直感」ではないかと、素人ながら考えています。 勿論、相当な危険性を、はらんでいる事は事実でしょう。 しかしながら、すでに古代ギリシャ哲学が、物体を三態ではなく、プラズマを加えて四態としていました。 ですから、私は言葉に於ける「矛盾」という概念は、存在すべきだと考えています。 来る時代の「量子コンピューター」を受け入れる為には、人類は現代の自然科学を超えた物を持ち合わせていないと駄目なのではないか。 その受け渡しには、やはり、「数学」が必要不可欠な物となるのではないかと予測した訳ですね。 どうでしょうか?「直感」を表す数式はできないものでしょうか? 御教示よろしくお願い申し上げます。

  • 人間はついに自然を克服するのか

    歴史上、農耕、工業で、細々と自然を改革しては来ました。 しかし、いまだに、地震ひとつ、台風ひとつ阻止することもできません。大局的にみれば、自然に翻弄されている存在であるという事実には、太古とさほど変わらないと思われます。 これが、いつの日か、本当の意味で自然を克服し、自然の驚異から完全に自由な存在、神に近い存在になる日が、人間には来るのでしょうか?それとも、ある限界点に近づくだけで滅亡するでしょうか?

  • 人間はついに自然を克服するのか

    歴史上、農耕、工業で、細々と自然を改革しては来ました。 しかし、いまだに、地震ひとつ、台風ひとつ阻止することもできません。大局的にみれば、自然に翻弄されている存在であるという事実には、太古とさほど変わらないと思われます。 これが、いつの日か、本当の意味で自然を克服し、自然の驚異から完全に自由な存在、神に近い存在になる日が、人間には来るのでしょうか?それとも、ある限界点に近づくだけで滅亡するでしょうか

  • 科学的な見地からの宗教

     日ごろから不思議に思っていたことなのですが、日本人は「宗教は非科学的だ」という言葉を耳にすることがあります。これは日本人が無宗教でいる一つの要因であると思います。日本人にとって「非科学的だね」といわれるのは、現代においては非常に侮辱的な言葉であると思います。では本当に宗教は非科学的なのでしょうか?? (1)宗教のどういった部分が非科学的なのでしょうか?? (2)私はここで言う「非科学的」というときの科学は「自然科学」を基準にしていると考えます。宗教(宗教学)は人文科学に属するわけですが、自然科学の視点から人文科学の研究成果を「非科学的」と判断できるものなのでしょうか?? (3)科学に無知な私が思い浮かべる科学は「実験により証明された事実(データ)を基に、そうした事実の間に法則を見出す営み」と考えています。このように、宗教は非科学的であることを、どなたか実験から証明された事実に基づいて、非科学的であることを立証した研究者をご存知なら教えていただけないでしょうか??またその科学的な実験方法や、その人の著作をご存知であれば教えてください。 どうぞ教えてください。よろしくお願いします。

  • 国立科学博物館は事実上、国立自然史博物館では?  

    そう思うのは自然、生物関連の展示がメインで科学技術関連の展示は地球館の2階のワンフロアしかなかったからです。 あくまでも構想(実現は難しいかと思われます)ですが、 科学技術関連のみを別の建物に移転して「国立自然史博物館」と改称し さらに移転先に0系新幹線などの新たに科学技術系の資料を追加して「国立科学技術博物館」とするのはどうでしょうか? 日本の科学技術の歴史を展示する博物館です。 技術大国には、自国の科学技術の歴史を展示した博物館がありますが 例、ロンドン科学博物館(イギリス)、ドイツ博物館(ドイツ)、レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館(イタリア)など 日本にはありません。 ですから、日本にも必要だと思うのです。 あくまでも構想ですがいかがですか? 追伸 私が主張しているのは最先端技術を展示した博物館ではありません。 それでしたら。日本科学未来館、テピア、科学技術館があります。

  • 歴史ってなぜ学ぶ必要があるの?

    学生時代、歴史が苦手だったものです。ひがみと捉えられても構わないのですが…。 「日本最古の通貨は和同開珎」とか「任那という国があった」とか「弥生時代は○○年頃に始まった」とか、最近になって覆ってしまった事実を、私が学生だった頃に覚えさせられた記憶があります。 そんなことを覚えさせる学校の先生も浅はかだな、と今では思うのですが、実際にテストで出るのですから仕方がないとも言えるのでしょう。社会の教科書も含めてそうだと言えると思うのですが、こんなに不確定なことを覚えさせて何の役に立つと言えるのでしょうか。 こういう話をするとよく「自然科学も同じだ」と言われる方がいますが、理科の先生や教科書に書かれていることは、最先端科学的観点では既に覆っているため、その点に関して気を使って書いているように思うのです。 結論の出ない質問かと思いますが、歴史好きの方に意見をお聞きしたいと思います。

  • 当事者に争いのない事実と経験則

    判決が当事者間に争いのない事実を基礎とするのは当然ですが、仮に当該事実が自然法則、科学法則及び経験則上あり得ない場合には、どうなりますか?仮に自然法則、科学法則及び経験則上あり得ない認定事実を控訴理由とするとすれば、いかなる控訴理由になるでしょうか?