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歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

tyr134の回答

  • tyr134
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回答No.11

歴史に自然科学のような「普遍的な法則があるのか?」という問いは、歴史学が確立された18世紀以来続いている問いです。 特に、盛んになったのは、19世紀後半から20世紀前半です。 まず、ドイツにおいてレオポルト・フォン・ランケと言う人が、歴史とは「史料」を徹底的に批判してその批判に耐えられた物だけを使うべきだという、所謂「実証主義」を唱えました。 これは、今でも「歴史学の基礎」となっています。 しかし、その後に「本当に、批判に耐えられる史料なんてあるのか?」という問いが提示されます。 というのも、「史料」というのは「誰かが書いた物」であり、その時点で「書いた人の主観」が入るために、「主観的でしかない」という事です。 また、「史料を読む」行為も「読む人の主観」が入るので、これも「主観的」でしかありません。 また、ただ事実をコレクションするだけの「歴史」は無意味である、「本当に意味ある歴史」は「現在の問題意識と結びついた歴史である」という指摘が生まれてきます。 これを、鋭く指摘したのがイタリアの歴史家であり哲学者であるベネデット・クローチェです。 彼は「全ての真の歴史は、現代の歴史である」という言葉を残しています。 その後、同じような内容をカーやコリンウッドが唱えています。 つまり、「歴史」というのは「真実そのもの」や「普遍的な法則」ではなく、「過去と現在の対話」あるいは「生きた歴史」となるために、「現代的な問題意識」という視点が重要ということです。 ただ、そうすると「主観」が全面に出てくることとなります。 この「主観」が全面にでると、「歴史」が「都合良く歪められる」ことになります。 そうならないためには、ある程度「制約」が必要になってきます。 (少しうろ覚えなのですが)確か上原専録史だったかが、「社会や学会など」から「制約」がかかるし、歴史家自身が「事実をありのままに知ろう」とする姿勢が重要だということを言っていた気がします。 ともあれ、「歴史」というのは自然科学のような「普遍的法則」は見つからないというのが、多くの人の認識のようです。 17~18世紀には「(キリスト教的な)普遍史」を想定して、それを底辺として「歴史研究」が行われていました。(例えばヘーゲルの「歴史哲学」なんかは良い例) それが、ランケ以降は「実証主義」が基本となり、クローチェやカー以降は「現在の問題意識」と「歴史」を結ぶことも視野に入れながら、歴史研究が行われていると言えます。 >エイズ薬害禍と日米交渉の挫折――。一見何ら関連性のなさそうな2つの歴史的事実の間には実に驚くべき「相似形」が存在しているという著者の鋭い洞察力こそ、まさに自然科学で言う所の、事実を観察し、異なる事象間に存在する共通項を括り出し、そこから帰納的に規則性、法則性を導き出したことにあるように思われます。 これこそ、まさに「著者の主観的な思いこみ」とも取れる内容ですね。 それが、「歴史」なのです。 >歴史を学ぶ意義は、まさに橋本氏や橋本左内のように、過去の事実から自然科学的探究によってある種の普遍的法則を見出し、それによって混沌とした現在を解析し、そして未来をも予測可能なものにすることにあるのではないかと思われます。 これこそ、まさに「現在の問題意識(主観)」と「過去」の結びつきと言えます。(カー風に言えば「過去と現在との対話」) つまり、「歴史」には自然科学のような「客観性」は求められません。 出来うるとすれば、複数の人々(社会や学会)による、相互監視や緊張関係における「主観の連鎖」によって「客観に近付ける」事くらいです。 (つまり、「歴史は主観(フィクション)でしかない」からといって、「事実誤認」や「捏造」は赦されない) 最後に、参考Q&Aを挙げておきます。 こちらのANO2の私の回答も参考にしていただければと思います http://okwave.jp/qa3672975.html 参考になりましたら、幸いです。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。また、併せて過去のご回答も拝読させて頂きました。 非常に興味深い内容で、まさに眼から鱗が落ちる思いが致しました。回答者様のおっしゃる「歴史学の歴史」は非常に面白いですね。 回答者様のおっしゃることは、まず、歴史(学)においては自然科学的アプローチ、つまり一定の法則なり理論なりを探すことは無意味ということなのですね。 従って、質問文に例として挙げたサイトの内容にも、著者自身の主観が大いに入っている、ただ、それも歴史の中の「ワン・オブ・ゼム」であって、決してそれが唯一の「歴史」ではない、ということですね。 そして、「歴史」に主観が入り込むことは止むを得ないけれども、そうするともし百人の歴史家なり歴史著述者がいれば百通りの「歴史」が書かれてしまうことになるわけで、それでは非常に不都合なので「客観に近付ける」ことが行われている、それが「歴史」というものである、と理解しましたが、いかがでしょうか。

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