• 締切済み

科学の先にある疑問

もしも今後、科学が究極的に発展し、森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かしたとしたら もはやそれ以上、科学的な研究をする余地がなくなり、科学という営みは完結してしまいます。 そんな完結した科学の先にある疑問は、なぜ、もしくはどうして存在するのかというものだと思うのです。 例えば、なぜエネルギーというものが存在しているのか、なぜ素粒子が存在しているのかなど 未来の人々はそれらの存在理由を探っていくと思うのです。 科学では客観性や普遍性、整合性などを拠りどころとして自然を理解しようとしますが 存在理由の探究についてはなにを拠りどころにすれば、納得できる答えが得られると思いますか? 回答よろしくお願いします。

  • 科学
  • 回答数18
  • ありがとう数15

みんなの回答

回答No.18

No.17さんも言っている通り、考えるだけ無駄です。 ゲーデルの不完全性から、人間の考えるものは不完全です。 物理学はある仮定のもと積み上げられています。実験を説明できないものが出てきたとき、それを補うために新しい理論が考えられます。既存の理論と整合がとれるように。すると、物理学は不完全という結論になります。 人間は、実際にそこで起こっていることの、時空への射影しか見ることができないのです。 森羅万象…という仮定が"ありえない"んです。

  • ha5050
  • ベストアンサー率22% (11/49)
回答No.17

存在理由など考えるだけ時間の無駄。理由などない。必要ない。

  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.16

自然の摂理が理解できるようになれば、シャンバラと呼ばれる巨大なUFOも創り出せます。 太陽に近づき、重イオンを採取している姿を望遠鏡で確認され、皆さんが絶叫していたようですので。 スーパーカミオカンデって、シンチレーター検出器とガイガー管の合体応用版としか思えない。 >存在理由の探究についてはなにを拠りどころにすれば、納得できる答えが得られると思いますか? 数十年掛かろうが、数百年掛かろうが科学分野に携わった人達が協力し合い研究すればいいことだし、無理難題でもないでしょうって。 時間の逆行と次世代エネルギー開発、人工レアメタル分野に穴を開けるつもりですから。

  • LB05
  • ベストアンサー率52% (593/1121)
回答No.15

 直接の回答とはなりませんが。  『科学』というモノが、『森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かす』事だけを目標としているなら、御指摘通り『科学という営みは完結』するかもしれませんが・・・・そもそも『科学』って何ですか?ナゾを解くだけが科学ですか?  ワタシ、(物理屋とか化学屋とは本質的に相容れない)機械工学系の研究者なんですけど、この種の議論がメディアに流れる度イライラしています。  『科学』とは『原理を知る事』だけではありません。ヒトがその原理を自由に利用出来る様になって、初めてそのジャンルの『科学的究明』は完結します。『森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かす』事が終わっても、それは今まで知らなかった事が判ったということに過ぎず、まだヒトのモノではありません。  仮に世の中の全ての現象を理論的に説明出来たとしたら、次に来るのはその理論の利用です。つまり発見された理論を用いて『この大宇宙に存在しなかったモノ』を生み出す行為が次に来るワケで、本来存在しなかったモノを作り出すということは、その可能性・発展性は無限大であり限界などありません。  ちょっと抽象的な表現になって来たので、具体的な話を考えてみましょう。  例えば・・・・宇宙物理学分野での計算をすると、地球から月までの効率のよい軌道が算出出来ます。  ここまでは物理学の分野です。  しかし軌道計算が出来たところで、『なんだ、月に行くのは結構カンタンじゃね?』とはなりません。実際にその計算通りに動く機械や装置が必要になります。そして、そんな機械を作り出すのも『科学力』です。  これは『森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かす』だけでは到底実現出来ない『モノ作り』分野の話です。(しかし勿論、そのモノ作りは膨大な物理学的理論によって成立しています。) ・・・・要するに、『森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かす』事が出来たとしても、もう一つ『実用化』という巨大なヤマを越えなければ、人類が利用出来る科学技術とは成り得ない、ということです。『知ること』と『作ること』は、科学に於いてはどちらが重要ということはなく、表裏一体なのであって、それも科学の進歩の一部なのです。  日本の製造業の弱体化が顕在化し始めた頃、某大手新聞社が『日本のモノ作り復活のカギは?』と題して、ノーベル賞受賞者を集めて座談会を企画した事があります。  勿論、飛び抜けた科学力を持たなければノーベル賞は受賞出来ませんが、しかしその科学力はモノ作りとは直接は関係ありませんし、ノーベル賞クラスの科学者が何十人集まろうとも、モノ作りは復活しません。  こういう『恥ずかしいほどズレまくり』の座談会を権威ある新聞社が開催してしまうところに、『科学』に対する世間の大きな誤解が見て取れます。(辛辣な言い方をしますと・・・・世間の80%を構成している『文系脳』のヒト達の科学に対する理解力は所詮その程度、ということになるのかもしれません。) >科学では客観性や普遍性、整合性などを拠りどころとして自然を理解しようとしますが  上述した様に、自然を理解することだけが科学ではありません。『知らない事を知る』というのは人類にとって大きな進歩ですが、『新たに知った事を利用して、今まで出来なかった事が出来る様になる』という事も、『科学』というものの重要な役割であり、その役割には『やり尽くした』ということはありません。  そもそも・・・・小柴博士の『スーパーカミオカンデ』、宇宙物理の進歩に大きな役割を果たしている『ハッブル宇宙望遠鏡』、最新の報道でヒッグス粒子を発見したとするSERNの加速器などは、一体誰がどうやって作ったんでしょう?『森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かす』為の数々の観測装置は、『因果関係を解き明かす』のとは別の驚異的な科学力によって生み出されているのです。  『神の国の理論を地上に引き摺り下ろす』研究を生業としているワタシや同僚や弟子達は、科学の限界や行き止まりなど信じていません。仮に物理屋どもが紙の上で宇宙の全てを証明出来たとしたら、宇宙物理屋はそれで失業でしょうが、しかしそこから我々の新たなチャレンジが始まります。  そしてそのチャレンジは無限に続きます。

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.14

No.2,7 です (三回目)ゴメンね、何度も。 えっと、少しスタート地点が違ったようね。 お礼の文中に 以下 引用を失礼します。~~~~ >理由が分からないから、これまで自然科学を探求してきたのが人間なんじゃないか? そんなことはないと思います。 だって科学者は自然を様々な概念で解釈しようとはしても、存在の理由なんて 問わないじゃないですか。 まず科学上の概念が存在することを認めることができ、それがどのようなものであるのか 納得のいく説明ができたら、考えをそこで止めてしまう。 理由なんてあろうがなかろうがきっと興味ないんだと思います。 ~~~~ まずちょっとここで。 自然科学は、解き明かすためのツールでしかない。 存在している、していない、それを考えるのは、哲学の方面です。 実際に、説明がつかない現象もたくさんありますね。存在はしていても。 間違っていたこともたくさんあるし。  #ニュートリノ に質量があるって間違えていたしね^^;  #数学で行けば、完全性定理を証明しようとして、不完全だということが分かった! ただ、自然科学において、そうしておいた方が整合性がつく!ってだけで いろいろな法則や定理を見つけてきただけ。 よくよく考えてみれば、「万有引力」だって本当に ヒッグス粒子によって 質量が付けられたから存在しているのか? あるいは別のことなのか? 別の論理体系が成立してもおかしくない。それで整合性が取れればね。 少し線引きが違ったようです。 存在の証明をするのは科学の仕事じゃない。 現象の解明をするのが科学の仕事。 だから解明し尽くしたら哲学なんだ~^^; しかし、哲学だけでは存在の証明は出来ない。  #不完全性定理も絡んでくるしね。 「無味乾燥な科学上の概念」と書かれているけれど、 No.7に書いているけれど、「科学」と「哲学」はもはや切り離せないから かなり苦しいと思うよ。 『分かりえない』って言うのが正解なのかもね。 実際にそのときになって見て、どうやって考えるか? σ(・・*)は哲学に行き着くと思うけど、「現象の目的」だったり 「現象の存在」を確かめるためには、「現象」自身が分からないといけないから、 科学的に考察することになるだろうし、 その考察自身は哲学になるはずだし。 No.8さんも書いてくださっているとおり、 堂々巡りだと思うよ・・・。 ただ最後に1つ言えるのは、 「現時点での自然科学の解釈が全て正しい」ということが証明できてはじめて、 今度はそれを構成する要素(クォークなど)の存在理由や、存在証明に移るんじゃないかな? σ(・・*)は、ここで必ず止まると思うけどね>< 不完全性定理でもって>< 「ありとあらゆる公理的体系は自分自身の無矛盾性を証明することが出来ない」 人間が作り上げた自然科学が正しいと証明することは、自然科学や人間では証明できない。 こういい変えることができるから。 これは勝手な観測なんだけど、同時平行的に進んでいくんじゃないかな? 存在理由は分かるかどうか? ただ存在は解明と一緒に見つかっていくんだと思うよ。 存在理由は、どうしたって最後は人間に落ちるよ。 人間の存在証明、人類の存在証明に行き着くと思うよ。 自然科学も人間が作り出しているんだから。 「胡蝶の夢」でしかないような気がするけどね・・・。 (=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=) 納得のいく答えは得られないと思うよ。今のσ(・・*)たちでは無理。 哲学で出しなおしてみたら? 向こうは本職だから、こういうのは。 代数学屋・電気工学屋はそう思うよ。

  • mazeran
  • ベストアンサー率42% (221/518)
回答No.13

No,4です。 お礼をありがとうございます。 >>存在している理由などがわかっている >是非教えてください。 これは質問の仮定の結果を書いたまでです。 存在している理由がわからないまま、森羅万象におけるあらゆる因果関係はわからない。と言いたかったんです。 >・・・扱うものが自然科学の概念である以上は科学で扱ってもいいんじゃないかと思います。 私は扱えないから様々な「学問」が現在存在しているのだと思います。 あくまで「思います。」です。 「餅は餅屋」と言う言葉があるように、専門家の方が長けているので学問は「分化」されたのだと考えます。 前にも書きましたが、元々は「一つ」だと思います。 現に、物理の分野をやろうとすると「数学」が必要になり、数学を極めようとすればある程度の「歴史」を知る必要がある。 その歴史には、「宗教」的な思考も踏まえる必要も出てくるし、理解しようとすれば「国語」の力も必要となる。 かなり強引な例えですが、人間の思考の根源と言うか、「知りたい」と言う欲求の大元は一つなんだと考えます。 それが各専門分野に別れて、それぞれの道で極めて行く。 曖昧なことを書きますが、間違っていたら忘れてください。 「自然科学」の中には、「自然哲学」と言うものも含まれると思います。 なので、やはり物の存在理由を考えるには、「哲学」と言う学問で攻めることが賢明かと思います。 我々科学・技術を使うことを生業とする者は、物の存在理由など考えたところで得るものはないと考えます。 我々は、存在している物に対しての自然現象なりを理解して、人間の生活をより豊かに便利にしようとしているわけです。(使い方によっては「破壊」もありますが) 使う人間の心理などの考察はしないのと同じことが言えると思います。 それは「心理学」とか「行動学」の専門家に委ねればいいことであり、その研究結果を利用することで、科学・技術の正しい利用方法に応用が利くわけです。 まあ私もここまでちゃんと考えたこともないので、一般的な考え方ではないかも知れませんが、学者・技術者と言う立場ではなく、あくまで個人の考え方としてください。 ですので確実に間違っていると思われる部分もあるかと思いますが、ご容赦願います。

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.12

人間の認識にも思考能力にも限界がある一方で森羅万象はほぼ無限である以上は全ての因果関係を解き明かすことは不可能かと思います。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.11

度々すみません。No.1です。 エネルギーは概念です。勘違いなく。 実態があるかどうかもわかりません。 現代物理の先になにがあるかはわからないので、先々のことを見通すことは意味がないと言った方がいいですかね。 私の専門のことになってしまい大変恐縮ですが、当時超伝導のメカニズムを解明したとされるBCS理論(これは南部陽一郎氏の自発的対称性の破れを基にした理論で、権威があります。)が発表されたあと、物性物理はすでに新しいことは何もない、あとは応用のみだと言われた時期がありました。 しかし、高温超伝導体の登場によりBCS理論の限界とされる臨界温度より遥かに高い臨界温度の物質が現れてきてしまい、未解決問題が増えてしまったのです。(現象的には、酸化物高温超伝導体は結晶内部の圧力による圧力超伝導と言った見解がありますが、昨今の鉄系超伝導もあるため何が臨界温度を高くしているかはまだわかりません。) いくら理論が完璧でも、それを覆す実験結果が現れてしまえば、完全ではなかったことになります。未解明の実験事実がこの先現れるか?という問いの解は導き出せないのです。従って、No.1で何をもって完結かと問いを投げ掛けてしまったのです。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • fxq11011
  • ベストアンサー率11% (379/3170)
回答No.10

存在?、どう言う状況を言っているのかな、物質のこと、それともその他エネルギーもふくめて?、もっと抽象的なものも含める?。 われ思う故に我あり、意味をとり違えて解釈しても、間違いでもないような気がします。 考えている自身そ存在は疑う余地なし、のほかに考えているから存在しているとも・・・・。 地球上での現象、銀河系内での現象、全宇宙での現象・・・となれば現時点では「無限」の言葉を使いたくなります。 無限の概念の中では、比較ができません、座標軸の原点も存在しえません。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • masudaya
  • ベストアンサー率47% (250/524)
回答No.9

湯川先生も同じ疑問を投げかけられて 基礎理論が確立したら,後は応用研究しか残らないとした上で, その前にみんないやになってしまうかも とおっしゃっているのを何かの本で読みました.

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 心理学が心の科学として存在しうる理由

    心理学の問題です。「自己あるいは他者の「心」(心的経験の様相,思考内容,感情状態,意識的あるいは無意識的な精神活動および精神状態など,あなたが「心」と考えるモノあるいはコト)の法則(因果関係)を科学的に(客観的および普遍的な方法と論理構成によって)理解することが可能である(たとえ現実的には現時点で無理であったとしても,論理的には可能である)理由,つまり心理学が心の科学として存在しうる理由について,自分の考えるところを述べよ。」です。よろしくお願いします。

  • 宗教は究極的には科学によって駆逐されるもの?

    宗教は人間の能力の限界を超えた障害を乗り越えるために存在するものだと理解しています。 一方で科学は、究極的にはこの世のすべてを解明しようとするものです。 宇宙の始まりから素粒子の研究、生命の起源、生物の体の働き、そして我々人間の心の働きにまで科学の範囲は及んでいます。 最終的に究極理論と呼ばれるものが見つかり、演繹的に世の中のすべての現象を科学的に記述できるようになってしまえば宗教の存在意義は何なのかということになりませんか? それでもなお、宗教の存在意義はあるのでしょうか? 科学がある特定の宗教の中で信じられてきた事実を覆すたびに、 それに合わせて宗教全般の扱う範囲が徐々に狭まってきているのではないかと思います。 実際今日次々と生まれてくる新興宗教を見ていると、 科学と真っ向から対立するようなものはほとんど見受けられません。 それともそもそも宗教の扱っている範囲と科学の扱っている範囲は異なるもので、 駆逐とかいう考え方自体が間違っているのでしょうか?

  • 原子と原子の空間

    H2OとかH2とか原子や分子があります。それらがイオン結合とかナントカ結合とかで くっついているというのは勉強しました。原子核に対して電子はとても小さいというのもわかります。 最近ヒッグス粒子という存在が確認されたのもしっています。 ところでそのナントカ結合とかでくっついていてもおそらく原子と原子の間は空間があると思うのです。 その空間には何が存在しているのですか。仮に原子を全て取り除いた1立方mほどの空間が私の目の前約1メートルにあったとします。 その空間はどのように見えるのでしょうか。 また原子やヒッグス粒子も一切存在しない空間ってこの森羅万象の中に存在するのでしょうか。

  • 物理学での力は粒子の交換ですか?

    現状での解釈としてで良いのですが、根本的に究極的に力がなんなのか、力を構成するものが存在するのか、力は力として何にも構成されずこれ自体として理由や因果を持たずに存在しているのか、色々検索して調べているのですが、難解でわかりません。 「基本的な四つの力がある」 「その四つの力は素粒子のレベルで素粒子(グルーオンや光子など)が交換されていて発生する」 これでいいのでしょうか? 分かりにくいのは交換ということで力が発生すると直感的に理解できないのと、交換する移動するために力が既に存在しちゃってるんじゃないの?ということです 「力」そのものではなく力を「伝達する」手段が四つの素粒子?

  • 科学とは何かまたは科学の定義についての考察

    八百屋さんに、八百屋って何する仕事ですかと訊けば、野菜を売るんだよ。と答えくれますが、科学者に、科学って何ですかと訊いても答えられませんでした。そこで。自分なりの科学の定義を考えたのですが、穴があったら教えて頂ければと思います。 「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において、言語や数式などの記号によって抽象化したもの」です。説明します。    幽霊がよく出る場所というものが、ある。ある人は幽霊を見たといい、ある人は見てないという。目撃談というものは、そういうものだ。  では科学はそのことについて何が言えるか。何も言えないのである。いいところ、こういう場合には、それに似たものが目撃されることもある、と言うのが精一杯で、絶対にそんなものは存在しない、とは言えない。  何故か。  科学は再現性を有し、かつ万人に認識される現象しかあつかわない。再現性のないもの、特定の人間にしか認識されない現象については、何とも言えない。  科学は結論として、普遍性を保証しているわけではない。つまり「宇宙のあらゆる現象には再現性があり、かつ万人によって認識されうる」という命題の真偽は手付かずのままなのだ。  ただ科学は、黙々と、再現性があり万人に認識される現象についての法則を求めてきただけなのだ。言ってみれば、霊現象は、先程の命題を偽とする有力な証拠にも成りうるのである。  認識、という問題については後に述べるとして、ここでは、ただ、認識なるものが、その対象を万人が等しく認識することが可能か、とだけ言っておこう。つまり、白、と言った場合、私が認識するところの白が、他人にとっては、私に取っての赤にみえないとも限らない。同じだ、と証明することは論理的には不可能なのだ。  さらに、科学はいろいろな前提を必要とする。世界を前提によって、ピン留めしなくては、そもそも法則など求められない。  科学が用いている前提は多岐にわたる。一番基本的なのが、アリストテレスが唱えた、排中律(ある命題は真か偽のどちらかである)同一律(A=Bのとき同時にA≠Bということはありえない)だ。それから因果律(Aという現象とBという現象が連続して認識される場合、AをBの原因といい、BをAの結果と言う)も挙げられよう。他にも前提は無数にある。上記三つの前提は、科学のみならず、科学の土台となる論理学、数学、の土台ともなっている大前提の大前提だが、種々の科学法則は、それら前提の積み木の上に成立しているもし、それらの積み木が誤っていれば、当然、その法則自体間違いだということになる。  そこで例えば、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)について考えてみると、一番上段の積み木は「閉じられた系に置いて」という前提がある。  科学法則は決して絶対などではない。もしそうならば、生命などというものが宇宙に存在する筈が無いからだ。だが、生命はある。どういうことかというと、生命が存在した場所は「閉じられた系」ではなく、「開かれた系」なのだ。プリゴジンは散逸理論を唱え、そのことを明らかにした。科学は前提が世界と一致する範囲においてのみ、有用なのだ。  さて、「いわゆる現実」という名の物語の正当性の根拠とされる科学の根拠とも呼べる、排中律、同一律、因果律の正当性はどこにあるのだろう?それらを正しいとする根拠は何処に有るのだろうか? ない。  A=Aが正しいと論理的に証明することは不可能だ。それはあらゆる論理の出発点なのだ。論理学はA=Aを真だということにして、論理を進めていくのである。それ自体を正しいとする根拠は何処にも無い。ではなぜそれを正しいとするのか?それは正しいとしたからである。 信仰とは「根拠が無いものをあると信じること」だとは述べた。これは、まさしく信仰に他ならない。科学も結局は信仰からスタートしているのだ。  因果律についてはどうか? ヒュームは、原因と結果は、時間的連続性をもって認識される、二つの現象に過ぎないと言った。つまり、Aという現象の次にBという現象が認識されたとしても、その二つを原因と結果という関係で結ぶのは、結局のところ「物語」だといった。再現性など役に立たない。例えX(Xは正の整数)回AとBが連続して認識されても、X+1回目がどうなるかは分からない。分かる、とするのは物語の行なう独断で、それを保証する論理的根拠はない。結局のところ、こないだもそうだったから、今度だってそうだ、ということなのだ。  量子力学という科学において、ハイゼンベルクは不確実性理論により、因果律を実験的に、否定してしまった。そこでは現象が原因と結果では結ぶことができない。  次に、言語や数式などの記号によって抽象化したもの、ということについて考えてみよう。これはただ、ゲーデル不完全理論を挙げれば、その欠陥は明らかになる。  つまり、あらゆる論理体系はその内部に証明不可能な前提やパラドックスを含んでいる、ということだ。  以上、見てきたように、科学はその内部に破綻(矛盾や証明不可能な前提)を含んでいる。    いかがでしょう。

  • 究極の粒は存在するのか?

    究極の粒は存在するのか? 現在の科学は究極の粒が存在しているであろうという前提に築かれています でも私は究極の粒は存在しない、存在できないと考えます その理由はこの宇宙の中で力の影響を受けない場所は存在しないと言えるからです 楕円は力を加えると分割できます。実際に出来るかどうかは問題ではなく 「楕円は分割できる」は真実なのです 現在の教科書は「粒」が満載です この前提はこのままでいいのでしょうか?

  • 宇宙の真理を解明しました。

    宇宙は、原因と結果の無限連鎖と言えます。 人間は、原子から出来ていて、原子は、素粒子から出来ていて、素粒子は‥‥‥‥‥‥。 そう考えると、素粒子より下にも、原因があってその下にも原因があって‥‥‥‥‥と、原因を外から必要とし因果律が無限に続いてしまい、宇宙の真理を解明するのは不可能なのだ。 しかしここで、エネルギー保存の法則というのが有る、エネルギーは自身で運動出来、増えもしないし、消えもしない、まるでエネルギーは、それより下に原因が無い様に扱われている、そして物質もエネルギーの一つの形だから、宇宙イコールエネルギーと言える。 この世の全ては、原因と結果の無限連鎖からなる、つまり、万物はそこから抜け出て原因無しに存在することは出来ないが、唯一エネルギーという存在は、外からの原因を必要とせずに、自身の内で原因と結果が完結している存在なのではないだろうか? つまり、エネルギーの存在するという結果自体が、実はそのエネルギーの存在することの原因であり、その結果エネルギーは存在できる。無限の因果律から抜け出し自身だけで因果律が完結しているから存在出来た、それが宇宙? 無には時間が無いから、原因が結果を作ると同時に、結果が原因を作るという因果自己内完結現象が、時間的前後差無く同時に起きた、それにより無から忽然とエネルギーイコール宇宙が誕生できるかもしれない? 宇宙を時空と考えることもできる、その場合、時間が空間を作ると同時に、空間が時間を作った、時間と空間は分けて考えることは出来ないから、両者が両者の存在原因であり、両者が両者の存在結果である、ということが同時に起き、だから原因と結果の自己内完結により、外からの原因無しに忽然と現れたと言えるだろうか? 例えばエネルギーというボールがあって、そのボールが転がるという結果自体が、実は原因であり、その結果転がったのだ、結果が原因のエネルギーであり、原因が結果のエネルギーということが同時に起これば、原因と結果でエネルギーが保存されているともいえなくもない、だからエネルギーは原因無くそれ自身だけで運動し続けることが出来る。 自身の存在するという結果が、実は自身の存在するというその原因であり、その結果存在しているという。原因が結果であり、結果が原因であることが同時であれば、宇宙が原因無しに存在出来てしまうと言えるだろうか?

  • 歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?

    橋本惠氏の『イワクロ.COM~岩畔豪雄(いわくろひでお)と日米諒解案~』(↓) http://www.iwakuro.com/index.html は偶然見つけたサイト(オンライン書籍)でしたが、史実を丹念に調べ上げている力作だと思われます。が、今回の質問の趣旨は内容そのものから外れますので、詳細はサイトをご覧頂くものとして、私がこのサイトを読み、凄いと思った点は、著者が医師であり、自然科学に携わる方ならではの科学的な視点で歴史を捉えている点でした。 それは、著者の言葉を借りれば、25年程前に日本で起こった「エイズ薬害禍であるが、日米交渉の挫折と以下の諸点で相似形を呈している。 (1) 正規の手続きを踏んでなされた国家的規模の過ちであるという点。 (2) 施策が間違った方向へと進路をとるにあたって特異なキャラクターのキーマンが介在しているという点。 (3) キーマンの倣慢さが政府機関の意志決定を制度的にも心理的にも席巻しているという点。 (4) 過ちが明らかになるに従って徹底的な隠蔽工作がなされたという点。」 ということです。(あとがき―私がこの本を書いた真の理由―より) エイズ薬害禍と日米交渉の挫折――。一見何ら関連性のなさそうな2つの歴史的事実の間には実に驚くべき「相似形」が存在しているという著者の鋭い洞察力こそ、まさに自然科学で言う所の、事実を観察し、異なる事象間に存在する共通項を括り出し、そこから帰納的に規則性、法則性を導き出したことにあるように思われます。 ところで、史観(=歴史哲学?)というと、私には、唯物史観(史的唯物論?マルクス主義史観?)や皇国史観、あるいは終末思想や末法思想といった宗教的史観(?)くらいしか思い浮かばないのですが、いずれも特定のイデオロギーや宗教が色濃く反映されていて、到底、科学的なものとは思えません。 安政の大獄で刑死した福井藩士・橋本左内は、死の少し前、西郷隆盛や川路聖謨に対し、「日本がロシアと結べば必ずイギリスと戦争になる。イギリスと結べば必ずロシアと一戦交えなくてはならなくなる」と言ったそうです。その40数年後の1902年、日本はイギリスと日英同盟を結び、これを梃子に日露戦争を始めました。当時20歳を少し上回っただけの青年・橋本左内にどうして40数年後の未来が見えたのか――。 これはあくまでも推測ですが、おそらく彼は国内外の情勢だけでなく歴史にも通暁していたのではないか、そしてそこからある種の普遍的法則を彼独自の視点で帰納的に導き出していたからこそ未来が予測できたのではないかと思われます。 上述の橋本氏にしろ橋本左内にしろ、特定の史観とは全く無縁です(橋本左内は開国派であったため皇国史観からは自由でした)。再び橋本氏の言葉を借りれば、「歴史というものがしばしば言われる『歴史観』というような言葉で代表される、固定的な観念や概念でとらえられるようなものではなく、常にあらゆる可能性、流動性をはらんで進行してきたものであり、今現在も進行しつつあるものだ」と同氏が述べておられることからも明らかです(HOME―サイト立ち上げにあたり―より)。 考古学そのものを否定するつもりは毛頭ありませんが、歴史を学ぶことは、過去の膨大な情報量の中から、あたかも遺跡や土器を発掘するかのごとく細かい事実を穿り返すことではないように思われます。歴史を学ぶ意義は、まさに橋本氏や橋本左内のように、過去の事実から自然科学的探究によってある種の普遍的法則を見出し、それによって混沌とした現在を解析し、そして未来をも予測可能なものにすることにあるのではないかと思われます。 ところで、歴史には、史観(=歴史哲学?)以外に、自然科学における「普遍的法則」といったようなものは存在するのでしょうか?また、もし存在するとしたら、それはどのような歴史的事実を伴って表出したのでしょうか?それを通じて現在、そして未来をどのように解析することが可能なのでしょうか?また、そういったことを専門的に研究している方はいらっしゃいますでしょうか?あるいはこういったことに関する文献をご紹介頂いても結構です。よろしくお願いします。

  • 「回答」、「建物が実際に建てられるところの地方性や、場所性、歴史性の問

    「回答」、「建物が実際に建てられるところの地方性や、場所性、歴史性の問題が切り捨てられ、基本的に、普遍的、抽象的、純粋性をもつべきものとしてとらえられ」  日本語を勉強中の中国人です。次の文章に意味がわからない言葉がありますが、教えていただけないでしょうか。 「モダニズムの建築は、工業化していく社会を前提に、工業製品を積極的に利用し、主に直線の構成からなる幾何学的形態をもってつくられている。建築は完結した形態をもたず、一つひとつの自立した単位の組み合わせとしてつくられ、ときに、機械のイメージとも重なりとらえられていった。モダニズム建築を推し進めていった建築家たちは、建築の本来あるべき姿は科学的に理解できるもので、その回答を導き出すことが可能と考えていた。結果的にモダニズムの建築では、建物が実際に建てられるところの地方性や、場所性、歴史性の問題が切り捨てられ、基本的に、普遍的、抽象的、純粋性をもつべきものとしてとらえられ、そのような存在として追求されていったのである。科学的に出された回答は絶対的に正しく、科学と人間の生活とが、何の矛盾もなく結びついていくと考えられてもいたのである。」 1.「その回答」は何の回答でしょうか。後ろにも「科学的に出された回答」がありますが、その回答はいったい何に対して言ったのでしょうか。 2.「建物が実際に建てられるところの地方性や、場所性、歴史性の問題が切り捨てられ、基本的に、普遍的、抽象的、純粋性をもつべきものとしてとらえられ」の意味を具体的に説明していただけないでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 存在するという結果自体が、実は原因なのか?

    因果律とは、原因と結果という、時間の順序のことであり、原因と結果が同時であっては矛盾ということになる。 このように、因果律とは、時間の順序そのものということであるが、それを空間的に捉えた場合。 例えば、電子、陽子、中性子を原因とするなら、原子を結果とするような考え方もできる。 とは言え、原子とは、結局のところ、電子、陽子、中性子、の集まってできた集合体であって、本当に存在しているのは、原子ではなく、電子、陽子、中性子であり、それらが集まって原子として振る舞って存在しているだけなのである。 とすると、結局原子とは、電子、陽子、中性子が原因であると共に、電子、陽子、中性子が結果でもあるのだ。 だから、電子、陽子、中性子に存在する固有時間は、同時に原子(電子、陽子、中性子)の固有時間そのものなのだ、原因と結果は同じ時を刻むどころか、全く同じ存在なのである。 つまり、このように、原因は結果であると共に、結果は原因でもあり、存在が存在するための原因は、存在自身であり、原因を遡ったり、外部から原因を必要とすることなく、存在は、因果律が原因と結果の二つの間で閉じたループになっていて、因果律が自己(存在)の中で完結しているのだ。 このことは、原子だけに限らず、それよりミクロの世界を構成する素粒子や、また銀河のような宇宙の大規模構造にもあてはまるように思える。 つまり、原因と結果は同じ時を刻む、同じ一つの存在なのだろうか? そして、存在するという結果自体が、実は原因なのだろうか?