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無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

tumaritouoの回答

回答No.10

「無意識」について話してみます。その中に東洋の知恵が隠されています。無意識の中に貴方の知らないあなたの心が在ります。貴方がものを考える時、必ず二つの考えが有ると思います。一つは貴方の「現意識」です。もう一つは漠然としているかも知れませんが、確かにあると思います。貴方の考えに矛盾する考え方です。それが「無意識」の中に在る意識です。 アメリカのノーベル賞を受賞したスペリーという人です。その当時テンカン治療のために、左脳と右脳をつないでいる脳梁が切断された大勢の人達に行った「分離脳」の研究のことですが、色々な実験によって導かれた結論が有ります。それは左脳と右脳にはそれぞれ独立した「意識」あるいは「意思」が有ると言う事です。 話が飛びますが、「神経症」という心の病があります、他にも不安と悩みというのが有ります。他にも「人生苦」というのが在ります。それは左脳の意識と右脳の意識の矛盾からきています。その矛盾が大きい程悩みが大きくなります。 その事で「宗教」が生まれますがお釈迦様の教えは宗教ではありません、それは究極の悩み解消の精神療法です。「悩み」は心の矛盾ですが、二つの意識が出会う「見性、又は悟りが開く事」ことによって二つの意識の矛盾が解消されるために、「絶対の安心、絶対の心の自由」が 獲得出来ます。その事を「涅槃」と云っています。 参考文献とかありますでしょうか、ということなので「禅」に関するものが良いと思います。中でも鈴木大拙先生の書いたものをお薦めします。先生は25歳の時に鎌倉の円覚寺にて「見性」されていますので書かれているものには、ムダが有りません、そして、要点を踏まえて書いてあるので、読者にとっては急所が分かりよくなっていると思います。

arayata333
質問者

補足

左脳と右脳が矛盾無く働くようになった状態が 仏の意識として、 その意識は無意識でしょうか?  おそらく唯識論などで語られている西洋哲学での「無意識」の世界と符号する部分は その仏界をすこしでも解りやすく説明するための便宜的表現だと私は思っています。 また、「生物的欲望と社会的欲望」と「自我と社会我」との二つづつの組み合わせを読み解けば、おそらく西洋的は哲学でも仏界への謙虚さとかその入り口の世界ならば理解できると私は、思っています。 その説明は そんなに難しくないと思いますが、たしかに本一冊文ぐらいは説明が必要そうです。 ここでは、したがって略しますが‥。 でも、 これって、なんらかの安らかな体験とか(音楽とか大自然との触れあいが開花したような時とか)がないと、頭だけで理解しようとしても困難な世界です。 そのへんが右脳とか左脳のバランスとかに関係しているのであれば、それも大変興味深いところです。 「神経症」という心の病はたしかに、典型的です。 頭のいい人が、おそらく「やすらぎ」を深いところで求めるがゆえに、ぎゃくに潔癖症となり、人をもそれに巻き込み、みずから怒りという痛みの世界へと走っていってしまう病気ですよね。 文明病であると同時に まさに頭のいい人がかかってしまうのですから、まさにその「バランス」と関係するのでしょう。 でも、たしかにお釈迦様の教えは、その<究極の悩み解消の精神療法>でしょうが、また、 その「悟り」「見性」からくるなんらかの安らぎ抜きには真の精神療法は成り立ちがたいということも確かでしょうが、 現代人にとって、ほんとうに「無心」であれるような状態というのはあまりにも高い目標となり、 雲をつかむような話になってしまいがちなのも充分考慮されるべきことと思います。 仏教を読み解く、解りやすい哲学をここに深く希求する者です。 その意味でも、静かに座ることで呼吸を「見性」にまで導くのが「禅」の世界であるならば、その「見性」の世界から 私たち(文明人)のために、両脳のなんらか分離している者のために、その道の師が語る<要点を踏まえて書いてある>本というものには さらに興味が惹かれます。 鈴木大拙先生の名前は聞いていますが、その内容については少しも触れていません。 その学習の心構えまで教わった気がします。 月に一冊の本も買えない とあるワーキング・プアの「状態」に陥っている者ですが、 ヤフー等で追いかける目標ができました。 今はそれが出来るのですよね。 こころからお礼を述べさせていただきます。 ありがとうございました。

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