• 締切済み

意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのでは?

意識(心)は脳そのものではないでしょうか? 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのではないでしょうか? 子供の頃は意識(心)は心臓なのではないかと思っている時期がありました。 しかし、つい最近、心臓を人工心臓に替えて一年程過ごし、その後ドナーの心臓を移植した男性のニュースがありました。 https://www.cnn.co.jp/amp/article/35084162.html このニュースを受けて自分は意識(心)は心臓ではないのだなと思いました。 そこでやはり意識(心)は脳にあるのではないかと考えが至りました。 自分の主張は以下です。 ❶全身麻酔の経験から、意識が麻酔という物質的作用によってオン・オフを切り替えることが出来てしまうこと。 もし意識(心)が物質的存在でないなら物質世界側の麻酔の作用の影響を受ける筈がないと考えられる ↓ 「麻酔が効くとどうして意識がなくなるの?」 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00197.html ❷意識(心)が五感を感じるということ。これは身体から受け取る五感の物理的情報を意識(心)が受けとっているからではないか。電気信号として脳が受け取るから五感を認識することが私達は出来ている。つまり、意識(心)は脳、脳ということは物理的存在であると考えられる筈です。 ❸意識(心)が脳又は脳の活動であれば、私が死んだ後は脳は機能終了し崩壊するので私の意識(心)の存在は消え去ることになると思います。 つまり意識(心)が消え去るという事は何も何処にも存在しないので無だということになります。 以上の考え方に何か科学的矛盾はあるでしょうか? 自惚れている訳ではないのですが、今知られている程度の科学的真理だけでも死んだら無になるのだろうと結論する気がします。

みんなの回答

  • kagakusuki
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回答No.20

 全身麻酔中に活動が低下するのは脳だけに限った事ではありません。  脊髄や末梢神経の活動も低下しますし、運動神経の活動が低下する事によって骨格筋の活動も低下しますし、自律神経の活動が低下する事によって消化器系や肺等といった脳以外の内蔵の活動も低下します。  従って、 「全身麻酔中に意識が無くなる事」自体を「意識が脳によって生じる事」の証拠とするのは、(証拠になっていないものを証拠として挙げているという意味で)科学的な考え方としては間違っています。

  • apple1963
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回答No.19

言葉があれば、その対象があるわけじゃないし、意味が同一であるとは限りません。 例えば、「空」という字。意味は一つではありません。頭上の「そら」。抜け殻の「から」。佛教用語の「くう」。同じ字なのに、こんなに違います。 「~がある」も、同じだ、という事です。 花は見て触れます。しかし神や心は見れませんし触れません。神は自己の外側にいます。然し心は自己の外側にいる、とは言わないですね。もちろん中にあるのでもない。 仮に心が生まれたと仮定した場合、「生まれる前」は生まれてませんから、心には無関係です。どうでもいい事です。「死んだ後」は死んでるので、これも心とは関係ありません。こちらもどうでもいい事。どちらも自己とは無関係です。 心が生じたものではないとした場合、生じていませんから「生まれる前」が成り立ちません。同様に生じていませんから「死んだ後」も成り立ちません。 目の前の花が生じたものである事は、間違いない。種から芽が出、やfがて花が咲き、そして枯れていきます。心や自己が、そのようなものかどうかです。精子と卵子が結合し、細胞分裂していきます。そして「オギャー」となります。やがて自我が芽生え一人前となり死を迎えます。この一連の流れの、どこに心が生まれたのか? この過程に、心は一切絡みません。心や自己の出番はどこにもないのです。出番がないのに「今ここ」にこうしてある。その不思議さです。 因みに佛教では、心は無始の彼方から現れ、無終の彼方へと去ると教えてます。

  • apple1963
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回答No.18

神がいる(ある)。花がある。心がある。 共に、〜がある(いる)が使われてますが、意味が違います。 同じ「ある」でも、花がある様に心があるわけじゃない。質問者さんは、それを同一としてるから分からないのです。 「生まれる前」とか「死んだ後」とか、自己にとっては無意味な言葉です。脳が生まれる前・死んだ後なら分かります。然し自己・心にとっては意味をなさないのです。何故なら自己も心も、生まれたものではないからです。 生まれたものだけが「実在」なら、自己や心は実在しません。実在しないのだから消滅しようがない。佛教では無我。 質問者さんが考える「意識(心)」は、縄をヘビと思ってる様な意識(心)。そういう心を妄想言います。そうした自分・自己に自信があるので、そこから離れようとしない。 道元禅師は、そうした心を忘れなさい、と言われてますね。考えない。無視する。その実践が、道元禅師にとっては坐禅だったのでしょう。 我々の心は、結局虚仮なのです。虚仮の心が、あれこれ考えても、結局考えた先は虚仮に行き着くだけです。だから意識は脳だと思ったり、輪廻転生する魂があると思うのと違いますか?

dousurebaiinoka
質問者

補足

神がある、花がある、心がある。この三つはどう違うのですか? そもそも心は生まれるものではないとどうしてわかるのですか? 「我々の心は、結局虚仮なのです。虚仮の心が、あれこれ考えても、結局考えた先は虚仮に行き着くだけです。だから意識は脳だと思ったり、輪廻転生する魂があると思うのと違いますか?」 これを回答者さんが言ってしまうと私が言ったことも、回答者さんが言った「心は脳にない」や「心は生まれも滅することもない」ことも、どころか、日蓮聖人や道元禅師の言ったことも坐禅のことも、虚仮の心が考えた虚仮になってしまいますよ...

  • apple1963
  • ベストアンサー率47% (8/17)
回答No.17

❶心が脳と関係ない 大いに関係あります。だから佛教では、眼や耳に識を付けます。眼識・耳識というように。感覚器官も識であり、意識も識である。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E8%AD%98 「心だけで存在している」これなどは、おとぎ話です。誰も見た事がないでしょう。 ❷心は消滅しない 心は生まれたわけではありません。だから消滅しようがないでしょう。心が生まれる所を経験した人はいません。また、見た人もいません。 ❸心は自分ではない 前回も書きましたが、心は捉えどころがないものです。少なくとも我々が自己と思ってる心は、自己とは違う様に思います。だから、道元禅師は「自己をわするるなり」と正法眼蔵で言われてるのでしょう。信じてる自己・当たり前と思ってる自己。そこに気持ちを置くな。そう云う事なのだろうと思います。 普段の我々は、自己がこっちにあり、花が独立して向こうにあると思ってる。 しかし、道元禅師の言う様に自己を忘れたなら、日蓮聖人が言われている世界が広がるのでしょう。向こうに独立してると思ってた花も、自己そのものだった。自己はこっち側だけではなかった。見ている花も自己であった。「月こそ心よ、花こそ心よ」。そう気づくのじゃないでしょうか?

dousurebaiinoka
質問者

補足

❶と❷からして、生まれる前の肉体のない状態や死んだ後の肉体が消滅した状態では心はどうなるんですか?心だけで存在しないなら? ❸独我論...ではない?スピリチュアルでいうワンネスですか? 3回目で読んでるうちに自己を説いているというより、この世界の仕組みに言及しているように思えてきました。 私って何なんでしょう?世界って? 自然が奇跡的に全てを生み出したんですかね? 私が質問したのは現実的な未来の問題としての死、死んで私が残り存続するか消え去り無となるかについて、それとその死を含めて私はどういった存在であり、世界は誰が何のために作り出しどういった仕組みで私が何で世界に存在しなきゃならないのかについて考えるためでした。 仏教だから輪廻転生ですか?

  • apple1963
  • ベストアンサー率47% (8/17)
回答No.16

「同じ意識なら嫌いなまま、違う意識なら嫌いじゃなく」 一度消滅した意識。それと復活した意識。キリストなら同一かもしれないが、「同じ」かどうかは事実の問題です。前と同じ好き嫌いだから、同じとは言えません。何故って、証明出来ないからです。自分で思う事と事実は違います。他人から見た場合も、意識は内面の問題ですから判断できません。 そう考えるより、意識が自分ではない、と考えた方がスッキリします。もちろん仮設ですが・・・。 自己は自己を考えらます。デカルトの「われ思う。故に我あり」。思うからあるのかは置いといて、我が我を思える。心ってそういうもんです。見る私も自己。見られる私も自己。違うのは、一方は見る側。他方は見られる側。でも、両方とも同じ自己なのです。だとすれば、意識が私なのかどうかを怪しむべきです。

dousurebaiinoka
質問者

補足

話が難しくなって参りましたので整理しますね。 ❶心が脳と関係ないもので、心だけで存在している ❷心は消滅しない ❸心は自分ではない? ❶意識が心にあるなら、麻酔は心に作用しているってことですか?心が肉体に依存しないなら原因は物理的なところにない筈です。回答者さんの考える心と身体の関係がよく分かりません。私の脳に意識があるという発想はそんなおかしいですかね。 ❷全身麻酔や気絶や失神してる時も心はあるよ、❸その前後は同じ意識かはわからない。 意識が心にあるということはどうやって分かるんでしょう? 心があるということはどうやって分かるんでしょう? それすらも証明出来ない、分からないのでは。 意識が消滅しない根拠があれば死んでも無にならないので嬉しいです

  • kagakusuki
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回答No.15

>脳と意識がイコールでなかったら全身麻酔で意識を失うことに理由が見当たりません。  充分見当たりますよ。  意識は脳そのものではなく、脳の働きによって生じるものに過ぎず、全身麻酔によって脳を構成しているニューロンの働きがある程度以上抑制されてしまえば、脳そのものの存在自体は維持されている状態であっても意識が無くなってしまう事に何の不思議もありません。  質問者様は勘違いしておられますが、実体と機能(働き)は別のものであり、脳と「脳の働きによって生じる意識」を同一視する事は、「風と扇風機はイコールだ」即ち「扇風機とは風の事です」と言っているようなものです。

  • apple1963
  • ベストアンサー率47% (8/17)
回答No.14

質問者さんが言われる様に、無我夢中になると周りが分からなくなるだけで意識はあります。その違いはあるけれど、似たようなものでしょう。眠りもそうですね。これは麻酔状態と、無我夢中の中間?・・・なのか。 麻酔が覚めると、前と同じ(かもしれない)意識が生じます。その間は何されても感じません。寝てる時も、ちょっと触られたくらいでは意識は夢の中のまま。無我夢中の時は、五感で感じてはいるが意識はないです。佛教に禅定と言う用語がありますが、心を落ち着かせて集中する。坐禅が、その代表です。 道元禅師の言葉です。 「自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」 (正法眼蔵 現成公案) ここで言われてる「自己」とは、心の事です。この前の言葉は「仏道をならふといふは、自己をならふ也」とあり、続けて上記の文句が書かれています。 心とは何か?その為には心を忘れなくてはいけない。心を忘れるとは、世界に包まれる事だ。そう言われてる訳です。前回引用した「花こそ心心よ」と言われた日蓮聖人と、全く同じ事を言われているのです。 麻酔で意識がなくなっても、切れれば意識が生じます。と言う事は、意識たらしめてる何かがあるのでしょう。そう考えなければ、心が滅する事になり、誰が考えても不自然です。一度消えた意識と、生じた意識。これが同じかどうか?質問者さんは、どうやって証明しますか?

dousurebaiinoka
質問者

補足

「一度消えた意識と、生じた意識。これが同じかどうか?質問者さんは、どうやって証明しますか?」 意識が消える前に嫌いな食べ物が意識が戻った後も嫌いなままか確認する。同じ意識なら嫌いなまま、違う意識なら嫌いじゃなくなのでは?

回答No.13

仏教版の哲学マメ知識をまたくどくどと。 「死者の国はない」これは勘違いしている人が多くても偶然の大正解なんだ。 死者になって死の国に行くんでないんだ。 無の境地とは、肉体の感覚が希薄になって、魂だけになった自分が浄化を受けていくような感覚で、これは現代語で妥当な形容とは「プチ臨死体験」なんだ、そして「純粋回帰」とでもいう新語も作れる。 仏教の高僧で現代でも無の境地に到達したと認められる人の話を拾ったことがあって、平常は凡人だが、何らかの作用で断続的に無の境地を楽しむことがあると話していた。 そういうもので、常に仏の状態ではないんだ。 しかし肉体を失うと、恒常的にその状態になるという自己の変化と、未知であってもだからこそ開ける新たなる光明が死(肉体を失うという変化)なんだ。 大体知識としてはそんなものなんだろうと考えていればいいと思うよ。 どうしても修行して確かめたいとかはやめた方がいい。 世界が変化する前に当然自分に変化があるんだ。 自分の事だと、不思議なことに今までほど恐れを抱く必要がなくなったりするよ。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.12

>脳は存在し続けますし、死んで生き返ってる訳でもない。 >意識はまるで無いような状態の場合がある。 >それは脳の活動が低下すると意識レベルも低下し無意識に近づく。 >この関係性から脳と意識はイコールと考えます  質問者様の補足によりますと、意識はまるで無いような状態の場合があるのに対し、意識がそのような状態にある時であっても脳は存在し続けており、脳が「まるで無いような状態」になってはいないと仰っておられるのですから、脳と意識はイコールではないと考えられますね。

dousurebaiinoka
質問者

補足

脳と意識がイコールでなかったら全身麻酔で意識を失うことに理由が見当たりません。

回答No.11

お礼読んだよ。 死ぬのが怖いというのは、死後が未知だからだ。 未知が恐怖を呼ぶけども、それは怖気づくというんだ。 恐怖があなたから観念や涅槃を遠ざける敗走を仕掛けているともいえるんだ。 楽しめないなら、正面から突撃するという手もある。 ヒントだよ。 死後の世界というのは、無いと考えたほうがいい。 肉体を失っても生活するという荒唐無稽な恐怖へのマヒが原因で考えることだからさ。 肉体が滅びるというのは、自分にとっての変化なのさ。 その変化の後に、死後と違う新たな世界の展望があると、その目の前の景色が涅槃だよ。 死に振り回されないで、世の中の働きかけでなく、自分自身が意思を持って変化するのが生きながらの成仏だ。 世の中はあなたの死で変化しない、自分自身が死で変化する。 自分でどうにかなると考えるのが仏陀や菩薩の修行だ。 観念学問の東洋版だよ。

dousurebaiinoka
質問者

お礼

今はそう簡単には考えは変えられる気がしない、未知を破壊するには真実知るしか無いと。 でも有難うございます。

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