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絶対的な無について

(qa3867782『無は存在しますか?』 に関連して、焦点を絞り込んで質問し直すことにしたが、絞り込まれたものは以下の問題に集約されると思われる。) ≪(唯物論者について)彼らは、 「死んだら無になるんだ。…あぁ恐ろしい」 と言うのです。ここには、無になるなら恐ろしいも何も無い筈ではないかという疑問の他に、それ以前にその無は有り得ないんじゃないか、という考えがあるのです。 彼らの言う「無」とは、何でしょうか? 何かの事象に付帯する状態の表現としての無でしょうか? 私にはそれは、意識の完全な無、つまり絶対無であると思われるのです。 つまりこういう事です。意識の有無は客体から見れば、或る意識に付帯する状態としての有無と言え、それは有る。 しかし、主体的意識にとっては、それは絶対無ではないか。 客体の捉えたものが真なのか。 主体の世界が真なのか。 主体の目線から考えるなら、形而上学的な絶対無について考えるしかない、そんな風に思われるのです。≫ 絶対無があるという事になれば、「死んだら無になる」は可能となる。 絶対無が無いなら、「死んだら無になる」事が出来ない。というより意識の無限が論証されてしまう。 それとも、やはり客体の視点しか存在しないのか? 「自分のことは自分が一番分かる」のか。 「他人が見てしか分からない事がある」のか。 そこで質問内容は結局2点以下に絞り切れなかった。 客体が見る事象であるところの意識の状態の有無しか存在しないのか? 主体的意識があるとして、それの無は絶対無であるが、絶対無は有るのか? いろいろ込み入って参りましたが、付き合って下さる方、どうかよろしくお願いします。

noname#65715
noname#65715

みんなの回答

回答No.14

 ≪(唯物論者にとっての無(「死んだら無」)≫  ? 無が有にどうしてなるのでしょう?  ? 同様に有がどうして無になるのでしょう?  ? 何が無になり、何が有にになるのでしょう?  ? その有や無とは、意識の完全な無、つまり絶対無であるといわれます。  (何かの事象に付帯する状態の表現)  意識の有無は客体から見れば、或る意識に付帯する状態としての有無と言え、それは有る。  ⇒ここでは、意識の客体や、主体(何かおかしな主体ですね。無という状態の意識とか、その意識の主体とかの分析があるのでしょうね。おかしな言い方ですね)は存在しているのですか?  主体的意識にとっては、それは絶対無ではないか。  ⇒絶対無、相対無は前の、(qa3867782『無は存在しますか?』を勉強しなさい、ということですか。ここではこのご質問自体はその付属であるということですか。  客体の捉えたものが真なのか。  主体の世界が真なのか。  ⇒主体と客体が絶対・相対の無でもあるのですね。  主体の目線から考えるなら、形而上学的な絶対無について考えるしかない、そんな風に思われるのです。  ⇒主体がある絶対無。そうするとその主体とはなんなのでしょうか?  絶対無があるという事になれば、「死んだら無になる」は可能となる。⇒何が無になるのですか?  絶対無が無いなら、「死んだら無になる」事が出来ない。というより意識の無限が論証されてしまう。⇒≪「死んだら無になる」事が出来ない。≫は⇒、「死ん≪でも≫無になる」事が出来ない。でしょうか。 ⇒無になれないものは何なんですか?  ≪それとも、やはり客体の視点しか存在しないのか?≫   ⇒客体とは、誰にとってのどこにいる客体ですか?    客体と主体。一体どんな世界の客体と主体ですか?    どこにいる、存在している客体と主体ですか?    客体と主体、これは何ものですか? ≪客体が見る事象であるところの意識の状態の有無しか存在しないのか? 主体的意識があるとして、それの無は絶対無であるが、絶対無は有るのか?≫  ⇒絶対無と相対無ということばはどうもあまり意味性のないものに思えますね。造語にしても一般には市民権がなかなか得られないのではないでしょうか?    以上の補足要請にお答えしていただかない限りは、正直申しあげると、深いご思索とご質問に何かの価値性があるとは認められません。  私の不学を啓明していただけると、幸甚です。

noname#65715
質問者

お礼

読む前に閉めてしまいました、済みません。 他人から見たら、自分は「意識が有る」「意識が無い」と表現されます。だから、そういう“表現”として、「無」というのは有る。(何かの事象に付帯する状態の表現)=客体(他人)の見た「無」 自分から見たら、「意識が無い」とは、完璧に何も無いという事です。(絶対的な無)…絶対無と短縮してしまったのは、良くなかったかも知れません。 だから意識について、自分から見た無と、人が見た無は、ぜんぜん種類の違うものです。 表現としての「無」はあるが、それしかないのか。 自分から見た、完全な「無」は有るのか? という問題で、私は「無が有る」という言葉自体矛盾しているのだから、「無は無い」即ち意識は無限であり、死後の意識は継続するのだ、と言いたいのですが、ホントかな? という質問で、 今の所、無が想定できないなら、無が無いんじゃなくて、分からないという事にしか成り得ないのだよ、という意見が強いと思います。 まぁ、このアプローチの仕方では、そこまでが限界だろうという気がします。だから閉めさせてもらいました。 分かりにくくてごめんなさい。

  • JOY-STICK
  • ベストアンサー率44% (108/241)
回答No.13

こんにちは 唯物論で言うところの死は停止です。 世界に関与できなくなる事が、無と表現されているだけです。 あなたの仰る客観と主観の無の差は、ほとんどありません。 違うところは、主観的にみて死んだ時に何も認識できなくなるのが無と同意義に扱われているだけですね。 また、意識は無限ではないです。 以前にもこのような問いを見かけて以下のように答えました。 あなたは深い眠りにある時、それを眠っていると意識できますか。眠りから覚めかけた時に、初めて寝ていたとか、起きるところだと認識が始まるのではないですか。 意識は失われていたと、起きた時に認識されるのです。 これは厳密には無ではありませんが、そう表現しても間違いではありません。 答えとしては 1.意識は有限 2-1.世界から失われ、関与できなくなるので無と表現されても問題ない。 2-2.無が恐ろしいのは無を考えるからである。 3.真の無は宇宙創成以前。 主観の場合停止と言ってもいいですが、客観の場合この世界から失われてしまうのと、絶対無とは違います。 絶対無とは、ビッグバン理論で言われる宇宙の卵の爆発以前の状態です。時間も空間もない、宇宙の存在しない状態です。 そこには客観も主観も存在しません。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3
noname#65715
質問者

お礼

肉体が生きている間でも、一時的に無だったと感じる事があります。 それが本当に無だったのか、記憶に無いだけなのか。記憶に無いという事が存在が無い事を証明するのでもない様に思われます。 絶対無という言葉を不用意に使用した事は誤りであったと思います。 ビッグバンが最初というけれども、ビッグバンの要因が存在せねばビッグバンは起こりません。だからビッグバンが最初というのは迷信でしょう。 有難うございました。

回答No.12

有ることの究極としてのブラックホールに向かって 肉体は無いけど物理法則には従う意識が落下することを想像します。 本人はあっという間に事象の地平線の内部に入っていきますが、 外から見ると、事象の地平線のところで人が(時間が)止まってしまっているように見えます。時間の関係で中に入っていかない様に見えます。ブラックホールの内部は数学的に説明することはできますが客観的現実としては知り得ません。しかも、本人が中心付近に到達したとき時空間は特異点となるため本人さえ意識を構成できません。 たとえ、特異点の問題が論理的数学的に解けたとしても有ることの究極は知り得ないのではないでしょうか。 何を言いたいかというと、意識は、有るという概念でさえ有るという事実と同質に理解したり説明したりすることは出来ないので、その対局である無の概念をことごとく何もないと言う以上の理解は出来ないのではないかということです。 これは時間を絶対条件とする意識の限界であって、変な言い方ですが、意識の存在(有る)が無を消失させているのですね。

noname#65715
質問者

お礼

確かに、無などという状態は知りようがないのでしょう。この方向性が今最も有力な意見だ、という流れに感じます。 有難うございます。

noname#63054
noname#63054
回答No.11

素粒子論的にも世界は波動なわけで、真空は膨大なエネルギーに満ちている というのが常識のようです。 意識の共通領域が現実で、それ以外が虚構の世界です。 白紙には、あらゆる絵が描けますが、描ける力は白紙以外のものが 握っています。白紙に赤いインクが落ちたら、それは無限の可能性が 大幅に制約を受けたということです。 死は、描き終えたキャンバスを入替えるようなものではないでしょうか。

noname#63054
noname#63054
回答No.10

主観の数だけ、世界はある。 一個の主観(主体の意識)は、全体とつながっている。 主体が意識を失う状態は、死以外にも、意識喪失、白昼夢、睡眠など いろいろある。 絶対無というのは、全エネルギーの源である。 絶対無は意識を受け入れ意識によって有が生じる。 それだけです。

noname#65715
質問者

お礼

絶対無は全エネルギーの源ですか。 私が絶対的な無(完全に何も無いという事)を短縮して述べたのが、悪かったかも知れません。 有難うございました。

  • okwindance
  • ベストアンサー率20% (239/1165)
回答No.9

NO.3です。 あなたは肉体的な死、を問題にしている。 仮に、肉体的に死んでも、主体的意識がまだあった、霊的な世界があっった、とします。 死後の世界を経験した、とする人もいます。 でも、そのときの主体的意識は 生きてるときの主体的意識と、同じものではないように思います。 たとえば、 生きていても、重度の痴呆になった人は 自分の糞を食料だと認識して食べたり、妻や子供も、知らない他人と認識したり、自分が誰かもわすれていたり、しています。 生きているのに、主体的意識は、普通の状態とは同一とはいえません。 死んだ後なら、主体的意識が普通に戻り、妻を妻と認識し、自分の名前も思い出すのでしょうか。 それは希望と事実の混同ですね。 たしかにそうあってほしいようにも思いますが。

noname#65715
質問者

お礼

今度はばっちり通じていると思います。 (死後の意識があったとして)確かに、脳を使用するのと、しないのとでは、意識のあり方は同一ではないでしょうね。だから別の世界があるのかも知れません。それで、その時の状態によっては生前の記憶を伴わないのだから、やはり生前の主体的意識は存続していない。 まず、「有るかどうか」を考え、次に「どう有るか」を考えようとしていたので、「どう有るか」が「有るかどうか」に関係してくるとなれば、途端に分からなくなります。「どう有るか」については、論理付けが白紙の状態です。だからそう言われると何とも言えません。 ご回答有難うございました。

  • FMVNB50GJ
  • ベストアンサー率27% (411/1520)
回答No.8

《主体的意識にとっての無は、自分が意識そのもの》 言い換えれば、「私が意識していること」の「無」であろう。 そこで核心は、《主体的》《にとっての無》を意識している主体だと思われる。 つまり、《主体的意識にとっての無》=《絶対的な無》なのか? 絶対的、という言葉にどのような意味を与えているのか不明だが、自分の意識がほかの「自分」の意識から絶対だからといっても今度は《無》の意味が不透明になる。 「なにが」「何から」「どのように」それらの事柄が不透明であっても、具体的な事象に代入可能。 論点がずれることは避けられないですよ。

noname#65715
質問者

お礼

あまりよく分かりませんが、私の表現の仕方が何か悪いのだと思います。有難うございました。

  • adwd
  • ベストアンサー率19% (11/56)
回答No.7

>客体が見る事象であるところの意識の状態の有無しか存在しないのか? >主体的意識があるとして、それの無は絶対無であるが、絶対無は有るのか? なにやら難しい言葉を使っていますが(笑) つまり「私にとっての他者の死」と「私にとっての私の死」ということですかね。 人は他者の死を目の当たりにした時、死んだ人は決して生き返らない、という確信をもちます。死んだ人は私と同じ世界には存在しなくなるわけです。その意味で「無」はあると言える。 では、「私にとっての私の死」はどうなのか? 確実に言える事は、燃やされる、ではなく(笑) 肉体を動かす事が一切不能になり、この世に対して明示的な形では一切の干渉ができなくなるということです。それは他者の死を目にして経験したことからも確実に言えるでしょうし、普通言う所の「死」はそういう意味ですから。 で、質問はその先ですよね。「私が一般的に言われる死を経験すれば確かに肉体は動かせなくなり、この世には存在できない。しかし私という意識がはたして完全になくなってしまうののか?仮に私という意識も無になるなら、その状態を絶対無と呼び、そしてその絶対無はあるのだろうか?」という風に私は捉えたんですが合ってます?そう解釈しましたので、その前提で進めます。 答えは「わからない」以外にはないと思います。 死後も人間の意識が存続するかどうかは私には分かりません。 「仮に存続するとすれば絶対無はない、存続しないとすれば絶対無はある、しかし実際のところは分からない。」これ以上言えません。 ちょっと思ったんですが「絶対無はあるかどうか」という問いは「死後の世界はあるかどうか」という問いに置き換えられますね。絶対無がない=死んだ後も私という意識がある、と考えれば必然的に死んだ後も私はどこかしらに「いる」ことになります。そういったものを死後の世界と呼んでいますよね。逆に絶対無がある=死んだら私という意識は完全に消えるとなれば、その言葉通り死んだら終わりとなります。 じゃあ、それを確かめる術は?そんなものあります? 人間が確実に「存在する」といえるのは、経験可能な事柄に関してのみです。たとえば私は外国に行った事がありません。しかし、アメリカや中国が無いとは思いません。それは、行こうと思えばいける、経験可能な事柄だからです。また実際に「海外旅行してきたよ!」という人を知っているし、テレビでも日本では見たことの無い街や人種、そして聞いたことも無い言語を操る人をよく見ます。日本中が私を騙している可能性もありますが、そんな可能性を考えても無意味です。 絶対無という概念自体が単なる概念に過ぎず、経験不可能な事柄です。それを「存在するかどうか?」と問うのは問い自体に欠陥があります。確かめようのない事柄についてその明証性を求める事自体に無理があるのです。

noname#65715
質問者

お礼

私の質問内容を完璧に把握しておられると思います。 やはり経験が全てですかね。 ご回答有難うございます。

noname#82286
noname#82286
回答No.6

質問者さんに逆に質問したいのですが 1・まず絶対無というのはありませんよ。どうやったら絶対無があると理論立てできまうすか? 2・客観的な意識ってどこにあるのですか? これを踏まえたうえで答えますと絶対無というのがあるというのは不可能理論にいたるはずです。(実証していないけどかなり自信あります。) 参考までに↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3049327.html←NO30 http://oshiete.homes.jp/qa3094250.html←NO33~NO36

noname#65715
質問者

お礼

絶対無はないと思います。有るとすること自体矛盾しているので。 客観的な意識は他者の脳に収まっているのかと。というのも、客体から見た、主体の意識の有無で「無い」と表現される事はある(絶対の無と違う種の無は有る)、という話なので。 難しいお話であまりよく分かりませんでしたが、水をどこまで分割しても水そのものが無くなった事にはならないというお話は、同感です。 ご回答有難うございます。

  • FMVNB50GJ
  • ベストアンサー率27% (411/1520)
回答No.5

少しだけ付き合い 《客体が見る事象であるところの意識の状態の有無》 客体をA、主体をBとすれば、Aは自分自身の意識の「状態」の有無を対象にできるだけでなく、Bの意識の「状態」の有無を対象にできる。 たとえば、自分が考え事をしているのを他人が見て考えている事象である。 《主体的意識があるとして、それの無は絶対無》 主体Bの意識の「状態」をあるとしたものが客体Aの意識の「状態」ならば、主体Bの意識の「状態」を「無」と断定した客体Aは、自分の存在が主体Bの意識の「状態」に無いのを断定し、それでもつてAとBの絶対的な無を定義した。 たとえば、自分が考え事をしているのを他人が見て考えたとき、他人が見ているのを認識できなかったが、他人は何を考えているのかわかった場合。 もちろん、時間から、場所から、一切のものからの無関係という人間の意識というものは、ひとつの観念したものである。

noname#65715
質問者

お礼

客体から見れば意識という何かに付帯する状態の有無として、「無い」と言わしめる表現の仕方なら「有る」。 だが、主体的意識にとっての無は、自分が意識そのものだから、客観的に「無い」などと表現出来る類の、表現としての無ではなく、絶対的な無の事だ。そこで、この絶対的な無は存在するのか? これが私の質問でした。私の読解力が無いのか、ご回答の論点がちょっとずれているのか、文字通り“ちょっと”連想される事を考えられたという事なのか… 何となく私の聞き方がまた、悪かったのかなという気がしてきました。 ご回答有難うございます。

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    http://kikitai.teacup.com/qa3586268.htmlにおいて、 himara-hus様とHusky2007様から、教えていただきました。有難う御座いました。  長く締め切らないままに地方に出かけるわけにいかないので、お礼と共に締め切りました。 《戴いたお教えの要約1.》:物が無ければ、空間があることもわかりませんし、物も何も無ければ、空間が仮にあっても意味が有りません。時間が無ければ、物があることもわかりませんし、何も無ければ時間が有っても意味が有りません。 《このお教えへの再質問》:客体物や事象があることがわかるかどうか、意味があるかどうかではなく、そういうものがなくても、  (1)時間とか空間とかはありうるのか。  (2)時間と空間は客体物や事象の存在形式なのか、それとも知覚や経験側の形式なのか 《戴いたお教えの要約2.》:空間と時間は物質の容器というようなものではない。そのようなものは存在しない。物質の存在形式の反映である。であるしかない。相対性理論的認識が絶対的な真実かどうかを問うのは余り意味がない。物理的・科学的認識の確かさを更に、理論的・実験的に探求すれば良い。 《このお教えへの再質問》:  (1)日本語の語義的質問ですが、『反映』というのは、光が『reflect』している『状態』という意味なのか、『存在性格の見え方・側面』ということなのでしょうか。  (2)相対性理論的認識も絶対的認識も、このことでは私には関心のないことなのです。ですからこのこと問題にしてお教えを乞うてはいません。  私には、物理であろうと科学であろうと、宗教であろうと、信仰であろうと、真理であれがいいだけのことです。  そういう脈絡の中で、  (2)-1客体物質や事象の起源や基盤というのは、今後の限りない探究でしょうか? 探究のゴールというものはあるべきものと、予測しておいででしょうか?  (2)-2客体物質や事象の存在の開始する以前というのは、探究の対象問題にはなりえないのか、しないのか。 (意味のない事というのだと、それは何にとっての意味がないのかの問題となると存じます。意味や価値・目的性、ないし何かの有用性は別の事だと存じまして?)

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。