量子論の本質と絶対性、存在論について考える
- 量子論には本質的・絶対的・無の概念が絡んでおり、それが一致するか疑問がある。
- 観察者を排除した外的な存在性はあり得ず、無の潜在としての認識可能性を含む現象表面的な存在性が生じる。
- 質疑応答からわかるように、量子論における存在論は個別の存在から出発し、観察者との関連を含む織り込まれたものとなる。
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量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?
または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか? つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。 質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。 主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、 絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面 (仮想)的に有限的存在性を生じる。 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が 有なのだ。 無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、 現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ) と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化) 『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面) としての量子(感受表面~超弦)。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ご回答をありがとうございます。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、 絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面 (仮想)的に有限的存在性を生じる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか? (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは? (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか? (4) ですからたとえば: ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。 ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか? (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか? (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか? (7) さらに畳み掛けるようにですが: ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。 ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。 ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか? (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。 ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。 ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。 それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。 (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。 (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。 ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。 ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。 (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。 (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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本質・絶対・無などの用語をうまく操れないので、思うところを書きます。 シュテルン・ゲルラハ実験というのがあります。現実に行われた実験です。 シュテルン・ゲルラハ実験では、電子の対生成を行います。電子はスピンを持ちます。スピンとは自転の事ですが、厳密にはふつうの物体の回転ではありませんけれど、ここでは割愛します。 スピンする電子は磁場を持ちます。自転軸の方向にN,Sです。スピンする電子は超短い棒磁石と、ここでは思ってけっこうです。 スピンは保存量です。生成前のスピンが0なのは明らかなので、対生成後の2つの電子のスピンは逆向きの±Spとなり足せば0ですが、+Spの電子が[N,S]磁石なら、-Spの電子は[S,N]磁石です。 ±Sp電子は逆方向に飛んでいくので(運動量保存則)、それぞれをそれぞれの場所で、同一の上下方向磁場にくぐらせ、+か-かを確認します。例えば上下方向磁場の影響で上へ曲がるのが+電子なら、他方は下へ曲がって-電子です。実際にそうなります。どちらが+,どちらが-の確率は50%です。 追試として、±電子を上下方向磁場に再度くぐらせると、+はやっぱり上へ曲がり、-は下へ曲がって、この場合は結果を100%予想できます。ここまではOKです。 古典論に従えば、上下方向磁場の影響で上下方向に自転軸が揃った±電子は、左右方向磁場には反応せず、直進するはずです。追々試として左右方向磁場をくぐらせます。 結果は左右に電子軌道が曲がります。一方が左へ曲がるなら他方は右で、その確率は50%です。追々々試として左右方向磁場をくぐらせれば、左は左,右は右なのですが、追々々々試に再び上下方向磁場を選ぶと、最初と同じになります。 まっさきに考え付くのは、スピンモデルが間違っている、という事です。しかしスピンモデルは、他の検証実験での結果や、他の理論との整合性はほとんど完璧で、とても間違っているとは思えません。そして量子力学によれば、反対方向に飛んで行った2つの電子に外部磁場をかける地点は、どんなに離れていても(100万光年離れていても)一方が上なら他方は必ず下、一方が左なら他方は必ず右、となります。 上記のような異常事態から、観測した瞬間に電子の状態が決まった、という考えが支持されます。かつ一方から他方への状態決定の伝播速度は超光速になり、しかも状態の決定は確率的です。これは量子力学のコペンハーゲン解釈に整合する結果であり、コペンハーゲン解釈はシュテルン・ゲルラハ実験以前から、量子力学の基本仮定でした。しかし信じられない本当か?という事でやってみたら、身も蓋もない形で実証されてしまった訳です。 アインシュタインはシュテルン・ゲルラハ実験以前の人ですが、量子力学がこのような矛盾(?)を抱えている事に気付いていました。アインシュタインは愚直なまでに正統的な素朴実在論者で決定論者です。彼は次のように考えます。 多くの実験結果から、量子力学の計算が疑いもなく正しいのは事実だ。だからシュテルン・ゲルラハ実験は、それならそれで良い(やられてませんでしたが)。問題は量子力学が、その超光速伝播機構を物理的に説明しない事だ。超光速伝播機構をもし解決できれば、状態決定の確率性(実在の確率性)も解消できる。何故なら伝播機構(伝わり方)がわかれば、とちらが上か左かなどは、事前に100%予測できるはずだ。 どんなに離れていても、その影響が瞬時に他方へ伝わる事を現在では、作用の非局所性とか長距離相関とか呼びます。つまりアインシュタインは、作用の非局所性と実在の確率性は不可分なものだと考えた訳です。作用の非局所性のカラクリがわかった暁には、実在の確率性は、そのカラクリによる疑似確率性として説明できるはずだと。 その趣旨に従って「量子力学は不完全である」事を、素朴実在論と決定論に基づいて論理的に論証しようとしたのが、EPR論文です。一方の雄であるコペンハーゲン解釈のボーアは、アインシュタインの立場に逐一反論していきますが、決着は50年後でした。 アインシュタイン・ボーア論争の30年後にベルは、シュテルン・ゲルラハ実験のように上下と左右の直角方向だけでなく、外部磁場の角度を例えば1°刻みにし、全方向をカバーするような追試を行ったらどうなるか?、という着想を得ます。アインシュタインの考えに従えば、1°刻みであろうとそれぞれ50%の確率なので、全ての追試をやり終わった後では、全方向に対して一様な確率分布が得られるはずです。一方量子力学に従えば、量子効果による偏りができます。 こう書くと単純な計算みたいに聞こえますが、実際にはかなり難しく、ベルだからこそ考えつけたというところがあります。ベルはそれを、ベルの不等式としてまとめます。 ベルの不等式の検証実験は、その20年後なんですよ。超精密実験が必要だったので、技術が追い付くのに20年を要しました。結果は、量子効果による偏りを確認しました。なので、アインシュタインの魅力的なプログラムは現状では、再起不能です。 現状では、何故かはわからないが実在は原理的に確率的である、が共通認識になっています。しかしそれなら、なぜ現実は決定論的に見えるのか?、という問題が生じます。 そこで、シュレーディンガーの猫で致命的な反論を被ったミクロとマクロを峻別する古いコペンハーゲン解釈とか、超多時間理論とか、「唯心論物理学(中込輝明)」などなどが現れます。 例えば、中込先生はまっとうな物理学者で「唯心論物理学」は読めば非常に面白い本でトンデモの類ではありませんが、いずれも実験物理学者の現場の即物的感覚に合うものではありませんでした。 それらの中で、自分が一番まっとうだと思えるのはデコヒーレント理論です。デコヒーレント理論は、観測された時に実在の性質が決定される事を認めます。それが超光速で伝わる事も認めます。しかし観測するのは人間だけではありません。 実験で観測する時には、対象に何らかの粒子を衝突させます。代表は光子(光)です。つまり顕微鏡ですよ。探針が衝突した時に、対象の系の性質はその時に決まる訳です。でも光子を衝突させるのは、人間だけではありません。太陽は人間が見ていなくたって、月に光を衝突させます。それによって、月の原子の位置と速度を確定させ、確率的な状態から体積も形も確定させます。 そう考えればこの宇宙は、粒子の衝突に満ち溢れています。それらによって、量子的に確率的な存在は、統計的安定性を保ち、我々の前に実在となって現れたと考えるのが、デコヒーレント理論です。 デコヒーレント理論は、量子力学よりも深い原理は何か?とか、実在がなぜ確率的なのか?とか、長距離相関の機構はどうなのか?、とかにはいっさい応えてくれません。逆にだからこそ、現状では信頼に値する考えだと思えます。わかっている事だけで、何とか説明できそうだから・・・。 デコヒーレント理論が妥当だったとしても、やっぱり「この世は不思議の塊」ですよね(^^;)。
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- yozora_flower
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量子論になじむかという質問に誰かがなじむという回答をした時点でなじみます。これが量子論です。デカルトはわれ思うゆえにわれありといいましたが前のわれは無意識にあとのわれは意識的に認識しています。無が存在すると誰かが考えた瞬間に無が存在します。もし誰も無が存在すると思わなければ無は消えてしまいます。人は無意識的にいろいろなものを認識していてだからこの世界は豊かなのです。無かどうかわからないかわからないと思った時点でその事象が現れます。
お礼
そうですね。おっと まづは ご回答をありがとうございます。 ええっとですね。要するに《主観》が何かを捉えたり何かを思ったりしたとき その主観のかぎりで その知解行為や意志行為は 現実であるといった世界の捉え方をおっしゃっている。と思います。 ただしですね それは ちょっと見方をずらすと もうそれはいわゆる独りよがりの見解にしかならない。と思われます。 おのれの主観において明証性があったとしても ほかの人の主観においては どうなのか? そういう視点が 脇に置かれてしまっていますよね。たぶん わざとそこは(他者の視点というのは) 括弧に入れてしまって 問わないようにしているのだと思います。 そういう意味で わたしは この主観における明証性とそれにもとづき世界は存在するのだと主張すること についてはあまり加担することが出来ません。 というのが いつわらざるわたしの反応です。どうでしょう。
- kanto-i
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>いや。ですから かんと-あいさんも ご自分で到達した《無》論のその結論を どうぞこの場で明らかになさるのがよい。こうわたしなら考えますが この場で明らかにする必要は感じておりません。 自分の中で明らかになっていれば、今のところ十分です。 その先を追う時間に力を注ぎたいので、余分な時間は割けないですね。 それにここはQ&Aですから、必要以上に展開するのは ここの趣旨に反するでしょう。 ご自身で書いてあるように、この質問の趣旨であるご自身の問題を 他の人に回答を出してもらい、それで決めるってのは自身がそこに存在しません。 ですから、質問が根底からずれていると申し上げました。 哲学的回答としては、それで十分ではないでしょうか。 と言うことで、以上です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ この場で明らかにする必要は感じておりません。 ☆ この質問のぬしであるわたしが それを欲しています。《無》とは何か? です。 ★ ご自身で書いてあるように、この質問の趣旨であるご自身の問題を / 他の人に回答を出してもらい、それで決めるってのは自身がそこに存在しません。 ☆ これも違うように思います。すぐれた考えは みなに広くつたえるものです。 互いに自由に批判しあい さらに互いにとって一段高い次元であたらしい問いとその答えを問い求めてすすむことになるはずです。 ですよ!
- kanto-i
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質問の内容が根底からずれているように思います。 論理学において、数学・物理領域は算出方法であり 答えが何になろうと、馴染むとか馴染まないとか まったく関係ありません。 たとえば、性善説・性悪説において両者は相反するものではないと 言うことを導き出される場合とか、本質はどちらだという命題において 私がやってみて導き出されたものは「無」でした。 「無」とはサルトルが言ってたんでしたっけ、うる覚えですが。 導き出し方を使って、そのロジックで確認したものが何であれ 馴染むかどうかの観点は必要ないと思います。 問いに答えが馴染まないと思えるのは、自身の中に概念がない場合と 自身が受け入れないとしている場合にのみ感じる感覚であるからです。 それは、一般的な論理的問題ではなく その人が個人的に抱える問題だと思いますが。 ご自身の問題を解決する為の、補足請求はお答えしません。 自分で答えを出さないと意味がないので。 自分の問題は自分で答えは出さないと 蛸壺さんはいつまでも蛸壺さんに甘んじる訳ですから。 人に問うて、ファイルし続けても答えはその中にありません。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 問いに答えが馴染まないと思えるのは、自身の中に概念がない場合と / 自身が受け入れないとしている場合にのみ感じる感覚であるからです。 ☆ そのとおりですよ。 概念を持っていなかった場合というのは そのときによいものならば新たに持てばよいだけですので 措いておきます。 わたしが受け容れようとしていない場合というのは ここまでおそわった内容から考えるに 次のくだりではないかと思います。: ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~ ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。 ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言いかえると あなたも触れておられますが ◆ 無 とは何か? ではないかと思います。 そこでですが 次のお考えについては わたしは別の考えを持っています。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分の問題は自分で答えは出さないと 蛸壺さんはいつまでも蛸壺さんに甘んじる訳ですから。 人に問うて、ファイルし続けても答えはその中にありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かいつまんで述べますが わたしはあまりにも同じ型の文章が回答として寄せられるので一度ブロックをしていました。基本的にはブロックは――特に哲学カテとしては――しないという考えですので やがて解除しました。そうして ふたたびわたしの質問に投稿をして来ています。 で けっきょくですが 回答として寄せて来ている以上は――つまりは わたしのほうから近づいたというような問題ではなく 相手から寄稿して来ているからには―― ふたたびブロックするか それとも何らかのかたちでその互いの違いについて 出来るところまでは明らかにしたい。こういう思いがあります。あるわけです。 さいわい 自然科学のことについてもおしえてくださる方々がいますので わたしもまなんで行きたい。こういう心つもりです。 いや。ですから かんと-あいさんも ご自分で到達した《無》論のその結論を どうぞこの場で明らかになさるのがよい。こうわたしなら考えますが どうなんですか?
#4です。すいません、いい加減な事を書きました。 こちらからの電話以前に、 >「てめぇ~、左右磁場をかけやがったな!」 って相手が怒れる訳ないんです。もしそうなら相手は、こっちからの電話以前に左右磁場を試したという事であり、その結果は相手の影響か、自分の操作の影響かが五分五分なのは、向こうもこっちも同じだからです。 シュテルン・ゲルラハ実験はこのように、常識的感覚とはどこかかけ離れた結果を与えるものだと、言い訳しておきます(^^;)。
お礼
ううーん。これらのことが すっきり分かったなら どんなにすがすがしいことでしょう。 いやぁ むつかしいですね。 ありがとうございます。
#3です。 > 要するにお化けや幽霊を 枯れすすきやちゃんとしたモノや生物や人間にする(固める?)《観察》をおこなうのは 光子を発出するものがするのだということですか? 我々の物理的認識領域はほとんど電磁力(光子)に支配されているので、ほとんど「光子を発出するもの」になるのですが、ここで言う観測とは、粒子の衝突現象の事を指し、もっと広く相互作用のいいかえでもあります。 量子力学では、何かが何かと相互作用する時には、力などを担う粒子(光子のような)を交換すると考えるからです。量子が何かと(量子と)相互作用した時に、両方の量子の状態が相互作用なりに決定される、という考えです。例えば原子核内部であれば、核力を担うグルーオンが優勢になりますので、グルーオンを介して陽子や中性子が相互作用した時に、それらの観測可能な状態が決まると考えます。グルーオンを直訳すると、なんと「糊子」になります。核力は、陽子と中性子をまとめている力だからです(^^)。 >これは いっぺん人間なら人間に固まったら もう――生きている内に――量子に分解されることはない。のですか? ありていに言えば、常に量子に分解されかかってる訳です(^^;)。しかし衝突が余りにも頻繁に起こるので、安心してまとまっていられます。一個の細胞の中の原子の数を考えてみて下さい。膨大な数の原子が、ある意味触れ合わんばかりに集合しています。膨大な数の原子を集合させる集合力も相互作用であり、衝突現象であり、広い意味での観測による状態決定と考える訳です。 >量子の世界は 放っておけば いつまでもお化け屋敷なる世界だということなのですか? >ミクロとマクロとが交わり混ざり合っているという場は ありますか? ないのですか? >成仏しないで幽霊のまま=量子のままという場合はないわけですよね? 理屈の上ではあります。宇宙にたった一個の電子しかないような状況です。このケースでは相互作用する相手がいないので、電子はいつまでたっても量子のままです。宇宙全体に確率的に拡がっているような解が、すくなくともシュレーディンガー方程式からは出てきます。 ミクロとマクロとが交わり混ざり合うケースも、理屈の上ではあります。ミクロとマクロの境界など本当は無いのだと喝破してみせたのが、「シュレーディンガーの猫」の本当の価値です。それでファインマンは苦し紛れに「人間の意識の中で観測は成立するのだ」、と言ったふしがあります。その物理的意味は皆無である事を知りながら、量子力学の数学的定式化を日常言語に翻訳するために。 量子力学の数学的定式化を日常言語に翻訳して、そんな事しか言えないなら、量子力学はやっぱり不備なんですよ、不完全なんですよ。そういう声は20世紀末からようやく聞こえ出していますが、まだどうなるかは現在は、闇の中です。逆に「人間の意識の中で観測は成立する」を徹頭徹尾認めたらどうなるか?、が中込先生の「唯心論物理学」です。 次のような話はご存じと思います。統計力学的に言うと、熱を加えずに氷が溶けて沸騰する確率は0ではない。だとすればマグマもないのに御岳山は水蒸気噴火する事になる。しかしその確率は余りにも低いので、見た事無いし、これからも絶対に見れないだろう。・・・ミクロとマクロの交叉状態もそれと同じです。 でも確率は確率です。世に言う超常現象の半分くらいは、量子跳躍に基づいて説明可能なのかも知れない(←半分冗談です(^^;))。 >☆ わたしは これの実例を知っています。ベルギーとこちら名古屋とがつながっていた経験です。ベルギーで悩み苦しんでいる人間のことを わたしは知覚して 電話がかかって来たので これを確認しました。テレパシーですが。 量子テレポーテーションと何か似ていますね。量子テレポーテーションは、シュテルン・ゲルラハ実験の電子の片割れを手にしたような状況です。その電子は、瞬時に伝わる長距離相関によりいずれかの状態にあるはずなのですが、試す訳にはいきません。上下方向磁場か左右磁場かがわからないからです。試したら、せっかく超光速で届いた情報を壊すかも知れないからです。 そこに「上下方向磁場」を伝える電話が、通常通信で来ます。その後、上下方向磁場を試して上へ曲がったら、相手は下だと確実に予想出来ます。 でも電話の前に、ある方向の磁場を試しても、それは相手の影響か、自分の操作の影響かは五分五分です。電話してみたら、「てめぇ~、左右磁場をかけやがったな!」って相手は怒るかも知れません(^^;)。 このように長距離相関は完全な情報を運べないので、超光速通信ではないとするのが現在の立場です。完全な情報を得るためには、電話という光速以下の通信手段に頼らざる得ないからです。それは実在の確率性に基づく原理的なものだと考えられています。 でも長距離相関という用語には、「超光速通信であって欲しい!」という下心が見え見えなんですよね。本当に、そうであればいいのになぁ~(^^;)。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 我々の物理的認識領域はほとんど電磁力(光子)に支配されているので、ほとんど「光子を発出するもの」になるのですが、ここで言う観測とは、粒子の衝突現象の事を指し、もっと広く相互作用のいいかえでもあります。 ☆ 衝突現象ないし相互作用があれば 《観察》したことになり 量子の世界はふつうのマクロの世界に変身する。ですか。 ともかくそこにある(いる)ものが 観察者なわけですね。 ★ ありていに言えば、常に量子に分解されかかってる訳です(^^;)。しかし衝突が余りにも頻繁に起こるので、安心してまとまっていられます。一個の細胞の中の原子の数を考えてみて下さい。膨大な数の原子が、ある意味触れ合わんばかりに集合しています。膨大な数の原子を集合させる集合力も相互作用であり、衝突現象であり、広い意味での観測による状態決定と考える訳です。 ☆ ふうーむ。だからテレポーテーションのようなことがあり得るかも知れないわけですか。 あっ ちなみに 電話はベルギーからかかって来たのです。こちらは 胸騒ぎがしただけで 電話しようとか思ってもみませんでした。それまで一度も電話したことはなかったのです。 ★ ミクロとマクロとが交わり混ざり合うケースも、理屈の上ではあります。ミクロとマクロの境界など本当は無いのだと喝破してみせたのが、「シュレーディンガーの猫」の本当の価値です。 ☆ こりゃあ 一大事だ。だったら 《存在》とは何ぞや? の捉え方が違って来ますね。 人間の場合ですが 何か《わたし》の裏側の世界があるように思えたり もしくは奥の院があってそこでおのが悩みや誇りや燃える野心があったり。・・・ ★ それでファインマンは苦し紛れに「人間の意識の中で観測は成立するのだ」、と言ったふしがあります。その物理的意味は皆無である事を知りながら、量子力学の数学的定式化を日常言語に翻訳するために。 ☆ ということは 《観察》すらあまり関係なくなるのですか? オモテのふつうの状態にはならなくてもよいとでも言うような。 いやぁ ちょっと間違っているかも知れません。 あと テレパシーは けっこうあるんですよ。わたしとカラミのある対話をした場合には その人から何らかの思いのようなものが届けられるといった感じが起こります。まぁ 主観の問題なんですが。 ★ でも長距離相関という用語には、「超光速通信であって欲しい!」という下心が見え見えなんですよね。本当に、そうであればいいのになぁ~(^^;)。 ☆ おもしろそうなんですが あんまり分かっていないかも分かりません。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 この回答は、読書感想文やエッセーであり、ファンタジー・空想的な要素を含めて、おもしろおかしく話を膨らませています。 ですから、 私が真剣にこのようなことを考えているとは思わないでくださいよ(ペコリ)。 あくまで、楽しい読み物として読んでください。 ☆☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか? ◇電子などのミクロサイズの現象は、確率的な表現───確率(分布)や期待値みたいなイメージ───でしか記述できない。これはこうした現象に対する我々の知識や理解の不足のためにこうした現象を確率・統計的に表現せざるを得ないのではなく、量子的な現象が、そもそも、このような性質を持っているためである、 という意味ならば、両立可能ですかね。 ☆(2) また同じく 《絶対化》とは何か? ◇たぶん、量子力学などで《波束の収束》や《波動関数の収束》のこと。 ~~~~~ コペンハーゲン解釈 量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束の収縮(英語版)が起こる)と解釈する。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 ~~~~~~ ☆おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは? ◇《波束の収束》のような意味であるならば、矛盾はしない。 ☆(3) 《有限的存在性》は・・・ ◇たぶん《有限的存在》は、(物理的に)観測可能な存在くらいの意味になるんでしょうね。 極論をすれば、波動関数の《固有値》なのでしょう。 ☆ ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。 ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか? ◇観測者であり、最終的には人間ということになるのでしょうね。 ~~~~~ 意思説 「人間の意思が量子の状態を決める」とする解釈。量子力学と哲学を関連づけて考えている者もいる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 ~~~~~ みたいなことを主張する人がおり、こうした考えに従うならば。 人間は神が作りたもうた特別な存在であり、特権的存在だから(ポリポリ)。 ここから先は、物理学ではなくなってしまうので、知的なお遊びとして読んでください。 ☆ (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか? ◇鶏が先か、卵が先かの議論になるんでしょうね。 我々の身体は電子や陽子などで構成されており、その電子や陽子などは量子力学の法則(?)に支配されている。 ですが、先の意思説のような考え方に従うならば、人間は特権的な存在であるから、少しおかしな話になってしまう。 たぶん、人間が意思を持った瞬間、宇宙は生まれた、宇宙が決定づけられた、となるんでしょうな~。 宇宙の歴史や生物の進化の歴史、道筋などを含めてですよ(ポリポリ)。 ☆◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。 ◇《意思説》に従うならば、そう考えざるを得ないでしょうね。 ですが、 ~~~~~~~ コペンハーゲン解釈では、量子が観測後に広がりを失ったように見える現象を波動関数の収縮(波束の収束)と呼ぶが、収縮がいつどのようにして起きるのかを説明することはできない。つまり、収縮が観測によって引き起こされたとは断定できないし、また観測が必須とも断定できない。ただ確実に言えることは、観測すると波動関数の収縮に相当する現象が確認できることだけである。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 ~~~~~~~ で、 「収縮が観測によって引き起こされたとは断定できないし、また観測が必須とも断定できない」 や 「ただ確実に言えることは、観測すると波動関数の収縮に相当する現象が確認できることだけである。」 と書いてありますよね。 ☆ ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。 ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか? ◇意思を発生する心が空間的に存在するのであれば、心が在る所が内で、そうでない所が外となるのでしょうね。 ☆◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。 ◇この無は、○○は存在しない、という意味ではなく、 現象的存在ではない、現象を生じさせる、高次の何かを意味しているのでしょう。 老荘などでいう《無》に近く、「(現象界の)存在に非ず」という意味において《非存在》というべきものなんでしょう。 ☆☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。 ◇この《射影》は、量子力学などでいう《射影》とは違うんでしょうね。 量子論を織り交ぜての話だから、無用な混乱を招きますよね。 これはたぶん《影》くらいの文学的な意味なんでしょうけれども。
お礼
ご回答をありがとうございます。 推測を交えざるを得ない形ですが 思ったことを応答してまいります。 ◇ (1)《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は・・・:という意味ならば、両立可能ですかね。 ☆ おそらくその《本質》というのは 《量子的な現象が、そもそも、持っている性質》としての本質ですよね? すなわち ◇ 確率的な表現───確率(分布)や期待値みたいなイメージ───でしか記述できない。 ☆ という本質ですよね? けれども ふつうに哲学で《本質》と言えば 存在ないし存在の中核のことだと思います。それは 存在が 《量子の相互作用》に還元されるといった意味ではなく 量子が一定のかたちを定めた状態での《存在の中核》なのではないか? でも考えてみれば これは 水掛け論のごとくなりそうなので 取り下げます。 ☆(2) また同じく 《絶対化》とは何か? ◇ たぶん、量子力学などで《波束の収束》や《波動関数の収束》のこと。 ☆ これは 経験事象ですよね? 相対なる世界の出来事なのではないのですか? (3)(4)は 承りました。争点はないみたいです。 (5)も《意思説》があるとお聞きして そういう捉え方を並立させるに いまは留めたほうがよいようです。 (6)(7)も そういう研究段階として受け取って 保留ですかね。 (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか? ◇ 意思を発生する心が空間的に存在するのであれば、心が在る所が内で、そうでない所が外となるのでしょうね。 ☆ これは よく分かりません。《心が在る所》は 観測する行為をおこなうわたしなる存在(あるいは 脳裏)のことであって 《そうでない所》とは わが心(精神あるいは 科学する目)が及んでいる世界であると思います。したがって もし ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。 ☆ と言うのならば 《心が観察しているその我れおよび世界》がすべて《排除される》かのように捉えられてしまいませんか? 《観察者を排除した》という言い方もおかしいし 《外的にうんぬん》という言い方で受け継ぐのもおかしい。ように思います。 まぁ 表現の問題でしょうか。 ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ この無は、○○は存在しない、という意味ではなく、 現象的存在ではない、現象を生じさせる、高次の何かを意味しているのでしょう。 老荘などでいう《無》に近く、「(現象界の)存在に非ず」という意味において《非存在》というべきものなんでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほんとうですか? それでしたら 《神》のことぢゃないですか。そのようにはっきり言うべきだと思えて来ます。 ただし 創造主といった概念(とその物語)はあくまで 《非知・非在・非経験の場》なる神についての仮りの説明表現に過ぎないと考えられます。 創造‐被造物の関係は 絶対と相対との関係を表わすというのが――想定じょうながら―― 実質的な中身だと思われます。擬人化しているだけだと考えます。 けれども ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。 ☆ これは なおおかしいように思います。《有》とは 何について言っているのか? これが分かりません。 神について 無神論と有神論とが互いにひとしく有効であるといった内容なのでしょうか? そのようには見えません。 それとも この経験世界において そこにあるといった《有》は 《本質としての無》に還元されるかたちで 現象しているのだ。でしょうか? これも それなら 神のことですね。ただしそれだと人間が あやつり人形に近づくようにも思えますが。 (13) これは推測ですよね? 《射影》がです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ この《射影》は、量子力学などでいう《射影》とは違うんでしょうね。 量子論を織り交ぜての話だから、無用な混乱を招きますよね。 これはたぶん《影》くらいの文学的な意味なんでしょうけれども。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ますます 《非在 ないし 高次の存在》たる神が あらゆるものごとの源泉となり原動力となってはたらいて その《影》としてすべてはこの世界に現象している。と言ったことになるのではないでしょうか? 量子論から いったいどういう議論が成されたのでしょうか? 《勉強してください》と言われているのですが いったい何をまなぶとよいのでしょう? という思いがのこります。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
量子論の基盤は、不確定性原理である。 現象表面的な存在性を、本質的に絶対化しようとすると、 無限不確定性に発散する。 それは、位置(S)と運動量(St)、時点(T)と質量(Ts)の 存在性を成す上で具備すべき値の持つ不確定性が、 それぞれの対において相補的であり、一方を確定化 しようとすると他方の確率性が無限発散する、という ものである。 それは元々1本の軸(光速下から超光速への連続性) だったものを、超光速における虚数エネルギー化を、 空間的相互作用における自乗において、虚数エネルギー 粒子の過去への飛散を負エネルギー=過去からの飛来 の等価として、現在からの過去と未来への対発生を 過去から未来への連続の“途中”での相互作用として 捉える事による。 即ち、本来直交していない軸を、「超光速=過去=記憶 =時間」と「光速下=未来=予測=空間」として相補分化 &直交基底とする事で、不確定性の両軸への相補性を 可能にしているのだ。 (と言っても分からないと思うので、勉強して下さい)
お礼
この質問をもうけたわたしがわるかった。 いかに第三者の視点をあてていただきたいと願ったこととは言え 輪をかけて持論が展開されてしまった。 ご回答をありがとうございます。
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