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無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

記憶を司る脳の領域として海馬領域と呼ばれてるところがあるようですが、その海馬領域での記憶の出入りの具合と意識の関係をいろいろ吟味するということなら解りますが、 意識の世界に対して‘意識の無い世界とか意識以前の世界とか意識の下層にある意識とかいう表現で 意識とはその氷山のほんの海面上の一角にすぎない。’ という表現は脳の持つ可能性を示す表現だとしても、かなり曖昧であり、むしろ不必要な表現に思われてならないのですが、どうなのでしょうか? 潜在意識という言葉も、この無意識という言葉を前提としているわけですが、その潜在意識の可能性ということにしても、「記憶というものの活用しだいでの広大な可能性」というふうに考えないと、かなり抽象的な幻想がまかりとおってしまうような気がしてならないのですが? それとも、意識とは別ななにかが脳の作用の中に何か存在しているという考えが何かあるのでしょうか? 無意識という言葉自体 何か変なのですが? 下意識でも別な点で同じく変ですが、 へたな曖昧な表現とやはり考えるべきところなのでしょうか? わたしは、 なんというか、ともかく厳しい状況下にてあまり本とか読んでこれなかった者です。  でも、いろいろ一生懸命考えて生きてきて、この情報化社会にこんな大切な点が曖昧であっていいのだろうか?と思えてきてしまうのですが、 これはやはり、無知による早とちりの面もさすがにいなめませんし、かといってほんとに単純に海馬領域の出入りの作用として 単純であるがゆえにこそ力のある 深い経験の何らかの脳科学的な検証や、その他の実験がされたものがどのように海馬領域と関わるのかの実験のための哲学が今大きなちからになるのではと これは本気でそう思えるので、ここに質問させていだだきました。 哲学だけでなく心理学や生物学に詳しいかたの回答とかも必要とする質問でしょうが、 まずは哲学からは、私のこの質問はどうとらえられるものなのでしょう。  この疑問を提唱された方は、過去の思索家とかの中におられますか?  その参考文献とかありますでしょうか?

みんなの回答

回答No.15

ANo.14のURLの訂正です。 QNo.2768780 【 「本の虫」という表現の虫とは? 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2768780.html ↑ここのANo.7,ANo.8に読書の際のアドバイス(注意事項+参考文献)を載せてあります。 お時間がゆるせば、一読よろしく。 m(_ _)m

回答No.14

こんばんは、arayata333さん。 ANo.12への補足をあと少し。 QNo.2768780 【 「本の虫」という表現の虫とは? 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru_reply.php3?q=3646831 ↑ここのANo.7,ANo.8に読書の際のアドバイス(注意事項+参考文献)を載せてあります。 お時間がゆるせば、一読よろしく。 m(_ _)m

回答No.13

NO-10です。 貴方は「人生」について又「自分」について深く考察しているようですね。自分を知る事でその事を達成できるかと思います。何も「座禅」をする事だけが、「道」に至る方法ではありません。道に至る方法は、どんなところにも在ります。 「道」に至る方法とは、今の意識がもう一つの意識に出会うということです。もう一つの意識は貴方の「無意識」の中に在ります。その事に気が付く方法は「五感」から入る事とそのまま「思惟」から入るる方法が在るかと思います。それにしても、時間と相当な努力が必要となるでしょう。下記も参考になるかも知れません。 人生問題の解決ホームページ http://www.jinseimondainokaiketsu.com/

arayata333
質問者

お礼

神経症という現代病と 一切苦 との対比、 それと仏教の意義の世界、 何か大きなことに気がつきそうです。 そちらの参考文献、 言葉をとおしても真実をさぐってみます。 シンプル・イズ・ベストということが当てはまる深い道はたくさんあります。  それがそのサイトの中に 秘められていると感じます。 わざわざありがとうございます。  この場をおかりして、ご回答をくださったみなさんにお礼をさせていだだき、 この質問を個々に閉じさせていただくことにしました。 そんなつもりで書いたのではないのに、こんな多くを学ばせていただき、感謝でいっぱいです。 ほんとにありがとうございました。

回答No.12

こんばんは、arayata333さん。 何方かへのお礼文の中に「超ネット音痴…云々」と、お書きでしたね。 ネットの中で迷子になったら、さー大変。 (*^^*)>゛゛゛だはっ。 わたし、よく迷子になります。 ヾ(-_-;) ちょっと ちょっと  で、ですね、迷ったときのお助けアイテムをちょくら置いときます。 相身互いです。 http://www.searchdesk.com/ http://www.owl7.com/ 【 文献収集講座 】 http://www.h3.dion.ne.jp/~skmanabe/ http://www.nanobio.frontier.kyoto-u.ac.jp/lab/mission.html http://www.nanobio.frontier.kyoto-u.ac.jp/lab/abst/j/03_mbsj_suzuki.html 『絵のない絵本』/アンデルセン 作/大畑末吉 訳 第十二夜 P35~P37 『わたしはきみにポンペイの絵を一枚見せてあげましょう』と、月は言いました。… 続きは、図書館にてお読みください。      読書子に寄す ――岩波文庫発刊に際して――                   岩波茂雄  http://www.aozora.gr.jp/cards/001119/files/42753_16113.html http://www.med.hokudai.ac.jp/~senior-w/Others/WHOHlthDfntnRev.htm

arayata333
質問者

補足

相身互い、最高です。 一番最後の紹介サイトの医療の世界の原点でもあるはずの世界ですよね。 searhdesuk owr7、文献収集講座(これがすごいですね。)楠見研究室(現在の私の興味への配慮ですね。)  n 岩波の え。  こんなサイトまで(^^。 それに さらに、ご自分の書かれた 本の虫もほどほどにというアドバイスまでもいただき、 ありがとうございます。 PCの神様は 我をみすててなかった(笑)のか? ほんとに参考になりそうです。  ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.11

 お邪魔します。  無意識については フロイトの説を 特に モーセがどうのこうのという議論などを 関心をもって 読みましたが よく分かりません。  その後 一昔前には ラカンなどという人がいて フロイトを継いだ言説を発表していると聞き 読んでみましたが むつかしいと言うべきか 中味があるのかと言うべきか よく分かりません。  (文学表現として捉えるなら 面白いところがありました。E.A.ポーを引合いに出して議論するものなど。また 残念ながら 精神分析の臨床としては わかりません。わかりませんが 哲学思想として取りあげたとき どうかという評価は できるとおもいます)。  一点分かっていることは 無意識が まま 超経験の領域にまで侵入して行っているということだと思います。    *  *  *  無意識という概念は 経験科学の範囲にとどまるはずだが――信仰ではないゆえ とどまらなければならないはずだが―― あたかも 超経験の領域としての神と そして経験領域の人間との 混ぜ合わせの事柄を 扱っていると言わなければならない。しかも 信仰ではない。経験合理性の範囲内にとどまるという姿勢である。――間違いを含む結果になっていると思われる。  区分をはっきりさせないことには 議論として 扱い得ないかたちである。  特に 問題となるのは ユングの四位一体説だと考えられる。  これは キリスト信仰における三位一体なる(それとして善なる)神に 第四格として悪なる神をくわえて 四位一体とする考えである。  これは 単純に考えても この世の経験世界で 善もあれば悪というべき事態もあるという普通の観察を そのまま 表現したものにすぎない。わざわざ 超経験の領域にまで この相対的な善悪を 揚げて想定しようというに過ぎない。何の意味もない。経験行為としては 誰もが知っていることである。悪に対する諦めが 少し 早くなる程度だろうか。   *  *  *  ところで ブッディスムは 縁起を説きます。因縁の関係過程です。それも 社会総体における相互錯綜的な関係です。  しかもまた ほかの回答にもあったように 唯識では じっさいに 無意識の領域を説き起こしていると言われます。  上に触れたK.G.ユングのほうは 《集合的無意識》を明らかにしたと言われます。  単純に言って 社会的に―― 一定の社会集団を単位体としても いいわけですが その中で――この関係錯綜には 類型があるという説です。たとえば男には 生命のしるしとしてのようなアニマなる元型があり 女には 心の中に理性的要素としてのアニムスなる元型があると言います。そのような要素が あたかも 唯識の言うアーラヤ識(その種子)としてのように 見出されるのではないかと言います。  けれども ブッディスムは すでに 何ごとも 実体として存在するとは見ていないようですので これら元型ないし集合的無意識も 移ろい行く現象であるということになると思います。(むしろそれらが仮りに取り上げられるとするなら それを利用・活用すればよいということになると思います)。     最後に 少しでも いいと思ったところを 取り上げておきます。     *  *  *  かの《集合的無意識・元型》についての議論で 次のように言うユングには 賛成したくなったことがある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  集合的無意識とは 個人的な心の仕組みが顕わにされたものでは絶対にない。  それは全世界へと拡がり 全世界へと開かれている客体性である。その中では私はあらゆる主体にとっての客体であり それは私がつねに主体であって客体を所有しているというような通常の私の意識とは正反対の状態である。そこでは私は世界との直接無媒介の一体感にはまりこんでいるので 私は現実には誰であるかをあまりにも簡単に忘れてしまうほどである。  《自分自身の中へ迷い込む》という表現が この状態をぴったり言い表わしている。しかしそのばあいの《自分自身》とは世界のことである。というより 意識が《自分自身》を見ることができるならば それが世界だ と言うべきである。だからこそ自分が誰であるかを知らなければならないのだ。  (カール・グスタフ・ユング:『元型論増補改訂版 』林道義訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでは 自己は ブッディスムのように 《無我・非我》であるとさえ言おうとしているのですが――あるいは 集合的無意識は 一定の社会体としての縁起の総体であると捉えようとするかのようですが―― これについては ブッディスムの専門家にお任せしたいと思います。  ここで 注目しておこうと思うことは ある程度において 次のように語るパウロの考えと相通じるところがあると見られたからであり その点についてです。    わたしは 誰にも隷属しない自由な者ですが すべての人の奴隷にな   りました。できるだけ多くの人を得るためです。    ユダヤ人に対しては ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得る   ためです。律法に支配されている人に対しては わたし自身はそうでは   ないのですが 律法に支配されている人のようになりました。律法に支   配されている人を得るためです。また わたしは神の律法を持っていな   いわけではなくキリストの律法に従っているのですが 律法を持たない   人に対しては 律法を持たない人のようになりました。律法を持たない   人を得るためです。    すべての人に対してすべてのものになりました。なんとかして何人で   もよいから救うためです。福音のためなら わたしはどんなことでもし   ます。それは わたしが福音の恵みにともにあずかる者となるためです。   (パウロ:『コリント人への第一の手紙』 9:19)  すなわち いわゆる実践において (1) 人と人とは 関係性においても捉えなければならない (2) その関係性においては あたかも 思想や信念(もっと言えば 野心や欲望などなど)を 互いに自由に――しかも 暗黙のうちに――輸出し輸入し合ったりするかのように 交通し合っている これらの点に注目することができます。  要するに 片や 無意識が集合的に成り立っていると言い 片や 意識をほとんどすることなく 心理や思惑を あたかも融通し合っているという事態を活用していると言います。(活用は 意識的にするわけですが)。  取り留めないものになりましたが ここから 進んで行かれてはと思い つづってまいりました。なお 脳の科学については 知りませんので あしからずご了承いただければ幸いです。

arayata333
質問者

補足

このことは、公に書いては中途半端な思索の途上から抜け出せないで恐怖におびえるだけになってしまう人もでてきてしまいかねないので、 ここでは私のほうも お茶を濁した書き方をしますが ご了承ください。 4格をユングがどう捉えていたかは 明らかです。 稚拙な中途半端な神への恐れからのものです。 たとえ神が4格そのものだったとしても、そうとらえたりそう語ったりすること自体には4格でさへ関わる(怒ったりする)ような存在ではないとう点も神の性格を捉えていないということを意味するはずです。  その「4」を人に語るならば ずばり、「4だけ説」とするべきだったんです。  そして、せめて生きてる間だけは無神論を応援したりして「神」を意識しないようにしてみるべきだったのです。それでも恐怖に発狂しそうになるならば、逃げないでさらに考えてみるべきだったのです。   神が 人間に与えられた能力を使えばたしかに「絶対」という概念を厳密にもイメージできますが、それ=が神の「絶対性」なのではないというところまで徹底して考えればよかったんです。 そうすれば、神の「絶対性」とは キリストの言われるような「愛のすべて」以外のなにものでもない、それだけのほうの一体の存在であることも見えてきたでしょうね。 新約聖書は、キリストが復活してみせる形で終わってるところまでしか読んでませんでした。 パウロの手紙 感動しました。 ご紹介ありがとうございました。 現代心理学が そのへんの稚拙さを抜け出して神を思索していたのならば、このパウロのちから強いキリスト教の地点も現代に復活していたのではないでしょうか? ブッディズムも この情報化社会の到来にて批判すべきは批判すべきなのでしょうね。 無常ということにしても、その移ろいゆく様の感得の中に 今を生きる自分達の命の実体へのより新鮮な感覚がよみがえらないならば、 阿頼耶識の種(神が人間に与えてくださった最高の能力)が泣きますよね。 元型というのはよく解りませんけれども、また男が<‥‥アニマ‥>で女が<‥‥アニムス‥>という文もふと逆に書いてしまったのでは?という疑問も湧きますが、  でもこの二つの元型は、神が与えられてくださってるの人間の能力である「見つめる」という能力を活用しようとする時二つとも大きな力になりますよね。   我とは何か 欲望とは何か、を「見つめる」力の元型にはなりますよね。 社会我をも含めての事です。 ですが、ここでも西洋人(ユング)が「無我」とか「非我」という言葉をそのまま使ってるならば 稚拙というかその表現はそれこを曖昧ではないでしょうか?  我という無意識の世界をこそ「見つめて」こそ阿頼耶識、あるいは7識以後の種の種たる姿でしょうが、 これを単に我が無くなった世界としたら、そこには‘悟ってるみたいに語る’ほどに 嘘や偽善も生まれてきかねません。  現代人ならばブッディストがそのへんをもっとはっきり指摘すべきところなんですよね。 またブッディストがこのアニマ アニムスをどう捉えてるのかが気になるところです。 わたしは、最近 グリークのペールギュントという北欧の音楽の実演を聞く機会がありました。  女遊びで放蕩を繰り返してやがて命からがら故郷にもどってくると白髪頭の昔の彼女がすべてを知っていてすべてを許し迎えてくれるという物語の音楽です。 キリスト教が北欧のきびしい大地に深く根付いて庶民の中に生きているその何かに、 わたしは涙をこらえることはできませんでした。 愛の律法がどんな自由で豊かで優しい安らぎに満ちた魂を産むのかを、まるで書いてくださったパウロの書簡の荘厳さと交差してるように感じて熱い涙をそっとぬぐいつつぬぐいつつ聞いていました。 クリスチャンもまた、現代人ならば、「愛のすべて」である神の前に経験領域の中からのそのことへの謙虚さ、自分たちの愛の小ささの自覚にもっと目覚めて、パウロの原点の力強さにたちもどり立ち返ってほしいですよね。 以上感想なんですが。 真剣勝負の火花が出てきそうな御回答ありがとうございます。 うまくこの場にては切り返せませんでしたが、熱くなりました。

回答No.10

「無意識」について話してみます。その中に東洋の知恵が隠されています。無意識の中に貴方の知らないあなたの心が在ります。貴方がものを考える時、必ず二つの考えが有ると思います。一つは貴方の「現意識」です。もう一つは漠然としているかも知れませんが、確かにあると思います。貴方の考えに矛盾する考え方です。それが「無意識」の中に在る意識です。 アメリカのノーベル賞を受賞したスペリーという人です。その当時テンカン治療のために、左脳と右脳をつないでいる脳梁が切断された大勢の人達に行った「分離脳」の研究のことですが、色々な実験によって導かれた結論が有ります。それは左脳と右脳にはそれぞれ独立した「意識」あるいは「意思」が有ると言う事です。 話が飛びますが、「神経症」という心の病があります、他にも不安と悩みというのが有ります。他にも「人生苦」というのが在ります。それは左脳の意識と右脳の意識の矛盾からきています。その矛盾が大きい程悩みが大きくなります。 その事で「宗教」が生まれますがお釈迦様の教えは宗教ではありません、それは究極の悩み解消の精神療法です。「悩み」は心の矛盾ですが、二つの意識が出会う「見性、又は悟りが開く事」ことによって二つの意識の矛盾が解消されるために、「絶対の安心、絶対の心の自由」が 獲得出来ます。その事を「涅槃」と云っています。 参考文献とかありますでしょうか、ということなので「禅」に関するものが良いと思います。中でも鈴木大拙先生の書いたものをお薦めします。先生は25歳の時に鎌倉の円覚寺にて「見性」されていますので書かれているものには、ムダが有りません、そして、要点を踏まえて書いてあるので、読者にとっては急所が分かりよくなっていると思います。

arayata333
質問者

補足

左脳と右脳が矛盾無く働くようになった状態が 仏の意識として、 その意識は無意識でしょうか?  おそらく唯識論などで語られている西洋哲学での「無意識」の世界と符号する部分は その仏界をすこしでも解りやすく説明するための便宜的表現だと私は思っています。 また、「生物的欲望と社会的欲望」と「自我と社会我」との二つづつの組み合わせを読み解けば、おそらく西洋的は哲学でも仏界への謙虚さとかその入り口の世界ならば理解できると私は、思っています。 その説明は そんなに難しくないと思いますが、たしかに本一冊文ぐらいは説明が必要そうです。 ここでは、したがって略しますが‥。 でも、 これって、なんらかの安らかな体験とか(音楽とか大自然との触れあいが開花したような時とか)がないと、頭だけで理解しようとしても困難な世界です。 そのへんが右脳とか左脳のバランスとかに関係しているのであれば、それも大変興味深いところです。 「神経症」という心の病はたしかに、典型的です。 頭のいい人が、おそらく「やすらぎ」を深いところで求めるがゆえに、ぎゃくに潔癖症となり、人をもそれに巻き込み、みずから怒りという痛みの世界へと走っていってしまう病気ですよね。 文明病であると同時に まさに頭のいい人がかかってしまうのですから、まさにその「バランス」と関係するのでしょう。 でも、たしかにお釈迦様の教えは、その<究極の悩み解消の精神療法>でしょうが、また、 その「悟り」「見性」からくるなんらかの安らぎ抜きには真の精神療法は成り立ちがたいということも確かでしょうが、 現代人にとって、ほんとうに「無心」であれるような状態というのはあまりにも高い目標となり、 雲をつかむような話になってしまいがちなのも充分考慮されるべきことと思います。 仏教を読み解く、解りやすい哲学をここに深く希求する者です。 その意味でも、静かに座ることで呼吸を「見性」にまで導くのが「禅」の世界であるならば、その「見性」の世界から 私たち(文明人)のために、両脳のなんらか分離している者のために、その道の師が語る<要点を踏まえて書いてある>本というものには さらに興味が惹かれます。 鈴木大拙先生の名前は聞いていますが、その内容については少しも触れていません。 その学習の心構えまで教わった気がします。 月に一冊の本も買えない とあるワーキング・プアの「状態」に陥っている者ですが、 ヤフー等で追いかける目標ができました。 今はそれが出来るのですよね。 こころからお礼を述べさせていただきます。 ありがとうございました。

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.9

お礼有難う御座います。 >扁頭体というのも始めて聞くのですが、どうゆう機能とか役割を持ったパーツでしょうか? 変換ミスが、誤字があったので訂正しますね。 失礼しました。「扁桃体」です。つまり、amygdala 当然ご存じですよね?

arayata333
質問者

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そういえば、どこかで聞いたことがあります。その内容も含めてです。海馬領域にその響きが残ってるんでしょうか? 「扁桃体」 そちらの間違いのおかげで(笑)、ヤフー、調べてみました。 超ネット音痴の60歳の少年(笑)ですので、 驚きでした。 今ではエンサイクロペディアは、ほんとに古い世界なのですね。(やっぱり本当の歳は本当の歳でした。(笑)) あらためて、もう科学の学習は本が買えないワーキング・プアーにも勉強できる時代になってるんだなあと、すっかり恐縮しています。 扁桃体、 快と苦の認識に関係があるらしい。 ならば、わたしにとって海馬領域よりも興味があるところかもしれません。 でも、  でも、   私には、これである推理が私の中に成り立ってしまい脳科学がまだ、進んでいないんだなあといいう認識も生まれてしまいました。 海馬領域も、しかりです。  そしてまた、シナプスどうしの交通状況の科学にしても、しかり。 たぶんとしか私には まだ言えませんが、これでは「無意識」と言われてる世界の実態を説明するだけの材料はまだそろっていないのではという推理が働いてしまったということです。 時間が欲しいです。 ほんとに喉から手がでそうなほど、この歳になって勉強や研究の時間が欲しくなりました。(笑) 笑えない心でですが、‥。 短い訂正の再回答まで、今の私に必要な回答だったということは、わたしには運がまわってきたのかな。 とか思ってます(笑) これは笑えそうなことですが(笑)。 有難う御座いました。

回答No.8

おはようございます、arayata333さん。 【 第3章 関係の過剰性とセミ・ラティス構造 】 http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/ch.3.12.10ed..htm (e_e).。oOうつらうつら… 目ぇ擦りもって(-_\)ゴシゴシ゛゛゛ 夜中ここ読んでました。何かの参考になれば

arayata333
質問者

補足

興味深いサイトです。 序章から じっくり読んでみます。 アフリカの人達の音楽とか心とか、文化人類学ではなくて、自分で考えてきたことがたくさんあったりします。  アフロ・アメリカンについてもです。   哲学のボキャブラリーの極端に少ない人間ですが、でも興味の力でなんとか序章から追いかけてゆけば読めそうです。 たくさんの文献も、今のわたしには、本当に参考になります。 今現在時間的にも厳しい環境に生きていますので、いつまでに読もうとかの時間的な目標は立てられませんが、 たぶん興味の力というのは大きいと思うんです。 それと ここまで明快さを求めている著者ならば、さらに多くの庶民にこの内容を表現できるのではと、 ボキャブラリーが少ないからこそ 挑戦心も湧いてきています。 多くを 多くを 学習できそうですし、活動の力としてゆけそうです。 すがらしいサイトを紹介してくださり ありがとうございます。

回答No.7

仏教の阿頼耶識、マナ識とかは、その辺りを上手く説明しています。 経験や記憶すらも一つの因縁によって生み出された現象に過ぎないと、 する訳ですから(ついでに脳がそう作用することさえも)。 ただ、飽くまで外から見た現象が優位に立ってしまうので、 脳の部分で処理しているとか、脳ががどうだとかは 一切解明されていないところです。 科学や西洋哲学では「有」と「無」をはっきり分けたがります。 だから意識に対して無意識となるのです。 分からないところはエポケーであったり、全て神任せです。 特に科学でははっきりしないことは嫌うところで、 見つからないものは無いとするしかないんです。 結局、現代における医療の現場で脳死問題に発展していますから。 近代西洋哲学や科学の価値観を少し改めるべきだと、 現代の哲学や思想家達は模索しています。 まあ、意識という価値観の文化的な違いについては、 フッサールと唯識思想についての比較を読めば、 東西文化の考え方の違いが分かってくると思います。 もし解説書があれば読んでみられるといいかと思います。

arayata333
質問者

補足

genesha meさんの言われてることは、ほんとに広いですね。 ほんとは、自分がよく知らない脳科学についてただの推理で、何かつい真剣な気持ちになって質問してしまっただけなので、早く締め切ろうと思ってたのですが、 どんどんいろいろな方からの多くを学べる御回答がつづき、なかなか締め切ることのできないでる間に、 このご回答もいただくこととなってしまいました。 ヤフーの検索で ちょっと脳科学の知識に触れることになったのですが、思っていたよりも、脳科学ってそんなにスピードで発展している世界ではないみたいですね。  これですと、やっぱり、今はまさに、先に哲学がまだ必要なところのようだなと思え、あらためて9識論のような世界の表現を、現代訳する努力が必要なところなのかもしれない(9識を9識親王の都とか仏の意識としているので、その手前と入り口までしか哲学では解明できないはずだというのが私の考えですが)と思えてきました。 科学抜きの表現の世界の「無意識」の便宜的表現自体の追求です。 もし私に時間があれば、一庶民なりに阿頼耶識にかんしては追求表現してみたくなってるところです。 西洋哲学からの考えと思いますが「人は絶対孤である。その上での関係性が展開されてるという点を見逃してはならない」というふうな言葉を効いたことがあります。  個の意識の必要性は、群集が生身の必然とか 真実それ自体を越えて群集心理に巻き込まれてしまう事からも、関係性が価値をむしろ見失わせる人間関係病理のようなものを明確にするためには、重要な役割を持ってきたところと思いますし、個の確立とか、個の自覚とか、あるいは、親から村社会から依存から神(幻想的にとらえている場合のことですが)からの自律の意味でも大切な役割を持ってきた歴史があるような気がしています。 フッサールとか現象学とかが、そのへんの明確化に役立ってきたのであるならば、興味を惹かれるところです。 しかしながら、「絶対孤」というふうに「絶対」という言葉をここに追求してしまうならば、そちらの言われる命自体の因縁の長い歴史の尊さのような世界とか、また仏陀の涅槃への深い謙虚さの世界とか(これが信仰ならば信仰の世界ということですが、それならば、私も仏教徒でもあることになります。でもキリストにも、なんといったらいいかそれならば、もろ手をあげて謙虚であらざるを得ない者なんですが、そうなるとこれは社会的所属の問題ではないようです。)どう考えても一番大事な点を思索するときに 大きな壁を自ら作ってしまいかねないところと思うのです。 では、フッサールという哲学者が どのように菩薩という存在の心の中、人に善の心で関わろうとしているそういう道徳者達が仏教では海の砂粒みたいに迷いを抜けられない世界であると喝破されていて、本当の善(ほんとうのあるべき人との関わりがもっと自然なものとされていること)である仏との間に そのような差があるとされてることをどのように解釈してるだろうか、また解釈するだろうか?  フッサールとその後の現象学では、その自然な関わりの世界をどこまで解明できているのか?   無意識を形作り、自我と社会我を意識を超える強さで支配するなかなか意識できない世界、さらには9識論では8識だと思うのですが、その8識が単なる社会我ではなくてその根源となってる「見つめる目」という人間のみの能力を同時に扱いつつ、 それを超えた姿として仏を描いている9識論の世界をどのように捉えるのだろうか? 見つからないものは無いとしてしまうのではなくて、見つからないものはまだ見つからないものとしてはっきり謙虚に認識するのがフッサールのような西洋の哲学であるとするならば、 彼らもまた 仏への信仰を心にみつけたはずだと私は考えるからです。 いずれにしても、東西両哲学にいろいろな意味で今すごく興味があります。  私の場合知的興味というのじゃないのかもしれませんけどね。 すみません、文章をうまくまとめられませんが、因縁とかあるがままへの基本というのかともかくリスペクトの世界ですけど、これなにか解りそうになったときは、結構あるんですが そちらの文に触れて、そうか、これだったのかと気付かされたことでもあるんです。  こうしたご回答に触れるとOKウェーブに来てほんとによかったと思います。 ありがとうございました。 

回答No.6

>それとも、意識とは別ななにかが脳の作用の中に何か存在しているという考えが何かあるのでしょうか? 素人の感覚的意見ですいませんがこれはあると思います。例えれば、顕在意識がアプリで脳が自動的にやっている作業はOSのようなものではないでしょうか。 覚醒している人間意識は常に今を認識しますが、間違いなく「直ち」にメモりを必要とします。何故かというと物理的に今は直ちに失われるに他ならないからですね。視覚も聴覚もメモリがなければ存在することさえ解らないでしょう。聴覚が良い例です。聴覚は、一定の時間の音声信号をもって音として認識されるわけですが、時間が不可欠であるということは絶対にメモリーが必要だと言うことです。そして、このメモリーへの入出力作業は脳が自動でやっていると言うことでしょう。 視覚の処理も特徴的です。動いているものを認識しやすいことも脳が自動でやってますよね。言ってみれば一枚目の画像と二枚目の画像の違いを見分けているのです。メモリーが無ければ決して達成できません。でも、まぁ大半の情報は直ぐに捨てられているとは思います。 つまり、神経系と意識を除く脳の作用の特徴は、感覚器官の入力系を処理して時空間の認識に整理して意識に対して出力するということではないかと思うわけですね。でも、時間感覚については中途半端というか、未だ発展途上で、時間を一つの次元と認識しきれないのは脳の絶望的未熟さなんだと思うんですね。 実際どういうことなんだろうと考えると、生物脳は、直ぐに失われる今を如何に良質に大量にメモりして処理するかを目指して進化してきたようにも見えるわけで、やっと三次元と四次元目の半分まできたという感じではないでしょうか。 ps 海馬が実際に何をやっているかは短期記憶と司るということ以外詳しく知りません。失礼しました。

arayata333
質問者

補足

< ‥‥以外詳しく知りません。失礼しました。 すみません、この質問者である私の質問自体がみなさんに対して大変失礼な質問となっているかもしれません。 <短気記憶を司る>ということさへ 聞いたこともなく、ただ記憶を司る場所ととのみ思い込んでいまして、 それで記憶の思い出として浮かび上がらない部分も全部、ここに貯蔵されここから、刺激や必要に応じて引き出されたり引っ込んだりしてるのかと思ってた、というより思い込んでいたんです。 だから、 極度の恐怖の元に暮らしていて夜になれば殺される夢を見て叫び声を上げて目を醒ます毎日の中に、窓から見えるたった一枚の葉っぱの上に雪が降ってきた時の 感動があまりにもおおきかった(あまりにも安からだった)ことがありましたが、 たとえば、こんなのも、今の神経と対極の物がそこに気がつく要素となっての感動ということだけでなくて、何か過去の深い神経の記憶と関わってると感じた りした、  そうした深い記憶も 海馬領域からのものと  全部、こうして海馬がその中心となってると思ってしまったということです。 これを 前頭葉との間と、6感までの意識領域との間を流れるシナプス内の伝達物質の種類と性質とその統計が とうぜん、快と苦の世界の深みをも解明して、  ここにたとえば、お金儲けの社会性のあたりの「意思決定時」の真の価値のありかとかが見えてきたりすると推理していたということです。(だから真剣だったということです。)(個人的な善意ってさまざまな集団心理の中で影響されたものでもあるので、それだけでは社会的に正しい経営の「意思決定」の基準にはなりがたいものがあります。) 快と苦は アメニティー性でその満足をもたらせるような浅い地点の範疇にとどまるものではないです。  松下幸之助のような方たちが求めていた人間の幸せの世界はもっとずっと深い世界です。 そのへんが、「無意識」という曖昧な表現でなく科学的な説明で出来るようになる時代が来ているのではと本気で思っていたんです。(推理であることさへ 忘れてました。) 脳科学への期待や、希望や、興味自体には何も変わりはありませんが、たまた次の次の次かな、No8かNo9かの方の御回答の中に 扁桃体 知ってますよね という部分があり、、ともかくヤフーで検索してみてビックリです。   エンサイクロペディアどころの史料じゃなくて、もう今は本が買えなくても そうとう深く専門科学をも勉強できる時代になってるんですね。  まさにおじんになっていたんですね。 その「扁桃体」というのがまた、快と苦が なんらか通過する脳の部位らしくてなんだそんなことも知らないで書いてたのか?と 思ってしまいました。  でも その部位にしても海馬領域にしてもそれでいそいで覗いてみると、 資料はもう山のようにあるし、それぞれまとまってても まだ生物学敵には、これから解明してゆく世界でもあるようですね。 たぶん、私のシナプス内の推理には間違いは無いと思うのですが、これでは科学的であろうとするよりも前に、「無意識」という表現を自我意識と関わる意識の研究とともに、まさにもっと解りやすい、もっと具体的に考える事のできる表現にすべく意識を集中すべきところとも思いました。 bababasandさんの御回答には 興味の惹かれる文面がたくさんありますが、 ここは一度 私の方は出直します。 これも推理ですが、<脳の絶望的未熟さ>とか<やっと‥四次元目の半分まできた>って  普通に推理すれば、時間?の最先端の専門家が、そこまで時間を解明したという感じのコメントとしか考えられませんよね。 それか あるいは サッカーの最優秀選手カカのあの時間感覚のあたりのマン・ウオッチングの印象と重なってしまいます。  私のばあいは、次元ってなんだか解りませんが、ひとつの塊として宇宙あるいは物質空間を「持続してる存在」ととらえることで 「今」はゼロであるけれども概念として存在している、「過去でも未来でもない存在」というふうに、簡単に概念化してしまっています。  ところが、一方で、「時間感覚」というものにはものすごく興味を持ってる者ですので、 それで 何なんだこの人はと 興味を引かれてしまったというわけです。 Okウェーブから撤退するわけではありませんので、 またお会いしたいですね。 バナナサンドさんなんて名前忘れそうに無いですからきっと質疑応答にて超ネット音痴の私でも探せそうですので(笑)。 御回答ありがとうございました。

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