• 締切済み

無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

ganesha_meの回答

回答No.7

仏教の阿頼耶識、マナ識とかは、その辺りを上手く説明しています。 経験や記憶すらも一つの因縁によって生み出された現象に過ぎないと、 する訳ですから(ついでに脳がそう作用することさえも)。 ただ、飽くまで外から見た現象が優位に立ってしまうので、 脳の部分で処理しているとか、脳ががどうだとかは 一切解明されていないところです。 科学や西洋哲学では「有」と「無」をはっきり分けたがります。 だから意識に対して無意識となるのです。 分からないところはエポケーであったり、全て神任せです。 特に科学でははっきりしないことは嫌うところで、 見つからないものは無いとするしかないんです。 結局、現代における医療の現場で脳死問題に発展していますから。 近代西洋哲学や科学の価値観を少し改めるべきだと、 現代の哲学や思想家達は模索しています。 まあ、意識という価値観の文化的な違いについては、 フッサールと唯識思想についての比較を読めば、 東西文化の考え方の違いが分かってくると思います。 もし解説書があれば読んでみられるといいかと思います。

arayata333
質問者

補足

genesha meさんの言われてることは、ほんとに広いですね。 ほんとは、自分がよく知らない脳科学についてただの推理で、何かつい真剣な気持ちになって質問してしまっただけなので、早く締め切ろうと思ってたのですが、 どんどんいろいろな方からの多くを学べる御回答がつづき、なかなか締め切ることのできないでる間に、 このご回答もいただくこととなってしまいました。 ヤフーの検索で ちょっと脳科学の知識に触れることになったのですが、思っていたよりも、脳科学ってそんなにスピードで発展している世界ではないみたいですね。  これですと、やっぱり、今はまさに、先に哲学がまだ必要なところのようだなと思え、あらためて9識論のような世界の表現を、現代訳する努力が必要なところなのかもしれない(9識を9識親王の都とか仏の意識としているので、その手前と入り口までしか哲学では解明できないはずだというのが私の考えですが)と思えてきました。 科学抜きの表現の世界の「無意識」の便宜的表現自体の追求です。 もし私に時間があれば、一庶民なりに阿頼耶識にかんしては追求表現してみたくなってるところです。 西洋哲学からの考えと思いますが「人は絶対孤である。その上での関係性が展開されてるという点を見逃してはならない」というふうな言葉を効いたことがあります。  個の意識の必要性は、群集が生身の必然とか 真実それ自体を越えて群集心理に巻き込まれてしまう事からも、関係性が価値をむしろ見失わせる人間関係病理のようなものを明確にするためには、重要な役割を持ってきたところと思いますし、個の確立とか、個の自覚とか、あるいは、親から村社会から依存から神(幻想的にとらえている場合のことですが)からの自律の意味でも大切な役割を持ってきた歴史があるような気がしています。 フッサールとか現象学とかが、そのへんの明確化に役立ってきたのであるならば、興味を惹かれるところです。 しかしながら、「絶対孤」というふうに「絶対」という言葉をここに追求してしまうならば、そちらの言われる命自体の因縁の長い歴史の尊さのような世界とか、また仏陀の涅槃への深い謙虚さの世界とか(これが信仰ならば信仰の世界ということですが、それならば、私も仏教徒でもあることになります。でもキリストにも、なんといったらいいかそれならば、もろ手をあげて謙虚であらざるを得ない者なんですが、そうなるとこれは社会的所属の問題ではないようです。)どう考えても一番大事な点を思索するときに 大きな壁を自ら作ってしまいかねないところと思うのです。 では、フッサールという哲学者が どのように菩薩という存在の心の中、人に善の心で関わろうとしているそういう道徳者達が仏教では海の砂粒みたいに迷いを抜けられない世界であると喝破されていて、本当の善(ほんとうのあるべき人との関わりがもっと自然なものとされていること)である仏との間に そのような差があるとされてることをどのように解釈してるだろうか、また解釈するだろうか?  フッサールとその後の現象学では、その自然な関わりの世界をどこまで解明できているのか?   無意識を形作り、自我と社会我を意識を超える強さで支配するなかなか意識できない世界、さらには9識論では8識だと思うのですが、その8識が単なる社会我ではなくてその根源となってる「見つめる目」という人間のみの能力を同時に扱いつつ、 それを超えた姿として仏を描いている9識論の世界をどのように捉えるのだろうか? 見つからないものは無いとしてしまうのではなくて、見つからないものはまだ見つからないものとしてはっきり謙虚に認識するのがフッサールのような西洋の哲学であるとするならば、 彼らもまた 仏への信仰を心にみつけたはずだと私は考えるからです。 いずれにしても、東西両哲学にいろいろな意味で今すごく興味があります。  私の場合知的興味というのじゃないのかもしれませんけどね。 すみません、文章をうまくまとめられませんが、因縁とかあるがままへの基本というのかともかくリスペクトの世界ですけど、これなにか解りそうになったときは、結構あるんですが そちらの文に触れて、そうか、これだったのかと気付かされたことでもあるんです。  こうしたご回答に触れるとOKウェーブに来てほんとによかったと思います。 ありがとうございました。 

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