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セレンディピティは平等の理に反するって考えてしまう

セレンディピティ(偶然のラッキー)は努力でなく、宝くじにあたったのと同じなので、自分のものにできない何か正しくないような気がしてしまいます。 当然、偶然にはラッキーやアンラッキーの両方が存在するように思えるのですけど。 これを言うと、野球選手が体格に恵まれたり、大金持ちの家に生まれている人などもそのようにおもえますが。 遺伝、遺産って平等じゃないですよね。 でも、それをいいように生かしたいですよね。

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回答No.7

人間が歴史的、文化的、そして法思想的に創案した原理としての平等原理は必ずしも自然を規範しないですね。 そしてこれは当為ですから必ずしもその通り現状がそうなるというわけではない。 まぁそういう事です。にべもない話ですが、そういう次元の事なんですね。 法と社会においては人は平等に扱われなければならない。という原理ですから、そう扱われない事、現状がありうるのです。 それが当為規範です。 要請という義務原理なんですよ、創始なさいという。 つまり人間の歴史が到達した文化での、不合理なことを理由に差別してはいけないという事なんですね。

noname#209756
質問者

お礼

家族など社会集団って自然に近いですよね。 そう考えると、平等ってやはり思考ですが、限界がありますね。 >不合理なことを理由に差別してはいけない わかります。ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (6)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

pkuobe99様、こんばんは。 >「遺伝、遺産って平等じゃないですよね。 でも、それをいいように生かしたいですよね。」 「(誰でも)健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

noname#209756
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

回答No.5

>セレンディピティは平等の理に反するって考えてしまう 平等の理なるものが重要だとしても、それは人間が社会的に作り上げた仕組み関して「平等の理」が重要であるだけのことです。 北の斜面に生える樹木と、南の斜面に生える樹木は平等に太陽光を浴びることができませんが、自然界ではなにも問題になりません。 人間の活動においても、それが「人間が作った制度の中の活動」でない限り、不平等は何も問題ではないのですよ。 不毛の大地に住む種族に生まれた子供と、沃野を征服した民族の子供に生まれた子供では平等ではないけど、与えられた環境で生きてゆくことに何も問題はないのです。

noname#209756
質問者

お礼

自然に対しては平等までいえないですね。 人って生活など完全に人工的にならないですね。 おっしゃるとおりです。 ご回答ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

そもそも99さんが誕生したのだって偶然です。 無数の精子から偶然に選ばれた一つに過ぎません。 人間の誕生すら、いやそもそも生命の誕生すら 偶然でしょう。 宝くじに当たったら、素直に喜んでいればよい のです。 ああだこうだ、と理屈を付ける必要はありません。 世の中、不公平が当たり前です。 公平だ平等だ、なんて価値観は人間が勝手に 創りだしたモノに過ぎません。 幸運に巡り会えたら、それに喜び、人生に活かせば よいのです。 不運に遭遇したら乗り越えるように頑張ればよいのです。 不公平があるから、頑張るのです。 平等を目指した社会主義は見事に崩壊したではない ですか。

noname#209756
質問者

お礼

おっしゃるとおりですね。 だいたい何が公平かなんて議論は非常に奥深いものですね。それでもまだ議論の世界だと思います。 ご回答ありがとうございます。

回答No.3

 こんにちは。  だから 相続税・贈与税をとおして 《平等の理》を実現させようとするのではないのですか?  現実的なものは理性的であり 理性的なものは現実的であるというかたちにおいて 然るものは そのまま保ち しからざるものは 直接的・間接的にまた個別的・全体的に しかるべきように直して行くのではないでしょうか。  でも おれとおまえとは 心の満ち足りるその度合いがおんなじである。あぁ ゆかいぢゃ。満足ぢゃ。これぞ平等の原理ぢゃわい。――となりますか?

noname#209756
質問者

お礼

>だから 相続税・贈与税をとおして 《平等の理》を実現させようとするのではないのですか? 平等は正しくて、だけど人も家族を作る動物でもあるので、家族を作る自然さもあります。 その両方の原理がかかわるんでしょうね。 ご回答ありがとうございます。

回答No.2

社会生命である人間の価値とは、どれほど社会に貢献 (物質的増殖×精神的充足)できるかで量られる。 原因がどうあれ、社会に貢献できる能力が高ければ、 彼が最大限に能力を発揮できるよう遇する事は、社会 (全ての人)にとって良い事なのだ。 つまり、社会全体が最大限の生産性(物質的・精神的) を上げるよう、資源を配分する事が求められる。 ただしそれは、資本主義的競争社会のように、勝者が 過剰に物質的に遇される事を意味するのではない。 「最大限に能力を発揮できるよう遇する」というのは、 食べ過ぎて肥満して健康を害したり、実体生産とは遊離 したマネーゲームに才能を浪費するほどお金を与えるの ではなく、健康に働けるだけの報酬を意味する。 少なくとも; 1.精神的充足量増大への貢献において、身体的能力   とは別に、誰しも平等な権利を有する(他人のそれを   害しない限り)。 2.子供の可能性に関わる分において、親の能力とは   関係なく平等に遇される権利を有する。 という、一般的に「福祉や社会保障」と考えられる平等性 の妥当性が上記の考えにおいても確保されている。

noname#209756
質問者

お礼

おっしゃるとおり、社会への貢献は大事な観点ですね。 物質的増殖×精神的充足の後者は精神って富を平等にしても心はそれぞれ違いますよね。 平等にできる条件って考えたものまでですし。 ご回答ありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.1

おはやうございます。おつしやるとほり、偶然といふ観点からすると、不平等ですね。 >>でも、それをいいように生かしたいですよね。 これもまた、御指摘どほりです。 質問文そのものに、すでに答が出てゐますので、私の好きなセレンディピティの例を挙げます。 1953年、フランシス・クリックとジェームズ・ワトソンによつて、DNAの分子構造が発表されました。最後の決め手となつたのは、アデニンとチミン、グアニンとシトシン、この結合した形が類似してゐるといふ発見でした。ワトソンは、理論によつて、これを導き出したわけではありません。アデニン、チミン、グアニン、シトシンの四つの分子の型紙を子供の遊びのやうにいぢりまはしてゐて、「偶然」発見しました。 大切なのは、「偶然」正解に遭遇したときに、それを「正解」だと見抜く力です。ワトソンの場合も、それ以前の研究の積み重ねがあつたからこそ、たまたまぶちあたつた事実を、「正解」だと直感し、ものにすることができました。 限りある人生において、偶然は必ずしも平等ではありません。でも、たまたまおどづれた幸運を活かすも殺すも、本人次第です。

noname#209756
質問者

お礼

>偶然は平等ではありません。 おっしゃる通りで偶然が画一的だと変です。 偶然には良い悪いがないのでそのことは大切ですけど。 偶然と個って関係ありそうです。 ご回答ありがとうございます。

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