• ベストアンサー

昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。

AXIS_の回答

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.15

>仏教はすでに信者が多いんですよ。  減らないのはお坊さんが頑張っているからでしょうか。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7 剃髪の項参照のこと。  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%89%83%E9%AB%AA/  ここに書いてあることが本当だとしたら、罪人意識や人間社会への後ろめたさを持っている人が死人を送る門番をしているという事になります。もしかしたら最も救わなければならない人たちはお坊さんなのかもしれません。  死者に墓は必要ないでしょう。生者に墓は必要でしょう。仏教と墓制度で社会は良くも悪くも濁ったのだと想います。 >お寺めぐりも好き、というよりは趣味なので。  そうなんですか、神社ならまだしも、お寺には物騒な、暗い雰囲気のお墓群がありますね。不気味なので寺は好きではありません。死者が墓に執着し、さらに生者の、墓と死者への執着が何らかの相乗効果を生み出しているのであれば、墓はなくなったほうが良いのかもしれません。あるいはもっとシンプルな、スマートなものになっていけば良いと想います。 >すいません、ちょっと意味がわかりづらいんですが これは仏教が誰かを犠牲にする宗教であるということですか。  「それから」で始まる文章は質問とは関係のないことを書いたんです。以前の他の質問者の質問に書くべきことをあえてここで書いただけなので、気にしないでください。 http://www2.tokai.or.jp/shaga/atorantis/sub3.htm 下記はリンクの抜粋です。 本当かどうか解りませんが、mmkyさんが見たらなんと言うでしょうかね。 ~仏陀はイエスに「もし私の教えが、私の説いたとおりに完全に実現されたなら、人々は皆、エッセネ派教団のようになるに違いない、だが、そうあってはならない。俗世から離れた清浄な僧伽を作ったのは誤りであった。エッセネ派教団の人々も世間の人々から離れることによって、霊的な進化を遂げている。彼らは清められ、他の人々は依然として苦の中にいる。俗世の人々を犠牲にして自分が清められるということがあってはならない。私が説いた教えを実現すれば、エッセネ派教団のように清められた人々が出現する。だが、そうあってはならないのだ。」と語ります。~

noname#163492
質問者

お礼

何度も回答をありがとうございます。 剃髪の意味について始めてしりました。 興味深いですね。 仏陀は自分が罪深い人間であるということを示すために剃髪したのではないかな、と思いました。 >罪人意識や人間社会への後ろめたさを持っている人が死人を送る門番をしているという事になります。 私は罪の意識を持つことは人間としていいことだと思っています。 誰一人傷つけることなく生きている人はいない。 逆に私がむかつくのは、罪の意識を持つことを忘れているんじゃないか、と思われる僧侶が存在することですね。 死者に墓は必要ない、というのは賛成です。 自分が死んだときには墓なんぞはいりません。 高額のお金を支払って戒名をつけてもらったりすることも馬鹿馬鹿しい。 だけどそういうものが欲しいと思う人はそれはそれで自由だと思います。 >お寺には物騒な、暗い雰囲気のお墓群がありますね。 奈良の大寺にはお墓のないところが多いです。 ま、あったところで個人的には全然気にはなりません。 信者さんには怒られるかもしれませんが民俗学的資料として好きなのです。 >「それから」で始まる文章は質問とは関係のないことを書いたんです。 そうでしたか。 実は私は日本の仏教が誰かを犠牲にする宗教のように感じていたので 回答者さまも同様のお考えなのかな、と思ったのです。 今はそんなことはないと思いますが、かつては誰かを犠牲にしてみほとけに祭り上げていたのではないか、と思っています。 例えば菅原道真が雷神となって祟ったことは有名ですが 北野天満宮の神宮寺であった東向観音寺に「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」と書かれた石碑がたっていました。 天満宮とは道真のことなので、これは「道真のもともとの正体である十一面観音をお祭りしています。」という意味です。 つまり・・・大宰府に左遷となり失意のうちに死んだ菅原道真を十一面観音に祀り上げて祟らないでくれ、とやってるわけです。 菅原道真がこんなことよろこぶはずがない。 誰しもみほとけとして祀られるよりは充実した現世をおくりたいと思うのではないでしょうか。 ですので、「お寺が不気味である」「墓と死者への執着が何らかの相乗効果を生み出している」と回答者様がおっしゃることはとても理解できます。 mmkyさんってもしかして私のことかな。 俗世の人々を犠牲にして自分が清められるということがあってはならない。 というのは納得です。 しかしながら、仏教は日本文化と切っても切れない関係にあるし、素晴しい文化財を残しています。 ですからなくしてしまうのは勿体ない。 なので、せいぜい存在価値を高めるように努力していただきたい、と私は思います。 せめてスーパーマーケット並みに、「ようお参りくださいました」くらい言ってほしい。 大変参考になるお話をありがとうございました。

関連するQ&A

  • 仏教

    私は仏教に興味があり信仰を深めたいと思っていますが、どういう宗派の教えを受けたら良いかわからず困っています。 私は人との関わりあいや妄想・欲望からくる苦しみ、仕事の上の苦しみ等々で色々苦しい思いをする中で、仏教的なものに興味を持ち始めました。 般若心経や十句観音経、ご真言(不動明王、地蔵菩薩、観音菩薩)等は本やCD、インターネット、寺社参拝等で覚えて日常的によく唱えています。特に般若心経をありがたく感じています。また、お遍路や坐禅にも興味を持ち始めた今日この頃です。 今後、もっと仏教の正しい知識を勉強し、信心を深めていきたいとは思うのですが、世の中見渡すと怪しい宗教ばかりに感じます。 また、伝統的な宗派を装っていても、金ばかり要求する様な寺もある気がします。そもそも「お守りを買ったら救われる」的なご利益信仰そのものがばからしい気がします。 以下のような宗派はありますでしょうか。教えてください。 ・伝統的な仏教の宗派(新興系は絶対嫌)のひとつ。 ・宗派の教えというよりは、仏教(釈迦)の教えそのものを客観的に教 えてくれる宗派。 →例えば「不動明王を信じれば救われる」だけではなくて、実在した人間である釈迦が説いた哲学が仏教であるはずなのに、恐らく実在しなかったであろう不動明王をご本尊にする理由を教えてくれる。 ・しつこく勧誘してこない。(来る者はこばまず、去る者は追わず。) ・あまりお金をかけずにできる(年2~3万円位) ・お金をかけたければかけられる。 ・信者や檀家となって入信しなくても、請えば教えてくれる。 ・寄付や機関紙の購読、集会への参加を強要されない。 ・教えを受けるからと言って、勧誘活動は絶対絶対にしたくない。 勝手なことばかり申しますが、ご回答宜しくお願い致します。

  • 浅草寺に対する課税関係について

    東京の浅草寺は宗教法人です。宗教法人の課税関係にあまり詳しくないので、ご存じの方は教えて下さい。 質問1:浅草寺では、お守り札、絵葉書、線香、数珠(じゅず)、破魔矢などを販売しており、これらの収入があります。おみくじ代の収入もあります。 これらの収入は法人税の課税対象になりますか。消費税はどうですか。 質問2:また参拝者が「お経料」を添えて申し込めば、僧侶が参拝者の先祖を供養するために御経をあげてくれます。お経料の収入もありますが、この収入は法人税の課税対象になりますか。消費税はどうですか。 質問3:参拝者が投げ入れるお賽銭の収入もあります。なにしろ浅草寺は日本で一番、参拝客が多い寺ですから、お賽銭の収入も日本一なのは間違いないが、この収入は法人税の課税対象になりますか。消費税はどうですか。 質問4:浅草寺は幼稚園を持っています。↓ 浅草寺幼稚園 http://www.senso-ji.jp/kinder/senso-ji_kindergarten2013.pdf 園児の父母から徴収する保育料や給食代は、法人税の課税対象になりますか。消費税はどうですか。

  • 寺から20万円の寄付要請がきたが…

    檀家になっている寺から「山門の改修費」とかの名目で20万円(戒名によって寄付金のランクはまちまち)の寄付要請が突然郵便でありました。8年ぐらい前にも「本堂の改修費その他」の名目で30万円の寄付要請がありました。前回寄付してから10年もたたないうちにまた20万もの寄付要請…。わずか10年のあいだに50万円もの寄付をさせられることになります。素人目にはかなり立派なお寺で、山門にしても本当に改修が必要なのか疑問のあるところです。要請された金額はこんな不景気な時代においそれと払える金額ではありません。寺では2回の分割も可能といってますが、それにしても大金です。サラ金から借金でもするほかありません。そこまでして払わなければならないものでしょうか。この寄付は断ることはできないのでしょうか。また断った場合、寺との関係はどうなるでしょうか。とにかく金銭的にうるさい寺で、将来的にも再びこのような寄付要請があるかもしれず、檀家でいることにも疑問を感じている今日このごろです。このような寄付に応じた方、断られた方からのアドバイスをお願いします。また僧侶の方のお考えもお聞かせねがえればさいわいです。

  • 【「お金がすべて」という心のベクトルとは違う次元に

    【「お金がすべて」という心のベクトルとは違う次元にいる人】がいますがどういう心の心境の変化でいまはどのベクトルで生きているのか教えてください。 仏教に神社も寺もお金、お金、お金です。 彼らには物欲しかないのかと思うほど境内には賽銭箱だらけです。 本境台に1個の賽銭箱で「建て替え費用の寄付のため」なら分かりますが、賽銭箱のお金は住職、神主のメルセデスベンツに変わったりしています。 で、実際に建て替えになった時は、建て替えの為の寄付を「別途」檀家に求めます。 彼らは賽銭の貯金をせずに、必要になったら恵んでもらうキリギリスです。 完全に金のベクトルの上にいます。 一方のホームレスは自分が生きるその日の分の稼ぎだけで生きていたり、生活保護を受けれるのに受けたら家に定住しないといけないという理由で受給せずに放浪していたりして完全に金のベクトルから外れた違う世界で生きてます。 お金がすべてではない違うベクトルの世界に生きている人が見えている世界が知りたいです。 何が1番大事なのでしょう。

  • 神社、寺の賽銭箱、浄財箱に金銭を入れるのは「対価の支払い」「贈与」「寄付」「所有権利放棄」 法律上、いずれか?

    神社、寺の賽銭箱、浄財箱に金銭を入れるのは「対価の支払い」「贈与」「寄付」「所有権利放棄(お金を捨てている)」のうち、法律上はどれにあたるのでしょうか? なぜこんなことを疑問に思ったのかというと、数年前、新年参賀の露店で偽札が何枚も使われるという事件がありました。新年参賀の混雑と、夜間の露店商売でお札の確認がよくできなかった、というドサクサにまぎれてつり銭詐欺を働いたようです。  ところで、もしこの偽札が賽銭箱に入っていた場合、法律上どのような扱いになるのかなー、と思いまして。神社は被害届けを出すのか、単に「偽札を見つけました」と届け出るのかな? と思いまして。  ポイントとしては、(私の記憶が確かならば)偽札は、「製造」「所持」自体は罪にあたらないはず。罪に問われるのは「行使」したときだけ。  もし、「行使」であるならば、参拝客は「対価の支払い」をしたわけですが、さて、神社は参拝客に対して何をしてくれたのでしょうか? なにもしていないならば、神社は偽札が入っていても怒っちゃいけませんよね。だって何もしてないんだもの。  もし「所有権利放棄(捨てている)」のであれば、賽銭箱の中のお金って、全部「なぜか突然神社の庭先に勝手に捨てられていたお金」ってことになりますよね。中身が真札であろうと偽札であろうと警察に届けなきゃーだめですよね。勝手に懐に入れたら横領ですよねー。 やっぱり寄付か贈与でしょうか? この場合も偽札だったら、「被害」になるんでしょうか?

  • 似非坊主?

     この正月、仏教徒と称する、ある寺の、私の高校時代の後輩に当たる若い坊主と話し込んでおりました。私「今の世の中、ひどいよなぁ。もうなんでもありだもんね」坊主「ええ、もうそりゃひどいもんです。でも人間のできる教育には限界がありますからね。じたばたしても始まりません」「・・・??? じたばたしても? じゃ傍観してろと?」「いえ、そういう訳じゃないのですが、末法の世は人間の力だけではどうにもなるものじゃないかと…」「笑わせるなよ、君。どうも修行不足のようだな。 何が末法の世だ。末法の世にしているのは他ならぬ君ら半端な似非仏教徒じゃないのか? 仏教徒を名乗る君らがそういう非生産的な諦観を在家の僕らに語って何の解決になる? もう一度山にこもって修行し直してくるか?」「…いえ、もう修行は充分積みました」「アホ抜かせ。君らみたいな似非坊主が人々を救済しようとするからおかしくなるんじゃないか・・・。まぁいいや。少し酔ったみたいだから今日は帰る。じゃ~ね。合掌」「あ、それはおやめください」「え、何で?」「あまり軽々しく合掌をするものではありませんので…」「君の中にある仏性を拝むのでも文句言われなきゃなんないのか。…ふ~ん。君みたいに人の発言の行間すらロクに読めない、人を咎めるだけの人間が宗教家、仏教徒か…。こりゃ、君の言うとおりだ。ホントに末法の世だな…」「何かお気に障ることでも?」「いいや、全然。君、35歳とか言ってたが、も一度修行をやり直した方がいいかもしれんな。人間観察の基礎ができてない。絵に描いた観念論や小難しげな屁理屈ばかり捏ね回していたって人の心は見えてこないよ…」とまあ、こんな具合で話が終わりました。こういう坊主が仏教徒を名乗っているのがどうにも納得いかない。質問文には字数制限がありますのでピンぼけの質問になってしまいましたが、皆様のご感想をお聞かせ願えたら幸いです。

  • 悪僧は傭兵的なもの?

    太平記を読んでいると、比叡山の延暦寺や三井寺などが政争に巻き込まれて、 僧たちが武器を持って武士たちと戦ったりします。 その中には「俺こそが世に聞こえた怪力無双の○○法師だ!」みたいな悪僧が出てきて活躍したりします。 普通の僧は、いつもは寺で静かに仏教の修行をしていると思うんですが、 こういう力自慢・喧嘩自慢の悪僧たちも、 やっぱり普段は真面目に仏教の修行に勤しんでいたんでしょうか? それとも、寺院の側からは僧侶としての期待はされていなくて、 何か起きた時のために雇われている傭兵的なものだったんでしょうか? 比叡山の衆徒三千人という表現が出てくるので、 三千人もいれば喧嘩の強い人もいるのかな・・とは思うのですが、 でもそんな戦いが好きな人なら最初から出家せずに武士に雇ってもらって 戦場を駆け巡った方がいいように思えます。 もしかして延暦寺などの組織構成が、普通の修行をする一般部門と、 戦い専門の体力部門に分かれていたのかな・・などとも思ったのですが、 実際のところ、どうだったのでしょうか?

  • 神社仏閣巡りについて

     当方、神社やお寺の建物や空気、雰囲気が好きでたまに巡る事があるのですが、それについて質問を。その筋の職の方に伺いたいですが、そうでない皆さんの意見も聞いてみたく。  自身何かに属しているわけではなく、また上記の理由から、事前に調べた上で信心や祈願等の目的を持って行く事はありません。立て札で祭神等確認こそしますが、良く調べてもいない祭神を、そこに祀られているなら崇めようという気にはとてもなれず、賽銭や品物購入もしません。カメラでの撮影はさすがに遠慮しますが。  ちょっと見に来ただけと言う、一言、不信心の不届き者です。昨今パワースポット巡りというのがありますが、訪問の姿勢としては彼ら未満ですね。  参拝者数年間百万人を数える、一つ観光地のようになっている所であれば気にするほどではないかと思いますが、私が行く場所は常駐の宮司さんもいない様子の小さな所です。見るだけ見て帰っていくこういった闖入者は、その職の方からするとやって来て欲しくはないのかな、とふと思いまして、こちらに質問させていただきました。  ご意見等よろしくお願いします。

  • 真言宗も総合仏教?

    先週、幾つかの真言宗(豊山派)の寺院にお参りに行ってきました。 それぞれ御本尊がお不動さん、十一面観音さん、阿弥陀さん、薬師さん、お釈迦さんと色々でした。 真言宗では「自分も含めて諸仏諸尊は大日さんの一部である」という教義らしいですが そこで阿弥陀さんを御本尊とするお寺の和尚さんに「阿弥陀さんには阿弥陀経を上げるのですか?」と聞いたら「15日が縁日ですのでその日には私達僧侶が阿弥陀如来根本陀羅尼を唱えたらお檀家さんや拝観者さん達と一緒に御名号と御真言を七回唱えて阿弥陀経を読んで差し上げます。」と仰っていました。驚きました。まさか真言宗寺院で「南無阿弥陀仏」と唱えているとは思ってもみなかったからです。さらに「葬儀法要でも御故人に極楽の御浄土の信仰があると分かった場合は阿弥陀三尊に御来迎戴いて引導を渡すこともします。」と和尚さん。 帰って来て檀那寺の和尚さんにその事を話したら「そりゃあそうでしょう!大切な事は信徒さんや亡くなった人が何を求めていたかを見極めることだよ。人の価値観や信仰は十人十色だからね。安心(あんじん)になってもらわないと。教科書的に弥勒さんとお大師様が迎えに来て兜率天に往生しましたと言っても理解出来ない人が多いんだよ。細かい事を気にしない人や遺族だったらそれでもいいのだけど阿弥陀さんと縁がある人には阿弥陀経を上げて阿弥陀さんの元に逝ったと言うさ、あんた。葬式は遺族の心の安らぎのためでもあるんだから。」と。 私「では、薬師さんを信仰している人には浄瑠璃世界もあり得るんですね?」 和尚さん「そのとおり!『南無薬師瑠璃光仏』と唱えて御真言や陀羅尼と唱えて薬師経をあげさせていただきますよ?」 私「死んだら大日如来に帰依するんですよね?」 和尚さん「そうだよ。この宇宙は大日さんそのものな訳だから阿弥陀さんが治める極楽だってこの宇宙の一部な訳だから極楽に行って阿弥陀さんのお世話になったとしても大日如来に帰依している事に何ら変わりはないんだよ?」 私「つまり、特に信仰がない人やこだわないであろう人には大日さんの弟子に、特定の仏さんに縁がある人にはその縁を尊重するという事ですか?」 和尚さん「その通り。」 私「法華経はうち(真言宗)には関係ないのですか?」 和尚さん「そんな事ないよ?結論から言うと全てのお経は大日経と金剛頂経に通じているんだよ。だからどのお経を上げたって結局は大日経や金剛頂経をあげているのと同じなんだよ。だからお坊さんによっては阿弥陀経は必要ないって考える人もいるらしいよ。でも僕はそうはおもわないけど。 だってそのお経にしかない個性があるでしょうよ、あんた。阿弥陀さんには阿弥陀さんにしかない個性があるでしょうよ、大日さんにはない個性がね。それがまたいいんだよ。」 私「法華経はレベルが低いってお大師さんは言ったらしいですね?」 和尚さん「完璧なお経などありゃしないさ。それにさっきもいったように全てのお経は大日経と金剛頂経に通じているのだからそういう解釈ができたんだろうね。でも本当にそんな事言ったのかねえ。」 最後に「それぞれの縁日毎に色んなお経を上げているから時間があったらいらっしゃいな。」と。 阿字観という座禅、様々な種類の念仏と真言、豊富な種類のお経・・・。 天台宗とはまた違った切り口で総合仏教であると感じました。間口が広大です。 密教ですが顕教も内包しているのでしょうか? そういえば天台宗も正式名称は天台法華宗で伝教大師は法華経に重きを置いたのに時代がさがって密教等の要素を取り入れたのを思い出しました。

  • 「四国遍路ご利益3倍」と「お賽銭泥棒、」

    今朝のNHKニーユースで「四国遍路が巡礼するお寺でお賽銭が盗まれる事件が多発、監視カメラを取り付けたお寺もある。」との報道がありました。私は仏教徒ですが宗派が違うので遍路には行きませんが、「閏年」(うるうどし)の本年、この年に遍路をすると何とご利益が三倍になるらしい、この事の始まりはある伝説に由来するらしいが、長くなるので省略します。遍路で巡礼する札所のほとんどは空海を祖とする真言宗の寺である。空海は「顕劣蜜勝」(けんれつみっしょう)という自分勝手な己義を構え、顕教は劣り、蜜教である大日の三部経を最勝と説いて大日如来を本尊とする。しかし、大日経等の一切諸経説いた釈尊(お釈迦様)が、「我が諸説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」と述べているようにすべての経典の中で法華経こそが最も正しい教えである事は明らかである。しかも大日如来は現実に世に出現して成仏した仏では無く、釈尊が迹(しゃく)を垂れた法身・理仏であって、これを本尊として用いる事も釈尊の本位に背く邪義であり法華誹謗の罪過に当たるものである。法華誹謗の空海をいくら遍路で念じて歩こうがそこには真の利益はない、ご利益があると思って巡礼しているお遍路さんが 身を削って差し出した供養のお金が、あっさりと泥棒によって盗まれる?何とも皮肉な嘆かわしい事である。