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昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。

昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。 昔の僧侶は井戸を掘ったり、道を作ったり、賤民救済事業を行ったりしていたようですが。 このごろお寺に行くとやたら「寄付して」と声高に言われたり (文化財保護のためお金がかかるんでしょうが、あまりに言われるとワーキングプアは参拝しづらい。 拝観料とお賽銭くらいはしますが。) 参拝者を邪険にするような態度をとる関係者がいて はあ?と思います。

noname#163492
noname#163492

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回答No.3

#1です。 舌足らずの回答でしたので、追加させてください。 まず、私個人は仏教が好きなんです。でも坊主が好きというわけではありません。 どうして、私が大昔のインドの御釈迦様に端を発する仏教に出会う事が出来たか、と問えば、それは何千年にもわたって俗世間の欲を捨てて出家し、精進し、研究し、翻訳し、伝承してきた僧侶たちのおかげと思い感謝しています。 目の前にいるAという坊さんに感謝しているわけではなくて、匿名の何千何万という仏教徒全般に感謝していると言えば分かりやすいでしょうか。ですから、今の仏教界が今の私になにか具体的な、井戸を掘ったり、道を作ったり、賤民救済などの役務を提供してくれることを期待する訳じゃないんです。坊主の方はといえば、創価学会などの新興宗教は言うに及ばす、それ以外でも大体嫌いですよ。 ちょうど、数学者や物理学者という人々に感謝するのと同じでしょうかね。フーリエさんと言う数学者がフーリエ変換を考えてくれたおかげで、いま病院でCTスキャンなどの画像診断で私の内臓を観てもらうことができる。アインシュタインさんが特殊相対性理論を考えてくれたおかげでGPSが実用化され、クルマのカーナビで便利なドライブができるようになった。このような人類の進歩に感謝するからといって、目の前にいる数学者Bとか物理学者Cに何か感謝の気持ちで一杯だということでもありません。 さて、現在、世の中のために電話相談をしている坊さんが居ます。立派な行いだと思います。 でも、これで仏教界が現世に貢献しているかどうか議論するのは間違いです。プロ野球選手でチャリティーに貢献する人がいたり、医者で難民救済に頑張る人が居たりするのと同じで、個人の社会奉仕活動なのですから、プロ野球選手会とか日本医師会とかに感謝しなきゃならない事項ではないのと同じですね。 で、仏教ビジネスですけど、これはこれで上記とは別の次元で現実的な社会の効用を担っていただいている。すなわち、先祖の墓をまもり、仏事に際しては御経を読んでくれる。現実世界のサービスですから、これにはこれで対価を払わないと坊主の生活ができないですから、ある程度の対価を払う事は当然ですよね。ただ、行きすぎて、税制の盲点を利用したり、檀家にも手の届かない高級車に乗りまわすのはどうかと思います。 修行僧や在家信者も自分の興味だけで知識をまなんでいるのではなく、仏教の言うところの救済を考えて色々と活動されているともいます。 ===参考=== 仏教は元々、個々人の輪廻の鎖を断ち切り悟りを得ようとする営みから始まったものなのだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。(Wikipedia) ===== つらつらと長くなってしまいましが、行政サービスが充実している現在、仏教徒は本分に立ち返って、衆生済度を目指して精進していただきたいと思います。 ===衆生済度=== 仏道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させること。▽仏教語。「衆生」は生きとし生けるもの。人間を含むすべての生きもの。「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと。 ====

noname#163492
質問者

お礼

再回答をありがとうございます。 こちらこそ、回答者さまの意図しているところを十分にくみとれず失礼いたしました。 どうやら回答者さまと私が感じていることはおなじのようですね。 私は仏教がどういうものか、よくは知りませんが 宗教というものが人の生き方をとくものであるならば 人々を導くための僧侶やお寺の関係者の人は人格者でいてほしいのです。 いや、人格者でなくてもいい。 普通に気持ちよく参拝者に接してくれさえすれば。 ところが、世の中にはイジワルな僧侶や関係者がいます。 百貨店やスーパーの店員さんでももっと親切ですよ。 トイレさえ貸してくれないお寺がありました。 私は俗人ですが、他人にトイレくらい貸します。 またあるお寺では「銀杏の実をとらないでくださいね。防犯カメラつけてますから」といわれました。 「私は銀杏の実をとったりはしていません。感じの悪いお寺ですね。もう二度とこない。」 と言い返すと 「最近の若い人は注意するとすぐ逆切れする」 とこうです。あきれました。 スーパーで客に「万引きしないでくださいね。防犯カメラついてますから。」と言うところはないでしょう。 店の商品を持ったまま店外に出たところで万引きの現行犯として捕まえます。 お寺というところがもう少し、心の通ったところであってほしい、と思うのです。 >現在、世の中のために電話相談をしている坊さんが居ます。立派な行いだと思います。 でも、これで仏教界が現世に貢献しているかどうか議論するのは間違いです。 私はこういう僧侶の方が増えてほしいなあ、という気持ちを書いたまでで 仏教界が現世に貢献している、と書いたのではありませんので ご理解願います。 >ただ、行きすぎて、税制の盲点を利用したり、檀家にも手の届かない高級車に乗りまわすのはどうかと思います。 同感です。 お釈迦様が質素な装いをしておられるのはなぜか、ということをよく考えていただきたい。 僧侶に妻帯が認められるようになったことが仏教をダメにしているのではないか、と思ったりもします。 世襲になってしまっていますでしょう。 それで自分はエライと勘違いしてしまっているのでは。 丁寧な回答をありがとうございました。 大変参考になりました。

その他の回答 (15)

  • roro500
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回答No.16

確かに、邪険な態度はよくありませんね。 ですし、観光地として寺があるような気も 確かにします。質問者様は奈良のお寺にいってらっしゃる ようで、私も先日、興福寺に行きました。 ですがいいところですね、仏教のお寺ですが。 本題です。はあ?と思ってしまうのは質問者様の、仏教に対する考え方ではないかと思います。 質問者様の考え方が世のため人のためと思うので、はあ? と思ってしまうのではないでしょうか? あくまで寺院はその寺の所有物ですからね~・・・ けど反面、極論を、言うと相手の態度がでかいと、こっちは金払ってみにきてやってる割におまえら態度でけーな。アホが に、なってしまいますよね。分かる気もします。 私の場合、無宗教なので、仏像をみても、きれいに 彫刻されてあるなとか、そっちを感じますけど、 あれ、わからない人にはただの木なのかとも思いますよ。 ただ、最近知ったことの中に釈迦は弟子たちに、自分の 教えを残すなら口語で残せと仰っていたと言う 説があるそうなのです、 なぜなら、文語の難しい言葉にしてしまうと、聞く人が 本質をより捉えにくくなるからだそうなんです。 ですから、仏教というのは、我々菩薩が釈迦の考え方を読んだり聞いたり して自分もまた考えて生きていくことなのかな? と考えております。 入り口としてお寺やお経の存在があるのかなあ、ともおもいます。 しかしお経は難解な文語ですけどね、私のような一般には理解しがたい 部分があります。釈迦の教えをいろんな人が解釈して曲げて行く、 そこなんでしょうね。まあ悪気があるわけではないと思うんです。 ですが色即是空の空の意味だとか、如実知見だとかいいこといってますよ。 毒矢のたとえって知ってますか? ある人に向けて矢が放たれたとします、刺さった本人が、これは どこの誰が私に向けて放ったのだ、どれくらいの深さが刺さっているのだ どんなつるを使っていたのだ、などなど、わかるまで矢は抜かせんと駆けつけた医者に いったとしたら、それを知る前にその人は死んでしまう、大切なのはまず矢を抜くことなのだ とお釈迦さまがいったそうです。 その言葉のなかには色々な意味が詰まっています。 なんだかんだうんちくをいっても行動することが大事でしょう。ともとれるし 人を恨んでつまづいてることがあったら人を恨む前に自分が前に進みなさい。 だとか、いろいろです。 ナーガールジュナの教えとか、現代にいたるまで色々な人の考えが 入ってきておりますが、分かり易く書いてある文もありますから 自分なりの本質を捉えようと読んでると それについて考えるだけでも楽しくなりますよ。 せっかくお寺さんに足を運んでらっしゃるので参考にしていただければ と思いまして書きました。質問者様にまた新しい発見があったらうれしいな と思いまして。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 ちょっと嫌な思いをしたものですからかーっとなって ここに書き込んでしまったのです。 皆様にはいろいろなことを教えていただきまして感謝しています。 興福寺に行かれたのですか。 美しい阿修羅のおられるところですね。 >質問者様の考え方が世のため人のためと思うので、はあ? と思ってしまうのではないでしょうか? あくまで寺院はその寺の所有物ですからね~・・・ そのとおりかもしれません。 嫌なら行かなければいいだけの話です。 私はみほとけを参拝したいので、カチンときても流すようには心掛けていますが ときどき切れてしまいます。 まあ私も立派な人間なんぞではないということです。 口語で残せですか。 私は仏教のことはわかりませんが 般若心経とか真言など、意味がわかって唱えている人ってどのくらいいるんでしょうか。 あれを口語訳して唱えるようにしたらいいかもしれませんね。 >釈迦の教えをいろんな人が解釈して曲げて行く、 そこなんでしょうね。まあ悪気があるわけではないと思うんです。 日本では神道と結びついて日本独自の仏教ができたのではないかと思います。 秘仏なんていうのも日本独自のものだそうですね。 悪いことではないと思います。 ただ、現在の価値観には合わないところが多いとは思います。 で、寺院でも今の価値観に合わせていっているようですね。 たとえば昔は子供を産まない女性は地獄に堕ちるなんぞと説いていたようです。 しかし先だって訪れたお寺で地獄絵の絵解きをしていただきましたが その絵については説明されませんでした。 それはそれでいいと思います。 まあ、でも高級車を乗り回すような僧侶がいることもまた事実です。 つまり私が毒矢が刺さった人なわけですね。 なかなか上手い喩だと思いました(笑)。 いつまでもくだらないことで怒っていてはいけない。 怒っているうちに人生終わってしまいますよ、と諭してくださっているのですね。 感謝いたします。 かーっとなっていたのも少し時間がたったのでだいぶおさまってきました。 今興味があるのは行基さんのことです。 うちの近所には行基さんが作ったというため池がたくさんあります。 行基さんのパワーの源はどこにあったのだろう、と。 どうして行基さんは世のため人のために生きることができたのでしょうか。 本当は世のため人のために生きたくなんぞはなかったのに 無理やりそういう生き方を強いられたのかしらん、 菅原道真さんのように。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.15

>仏教はすでに信者が多いんですよ。  減らないのはお坊さんが頑張っているからでしょうか。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7 剃髪の項参照のこと。  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%89%83%E9%AB%AA/  ここに書いてあることが本当だとしたら、罪人意識や人間社会への後ろめたさを持っている人が死人を送る門番をしているという事になります。もしかしたら最も救わなければならない人たちはお坊さんなのかもしれません。  死者に墓は必要ないでしょう。生者に墓は必要でしょう。仏教と墓制度で社会は良くも悪くも濁ったのだと想います。 >お寺めぐりも好き、というよりは趣味なので。  そうなんですか、神社ならまだしも、お寺には物騒な、暗い雰囲気のお墓群がありますね。不気味なので寺は好きではありません。死者が墓に執着し、さらに生者の、墓と死者への執着が何らかの相乗効果を生み出しているのであれば、墓はなくなったほうが良いのかもしれません。あるいはもっとシンプルな、スマートなものになっていけば良いと想います。 >すいません、ちょっと意味がわかりづらいんですが これは仏教が誰かを犠牲にする宗教であるということですか。  「それから」で始まる文章は質問とは関係のないことを書いたんです。以前の他の質問者の質問に書くべきことをあえてここで書いただけなので、気にしないでください。 http://www2.tokai.or.jp/shaga/atorantis/sub3.htm 下記はリンクの抜粋です。 本当かどうか解りませんが、mmkyさんが見たらなんと言うでしょうかね。 ~仏陀はイエスに「もし私の教えが、私の説いたとおりに完全に実現されたなら、人々は皆、エッセネ派教団のようになるに違いない、だが、そうあってはならない。俗世から離れた清浄な僧伽を作ったのは誤りであった。エッセネ派教団の人々も世間の人々から離れることによって、霊的な進化を遂げている。彼らは清められ、他の人々は依然として苦の中にいる。俗世の人々を犠牲にして自分が清められるということがあってはならない。私が説いた教えを実現すれば、エッセネ派教団のように清められた人々が出現する。だが、そうあってはならないのだ。」と語ります。~

noname#163492
質問者

お礼

何度も回答をありがとうございます。 剃髪の意味について始めてしりました。 興味深いですね。 仏陀は自分が罪深い人間であるということを示すために剃髪したのではないかな、と思いました。 >罪人意識や人間社会への後ろめたさを持っている人が死人を送る門番をしているという事になります。 私は罪の意識を持つことは人間としていいことだと思っています。 誰一人傷つけることなく生きている人はいない。 逆に私がむかつくのは、罪の意識を持つことを忘れているんじゃないか、と思われる僧侶が存在することですね。 死者に墓は必要ない、というのは賛成です。 自分が死んだときには墓なんぞはいりません。 高額のお金を支払って戒名をつけてもらったりすることも馬鹿馬鹿しい。 だけどそういうものが欲しいと思う人はそれはそれで自由だと思います。 >お寺には物騒な、暗い雰囲気のお墓群がありますね。 奈良の大寺にはお墓のないところが多いです。 ま、あったところで個人的には全然気にはなりません。 信者さんには怒られるかもしれませんが民俗学的資料として好きなのです。 >「それから」で始まる文章は質問とは関係のないことを書いたんです。 そうでしたか。 実は私は日本の仏教が誰かを犠牲にする宗教のように感じていたので 回答者さまも同様のお考えなのかな、と思ったのです。 今はそんなことはないと思いますが、かつては誰かを犠牲にしてみほとけに祭り上げていたのではないか、と思っています。 例えば菅原道真が雷神となって祟ったことは有名ですが 北野天満宮の神宮寺であった東向観音寺に「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」と書かれた石碑がたっていました。 天満宮とは道真のことなので、これは「道真のもともとの正体である十一面観音をお祭りしています。」という意味です。 つまり・・・大宰府に左遷となり失意のうちに死んだ菅原道真を十一面観音に祀り上げて祟らないでくれ、とやってるわけです。 菅原道真がこんなことよろこぶはずがない。 誰しもみほとけとして祀られるよりは充実した現世をおくりたいと思うのではないでしょうか。 ですので、「お寺が不気味である」「墓と死者への執着が何らかの相乗効果を生み出している」と回答者様がおっしゃることはとても理解できます。 mmkyさんってもしかして私のことかな。 俗世の人々を犠牲にして自分が清められるということがあってはならない。 というのは納得です。 しかしながら、仏教は日本文化と切っても切れない関係にあるし、素晴しい文化財を残しています。 ですからなくしてしまうのは勿体ない。 なので、せいぜい存在価値を高めるように努力していただきたい、と私は思います。 せめてスーパーマーケット並みに、「ようお参りくださいました」くらい言ってほしい。 大変参考になるお話をありがとうございました。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.14

私は寺社巡りが趣味ですが、そのようなことを言われた事は一度もありませんし。 例え言われても気にしないでしょうね。 私は賽銭は基本的に100円以上は出しません。むしろ来る人もない可哀想な寺社には200円出します。 昔は托鉢で糧を頂いていたし、普請には今以上に戸別訪問で寄付を募っていましたよ。 井戸を掘ったり道を作ったりって、今でも必要とする海外ではやっています。日本では必要ですか? それに昔は国や地方自治体もちゃんと維持管理費を出していましたが、今では誤った政教分離解釈で出していないでしょ。塾と学校しか知らないような無学な裁判官が「出すな」などと、いい加減な判決まで出しています。こんな程度の低い国は日本くらいなものです。 参拝は何の為にするのでしょう?ご利益祈願? だとすれば、自分も賽銭以上のものを乞うているのだから、相手が乞うてきても不思議でもなんでもないのではありませんか? 貴方は神仏を指名して(寺社に訪れて)祈願をかけているのでしょう。相手は貴方にではなく大衆に向かって乞うているのだから、気にする必要もないのです。 私は単にご挨拶に行くだけ、感謝に行くだけ。だから物乞いの声など耳にも入りません。 自分が周りを観て、ナントカしてあげたいと思ったときだけ、50-100円を上乗せするだけです。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >私は寺社巡りが趣味ですが、そのようなことを言われた事は一度もありませんし。 どういう意味なんでしょうかね。 あなたの行いが悪いから言われたんじゃないですか、と聞こえてしまいます。(笑) まあ普通にはしているつもりですが、徳のある人間なんぞではありません。 私の質問の仕方がわるかったんでしょう。 現在、僧侶の方が勝手に道をつくることはできません。 私有地にであればつくれるでしょうが。 >参拝は何の為にするのでしょう?ご利益祈願? 人それぞれでしょうが、私はご利益祈願はいたしません。 ご利益祈願すれば望むものが得られる、という信仰は私にはもてませんので。 みほとけと対話がしたくて参拝しています。 >相手が乞うてきても不思議でもなんでもないのではありませんか? 別に寄付せよ、というのが悪いとは言っていません。 他の方のお礼のところで書いていますが 限度があるのではないか、と言っております。 道端でも子供が大勢並んで大声で「寄付してください」と言っているのをみかけますが 大声でがなりたてるほど寄付する人は少ないのではないでしょうか。 もう少し違う方法を考えてはどうか、と思うのです。 >相手は貴方にではなく大衆に向かって乞うているのだから、気にする必要もないのです。 寄付についてはそうですね。 しかし、泥棒扱いは私に名指しでしたので。 強烈ですね。一生忘れることはないでしょうね。 まあ、回答者さまは同様の経験をなさっても平気でおられるのでしょう。 それについては尊敬いたします。 回答者さまは大変ご立派な方なのですね。 繰り返しますが、私はご利益祈願で参拝しているのではありませんから。 それが信じられないから、無宗教なのですよ。 ですからいろいろ書いていただきましたけれども その前提(ご利益祈願で参拝している)が成立しませんので。 >私は単にご挨拶に行くだけ、感謝に行くだけ。 私はみほとけにご挨拶はしますが、別に感謝はしていません。 なんでも地蔵菩薩さまは人々の身代りになって地獄の責め苦を受けてくださるのだそうですね。 私は地蔵菩薩さまに自分の身代りになってほしいとは思わないのですよ。 ただ私はみほとけの悲しみをを理解したくて参拝いたしております。 まあ、参拝のあり方はひとそれぞれで構わないと思いますが。

noname#163492
質問者

補足

奈良のお寺は檀家がないところが多く、寄付を呼びかけている寺院が多いことを申し添えておきます。 檀家の多いお寺ではそういうことはないように感じます。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.13

>米虫さんというのは何かの喩なのですか? 米虫糞坊主とは、真言宗高野山の管長にまでなった高僧土宣法竜のこと。わたしの尊敬する南方熊楠が、自分のことを金粟如来と呼び、法竜のことを愛着をもって米虫糞坊主と呼んでいました。この2人の間の書簡のやりとりで、熊楠神が書いた書簡集は、『南方マンダラ』として有名です。南方が20才後半にロンドンにいた頃、たまたまロンドンを訪れていた10才程年上の僧侶の法竜に、宗教とは何であるかを講義している書簡集です。度肝が抜かれることがいっぱい書いてありますので、機会があったら読んでみることをお薦めします。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど、そういう意味ですか。 しかし書物を読んでみないことには イメージが湧きませんね。 なんかおもしろそうなので図書館で探してみることにします。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.12

米虫大工さんの話はいつも何かを教わる。この金粟獪猪まで教わっちゃうんだから、やっぱ、田へしたもんだね。私の知ってる米虫さんは、一つ身だっちゅうのに日本中にお墓がいっぱいある弘法大師さんのお膝元の、あの高野山の管長までなったお偉いお方だ。墓がいくつもある方でアメリカであたしが知っているのは、アメリカのあちこちに三っぐらいある皆さんごの存知の強盗ビリーザキッドだけだ。やっぱ弘法大師さんは偉いんだね。だから、あたしゃ大工さんを勝手に米虫と呼ばしてもらうことに決めた。 あたしの先生がいつも言ってが、その先生にとって大事だったことは、人との遭遇と、気心の合った連中との議論だったそうだ。議論なしだと、独りよがりになって行けない。だが、気心が合ってないと互いに閃きの潰し合いだ。 あたしの議論相手の中かには、ときどき、もうそこまで筋の通った説明がついているのに、なんで今更同じ問題を持ち出すのだ、なんて言うのがいるが、そんな時あたしゃそいつらに「馬鹿者め、同じもんでも上から見た時と下から見た時と横から見た時とじゃ違ったところが見えるんじゃ。モンテーニュ爺が言ってたが、なんか物を分かろうとしたけりゃ、母熊が小熊を育てように上にしたり逆さにしたりして体中を嘗め回さんと行かんのじゃ」と言っとる。今度の米虫さんも話を引っくり返して嘗め回してくれて、「買う不満」なんちゃって、教わっちゃった。歓心、々々。 刺激されて古い記憶を調べ直したら、日本にセールスマンが余り居らはらへんかったということはおわへんどすえ。ぎょうさん居らはらはった。むかしは、お伊勢さんの神人や、熊野比丘尼はんたちや、夫婦もんの山伏と巫女はんの比丘尼たちが連れ立って、日本中の村々を巡り歩いて行商しておって、お宮さんのお札などを売り歩いていたそうどす。旦那の山伏はんがいろんな珍しいもんや得体の知れんもんを売り込んでいるあいだ、巫女はんはこないだ死んだ爺さんや婆さんたちの霊媒になりはらはって、村のご婦人方を泣かせていたそうな。 たしか、京都あたりにそんな巫女はんたちの訓練所があって、ときどき巫女はんたちは、あたらしい情報を仕入れていたそうどす。村じゃ、そんな都のきらびやかな話が聞けるので、巫女さんたちは大歓迎だったとか。とくに人気があったのは和泉式部はんのおはなし。むかしは、和泉式部のおはなしを巫女はんたちは一人称でしてはらはったそうで、だから、和泉式部はんは日本中におったそうどす。だからこ、セールスマンも日本中に居ったそうどす。歳とって巫女はんがもう旅ができなくなってその村に住み着いても、いつも和泉式部はんのおななしをしとったそうな。だから、日本中に和泉式部はんのお墓がいっぱいあり、お大師さんのお墓よりももっと多い、日本一なんだそうどすえ。いつもおなごはんは強いどすなあ。 また、鉢たたきと呼ばれた踊り宗教のお人たちが、ついでに行商のセールスもやっていたそうな。そうそう、京都辺りにもセールスの巧い越中富山の薬売りがいつも来とったどすえ。今の若い人たちはわすれはられているようどすが、けっこう日本にもセールスマンがぎょうさん居らはらはったそうで、こんなんが理由で、日本中のどんな山奥に行っても、不思議にみな同じようなおはなしが伝わっている原因なっていと、お偉い学者さんがいっているそうどす。

noname#163492
質問者

お礼

何度も回答ありがとうございます。 >私の知ってる米虫さんは、一つ身だっちゅうのに日本中にお墓がいっぱいある弘法大師さんのお膝元の、あの高野山の管長までなったお偉いお方だ。 米虫さんというのは何かの喩なのですか? >日本にセールスマンが余り居らはらへんかったということはおわへんどすえ。 言われてそのとおりと気が付きました。 私がまちがっておりました。申しわけありません。 昔は現代のように物があふれる世の中ではなかったでしょうから 神人の方々がいろいろなものを売り歩くことを、世間では歓迎していたのではないでしょうか。 鉢たたきというのは空也僧のことですね。 たしか茶筅を売り歩いていたのでしたっけ。 空也さんは大好きな方で、毎年空也堂の空也忌にいっています。 御本尊が空也像なんですね。口から6体のみほとけがほとばしりでる。 あのお寺はいついってもいいなあ、と思います。 越中富山の薬売りは、子供のころうちにも来ていましたけど、風船くれたりするので子供心にこられるのが楽しみでしたね。 しかし今の時代、行商は訪問販売と言われて、世間ではあまり歓迎されなくなりました。 ときどき、うちにもエホバの上人の方がこられますけど、 あまり信者獲得には成功していないのではないでしょうか。 創価学会の方はエホバの上人のような(営業でいうところの)飛び込みはなさっていないようです。 彼らは職場の人間とか、縁故とか、ご近所さんをターゲットにして 新聞取れだの、公明党に入れろだのと営業をかけるところがいやらしいですね。 彼らは本当に連帯感を持つことで救われているのでしょうか。 連帯感を持つことで得た物はひとりではない、という安心感だけで 実際は人間としての品位を落としているのではないかと思います。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.11

 仏教を含めた宗教が徐々になくなるようにしていかないとだめですね。坊さんが仏教を維持・存続させるために頑張ったら宗教が必要ない人まで困ってしまいます。  必要な人もいて成り立つという面ももちろんあるでしょう。しかし一方で、維持存続発展させようとする在り方が信者を増やすという結果にもなるでしょうね。むしろ現代においては後者のほうの側面のほうが強いと思いますけどね。  それから、何か問題があったときに誰かを犠牲にすれば一部の人は助かるだろうか などと考える人が少なくなることが「壊れた共同社会を再構築すること」につながるでしょうね。  どの無駄な部品を削除・取り除いてその組織・建物を構築しようとするか ではなく、皆でどのように問題を解決していくかと考えなければダメでしょうね。  「アポロ13」という実話を基にした映画がありましたが、宇宙船にトラブルが発生した時、何を・誰を犠牲にすれば助かるだろうかという方向へ意識を働かせたのではなく、どのようにすれば皆が生還する事ができるだろうかという方向へ向かいました。それは同じ組織の人間であり、仲間意識も強く、小さな船体の中であったからでもあるでしょう、、、。

noname#163492
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >一方で、維持存続発展させようとする在り方が信者を増やすという結果にもなるでしょうね。 新興宗教ががんばれば信者が増えるかもしれませんが 仏教はすでに信者が多いんですよ。 日本人の多くが、教義や般若心経の意味なんぞわかっていなくとも先祖の供養をお坊様に行ってもらっています。 そういう習慣は悪いものではないし、 仏教は日本の伝統文化と密接に関っているということもあり 仏教がなくなってしまえばいい、とは個人的には思っていません。 お寺めぐりも好き、というよりは趣味なので。 ただ、訪れてああ来てよかったな、と思えるような場所であってほしいというか。 >何か問題があったときに誰かを犠牲にすれば一部の人は助かるだろうか などと考える人が少なくなることが「壊れた共同社会を再構築すること」につながるでしょうね。 すいません、ちょっと意味がわかりづらいんですが これは仏教が誰かを犠牲にする宗教であるということですか。

回答No.10

 No.6です。  すみません。《シヰ゛リザシオン》は civilization のことでした。文明を 人びとの交通の様式だというふうに捉えてみたものです。  ★ 阿修羅と帝釈天の説話  ☆ なるほど。生活日常に即しているように思いました。そういう事例ですね。そういうふうに話をすすめていくとよいようだと思いました。  要するに 人びとの《交通》の橋渡し役を いろんなかたちで 仏教徒は 積極的にしてもよい。こう思われるというところだと思います。  一部のお寺が 駆け込み寺であった時代もあったようですね。

noname#163492
質問者

お礼

何度も回答をありがとうございました。 そういう意味でしたか。 どうもカタカタ語が苦手でいけません、 せっかく回答いただいた内容が理解できないようでは。 大変勉強になりました。 >人びとの《交通》の橋渡し役を いろんなかたちで 仏教徒は 積極的にしてもよい。こう思われるというところだと思います。 確かにそうですね。 そして一部の寺ではそういうことも行われているようです。 「人生相談いたしております」という張り紙のある寺や 戦争反対のための法要を行った寺もあります。 しかしその一方で、全く徳の感じられないお寺があることも事実ですね。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.9

印象深いのは、アンベードカルさんや佐々井さんが、インドで法的には解消されたものの根強く残る下位カースト差別の対象となる不可触民の開放運動をしていることでしょうかね。一億人ぐらいかな?仏教徒になって差別から逃れられているようです。 まぁ、仏教といってもいろいろですからね^^; 変なのもいるでしょう・・・ 最低限、本職である矛盾なき法を説き、実践し、実践者を支援する。 という仕事をがんばってしてほしいものです。 在家としては・・・ 在家も広い意味ではサンガの一員ですし、 いろいろ困った方々に寄付やら学校建設やら皆でいろいろやってますよ^^b 本来、具体的な事業は出家の仕事というより在家の仕事のように感じます。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仏教徒になって差別から逃れることができた人がおられるのですね。 そういう活動を行っている人々は心より尊敬します。 まあ、どこの寺でもそういうことをするべき、などとは思いませんが 少なくとも一般常識から外れたような態度で参拝者を迎えて欲しいと思います。 在家の方もいろいろ活動されている方もおられるのですね。 寄付を呼びかけるのも悪くはないんですが、全ての人が寄付できるほど金持ちじゃないし 今の世の中不景気で就職口が決まらない学生も多い、ということを 頭のすみにでもおいといて、ほんのすこしだけ気をつかっていただきたい。 お寺の人は寄付してください、といえますが、 一般人は就職口がなくて経済的に行き詰まっていても 寄付してください、などといえませんのでね。 大変参考になりました。

noname#163492
質問者

補足

>少なくとも一般常識から外れたような態度で参拝者を迎えて欲しいと思います。 すいません・・・ これじゃ意味わかりませんね。 一般常識から外れないような態度で・・・と修正させていただきます。

回答No.8

#1です。 Cyototu先生から「なぜ多くの人達に毛嫌いされている創価学会がこんなにも多くの信者を手に入れることが出来たのか」という練習問題を頂きましたので、この場を借りて回答を試みたいと思います。 まず、集団への帰属の問題に関しては私も賛成ですが、帰属の対象に関しては大企業、企業系列を例示するだけでは不十分と思います。 人が所属する社会は 利益社会(ゲゼルシャフト [ Gesellschaft ])と 共同社会(ゲマインシャフト [ Gemeinschaft ] )のふたつです。 共同社会が十分機能していた時代には、大企業に所属しない事の不満足感、不安感は一般的ではなかった。祖父母がいて、両親がいて、兄弟がいて、親戚付き合いと近所付き合いが濃厚で、生まれ育った町に住み続け、同級生、同窓生などの繋がりも途切れることがなかった。冠婚葬祭は昔ながらの菩提寺や街外れの神社で実施していた。日蓮宗か浄土真宗かなど、教義はあまり関係無くて、共同社会の寄り合い機能として寺があった。箱ものとしての集会所機能に加えて、何々家の二男坊もそろそろ嫁を貰らわにゃいかん年頃だが、などと住職に見合いの相談をし、結婚が成立することもある、たいへん価値のあるものでした。 戦後の核家族化、それを推進した鉄筋コンクリート2DK公団住宅や賃貸アパートの乱造によって、大きな家族は維持できなくなり、最小限の核家族でさえ離婚・再婚、未婚母の増大で機能不全になった。共同社会の崩壊ですね。そこにこそ「創価学会がこんなにも多くの信者を手に入れることが出来た」土壌があった。 「系列会社の頂点に立つ本社の連中で創価学会員を捜すのが至難の業」という見方も、「系列会社の頂点に立つ本社の連中」は同時に古き良き共同社会に対しても所属意識を満足できる階層の人達である(正の相関関係がある)と考えると矛盾はありません。 二点目の原因分析として「帰属意識の喪失」という土壌においてなぜ創価学会が覇者となったかを考えましょう。私は、創価学会が覇者となった最大の要因は「創価学会が日本の宗教団体中で最もアメリカ的であった」からだと思います。 商売=ビジネスを考えます。 ビジネスマンとは、アメリカでは基本的にセールスマンです。売る人。 ドイツではカウフマンと呼びます。買う不満ではなくて、Kaufmann、つまり「買う人」ですね。売る側面に注目する米国と買う側面に注目するドイツでは、同じ欧米、同じ大陸文化ではあっても逆の発想ですね。 元々の日本はどうかと言えば、明らかにドイツ型です。 老舗、大店(おおだな)は商品を買い付け、在庫して、お客が買いに来るのを待つ商売です。大手の材木問屋などは良質な原木を何年も保管しており、どのような注文にも応えられる体制になっていながら、決して先方から売り込みなどはしない。大工の方が良く調べてお願いしなくちゃ取引はできないのです。施主と棟梁の関係も同じで、棟梁がお客を探すのではなくて、施主が棟梁を探して「お願い」したもんだそうです。日本の商人はみなカウフマンであった。昔の日本にセールスマンという職業はなかったのではないでしょうか。これは商人だけでなく、日本社会全体のことでして、仏教も神道も基本的に「待ちの商売」で良かった。キリスト教と違って日本の教団にはエヴァンジェリストも居なかった。そこに、米国的セールス、宣伝、売り込み、折伏(しゃくぶく)を重視する“マーケティング教団”が現れたらどうでしょうか。 セールスにも上品なセールスと、競合を非難・排斥する下品なセールスとがあります。最もアメリカ的なのはアグレッシブセールス(攻撃的売り込み)です。自分を売り込むだけでなく競合をたたき落とすことに注力します。創価学会が採用したのは日蓮宗本体をも非難するような下品なアグレッシブセールスだった。 蛇足ながら、アグレッシブなどという品性の無い言葉が日本でも頻繁に聞かれるようになりました。英語偏重、日本語軽視が厭だというだけじゃなくて、仕事の進め方に於いて、攻撃的、侵略的な発想を良しとすること自体、品性が卑しいと思います。 共同社会の崩壊による帰属意識の飢餓感と従来の日本の教団に無かったアグレッシブセールスと呼ぶべき宣伝と折伏。この二つによって多くの信者を手に入れた創価学会は、同じ手法にて、同じ土壌が有る米国でも成功すると思いますし、仏教を一旦捨てた中国でも活動の自由さえ認められたら爆発すると思います。 最後に追加しますが、こうして組織的発展を遂げる創価学会が「世のため、人のため」になっているとは思えません。仏教はあくまで衆生済度を追求していただき、社会の問題としては壊れた共同社会を再構築することが「世のため、人のため」と思います。

noname#163492
質問者

お礼

何度も回答をありがとうございます。 たしかに今の世の中共同社会は崩壊してしまっていますね。 私は最近引越ししたんですがここはごみ出しのときに近所の人とあっても挨拶もしないようなコミュニティーです。 義母ももっとコミュニティーの繋がりがあれば新興宗教に入らなかったかもしれません。 アメリカではセールスマン、ドイツではカウフマンですか。 面白いですね。 私もかつての日本にはセールスマンはそんなに多くはなかったのではないか、と思います。 酒造メーカーの中には営業という職種がない会社もあるそうですね。 営業なぞしなくても売れるんだそうですね。 しかし今は日本もアメリカ型になっていますね。 私もかつて営業や販売の仕事をしていたことがありますが 売れない物をいかに売るか、というテクニックが要求される嫌な仕事でした。 売れる工夫をすることはいいのですが、私としては売れるものを作ったほうがいいのではないかといつも思っていました。 そして、学会の人を見たときに、 ああ、この人はいいセールスマンになれるだろうな、と思う人が多いのは確かですね。 彼らは臆することなく、だれかれとなく声をかけて選挙よろしくお願いします、と言います。 どこかの公園でお弁当食べているときに、知らない学会の人にそういわれたこともあります。 学会の人がほかの人と異なるのは、目的があって人に近づいてくることです。 純粋な好意をもって近づいてくるのではない。 そのあたりが個人的には気持ち悪いです。 >仏教はあくまで衆生済度を追求していただき、社会の問題としては壊れた共同社会を再構築することが「世のため、人のため」と思います。 そのとおりですね。 大変興味深く拝読させていただきました。

回答No.7

 No.6です。  おぎないます。  ☆☆ (No.6) 諸回答を読んだ結果です  ☆ と書きましたが それは No.4までのものを言っています。(物理的に言って そういう事実であると 念のために)。

noname#163492
質問者

お礼

わざわざ補足をありがとうございます。

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