• ベストアンサー

3人の命は、1人の命より重いか?

3人の命は、1人の命より重いか? 瀕死の状態の4人がいるとします。 このまま放置すれば、4人とも死亡します。 1人の命を犠牲にすれば、他の3人を助けることができるとします。 (例えば、1人の血を抜いて、他の3人に輸血する等の状況とします。) 医師は、1人を犠牲にして、他の3人を助けたとします。 (4人の優劣は、付けられないので、ランダムに犠牲になる、1人は選ばれたとします。) それで、「多くの命を助けるためにこれがいいと考えた」と、言ったします。 この、医師の主張をあなたはどう思いますか? 3人の命は、1人の命より重いのでしょうか?  

noname#136007
noname#136007

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.14

 人間社会の利益という観点からは、‘少数より多数’という価値観が通用するかと思いますが、宗教的には人を殺すという行為そのものの良し悪しが問われると思います。  倫理的には結構悩みます。

その他の回答 (14)

回答No.15

医師のしたことは正当でしょう。なぜなら医師は救えなかったひとりについて、死んでもいいなどとは決して考えていなかったでしょうから。むしろ四人が瀕死だという極限状態が医師の現前にあるという事態を設定をしておきながら、その状況をきちんと想像してみることもしないで、たんに救われた者と犠牲になった者との、数の問題として問いを発しているあなたの問いの立て方にこそ、私は疑問を感じます。 では逆に、瀕死の四人の中でたった一人しか救えなかったとすればどうでしょうか。その一人の命は三人の命より重かったのでしょうか。精一杯努力したが、一人しか救えなかった……それが現実でしょう。救われた一人はなぜ私一人が生き残ったのかと苦しむことこそあれ、私の命のほうが他の三人の命より重かったのだなどと、そんな馬鹿げた結論にはまず至ることはないでしょう。そしてあなたの論を進めていけば、救われた者と犠牲になった者との数が等しくなったとき、命の軽重という問題はすっかり解消されるということになります。つまりこの場合、二人が救われれば命の重みとしては、生き残る者の(2)と死ぬ者の(2)が等しいということで一件落着です。 救う者も救われる者も同様に苦しむに違いないそうした状況下では、あなたの問いはまったく意味を成さないに違いない。医師がこのとき何を考えて行動したのかと、ちょっとでも頭をめぐらせたなら、「3人の命は、1人の命より重いのでしょうか?」などと問うことが如何に机上の論であるかが分かるはずです。あなたは犠牲になった一人に注意を向けて、さも人格を、あるいは個としての人間の尊厳を大切にするかのごとき問いを立てていらっしゃいますが、しかしこの場合もっとも重要である、すなわち能力において有限な力しか持ち合わせていないが、しかし唯一の救い手である医師、その人の人格をこそ、あなたは侮辱しているのです。

回答No.13

 事柄によっては、‘数の多い少ないにとらわれない’思考も必要なのではないでしょうか。

回答No.12

 それは俺の役目だ、と言って政治家が名乗り出るかも知れません。

回答No.11

 医師の立場であれば、人を殺してはいけません。  だから、この状況では、医師は四人の命を救うことはできません。  宗教者ならなおのこと、六十億の人間が助かるからと言って、一人の人間を殺すことは良くありません。

  • rin00077
  • ベストアンサー率21% (117/534)
回答No.10

「カルネアデスの板」のような話ですね。 よく小説やマンガなどにもでてくる問題ですね。 昔テレビでこういうドラマがありました。 あるとき4人が洞窟のようなところに閉じ込められました。 4人のうち1人が学者で、こういうことを言い出しました。 「救助がくるのは、おそらく明日の昼頃だろう。 しかし4人分の酸素は計算上この洞窟にはない。 このままでいくと4人とも死んでしまう確率が高い。 つまり3人しか助からない。」 と、いうことで3人が1人を殺害するのです。 これは法的にただの殺人罪になるのか、あるいは緊急避難であり 無罪にあたるのかはわかりませんが、僕が思うにその犠牲になって 死ぬ人を、どうやって決めるのかが最大の問題になると思います。 いずれにしてもこういう行為でさえ、おそらく賛否両論があると 思いますので、それに比べれば、その質問の医者の行為は、わりと 正当ではないでしょうか。 仮にその医者の判断、行為が間違っているとすれば、いったい どうすればよかったのか、となると、おそらく何をどういう風に しても、その医者は結局非難を受けてしまうと思います。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

この、医師の主張をあなたはどう思いますか? ○至極当然な主張だと思いますよ。 3人の命は、1人の命より重いのでしょうか? ○もし、4人の中の1人が3人を救うために同意したのであれば、その一人は3人分の命の価値を持ちますね。 この話は、歴史的に逆パターンがたくさんありますね。 ユダヤの大量粛清、みな自分のみが生き残りたいと思って何もしなかったがために数百万人ものユダヤ人が粛清されましたね。ソ連では数千万ですね。過去の話ではなく現在も進行中ですね。 わずかが犠牲を覚悟すれば多くが救われるという単純なことが未だにわからないのですね。 ちなみに、私の親族の中には、戦時中、潜んだ敵兵の存在を知って大声で後続部隊に伝える行為により戦死しています。それにより多くの後続部隊の兵士が救われたとのことです。一つの家族の悲しみが多くの家族の悲しみを取り去るのなら意味は十分にあるということですね。 つまり、人生の目的は生死が重要ではなく、何をしたかが一番重要なのですね。 当然、残った3人は4人分の人生を送ればいいだけですね。何も恥じることはありませんね。 それが、真の哲学的回答だと思いますよ。

回答No.8

それぞれの命の重さが同じと仮定して論理的に考えれば3人の命の方が3倍重いです でもそういうもんじゃないですよね 自分に近しい人が助かる方のひとりだったらぜひ助けて欲しいと思います 逆に犠牲になるほうだったら例え本人が承諾していても納得しないと思います まったく無関係な立場にいても犠牲者の遺族の立場になったら医師の選択を評価することはできません 人の命の重さなんて量ることはできません その人の思い入れで変わるものですから だからこそ自分の命を犠牲にしても他人を助ける人がいるのだし 逆になんの戸惑いも無く人を殺める輩がいるんです 蛇足ですが仮に4人の状態がまったく一緒でもランダムに選ばれて死んだといわれたら納得いかないと思います せめて嘘でも助かる見込みが無かったと言ってくれないと心の整理が付かないんじゃないかと思います その嘘がばれたときはまた変わって来るんでしょうけどね

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

その医師は殺人罪に問われると思います。 血を抜くことで本人が助かるという理由が無い限り、血を抜く行為は殺人になるから。 例えば内臓を提供することに同意をした瀕死な人と、その内臓に適応している人がいて瀕死な人ががいたとします。 すぐに移植すれば助かるからとまだ生きている人の内臓を摘出したら、それは殺人です。 死亡が確認されてからしかやってはいけない。 「この人は角膜も心臓も肝臓も皮膚もいろんなもんを提供することに同意しており、その提供で多くの人が助かるんだぞ。今移植しなければ3人が死ぬんだ。移植すれば3人助かるんだぞ」と医者が言ったとしても、殺して奪ってしまたら殺人です。

回答No.6

命に重量は無いので、何倍にしたとしても「より重い」という判定はできません。 でも、犯罪の量刑に関しては、一人殺したら懲役刑で、二人以上を下すと死刑になる可能性が高くなるようですね。 これは真理ではなく人間どもの決めごとですから、国会で多数をとって法律を変えてしまえばどうにでもなる話です。 >この、医師の主張をあなたはどう思いますか? 私は「ご苦労様でした」と思います。 過去の判例により判決は無罪と決まっています。

回答No.5

感傷的な意味は別として、「1人の命」という場合に、 その命を成立させているのは社会(=分業=助け合い)に 属する無数の人に依存しており、「より社会に貢献して いる人の命が重要」というのは、隠せない事実です。 だからこそ、逆に有害な人は死刑にしても正当となるのです。 その伝でいけば、「3人」と「1人」の比較においても、 それぞれの貢献度の合計によって決定されます。 もちろん、「1人の命」と「3人の、命以外の損失」 の比較であれば、前者が重いと言えます。 なぜなら、人の生きる真の目的は、物質的獲得量ではなく 精神的充足量である、という観点からは、死は絶対的に 充足量の増大に反するが、与える(損失)ことは充足で あり得るから(人の役に立つ場合に)。

関連するQ&A

  • 同じ命でも…

    凄く疑問に思っていることがあります。 それは、同じ命でも人間とその他の動物で、なぜ命の扱いに差が生まれるのか?ということです。 人間の欲求を満たすため、犬や猫などのペットをお店で購入しておいて、「育てられなくなった」と言って、山の中に捨てたり、保健所に預けたりする。 人間に食べらるためだけに、生まれ、育てられ、屠殺され、加工された牛、豚、鶏肉で不要になったものは平気で廃棄する。 人間のために新薬を開発するため、動物実験をする。動物の住みかを破壊してでも、人間にとって住み心地の良い住環境を構築する。 に対して、人間はと言うと… 人権、法律、倫理、道徳なんていう、人間にとって都合の良い言葉を盾にして、しきりに「命は大切だ!」などと訴えてくる。多くの動物たちの命を犠牲にしたうえで、日常生活が円満におくられているにも関わらず。散々、命をぞんざいに扱っておきながら、虐待や窃盗、殺人など犯罪を犯した人間でさえ、のうのうと生きている。同じ「命」なのに、なぜこれほどまでに、扱いに差が出てくるのでしょうか?

  • 家族のために命を捧げられますか?

    質問するきっかけになったのは、 昨日、主人とみていた医療ドラマが原因です。 ドラマで、子供をもつ母親が夫に臓器を提供するという場面がありました。 私の主人に「君は僕のために臓器を提供できますか?」と質問されたので、 「できます」と答えました。逆質問を私が主人にしたら「状況による」と返されました。 さらに「子供のためにあなたは命を捧げられますか?」と主人に続けると、 また同じ「状況による」ときました。 来年、第一子が私たちの間に誕生します。 お父さんとなるであろう人に言ってほしい答えではなかったです。 私がしつこく「状況によるとはどういうことですか?」と繰り返し始めたので、 主人は「もし、僕が借金作ってとりたてがきたらどうする?」と質問が来たので、 「払える範囲で払います」と答えました。 すると「ほら、払える範囲っていうことは、君だって状況によってはってことだろう? ~だったら・~ればなどの仮定形の話はしたくない」と言って打ち切られました。 「私には家族のためなら命をささげる覚悟はある・できる」ということを一生懸命 彼に伝えようとしましたが、伝わらなかったです。 結局、彼に捨てゼリフで「あなたを私は守ることができない」と言ってしまいました。 「家族のために命を捧げられますか?」と聞かれたら、迷わず私は「はい」と答えます。 でも、なぜか子供にそういうことは質問できないです。子供には未来だってまだあるし、 やりたいことだってまだあるだろうから。それを犠牲にしてまで・・・って思うと難しいです。 そう考えると、主人のいう「状況による」も認めざるを得ないというか。 この話に解決策がないとういのはわかっていますが、 ただ、家族のために命を捧げようと思う、大切な一人がいなくなったことがさみしいです。 心にポッカリ穴があいてしまいました。 ”主人のために生活する上で必要最低限のことを行っていれば別にいいや。 体調管理もそこそこで構わないかな。人間ドックの結果とかしつこく聞いてたけどいいや。 彼が死んでも子供が成人するまでのお金残してくれれば・・・”くらいの事務的な 気持ちしかわかなくなったというか、相手のことを思う気持ちが欠けてしまったようです。 人に求めることが甘いのかもしれません。 命のことを題材にした議論をするのが間違っているのでしょう。 死ぬときは一人なんだから、頼るほうがおかしいともいえます。 「家族のために命を捧げる」ことに足踏みする主人。 足踏みをしている主人をじっと「捧げる」という日がくるまで待つしかないのかな? 「家族のために命を捧げられますか?」という質問に曖昧な回答をした主人と これからまた普段通り生活していくコツを教えて下さい。

  • 命のリサイクルってできますか?

    31歳独身パート勤務の者です。 これまで、ずっと仕事以外は何をやってもうまくいかず、 そのたびに、自殺を考えたり、自己破滅的な事を考えたりしました。 両親と同居していますが 母は『家族みんなが幸せに、他の人も幸せになればいい』などといっていますが 自分にはとても共感できません。 自分は『誰かが幸せになるには何かを犠牲しなくてはならない』と考えているからです。 だから、母の言葉を自分なりに解釈すると 『家族みんなが幸せになるにはだれか一人犠牲にならなければいけない』と思ってしまうのです。 そんな時に考えるのは『命のリサイクルってできたらいいのにな…』 この考えは、はじめは身近な親しい人との死別の際に 『なんで有望な人が先に逝って、俺みたいなクズカスが生き残るんだ!?』という思いからです。 自分はクズカスだから『命のリサイクルの対象外なのか』とも考えてしまいます。 俺みたいなクズカスの命を代償にして、誰かを生かせたらと思ってしまいます。 それともクズカスだから、苦しんで生き続けろということなのか 全く答えがわからない状態です。 生き続けなきゃいけないんでしょうか、早く死にたいです。 クズカスとして底辺で這いつくばって苦しんで、苦しんで、苦しみ続けて、何の喜びも、楽しみもないまま生きていくんであれば、このまま早く死にたい。 それとも、リサイクルが出来るんだったら、喜んで死んで、リサイクルされたい 誰かの幸福の代償のために死ぬ必要があるなら、それでも構わない その時は喜んで死にたい。 長々と失礼しました、またきっと、這いつくばって苦しんでいると思います。

  • フリージャーナリストの命と他の職種の命?

    最近フリージャーナリストが一人殺されましたが、この事件に関する報道量がすごいと思います。 想像するに、フリーお笑いタレントが殺されてもものすごい報道量になると思います。 一方、フリー哲学者とか、フリー物理学者あるいは、フリー大工などの職種の人が殺されたときにはどの程度の報道量になるのでしょうか?シリアでは2万人もの人々が殺されているそうで、各種の職種の方が犠牲になっているのですが、ジャーナリスト以外はまったく顔が見えず、ただの数に思えます。 ニューズバリューが職種によって異なるということは、職種によって命の価値が異なることを意味するのでしょうか。 命の価値を構成する各種要素のばらつきにすぎないのでしょうか? すなわち、ニュースバリューという価値が少ない分、他の価値が多くて、合計した命の価値が同じという理解が正しいのでしょうか? 社会的な生物としての人の命の価値は同一なのか大きく差があるのか、お考えをご教示ください

  • アスペな私に教えて~命は何より大切なのか~その2

    前回の質問である「アスペな私に教えて下さい!~命は何より大切なのか~」の流れを受けての質問となります。(http://okwave.jp/qa/q8696467.html?from=history) 私はアスペルガー症候群を医師より診断されており、三級の手帳をもっています。医学的には間違いなくアスペです。日常生活で困ることは多くありませんが、本音と建前の使い分けの基準で、少し疑問に思うところがあり、質問いたします。 前回の質問では、命の価値は普遍なのか、相対的なのかという質問に対して、多くの方が、「普遍(何より大切)でもあり、相対的でもある」と答えておられました。 私の出した例題も、かなり過酷な状況を想定してものでしたので、余計にそう感じられたかと思います。皆様の回答は、分かるのですが、もやもやが残りました。いわゆるファジーな感覚がモヤモヤの原因だろうという指摘を頂き、今回は、そのモヤモヤにスポットを当てた質問となります。 「命の価値に優劣は無く、皆平等に尊いものである」事は、ある種当たり前のことだと思います。これを字義通りに理解すると、私も、回答者の皆さんも同じ「価値」を持つ命の保持者であると、仮定できると思います。これが、世間一般で「命は尊いもの。誰の命も奪ってはならない」といっても、ほとんどの人は異論を挟まないと思います。これは、建前(社会的な側面)だと私は思っています 一方で、私たちは建前を当然のこととして受け入れた上で「身近な人」と「見ず知らずの人」で、ごく自然に分類分けします。例えば、シリアやウクライナで、あるいはイスラエルで大勢の人が不幸で無くなっても、私たちは憤りこそすれ、身近な人がいなくなるような悲しみは受けませんよね。でも、身近な人が亡くなれば、深く悲しみにくれます。 これは当たり前のことなのは理解できます。様は区別の問題で、私たちは見ず知らずの人の「死」を情報としてしか捉えていない。自分の心理に重大な影響を与える因子としては、認識していない(できない?)と、私は理由付けています。「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」これを、本音と言い換えます。 この本音を、例えば大勢の人の前で発言すると、たぶん顰蹙を買うと思います。議会の野次ではありませんが、「良識を疑う」とか「人として大切な資質が欠けているのでは?」というような、批判を受けるかもしれません。社会的には、受け入れづらいことだと思います。 ここまでが、前回の質問から、私が考え、理解できたと思う事柄です。 ここからが質問なのですが、上記の文章を踏まえたうえで 1 命の価値に関しての建前と本音の違いを皆さんは、自分自身にどう説明しておられますか? 2 命の価値に関する建前と本音の間の曖昧さが、気にかかることはありますか? 3 社会の中のこうした建前と本音の「違い」と出くわしたとき、皆さんはそれをどのように捕らえているのでしょうか?(私の場合は、とりあえず社会的に必要とされている答えと、自分の本音の二つを用意し、必要な場面で切り替えつつ、二つの間の線引きできる場所を考えます) 4 このようなことを、真剣に考えても理解できない私は(アスペですが)普通の方から見ると、やはり異様に見えるものなのでしょうか? について、教えていただきたいのです。 明確な答えなど、無い問題なのは分かっているのですが、普通の方がどう考えて、どう思うのか。自分の参考に出来る子tが無いかを考えたいのです。 難しい質問とは思いますが、回答いただければうれしく思います。 よろしくお願いいたします。

  • オカメインコに輸血出来ますか?

    先日、家のインコが下血で鳥病院に入院しました。 止血剤も効なく、やむなく、他のオカメから血が固まらない成分を混ぜて、輸血。しかし、死んでしまいました。 先生より、オカメの血液はよく判っていないが、血が固まらない成分を混ぜて、輸血する事が、一回だけ出来ます。9cc程度ですが、しますか?と聞かれ、私は、鳥がフラフラして、元気ないという話に、最善を尽くしたい、との思いで、輸血を了承しました。その2時間後、お見舞いに行き、鳥は、やや元気を回復したようですた。しかし、輸血から7時間後には、死亡してしまいました。 輸血は、正解だったのでしょうか。。。

  • 【何かが犠牲になる世界】

    【何かが犠牲になる世界】 今の この世界って、必ず何かが犠牲になるようにできていますよね。 一番分かりやすいものだと、食事なんかがそうです。 マウス実験のように、他の生き物を使った実験などもそうですね。 この世界で何かが起きる(起こす)際には、ほとんどの場合、何かが犠牲にならなければなりません。 もちろん、生物は何かを食べなければ生きていけませんし、マウス実験によって多くの人が助かっていることも知っています。 命を頂くからこそ、より命のありがたみが分かる、ということもあるかも知れません。 犠牲の裏には得する面もあるということは分かっています。 それは分かっているのですが、それでも、何も犠牲にならないようにはできないものかと思ってしまいます。 どうしてこの世界では犠牲が生まれるのでしょうか? 「何も犠牲にならない」なんてものは夢物語ですか? ※本当はもっと書きたいことがあるのですが、たくさん書きすぎるとごちゃごちゃしてしまうと思ったので、短い文でまとめてみました。 もし短すぎて分かりにくかったらすみません。

  • 一人の人を殺めても

    一人の人を殺めても、初犯であるとともに、裁判で反省の態度さえ示せば、懲役15年ぐらいの刑で済みます。更に、模範囚であれば、12年ぐらいで出所してきます。 家族を失った遺族は、12年ぐらいで犯罪者が出所してくることに対し憤りを感じていますし、恐怖も感じています。命を奪えば、国家が、命又は命以上のもので償わすべきでしょう。 また、弁護人が犯罪者の刑を軽減するために弁護するのは構いません。しかし、弁護人の「絞首刑は残虐な刑罰にあたる」との主張は、犯罪に遭い後遺障害や精神的・経済的に苦しんでいる被害者や、犯罪で家族を失い精神的・経済的に苦しんでいる遺族の心を逆なでするだけで、刑の軽減にはつながりません。 絞首刑の憲法判断については、最高裁大法廷判決が合憲判断を示しているにもかかわらず、弁護人は争点にしています。死刑に処することが相当である被告人は、速やかに判決を受け入れるべきです。 多くの人は、人を殴ったことはないはずですし、人を殴ろうと思ったことすらもないはずです。他人を殴ったり、殺したりする人は、自分の欲望を満たすために、平気で暴行や殺人を行います。 多くの被害者や被害者の遺族は、裁判で自分達が望む刑罰が犯罪者に科されない場合、自分達で裁きたいとは思っていません。犯した罪に相応な刑罰が犯罪者に科されることを望んでいるだけです。 みなさんは どう思いますか?

  • AB型の人にA型の血液を輸血して死亡した理由とは?

    2007年2月2日の河北新報に以下のような記事がありました。 ---- 東北大病院(仙台市)で、血液中の造血幹細胞の移植手術に伴う輸血を受けて死亡した青葉区の理容業男性=当時(49)=の妻(59)ら遺族が、同大に1100万円の損害賠償を求める訴えを1日までに、仙台地裁に起こした。 遺族側は「死因は肺炎で、輸血との因果関係は不明」としながらも、治療で存命が望める患者の「期待権」が損なわれたと主張している。 訴えによると、男性は白血病で同大病院に入院し、2001年3月21日、姉(57)の造血幹細胞を移植する手術を受けた。その後、約1ヵ月半に10回、輸血を受けたが、免疫力が低下して肺炎になり、手術の約10ヵ月後に死亡した。 男性の血液型はAB型、姉はB型で、輸血は時期に応じてAB型、B型の血液を注入しなけれならないが(原文のまま)、病院は誤ってA型を輸血し続けた。 造血幹細胞移植の生存率は約20%で、その限度で存命が望めたが、輸血ミスのせいで命を落としたとしている。 造血幹細胞は血液に含まれ、白血球や赤血球、血小板に分化する。同大病院は「現時点ではコメントできない」としている ---- なぜ、AB型の人にA型の血液を輸血することが不適合なのでしょうか? 多くのサイトで調べると、この場合はやむをえない場合には行なっても大丈夫だと書いてありますが、今回不適合が起こった理由は何なのでしょうか? なお、朝日新聞でも同じ記事があり、そちらでもAB型を輸血すべき所にA型を輸血したのが原因と書いてあったと思います。

  • C型肝炎の治療は何歳までできるのか。

     私は昭和36年出産の折、大出血して1800CC輸血しました。当時は労働条件が悪く、働いていた同室の多くが輸血し、その後、肝炎にかかっりました。あの輸血が私のC型肝炎の始まりだったのでしょう? 血清肝炎の多さを憂いた医師や製薬会社が作った薬剤が多くの肝炎患者を生み出したのです。 C型肝炎の私は大病院の肝臓外来にかかっています。今年、九月ウイルス数が急増し肝臓の数値が50を超え、インターフェロン治療を申し出ましたが、この薬は65歳までしか使用しないということでした。  今日、ベグインターフェロン+リバビリン併用治療と体験談のなどを知りましたが、使用出来る年齢は書いてなく、50歳代以下の方々の体験談ばかりでした。私は75歳。なす術はないのでしょうか。 薬害肝炎の方だけでなく、輸血による肝炎患者も国の救済をして欲しい。命の重みも肝炎の苦しみも同じです。baba