• 締切済み

同じ命でも…

凄く疑問に思っていることがあります。 それは、同じ命でも人間とその他の動物で、なぜ命の扱いに差が生まれるのか?ということです。 人間の欲求を満たすため、犬や猫などのペットをお店で購入しておいて、「育てられなくなった」と言って、山の中に捨てたり、保健所に預けたりする。 人間に食べらるためだけに、生まれ、育てられ、屠殺され、加工された牛、豚、鶏肉で不要になったものは平気で廃棄する。 人間のために新薬を開発するため、動物実験をする。動物の住みかを破壊してでも、人間にとって住み心地の良い住環境を構築する。 に対して、人間はと言うと… 人権、法律、倫理、道徳なんていう、人間にとって都合の良い言葉を盾にして、しきりに「命は大切だ!」などと訴えてくる。多くの動物たちの命を犠牲にしたうえで、日常生活が円満におくられているにも関わらず。散々、命をぞんざいに扱っておきながら、虐待や窃盗、殺人など犯罪を犯した人間でさえ、のうのうと生きている。同じ「命」なのに、なぜこれほどまでに、扱いに差が出てくるのでしょうか?

みんなの回答

  • kappa1zoku
  • ベストアンサー率29% (334/1137)
回答No.8

なるほど、それではあなたはどう生きたいのですか? 生きている物を食すということがおかしいと思っているのなら、あなたはどうしたいのですか。 そこを聞かせて欲しかったな。

  • koncha108
  • ベストアンサー率49% (1312/2665)
回答No.7

人類と言う生き物の目的は自分の種をなるべく多く将来に残すことの様です。目的と言っても誰かに与えられたものではなく、遺伝子に組み込まれているプログラムみたいなもの。 その目的を最優先事項とすれば、他の種を守る事は二の次で、差があるのは自然な事だと思います。でもabc31415abcの様に考えることができるのも人間だからでしょう。人類に埋め込まれたプログラムに反することを考えるのだから矛盾がたくさん出てくるのも当然ですが、結構世の中にはその矛盾を少しでも解消しようとしている人もいますよ。宗教とは無関係に信条で菜食主義者になった人も知っているし、水族館に野生から捕獲したイルカやクジラを展示するのを反対する人たち、毛皮のコートに反対するだけじゃなく、化粧品など医療品でない薬品を作るのに動物実験をしたものを買わないクルエルティ・フリーの活動家など。

  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2762)
回答No.6

それを考えるなら、政治・経済の勉強をされて”信仰の世界に浸れば良いが

  • marukajiri
  • ベストアンサー率45% (504/1101)
回答No.5

善悪は別にして、世の中というものが、人間優位の不平等な世界になっているからです。今のところなんとかこれで、世の中は成り立っています。 一時期日本で生き物を平等に扱った時代がありました。鳥を殺して死刑になった人もいたようです。この時代があなたの理想社会なら、日本で破綻した徳川吉綱の生類憐れみの令が、全世界に通用するとお考えでしょうか? インドで牛を殺すと最高で終身刑が科せられるそうです。今、日本でこれをやると大変な事態になりますが、それはおわかりでしょうか?

  • kon555
  • ベストアンサー率52% (1745/3344)
回答No.4

端的に言えば「命は別に大事ではない」からです。 仮に一つの共同体、分かりやすく会社とします。その会社の内側で、社員どうしが殺し合うのを合法とすると、それは会社の利益になるか? と考えてみてください。 気に食わない、仕事の邪魔、そうした理由で社員どうしが命を狙いあうわけです。殺された人の仕事は進まない。攻撃や防御の準備で本来やるべき業務が滞る。無駄ばっかりですね。 要は共同体の内側において「お互い殺さない」と約束した方が、共同体としては得、効率的なわけです。 しかし単に損得の問題としてしまうと、個々人としては「殺したほうが得」というケースも出てしまいます。そうした個人最適ではなく全体最適を選ばせるために倫理や宗教という概念は発達してきました。 逆に言えば共同体にとって損ではない命や、殺したほうがいい命はその倫理の外に位置づけられます。その方が効率的ですから。 よって「命は別に大事ではない」が「命は大事という概念に意味はある」ので「大事な命と大事ではない命が生まれる」という結論になります。 貴方は「虐待や窃盗、殺人など犯罪を犯した人間でさえ」と言いましたが、逆に言えばこうした犯罪も度が過ぎれば死刑になります。元々の構成員でさえ、一定ラインを超えれば破棄される。これらはつまり、損得の採算分岐点を割ってしまった、と考えられるわけですね。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.3

一言で言えば 「自分たち人間は優れているから」 と傲慢になっているからですね。 それと後は 「動物は食べる物」 と思っているからかな。 でもまあ、 「生きて行く」のは 動物だけでなく何かを犠牲にしているのです。 ま、どんな理由にしても 「人間側の理由でどの動物を殺して(食べて) どの動物を生かして(飼育して)」 と言うレールを自分たちは歩いているのですから それに疑問を持たないで進んでいると言うか 思考するのも力や犠牲も(多分)あるからね。 多分、世の中の常識人は 「生かす命も犠牲になる命も大事」 と言いそうですけど 戦争とかになるとそんな輩は 別の事を言いそうですけどね。 (戦争だって人間の都合なのですからね)

  • 1buthi
  • ベストアンサー率16% (191/1165)
回答No.2

それは言葉を持つ人間の世界から生き物をみているからではないでしょうか。

回答No.1

  倫理があるからです。 命=生命=生きてる物、とすれば がん細胞も生物です、大事に育てますか? 白菜や、トマトは平気で切り刻むね  

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