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水が飲みたい

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.11

 No.4&10です。  わたしの仮説じたいについては分かっていただいて まづはこれほどありがたいことはありません。まだまだ世界に対してようやく日の目を見たかどうかの瀬戸際にあります。  ★ (No.4お礼欄) 文法がこんなに複雑であっていいものなのだろうか・・ というのが率直な感想です。  ☆ ごもっとも。ぶっきらぼうで通るわたしにしても同じ思いです。  ひとことで言えば 日本文が二重構造だからですが それは 人間の存在論あるいはもう少し薄めて 認識論が日本人のあいだでそう(=つまり二層構造と)なっているからだと考えます。  行為を 行為の主体( S )と対象( O )と行為そのもの( V )とに分けるのは ふつうのことですが これは言わば 線形の論理です。単一の論理です。そういう認識のあり方になるのだと考えます。  いわば日本文や韓国文においては この行為についての認識が さらに拡がっているようです。非線形とまで言っていいのかどうか分かりませんが 要するに 主体とその行為という主題を取ってみても その行為に対して ほかのいろんな思惟や考え(選択肢など)がすべて切り捨てられたというふうには見ないのでしょう。あるいは とうぜん 相手のあることですし 大きくは社会という情況が その一つの行為にからんでいます。そのことを 文としての表現にも表わしたかった。  両義性によるあいまいさを伴なってでも 焦点を狭めないで大きく場の全体を ことばの表現においても 大事にしたかった。  早い話が――と言って 説教のようにまでなったかの感がありますが―― わたしたちは   ○ こんにち‐ハ 〔天気‐ガ よろしいようで・・・。〕  ☆ というふうにことばをかけ合うことから 会話を始めます。むろんあいさつをおこなうことは どこでも同じなんですが そのあいさつの文じたいも おそらくニ層構造の特徴を持つと考えられます。  もう一点 例を出します。これは   ★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにしても、日本語文法の「主題」という概念は難しいですね。こういうもので「水が飲みたい」の「が」を説明しようとするよりも、動作の目的物に続く助詞はすべて「を」で統一してしまう方がシンプルでいいような気がします(乱暴ですかね?)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ の疑問に答えるものです。つまり 可能を表わす助動詞(可能法の補充用言)としての《できる》の用法が よい例だと考えます。  ○ かれは 英語が できる。  ☆ まづこれは A ハ B ガ C の構文ですが 《できる》は そもそも《出で来る》と言っているのですから――自動詞ですから―― 《英語ヲ》というふうに対象を取ることはむつかしいでしょうね。  おそらく 《英語で意志疎通をなすこと全体》を捉えて《英語が出来る》と言うのでしょうが では たとえば《英語ヲ話すことができる》と言おうとする場合は どうなるか。  ○ 英語が 話せる。  ○ 英語を 話せる。  ☆ この場合はたしかに両方があり得ますね。後者は 線形論理で考え表わそうとした例だと見られます。  ところが けっきょく日本人は 《行為の可能性》というものを その個人の能力と努力だけの結果だとは捉えていなかった。自然という環境や社会といった情況の全体をも捉え合わせて 《出来る》という表現で《可能》を表わした。  うんぬん。  《そこに何々が〈ある〉》という存在(現象)を表わす場合 英語とは違って 独文や仏文は けっこう独特な表現形式を持っているようです。(《それが与える⇒在る》や《かれがそこに持つ⇒在る》)。  世の中は線形論理だけではないということで 手を打ってもらえませんか? どうでしょう?  ★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  先ず誰もが容易に理解出来る整然としたルールを文法として国が制定し、以後それに従って皆が話し、書く。何事においても単純かつ明快を好む私としては、今後そういう取組みがなされることを期待します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《国が制定し》たりすることも そこから拡がって国が何ごとも差配するというまでになればわたしは慎重になりますが 《単純かつ明快》 これを心がけ目指すことは まったく異論がありません。  いささか愚痴を言えば 何事も初めはむつかしい。これからだと思っています。普遍的な妥当性があれば みんなの共有するところとなるのですから いくらでも知恵を出し合い取り組んでいけると思いますよ。

MelonPie
質問者

お礼

後付けの説明を積み重ねて拵えた文法はどうしても複雑・難解にならざるを得ないと思います。一般人が漢訳のお経に書かれている意味を知るためにはお坊さんを頼らざるを得ませんが、日常的に使う言葉の規則がそれと同様であっていいのだろうか・・・。言葉というものが意思を正確に伝え合うための道具であることを考えた場合、日本語文法は一度全面的に改定した方がいい・・・ そんな気がしています。 どうもありがとうございました。

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