• ベストアンサー

自分に頼る家族と自分の命と仕事

xjr400の回答

  • xjr400
  • ベストアンサー率45% (201/438)
回答No.4

こんにちは。 私は会社の経営者です。 自分の身に置き換えると・・・家族と会社と社員ですかね。 会社が無ければ自分も食っていけない。 やるからには成功したいが、やるだけ損と感じたらさっさと辞めたい。 社会に評価される会社にしたい。 という自分だけの価値観がまず前提になる。 この時点で、結構な矛盾が混在しています。 その次に。 支えてくれる家族が喜ぶ顔を見たい。 金銭的充足、精神的充足、そのバランスは保ちつつ高めたい。 でも無理して身体を壊して逆に迷惑をかけるのは嫌だ。 と、さらに矛盾を抱えた価値観を膨らませ、毎日働く。 健康に関るほどの過労働を強いてまで、会社の運営に身を削るか。 自分の身を大切にして社員に無理をさせるか。 会社のため、とどこまで言っていいか、言わねばならないか。 今融資を受ければ、ほぼ確実に会社は存続する。 社員や社員の家族の事を考えれば、「ほぼ確実」に賭けたい。 しかし自分の家族を考えれば「もしかしたら返せない」借金はしたくない。 だから今の自分のボーダーラインはココ。 これを超えたら、例え周りに何を言われても絶対に断る。 これを超えなければ、家族に理解を得て真剣に取り組む。 結婚したら、子供が出来たら、会社がどうなったら、自分がこうなったら。 その時その時、ボーダーラインは変化する。 そのラインが余りにもおかしいと、家族や仲間から反発の声が上がる。 それを聞いて直すかどうか、また自分の価値観と戦う。 その繰り返しです。 命を賭けて働くか、公私の充実を最優先に人生を送るか。 それも人それぞれのボーダーラインがあるでしょう。 仕事をサボってデートに行けば上司に怒られる。 しかしデートをすっぽかして彼女に怒られるのもいやだ。 なんて低レベルな話は最初から眼中に入れません。 いつかドンパチがあるかもしれない警察官とか自衛官とか。 火の中に入って行かなきゃならない消防士とか。 移れば死ぬような病気を扱う医療関係者さんとか。 たかが普通の土建屋でも倒れるまで働く頑張り屋さんとか(自画自賛)。 命を賭けて働いている人はたくさんいますよ! その人達は「使命感」「達成感」側にラインがずれているのかもしれない。 家族や仲間と軋轢もあるかもしれない。 でも自分の価値観を信じてやっているのでしょう。 結局、それしかないと思います。 他人に迷惑を掛けるのもイヤだが、家族が悲しむ方がもっとイヤだ。 それが今のあなたの答えなら、それが正しいのです。 あなたにとって。 そして、それほど真剣な選択ならば、誰もあなたを責めはしないでしょう。

yuki0826
質問者

お礼

マトをついた意見ありがとうございます。 少し見えてきました。 わたしはその自分のボーダーラインが家族のボーダーラインと違うとこに 迷いが発生しているのですね。 自分一人なら「勇気」だけの問題で片付くことが。 家族が介入することで「自分が背負ったもの」を知覚したのでしょう。 そこに勝る天秤が、「平社員」「会社を左右する事?」「今の安全レベルで信じられる会社?」など重りが軽く、また家族の願い、現状、万が一が起こった場合のリスクが上乗せされて、自分の「他人を信じて穏やかな心で仕事をする」に負けてしまっています。 ただ、ここが限界点なのか。 信念のボーダーラインはまだ奥にある。 そういう状況です。

yuki0826
質問者

補足

結婚したら、子供が出来たら、会社がどうなったら、自分がこうなったら。 その時その時、ボーダーラインは変化する。 そのラインが余りにもおかしいと、家族や仲間から反発の声が上がる。 それを聞いて直すかどうか、また自分の価値観と戦う。 その繰り返しです。 正直 ここまで考え方の近い人から回答が来るとは思いませんでした。 私の性格が回答者様と近い以上、価値観との戦いは 避けられないものなんでしょうか。 ただ、今のわたしにはなんとなく、それすら理解できる答えが何か まだ世の中には眠っていそうな気がしてなりません。 そしてそれを軸にまた階段を上がり、 まだ未知の世界での葛藤がありそうな気がするんです。

関連するQ&A

  • 仕事に命を懸ける?

    今日、会社の先輩に指導をされた際に 「私は中途半端な気持ちでこの仕事をやってるんじゃない!この仕事に命懸けてるの!!」 と言われました。 その先輩は私に対して相当キレてたのですが、ここでは何故そんな発言をしたかは置いといて、私は「この仕事に命懸けてる」という発言がどうしても受け入れられず、 素直にその先輩の言葉を受け入れられませんでした。 私たちの仕事というのは、営業です。(完全歩合の教材販売) そのため、売れなければ収入はありません。 先輩が仕事に対して真剣で一生懸命であるということはわかっています。 必死で働いて、売れなければ収入がないというのを「命懸けてやってる」と表現したのかもしれませんが、 本当に命を懸けて仕事している人達に対して失礼なんじゃないかと思わずにいられません。 例えば、爆弾処理班の人や、電力会社の作業員や、高層ビルの窓拭きの仕事や、レーサーや戦闘機のパイロットといった危険を伴う仕事をしている人達が 「命を懸けている」と言うならその通りだと納得が出来ます。 先輩は軽い気持ちで言ったわけではないとわかっていますが、どうしても嫌悪感を抱かずにいれません。 命の危険を伴わない仕事をしている人が、「自分はこの仕事に命を懸けてる」と言っていたら、どう思いますか? 表現の仕方は自由だから気にしなければ良いだけなのかもしれませんが、他の人がどう考えているのか聞かせて頂きたいと思い投稿しました。

  • 1000人の一般人の命と家族、大事な人の命なら・・

    善良な1000人の一般人と自分の家族、大事な人の命が天秤にかけられてます。 あなたはどちらを選びますか? こういうたとえ話ありますよね? 私ならほぼ迷わないで家族、大事な人を選びます。 英雄とかなら1000人を選ぶのかもしれませんが私は英雄になりたくないし家族に英雄はいらないと思いますので家族選んで1000人見殺す選択以外できないでしょう。 同じ命でも見知らぬ1000人の命と家族の命は違います。 愛情の差ですね。 これが私は人として当たり前の選択だと思うんですよねー。 でも友人に話したら「いやわかるけど1000人だよ?もっと悩めよ」ていわれました。 悩んでも私は1000人選んだりしないし時間の無駄じゃんって思うんですけど・・・ ほかの人ならこういう選択しなきゃいけない場合どの程度悩んでどちらを選ぶもんなんですかね? たとえ話ですけどちょっと気になったので質問します。

  • 命を粗末にするなと言われても

    私はかなり前から早く死にたいと思ってます。ただ自殺ではなく事故とか病気でスパッと死にたいんです。そこに対しての説教はご遠慮ください。質問はそこではありませんし、散々聞き飽きて無駄ですので。 そんな中で「命を粗末にするな」とか言う人がいますが、なんで他人のことに口出すんでしょうか?余計なお世話じゃないですかね? その言葉を言った人は、以前自分がガンになって治療したから大切に毎日生きていると言ってました。 それが私とどう関係あるんだろう?と不思議に思います。 私は精密検査受けてガンかもしれないと言われ、ガンではないと聞いても何とも思いませんでした。できたらスパッと死ねる病気になりたいなと思っていました。 その人が命を粗末にせず毎日を大切にしているのは良いことだと思います。 ただ私が早く死にたいと思うこととどう関係あるのかよくわかりません。 なぜ他人のことに口出してくるのかわかりません。 なんででしょうか?

  • 命を命で償うべきなら

    日本では 死刑賛成派の人が過半数を占めます。そして、死刑支持の主要な理由に「奪った命は 自分の命を差し出して償うべき。」という根強い考えがありますが、それでも 「最初から自分の命を差し出すつもりなら、他人の命を奪ってもいい。」とはなりません。私は 単純で馬鹿なので 「そんなの屁理屈だ。」としか、反論できませんが、どなたか、論理的に説明できる方おりますか? そもそも、命を命で贖う という考え自体が間違っているのでしょうか?

  • 命を命で償うことの不条理性

    他人の命を奪ったら 自分の命で償うのは 当然と考えるのは 私だけでなく、日本人の多くがそうだと思います。 しかし、死刑反対の人は 命を命で償うこという 私たちが至極当然だと見做していることを どのように解釈しているでしょうか? どのような不条理があるとお考えでしょうか? 私と同レベルの愚かな同調意見は不要です。聡明な反論をお待ちしております。

  • 命は命で償うのなら

    日本人は 大半の人が死刑に賛成ですが、その根底には 人の命を奪ったら 自分の命で償わなければならないと という考えが根底にあると思います。しかし、中には “「自分の命を差し出せば、人を殺してもいい」ということですか?” と反駁する人もおりますが、それは「加害者の屁理屈」と言って良いかと思いますので、いくつも反論が可能です。 簡単なところでは、「罪」と「罰」は因果関係であって、「罪」が無ければ「罰」も存在し得ません。 言い換えますと、そもそも罪と罰には可逆性は無く、逆方向で考えること自体に無理があります。 あるいは、もっと判り易い話しで言いますと、「私の全財産を支払うので、この世で一番美味いモノを食わせろ!」みたいな、無茶な要求と考えてみて下さい。 即ち、「自分も死刑と言う膨大なコストを支払うのだから、何をしても良い」などと言う理屈は成立しませんし、「私の全財産」と「この世で一番美味いモノ」が等価かどうかも判らないのです。 「自分の命を差し出せば~」の場合、「自分の命」と言う、自分としては最大のコストを、一方的に支払ったところで、それは「捨てても良い命」であって、他人の命と等価では有り得ません。 せいぜい「自分は死刑になって良いから、死刑囚を殺させろ!」くらいじゃないと、等価じゃありません。 更には、所詮は「加害者の屁理屈」ですから、前提が「自分の命を差し出せば」である必要さえありませんね。 もっと値切って「無期懲役」とか、食い逃げ的な「バレなきゃ」「捕まるまでは」でも、何でもアリです。 「殺す」と言う動機に対して、加害者が「どういう屁理屈を付けるか?」に過ぎず、死刑の悪用にもなっていないでしょう。 みなさんは どう思いますか? この考えで 不備な点、矛盾している点を ご指摘ください。

  • 仕事に命をかける

    お世話になります。 URLを貼れば良かっのですが、まさに同じ質問を検索したら出てきました。 その質問や回答を踏まえた上での相談です。 たしかに自分は『仕事に命をかけている』という事で私がある接客で、やる気がないと見られていると思いました。 実は同時に接客して繁忙な時でしたが、私は熱意を持ってその対応をしており、決してやる気がないという思いや態度はありませんでした。 ところが、対応したお客様自体が、冷やかしと私には明確にわかりました。 きっとその様子を横で自身の接客をしながら観察されていた事もあり、慎重に緊張もあった事は事実ですが、どうやら、『自分なら返さない自信がある』ということも言われました。 誰しも多少の誤解や100%全力を尽くしても、お客様に伝わらない、(今回は在庫切れと言った瞬間に席を立たれあからさまに自分には思え、急ぎなら他の店に行った方が早いという印象が明らかに強い)と思いました。 接客における、話の組み立ては多少それぞれ違います。何が完璧かはお客様自体が決める事だと思います。 私は年上ですが責任者は社員で、私はアルバイトですが、仕事をするには同じ気迫や意識で業務に精励する事は当然だと常に考えています。 退屈面が著しく違う上、むしろ私には命をかけると同時に『生活がかかっています』 それだけにただタイミング次第でそう言われた事がイヤなのではなく、自分ではこのラインが限界と感じたうえ、お客様から急に帰られてしまったら仕方ありません。 責任者は、家族はあっても妻子はなく、懸命に仕事の成績をあげる必要が高いぐらいの状況はわかりますが、独身の人からそう言われたのも心に残っております。 サラリーマンの頃はむしろ死ぬ寸前まで無理をして病気になった経験があります。 アルバイトだから手を抜いてよいという気持ちはありません。 逆にそういう事を言われたので急に自信がなくなっている状況です。 そもそも仕事が向いていないか、よほどの誤解としか思えなくなり、つい先ほどの事なので、ショックが一時的に大きいかも知れませんが、同じ社員やアルバイト同士などであれば相対的に『そうなのか』と納得できますが、実際、年収も半分、立場や求められる責任が根底から違う人から言われた場合、どうも違和感が拭えません。 今一度、自分を冷静に振り返り、不備や態度などに問題はなかったか、を反省しておりますが、『命をかけてやっている』とはいえ、『命をかけるぐらい真剣に取り組んでいる』と私なら言うと思います。 細かい事で気になってしまい、相談させていただきました。 同じような経験がある方々のご意見やお考えをお聞かせいただければと思います。

  • うつ病になると命に対する感覚も変わる?

    うつ病になってから、 他人があおり運転 で死んだり、 通り魔殺人で赤ん坊が死んだ! とか言うのを聞いても何も感じなくなったのは何も問題無いとして 近しい人間が突然、事故や病気で死んだ!と聞いても、何も感じないし、動揺もしなくなりました。 うつ病になると 他人の命に対する感覚がチラシ1枚程度に感じるようになりますか? 命に対する感覚の変化に違和感を感じています。 兵士の場合は、虫も殺せなかった敬虔なクリスチャンが戦場に投入されたら、3日で人が変わり、何も感じなくなった!と聞きましたが それほど命に対する感覚は失いやすいですか?

  • 命は 個人の所有物か?

    私も以前は 折り紙つきの死刑賛成派でした。しかし、死刑制度に 反対とまではいかないまでも 殺人の被害者遺族などとも接し、色々経験したり考えているうちに 疑問が出てきました。 日本では死刑賛成派が圧倒的ですが、これは 命は個人の最も大事な所有物という考え方が前提にあるのではないでしょうか? そして、命を失えば全てを失い無に帰します。だから、人の最も大事なものを奪ったら 自分も最も大事なものを差し出すことで償いになるという考えでしょう。でも、この考えだと 自分の命はどうしようが自分の勝手で、自分の命を粗末にするものは他人の命も粗末にするんじゃないかと思います。暴走族なんか その典型でしょう。暴走運転をすれば 自分の命も危険に晒すし、シンナーだって 人に迷惑をかけていないという意識から罪悪感も薄いんでしょう。そして、そういう不良が大人になって 自分の命の尊さを認識する時には、もう殺人を犯していて 自分は法廷に立っていることも多いです。 そうなれば もはや手遅れですね。また、本来 命は 最も大事なものであるはずなのに、要らなくなる人もおります。日本では 年間 3万人近くが自殺しますが、異常な数字です。そして、中には ただ自分の命を どぶに捨てるのは勿体ないと考える人もいるでしょう。人の命を奪ったら 自分の命を差し出さなければならないのなら、最初から自分の命を差し出すつもりであれば 他人の命を奪っても 許されるという 論理が成立します。命を命で償うのが正しいのなら 自爆テロも容認されることになります。 それで、私は 命というのは 天から預かり受けたものではないかと 考えるようになりました。なぜなら、私たちは 自分の意志で生まれてきたわけではありません。それでも、天から命を預かり受けたことを感謝しなければならないと思うようになりました。 おそらく、この質問を読んでいる人は昔の私と同じような考えで、たった 数100字で考えが変わる人はいないと思いますか、命とは何だと思いますか?

  • 家族

    祖父のせいで、家族がバラバラになりそうで不安です。 私(20歳) 母親(50歳) 母方の祖父(82歳) 母方の祖母(80歳) 私の祖父は頑固で他人の事を一切考えず  気に食わないことがあれば 家のものを壊し家族に平気で手を出す人です。 今年に祖父の免許交換の時期になり、 家族で農業をしないといけないけど。。。家の壁に激突してるいたりと 運転技術に不安があるので 運転免許は返還してもらおうという話になり、 祖父に伝えたところ「返還する気はない」と言い 祖母に手を出したのでこの話し合いは中断 そして後日、祖父が運転中 民家に激突 幸い、民家の人・祖父母にはケガはなかったのですが・・・ 事故した時に祖父は逃げて帰ろうとしていたみたいです。 その日に私の両親が謝罪に行き 示談をしました。 しかし、祖父は「謝罪する必要はなかった。新車を購入する」と 言い出し その日を境に母親が「寝たい…でも、寝れない 死んでもいいなら死にたい」と口にし 私も祖父に説得等を試みても言う事を聞かず仕舞いです このままでは母親が自殺し祖父のせいで家族がバラバラになりそうで不安です。 私はどうしたらいいのでしょうか?

専門家に質問してみよう