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神道以外の供養とそれに対する反発について

kawasemi60の回答

回答No.4

靖国神社が憎悪を受けるのは供養の形式の為では無いと思います。 日本兵を国家的規模で追悼する目的の施設だからと考えます 日本への恨みが反撃力の無い施設、靖国神社に向けられるのです 追悼や供養は残された人達が取り行う行為です。生きている人達 が納得し満足すれば十分です。供養される人ではなく供養する人 の想いが大切です。供養した人が満足すれば十分なのです。 供養は一人ずつだと思います。戒名も一人ずつ別ですし靖国神社 も一人ずつですよね。名前の判らない敵は集団で埋葬されますが 供養としては一人ずつと思います。自分勝手に生きた個人では無く 仲間と共に生きて戦った個人としての親近感は在ったと思います 戒名は元々差別的では無いのでしょうか?今でも位が在りますよね。 宗派に貢献すれば高い位と成れます。長い貢献の歴史を持つ日本人 と貢献が始まったばかりの朝鮮人を差別するのは当然なのです。 戒名とは退職金に似ていると言えるのです。 いずれにしても他国の習慣や宗教の完全理解は出来ないと思えば 他国の国民の行動について指図する事は無くなります。 内政干渉と同じように他国民に対する指図はいけない事なのです 他国からの指図に従うのもいけない事ですね

nou09
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >日本兵を国家的規模で追悼する目的の施設だからと考えます 何をもって国家規模と捉えるかは解釈の分かれるところですが、韓国はいわゆる「従軍慰安婦」は実際には「従軍」つまり「軍属」ではないにもかかわらず、慰安所の設置や慰安婦の健康管理等にかかわっただけで日本政府に謝罪を求めております。この程度の係わりだけで国家規模で韓国人女性を性奴隷にしたと韓国人が主張するぐらいですから。「従軍僧」はまぎれもなく「軍属」ですので、韓国人に言わせれば国家規模で追悼したと主張するはずではないでしょうか。 >供養は一人ずつだと思います。戒名も一人ずつ別ですし靖国神社 も一人ずつですよね。名前の判らない敵は集団で埋葬されますが 供養としては一人ずつと思います。 確かに靖国神社では一人一人霊璽簿に名前が書かれ、例えば真宗でも過去帖に一人一人法名を書くので、誰が追悼しているかが明確に分かり、対して集団で追悼した場合では個人名は分からないでしょう。しかし、個人名が分からなければ納得するのでしょうか。「韓国人の戦没者は東条英機と同じく極楽浄土に行っています。」とか「多くの韓国人はポアされた。」という主張する人がいても、個人名を伏せて集団で扱っている限り、文句はないのでしょうか?たとえ個人名が伏せられていてもあきらかに「対象となった集団の中に身内が含まれている」とわかる状態では文句を言うと思うのですが。 >戒名は元々差別的では無いのでしょうか?今でも位が在りますよね。 宗派に貢献すれば高い位と成れます。長い貢献の歴史を持つ日本人 と貢献が始まったばかりの朝鮮人を差別するのは当然なのです。 「日本の伝統的な考えでは死ねばみな仏というが、靖国神社は公平に扱っていないではないか。」と批判する人がおりますが、仏教でも差別的に扱うので、非難の矛先が仏教に向けられるのもだと思うのですが、違うのでしょうか。

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