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この世界に信じるに値するものは何か

質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

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回答No.21

難しい議論にはついてゆけない(時間が無い)ので、 回答だけ もう一度書くことにします。 わたしの考えです。 「この世界」に信じるに足る真実とは、 と言えば、 (1)何かうれしいことがあれば伝えずに入られなくなる人と人との間の 素朴な人に見られる人間のそのような単純な本質です。 (2)そして、この存在(この世界)には、無限にうれしいことが人の心の奥に用意されプレゼントされている事、 この二点です。    短く書けば、それが私の中でいつしか「希望」の世界、あるいは闇の中の光となっています。 後は、そちらの直感(テレパシー?)で判断してみてください。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 心地よい文章ですね。 この世界を受け入れることが出来るのでしょう。 しかも手放しで。 私はおもちゃ屋さんに勤めていますが、子供に対して大人が出来ることは、一つでも多く幸せな体験をさせることだと思っています。 同じ見解ですよね。

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その他の回答 (33)

回答No.24

maimai.susです。 んー、愛の中に欲望が含まれる、もしくは、欲望を構成しているのが愛だと言う解釈でよろしいのでしょうか?それでその愛と感じる力でこの世界全てが構成されていると言うことですね。 自分の場合、神に関しては、いるかも、いないかも主義なので、無神論者ではありません。 むしろ、いる方が、面白いので神様いる派かな。単に、宗教的な信教はしていないだけです。 しいて言うなら、仏教系の世界観が一番しっくりくるかな。 まあ、一応私の世界観ってこんな感じです。「質問番号:4339916」見てください。出来れば回答おねがいします。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 ご質問のほうは拝見しました。 関心のある課題なので以前にも拝見した憶え場ありますが、取り組み方が複雑なので(これは十分特技というか才能です)私には手におえません。 今回ご回答の愛に関する認識は思索の過程や取っ掛かりとしていい感じがします。表現方法が私と同じ認識であるように思えます。 神に関する見解は要するにどのような神々にも敬意をはらえる心情を表しています。したがって信じるものがあるゆえの無神です。世の中には誤解が蔓延していますが、このような無神が日本人の常識的な無神論者です。私には無神論者のプライドがありましたので、むしろ信仰する姿がすがりつく姿の醜態に見えていました。

noname#117439
質問者

補足

一つ考えを進めました。 神道形式の神々の姿は教義で人を束縛しないんです。 この全てが神性を備えた姿を愛に置き換えたのが今回に質問の流れとも言いうるでしょう。

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noname#80116
noname#80116
回答No.23

 No.20です。  いいことを伺いました。ただし このことには まだ わたしから見ると 課題を孕んでいるかに思われます。  ★ (No.20お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この辺で情動をコントロールして物言わずして 〔世界からまた愛から離れた人にその状態にある〕自らを気づかせるのが 無意識を熟知した私のエスパー化現象です。  普段、誰かの雑念相手に人生相談しています。  エスパーというとかっこよさそうだけど実際は地味でつまんない仕事です。  土台はデーモン現象ですがかなり上手になりました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん 軽度と重度の《自死》の状態があると思われます。軽度の場合には 《エスパー現象》によって 当人に気づかせることも出来るかと推測します。  ですが 重度の場合には とても無理のように思うのですが いかがでしょうか。というのも  ★ 閉じこもった相手には、こちらから先に心を開くよりない気もします〔が、経験世界の行動としての実践においては、出来るだけそっとしておくこととなります〕。  ☆ このとき あくまで普通に心を開いて こちらが対話を続けていても 相手は こちらの存在を無視するという場合なのですから もう《心を開き尽くした》あとのことだと考えるゆえです。  それにしても 《エスパー現象》をとおして 自己の状態を気づかせたあと どうなりますか。気になります。  たしかに 軽度の自死なら すぐに 息を吹き返すとも推し測られますが 重度では どうしようもないのではないかと気がかりです。つまり 重度の自死者が その自分の状態に気づかされ 気づいたとき どうしようもない自分とその状態を捉えて 自暴自棄になるか それとも いっさい なかったことにする(つまり 何も気づかなかったことにする つまり 無視しつづける)か どちらかだと予測してみるのですが どうでしょ? 成功しますか?   自暴自棄になるのは 仕事などで 失敗が重なったときなどでしょうね。つまり あまり その選択は ないと踏んでいます。  すなわち このような自死者が復活してくるのなら この世界においても 愛が 信じるに値するものであると捉えることになると思うのですが どうでしょう。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 経験世界に現れる人格が、交流不能な影の状態なら、それは本来「孤立」というべきです。この点は判ります。そしてそのはらんだ病根は「孤独」です。したがって当人が自覚すれば自らは孤独であるとの認識になるでしょう。 おそらくは、この点に自覚がないわけでなく、この手の人物像は自らと他人をやみくもに比較するのが好きです。したがってほっといてもネボケているのが自分だけだと気が付くでしょう。 テレビのニュースに流れる事件事故の類が無意識的自滅行為であることは私にもわかります。そのような破滅に言及されていますね。 しかし行動に移したのは自らの人生に対する自暴自棄な答えです。 社会的特効薬は今のところありません。 しいて言えば行いの意味を知るのに先立って、心を灯すのが理想形です。 かといって本人が愛に飢えると逆効果ですしね。

noname#117439
質問者

補足

更なる思索です。 >〔世界からまた愛から離れた人にその状態にある〕 >自己の状態を気づかせたあと どうなりますか。気になります。 孤独な状態にあると気づかせることではないんです。 孤独であったことは生まれてから一度もなかったと気づかせるんです。 コツとしてはそんな感じの橋渡しです。 そんな自発的なおせっかいです。

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回答No.22

すみません。 No21の続きですが、No18にて詳しい解かりやすい対話を求めておいてそこでのコメントがどうしても読み取れないからと言って対話を投げ出したように“説明抜きの回答”だけをいきなり書いても そちらも困るかもしれません。 私の能力では そちらとの対話は無理なのかなと思ってしまったわけです。 No18へのそちらの「この回答への補足」の文についてですが、 まず、この文の意味合い自体はわたしの能力では ことごとく理解出来ないところですので、 それがどのような直感なのかを質問してみたいと思います。 >歯の健康とは無意識と自らの本質(主観など意識できる領域とも限りません。魂と解釈しても結構です。)を、結ぶ「絆」の象徴です。健康な無意識にはそこに存在理由など不要でして「絆」次第なんですが、文面の解釈として絆を磨く健全性と、さらにそれと裏腹な、絆が欠けていく恐怖の二面性が見て取れます。< までの文についてです。 この「歯の健康」という言葉が出てきたのは、私の子供の頃の夢の中に「歯磨き」の事がでてきたからなのでしょうか? 〇そちらは 神話とかに詳しいようですので、子供の夢の一部をただ解かりやすくしただけの文章を 神話の解釈のように意味深くとらえようとしてしまったのではないでしょうか? 小学5年生の実話の夢の話ですから そこに深い意味とかがあるわけないのですが? しかし、歯と脳とか 深い意識とかの関係は私も考えたことはあります。 それで、質問してみたいのですが、 そのそちらの文は、 心理学の夢判断の知識とか脳科学(この場合大脳生理学だと思うのですが)の知識から生まれた直感によるものなのでしょうか?  それとも、すべてご自身の思索過程から生まれた直感によるものなのでしょうか? 私の中での歯と深い意識との関係の思索自体は、 夢判断や現時点の大脳生理学の地点をたぶんですが、すこし追い越している地点かと思っています。 でも そのわたしも、 たとえば、そちらの文に「健康な歯とは」という文がどうして出てくるのか理解に苦しむところなのです。 この「歯」の事自体は、 もっと単純な歯ぎしりとかの二分された時の心の葛藤とかを意味するだけなのでしょうか? その後がいきなり「魂」や「人間の本質」の話に入るので、それで頭が混乱してしまうこととなります。 その後半の部分 >文面の解釈として絆を磨く健全性と、さらにそれと裏腹な、絆が欠けていく恐怖の二面性が見て取れますい。< の部分は たしかに夢を見た当時の私の心理状況を そうとう深く読み当てているとも言えます。  説明すると長くなりますが、 たしかに当時 その二面性のハザマに私は置かれてもいました。 通常、No18の文章だけでは、そこまで見抜けるはずないと思えることですから、確かにそちらにはなんらかのテレパシー能力とかがあるのでしょう。 しかし、 そのようになにか一気に「見て取れた」から書いた文なのでしょうが、 そのいちいちは、とても難しい文となっていて、 読み取るのに大変時間がかかってしまいますし、 いざ「なるほど、そういう深い意味合いだったのか」と納得できたとしても(今のところは、納得できることはたくさんあるのです。)  それがその解釈でいいのかは、わたしには自信が持てません。 得るところがあればそれでいいのでしょうけど、 あくまでそれでは対話はなりたたず、 成り立たせようとしたらさらなる時間を必要とすることとなります。 ここまででも すでに時間がかかってしまっているわけです。 短いコメントと言えども、 その後の部分に触れると、すこしでも解かりやすい対話を求めるなら、さらに 書ききれない紙数と時間が必要となるでしょう。 後半部分と 今上記引用したそちらの文とは 全体的に一つの文となってその全体の意味合いを形成してると思われますが、 もし その意味合いを私なりに解釈して解かりやすい対話の土俵に乗せようとすると、数百枚の原稿用紙が必要な紙数になってしまいそうです。 あくまでも、そちらの直感のままですと、 このように 一般には多くの説明を省いた解かりにくい言葉がたくさん出てくる文章となってしまっていると思うのですが、 primeapeさんはほんとうにそれでいいのだと思っておられるのでしょうか? 月光仮面のように、解かる人にだけそっと何かを諭してそっと立ち去ってゆく。   誰も誰だかも知らないまま^^。  それも一つの奥深い生き方でしょうが^^。 * でも、 もう一度言いますが、 たとえば、「テレパシー」というそちらの言葉にしても なんの説明も定義もなしに使うと、少なくとも一般人にとっては、 さまざまな解釈が生まれてしまいます。 そして、それはどういう意味で使っているのだろうと、悶絶しそうなほど考え込んでしまいます^^:。 やがて 全体の文の意味合いの中から そうかこんなふうな意味合いで使っているのかなといういくつかの推理が生まれてくるといった具合でしか 読み取れないと思うのです。 そこをそちらだったら、 そちらの「テレパシー」にては、文面の解釈が その文の全体から一気に理解されてしまうというのでしょうか? だとしたら、そして、それが癖となりどうしてもそのような文しかそちらが書けないのだというのならば、 そちらの文には善悪両方の面(道徳的な意味の善悪ではないです。)があるということになりますが。…。 * もしかしたら、 わざと 自分の善を隠すためにそうしているのですか? それならば、考えすぎという考えもあるかと思うのですが? わたしの考えでは そこはすっきり解かりやすさを訓練したほうがいいのではと思います。 * というふうな、意見が出てきてしまったので、今回正直に語らせていただきましたが、 そのごとく会話となるかどうかには 自信が持てなくなりましたが、 そちらの質問は、タイトルの「この世界に信じるに値するものは何か」のほかにも  悪という存在がどうして幻想かの重大な説明が抜けていてそれだと問題がありすぎる発言ともなってしまうところ、 ほんとうは私なりの回答を書いてみたいことはまだまだ たくさんあります。 それは最後の《「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。》という二重の質問となっている点とも符号する回答です。 今回は、ここで先に、ともあれNo21とNo22へのコメントをお待ちいたします。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。大歓迎です。 歯の健康は心身の一致を象徴するバロメーターです。 動物的にそうなんです。 ですから歯磨きの夢の話が出ればそれば、象徴する事柄はわかります。 質問者様が自覚しなくても文面だけでわかります。 心の本質の話は必要なかったかもしれません。 まさに心身が一致しているので、たとえ話を持ち出さないほうが良かったのでしょう。そんな混乱を招いたようですね。 テレパシーは相手の腹のうちを探ることではありません。 まづ自らが心を開きます。ざっくばらんな話し合いの形をとらないタイプです。 子供時代は大人になってからよりも多感で感受性が豊かだったと思いますが、この感受性を基点にお互いに共感する感性に育て上げたのがテレパシーです。 真心お投げかけるとその相手の思うことに機転が利きますよね。 そのような感性に自覚や思考が備わっただけです。 この点に一方的に突出した自覚があるのでエスパーと名乗りましたが一時的な現象で将来はもっと平均化されるでしょう。 文面の判り難さについては、私は実は知的な文章を書くのが下手です。 哲学というよりも心象の反映をそのまま文章にしています。文学的であるという意味です。 悪の概念が悪意たる破壊的情動にならない処まで行き着いた私の心にとって、善イコール正義とする争いを持ち込まないため、善も良心もかざさないのは事実です。勝ち負けを競うつもりはありません。したがって回答へのご返事にしろ、さらに疑問を呼ぶようなことは書きません。そのように無難に振舞っているのではなく、争う理由が全く思い浮かばないんです。だから格闘形式の対話をしないんです。悪の病根が寝静まるとそのようになります。

noname#117439
質問者

補足

少し書き損じがありました。 >ざっくばらんな話し合いの形をとらないタイプです。 ざっくばらんな話し合いの、心がけのみで形が伴わないタイプです。 一方的なテレパシーは相手が心を開くきっかけがない場合に起こります。

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noname#80116
noname#80116
回答No.20

 No.17です。  愛は 関係であり 意志です。  人とモノの関係もありますが 一般に 人と人の関係です。  そして この関係を思う行為であり その思いから――すでに 関係は 動態なのですから―― よかれと思う方向へその関係を推し出そうとする意志だということになります。  よかれと思って 愛情にもあるいは平静なこころで接することにもなれば 同じくよかれと思って 憎悪となって現われる場合も あるでしょう。よかれと思って 手助けしたり味方になったり しかも 同じくよかれと思って あなたは間違っていると知らせてやりたい一心でのごとく 嫌ったり嫉妬に走ったりいぢ悪をしたりということになるでしょう。  この愛は――したがって この世界のすべてのことが すべての人間にかかわることが 愛ということになるわけですから この愛は―― 何ものか分からない力のもとにあるのではないか。なぜなら その愛の思うようには 意志するようには 世の中はならない というからには 人間の愛や意志を超えた力も はたらいているのではないか。もしそうだとすれば この《なぞ》のことを わざわざ 神ないし神の愛と想定するというのが これも 一般だということになります。  つまり 無神論の場合には 《なぞ》が 《無》だという立ち場なわけです。おそらく わたしたちは この世界において 世界が《思う(意志する つまり 愛として思う)ようになる》とは思わないわけで その限りで 無神論の場合にも この《なぞ=無ないし無神》を 一切の愛の根底にはたらく力として 想定しているのではないでしょうか。  そうでないと 世界は まったくの無秩序であり 善は悪であり悪は善であるという世界観が 優勢となります。早い話が 飲めや歌えやでいいわけで いわゆる悪いことをしても バレなければよいということになります。法律に従い裁判に屈すればいいのだろう 文句あるかという思想が 優勢になります。  無神論は そうではなく 善悪をわきまえつつ しかも その善悪を超えて なぞの無神を立てているわけです。  それなら 《愛》の問題なのです。  ところが この愛の世界から外れているのではないかと疑われる人間がいます。そういう思想が現われます。  ★ 孤独  ☆ という診断を受け取りましたが げんみつには 《孤立》あるいは《浮いている姿》かも知れません。孤独という場合には ひととのつながり(関係)・交わり(交通・対話)を ほんとうには 前提しているように思われるからです。愛から逸れるひとの場合は この関係や交通を前提としていないようなのです。  むろん そういう人も 社会的に生活しており 地位もあれば その地位をめぐって 仕事をこなし したがって 人間関係を持っています。実際には 関係を持ち 交通をおこなっています。  それでも 愛から離れ去ったという場合 このような事例は あるか。あるなら どういう認識を 哲学は 持つべきか。    ひとつ考えられることは こうです。ただ一人 ただ一人とのみ この愛なる関係を断つ。そうして ほかの人びとや社会とは 交通を保つ。こういう場合です。  ただ一人の人を いわば踏み台にして 社会に出た(そういう意味で 出世した)と考えられる事例です。  ともすれば 一般にも 陰や傷や秘密を心深くに持って 社会に明るく堂々と生きて行く という描像(イメージ)が 迎え入れられているかも知れません。その場合と 親和的であるとも思えます。つまり ただ一人だけは わが人生において おのれの踏み台にしたのだ 赦してくれ あとは まじめに生きていくのだ と言って 生きている場合です。  これに対するわたしの判断は 九十九匹よりも一匹が問題であるという見方に立ちますから こういう思想で生きる人間は 死んでいるというものです。愛(関係)を断った。世界から死んだ。と判断すべきというものです。秘密という旧い人を脱がなければ 脱いで新しい人を着なければ だめだという判定です。だめだと言っても 放っておくのですし そういう自死も 自由であると相場は決まっています。  ちなみに イスカリオテの裏切り者のユダが その事例であるように思います。イエスと対話を持たなかった。この一事がその理由です。問いたださなかった この一点のみで みづから死んだのだと。  愛の世界から外れた人間 これも 神の愛のもとに あると言うべきでしょうか。神のもとにないと断言することは無理のようですね。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 見解は判りやすいです。 この手の思索はやはりお上手ですね。 私の場合はどうも子供っぽいです。 閉じこもった相手には、こちらから先に心を開くよりない気もしますが、経験世界の行動としての実践においては、出来るだけそっとしておくこととなります。 この辺で情動をコントロールして物言わずして自らを気づかせるのが無意識を熟知した私のエスパー化現象です。 普段、誰かの雑念相手に人生相談しています。 エスパーというとかっこよさそうだけど実際は地味でつまんない仕事です。 土台はデーモン現象ですがかなり上手になりました。

noname#117439
質問者

補足

本当はA19のmaimaisusさんへの補足なんですがここに書かせてもらいます。 多分読んでくれるでしょう。 愛情が既に愛のモノ化なんです。 それ以上に形を取らない絶対が愛です。 あれ、変な気がします。 万物が愛だといいたいんですがね。

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回答No.19

No.12です。 No.14の補足で >無意識は全ての本質が愛であると、かたくなに信じています。そしてこの世界の法則や原理も愛であるとの誘導です。 と言うのを拝見したのですが、「根源的な物」が「愛」だみたいなと言うのは、私が言うのも何ですが、少々?言葉の使い方がおかしいのではないかと思いすが? それはたんに、今の自分が感覚的に自分の触れた物に対し、そう感じているだけではないのでしょうか? もしくは、私個人の愛についての認識が間違っているのかもしれませんね。 ですけど、一般的に愛てこう言うことですよね。 ◎守ってあげたい。◎助けてあげたい。◎分かってあげたい。◎より良くしてあげたい。 様は、~あげたいから始まる思考、もしは、感情。それは、ある意味、~がほしい、~したいと思う欲望と同じだと言えるのではないでしょうか?そう言う意味で、回答No.12では欲望の一部と、表現させて頂きました。 個人的には、愛とか欲望に関しては別に、良いとか悪いとかはあまり考えてはいませんが、しかし、その形=自我には、美しさや醜さがあるとは思います。個人的に。 話しは変わりますが、 >信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。 この問に関して、また別の答えをさせてください。 私たちは、神?の創った、物語の中にいると言うのは、いかがでしょう。そう考えれば私たちは、神の思考の一部であると言う事ではないでしょうか?小説やマンガの中の登場人物と同じ立場ですね。 まあ、そう言う事なら「~たい」から始まっているので、せかいの根源は欲望と言う事になるか?

noname#117439
質問者

お礼

maimaisusさん。再度ご回答有難うございます。 渇愛、愛欲という言葉が有ります。 全般の愛に対する見解の文面からその手の心象に煩わされているのを感じました。 対処は考えに閉じこもるよりも即行動でして実生活の日常の中から幸福を増やしていこうとするほうが早いです。 病とも限らないので何とかなります。 >私たちは、神?の創った、物語の中にいると言うのは、いかがでしょう。そう考えれば私たちは、神の思考の一部であると言う事ではないでしょうか?小説やマンガの中の登場人物と同じ立場 禅宗が勃興した頃は「夢」に例えられていましたね。 世界を形付けるのは自分ひとりの夢でく、共通の夢であるのですが神様はそこで見守るだけでなく支えてくれたりもします。一人ひとりの登場人物は自分自身の主人公です。 欲望の世界ということですが、どうやら余剰生産物や副産物が欲望らしいです。これらは欲望の結晶で無く本質的には冨です。 自然界から離れて神からも自由になった人類が、自分自身の生き方を悟りきれずに生み出したモノといいますか現象ですが、愛に還元するリサイクルぐらい出来ます。(冨としてです) 望みそのものは欲望との区別がなかなかつかないのは事実でして、私自身はその点は棚上げしています。自分の意思を確認できれば人形のような登場人物でなく自分自身の主人公として振舞えますがそのような意思に望みという言葉は今のところ似合いません。

noname#117439
質問者

補足

>それはたんに、今の自分が感覚的に自分の触れた物に対し、そう感じているだけではないのでしょうか? その通りです。 愛情イコール愛ではないんです。 この錯覚がおそらく愛欲でしょうか。 情動が愛の形を取っていなくても還元すればやはり愛です。

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回答No.18

primeapeさんの文章は 意味合いを読み取るのが大変ですね。 しかし明らかに深い思索の後の文であることは よく読むと解かってくるという文章であるわけです。 同じような達観能力という直感力があるような人には、お互いの文章が通じやすい文になっているのでしょうけど、 そうでない人は そこからの質疑交流の意味合いを読むのにも 大変なことになります。 その意味合いの深さについて私にも解かったと思える部分を 解かりやすい文で描写してみたいと思うのですが、 その前にそちらがどうしてこのような解かりにくい文となってしまうのかを明らかにしたいための質問をさせてください。(よりよき、そしてより広き対話の場を開くためです。) * primeapeさんは、 白紙状態で集中して物事を考える能力がある方であると自認されておられますが、、   そのへん、 こんなふうになっているのでしょうか? 今までの知識や体験の積み重なりから答えを導くのに、 一気に何らかの会得した方法で直感的に答えが見えてくるという直感力がいつしか働くようになった。 → それを 詳しくあとから考え続けてみても、その一気に考えた答えは やっぱり正しい。 年月を経ても なおくずれることが少ない。  まるで しっかり厳密に一つ一つの検証を積み重ねた後の結論のような確かさが いつも実証される。  間違いもあり、常に検討はつづけているが、  一気に達観が働くこの能力は、確かにあると言いえる。    ↓ こうして、たとえばこのQ&Aの場にても、 質問者の質問に 一気に達観した結果が まだ詳しく検討しないうちに生まれてくる。  あとから考えても 質問者様がたが それを理解するかぎりその質問者様がたの確かに役に立つポイントをつく答えとなってきたし、 自分でもやっぱりポイントはついているなと、後からもそう思う。 ↓ この繰り返しが、 一気に達観された言葉群での文章と文体の習慣を生み出した。 →出きるだけ解かりやすくも書いていて、“たとえ話”まで組み入れているのに、 その習慣自体はなかなか抜け出せない。 =どうしても むずかしい書き方となってしまう。 かってな推測ですし、 別に “あえてそのような書き方をしてる“という部分もまざってるようにも思えますし、ことさらに詮索を追いかけるつもりはないのですが、ですからこの詮索の答えるか否かも もちろんそちらの直感にしたがっていただきたいのですが、  この回答を書くにあたって、わたしには ここを訪れた大勢の人にこの論議を解かって欲しい意図があり、一応私は私で 質問の形をこのように記しておきました。 * 子供の頃、私は病弱で たくさんの夢(睡眠中の夢)を見ました。 その中で こんな夢を見たことがあります。 夢から醒めて、布団かが起き上がり歯をみがきに洗面所に向かう途中で、あっ と気がつくと布団の中で目を覚ましていた^^。 というこのの繰り返しが えんえんと続いた夢です。 最初は 何だコリャ^^。と おもしろくさへあったのですが、 そのうちに、恐怖の真っ只中に意識がおかれることになりました。 なにしろ、夢から醒めて、おきあがって、こんどこそ醒めたなと思って歯もみがきおわり とうとう最後は昼ごろになってすっかり安心してたら また、はっ         っつっつつつと、気がつくと布団の中で目を覚ます。とう繰り返しだったのですから。 とうとう 目を覚ましても覚ましても なお必死で目を開けようとしている状態が続きました。 それでも歯は磨く繰り返しもあったことは憶えていることろです。 もちろん、最後は目は醒めたからこそ、 今61歳にまでなった私がこれを今こうして書いているわけですが^^、 はてさて、  そこまでの夢を見ては、子供の頃の私にしても、 えっ夢と現実の違いってなんなの? という思索を さすがにおっぱじめてしまいます。 現実こそ、死の次は永久に醒めないのだから、?夢なのか?(この言葉どおり考えたわけじゃないです^^。 まだ子供ですからね。  でも、私はそのすこし以前に何度も病気で死に掛かっていましたから、 似た思索でもそれはあったのです。) すぐには、解答らしいものは出てこなかったのですが、 夢の中と現実の違いはまず夢の中の意識はボケネてるということでした。 リアルな夢もすいぶん見ましたから、すくなくとも夢の中の意識状態でその夢が夢か現実かを見分けるだけのボケネていない意識は起こりがたく、 現実の意識にても、どこが違うのかやはり明確とは言えなくなりました。 と、よくよく考えていくと、まず「みつめる」ということが夢の中では出来ず、流されてる感じで、何かを考えていてもそれはなんと「反省」という名でよべる思索は たしかに一度もしたことがなかったのです。 この発見は 子供なりに大きな発見だったと思います。 “反省という思索が 物事をなんらかの形でみつめてこそ起こる能力だ”ということを思索したのも おそらくこれが最初だったと思います。 しかし、このへんで、《この生も終わってしまう? 反省し進歩し続けてもそれは生の中でのことであり、やがて終わってしまう?   夢とおんなじじゃないか?  どこが違うんだろう?》という思索へと 子供なりにですが入り込んでいきます。 そこで、まず気がついたのが 夢の中の意識と現実(眠ってない時)の意識との一番根本的な違いについてです。 どんなリアルの友の像がそこに生き動いてる映像や声が聞こえてきても夢の中の意識には「友」は実在しない。 という考えです。 これは哲学的に厳密な理論で考えたというよりも、あたりまえのこととしてそのことに気がついたという感じのものです。 子供ですから当然ですが^^。 でも、ここから 私は「意味」って何なのか「価値」って何なのかを、始めてその本質を垣間気がついています。 「友」という存在を何か意識に持たない意識は すべて寝ているに等しい。 どんなにボケネていなくても、どんなに反省し進歩しても頭がよくなっても、その意識に「友」への関心がなければ、  夜眠っている時に見てる夢のようなものだ。 人間的な「夢」に生きることこそむしろ、それがどんな抽象的な甘い段階であっても その意識は夢ではなく現実を すこしでもいき始めたという状態なのだ。  という気づきです。 その時点では 人生をなんら哲学できたわけじゃないです。  でもとても大事な観点に気がつくことになったことは確かです。 * そちらの質問は すでに「愛」について、また「悪という概念が 幻想であるとも言える概念である」ことについて、「友」という意識の究極のような直感や思索の後の文で質問しています。 ほんとうは正確な書き方とはなっていないところがあるとわたしは思っていますが、 ともかくその境地 その達観から 文を表現しています。 >欲望は私には正体不明です。< というのも、欲望というのが、あらゆる情と関るものでありつつ、情よりも通常は巻き込まれてる状態を意味する言葉のため、 結局 そこに「友」がいない内側のもの「夢」と似ている意識を感じ   うまく捉えることが出来ない というふうに解釈することができます。 逆に言うと、欲望とは“「友」意識”が深くないと「見つめる」ことが難しい世界だとも言えるでしょうが、 おそらくこれがそちらの直感の世界においても、 “現実意識→「この世界」”に分類されるのか「夢幻絵空ごと」→「この世」に分類されるのかが どうも、両方にわたっているようで、どうにも達観出来ない。 《欲望は 愛なのか? 》 そんな誠実そのものの、裏の心の希求の声まで連想されるところです。 そんなふうに考えると そちらの質問の意味合いが、やっとおおよそ解かってきた気持ちになるのですが、 どうなのでしょうか? 「質問の中に答えがある」とよく言います。 深くつきつめてゆくとよくあることです。 “私なりの回答”の前に、 そちらの質問について考察し その内容について質問してみました。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 欲望について回答者様のコメントは新しいひらめきのヒントとなりました。 要するにこうです。 感情と行いが何処かしらちぐはぐで、必要以上に同じ行いを繰り返した場合は、そこに累積した行動の結果は余分な副産物です。お腹いっぱいなのにまだおかわりするような心境でして満腹感が欲だと考えました。 必要以上の行いとも、必要外の行いとも解釈できます。 誰もが備わっている理性は縁起行動と結果などを冷静に分析しますのでその歯止めを失った繰り返しが欲と解釈できるのではないかと思いました。 ちなみに理性の縁起の計算(自然な成り行き)で生じる心の中の世界の光景と(理想)、現実のブレの軌道修正が罪悪たる概念の発祥ではないかとも考えます。 私自身の考えの編み出し方について前文で見解を述べていますが、自らを認識し他者を認めたので(たったこれだけ)明白なテレパシー能力が自覚できます。こうなると自分ひとりの脳の中で考えてるわけでない事もわかります。その辺りが達観の内訳です。

noname#117439
質問者

補足

まづ夢の内容が示す現象について判ることお書きます。 歯の健康とは無意識と自らの本質(主観など意識できる領域とも限りません。魂と解釈しても結構です。)を、結ぶ「絆」の象徴です。健康な無意識にはそこに存在理由など不要でして「絆」次第なんですが、文面の解釈として絆を磨く健全性と、さらにそれと裏腹な、絆が欠けていく恐怖の二面性が見て取れます。それから友についてですが、人一人分の心の中で見る夢ですからふたりの登場人物がいた場合、それはお互いの同一性のある愛で惹かれ合い、縁が遠くても兄弟程度、基本的にお互いが自分自身に等しい存在です。ですから(同一性があれば)友とは解釈しません。ただし直感的な友の解釈は間違いでないでしょう。そこには自己の同一性から切り離された孤独があり、罪悪たる、錯覚だけで結びつく心の病根の象徴です。総じてこれは悪夢と解釈できます。 はっきり言うとそれは罪であるはずです。したがってこの世のドグマといって脅かした非現実の心の世界です。はっきりした決別のために言いますと、その友は心が通っていない人形です。したがってわかり合った振りは一方通行です。心は涙を流すかもしれませんがさよならして下さい。

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noname#80116
noname#80116
回答No.17

 primeapeさん 進展がお有りのようですね。  ★ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  何が言いたいかと言うと。  自らの本質の姿は絶対であり、それは内包している。  とでも言いましょうか。  ★ (No.15補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  心に内包する真実の姿はやはり愛です。  これはもはや疑問の余地がない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように確信をつよめられたご様子に見受けられます。  たしかに 人間の いわゆる隣人愛も 神の愛と 二つにして一つであると言われます。究極の愛は ひとつであって しかもその愛が われわれの心に宿る(《心に内包する》)というわけです。(《仏性》はどうであるのか これを いま 問うています)。  ちなみに よく引き合いに出される愛の区分を 確認しておくなら  神の愛:charitas ( grace / devotion )  隣人の愛  ・精神としての愛(意志):dilectio ( affection ?)  ・心理としての愛:amor ( love )  ・欲望としての愛:cupiditas ( desire / love ) などであり しかもこう捉えたときに けっきょくすべては 基底には 神の愛が 流れている。息づいている。と言われるわけです。   学問や人格陶冶の愛も 平静なこころとしての愛も 情欲・情念として現われる愛も そのような人間愛は さらにその負の側面 つまり 憎悪や嫉妬や貪欲やら何やかやまでを含めて 神の愛に さらされている と言うべきか あるいは 裏打ちされていると言うべきか そのようなかたちにおいて 究極では 同じひとつの愛であるという観想です。  ここで 神の愛は 無時間として捉えると分かりやすいかも知れません。あるいは さらに通俗的に 《長期の視点から見て》と捉えるとよいのでしょうか。人間の経験的な時間的な愛(愛・憎その他その他一切)は 無時間においては 絶対者の愛のもとにあるという夢です。  でも primeapeさんの確信は そういうことなのだということですよね。それが 《この世界に信じるに値するもの》なのだと。  ★ アーラヤ識やマナ識  ☆ を持ち出すまでもなく 人間の精神および身体にとって そのように 捉えられるという一つの認識であるでしょうし。そのような認識を持った精神および身体が 社会的に 互いに 鏡となってのように 人にも 愛の概念が 反射しつつ 呼び起こされ 写し出されてくるとも見られます。    そして わたしに言えるのは ここまでです。つまり この理論は まだ わたしには 予感です。  それは こういう理由からです。つまり すでに触れたように 憎む・嫌う・いぢわるをする・様子を見つつ無視するなら まだ いいのです。つまり 広義の《愛》に入ります。けれども 取り合わないという意味で無視する・答えない・答えをはぐらかす・はぐらかし続ける・要するに おまえの存在じたいを認めないというようなこれらの対応は 愛の概念に入って来ません。  宇宙遊泳でもないのに これらの対応をおこなう人間は どこかかなたの星屑となって生きている つまり 死んでいる。(そのくせ 社会的には 地位もあるのです。あるから 無視することができるのです)。この場合には その人間存在は 手に負えないただの物体であるように思えてなりません。  こういう事情です。逆に おしえてください。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 A16のようなことを確信するとやはり軋轢の渦中に放り込まれます。 あくまでも心だけの話なんですが。 私は欲望を正体不明と定義した自己催眠のようなもののおがげで今日一日欲望との格闘でした。 といっても欲望は根拠不在で実態がどこにもも由来しないんです。 その上それだけでは欲望は掻き消えないで、なんと言いますか自らが欲望を持つことに諦めを抱いた人間像を基点に発散されています。 この辺の定義は発展途上で私もお馬鹿さんですが。 還元すると欲望はどこにもなくすべて錯覚だったことになるでしょう。 したがって欲望について考えたり定義したりするのは無理っぽいです。 ちなみに煩悩といえば聖典に由来しており、これは自己の探求です。 したがって厳密には欲望でありません。 欲望の影を背負ってはいます。 それからbrageloneさんの言う愛に分類されない情動というよりそぶりのような行いは、現世利益とか内容の伴わない信仰とかで表現できます。 欲望をあまり否定しないほうがいいです。もっと正々堂々と戦いを挑んでこそ、生きた意味があるといえます。

noname#117439
質問者

補足

愛に分類されない心情は「孤独」のことですね。 共感や共振のある事柄なら情動は広く愛を基点とすると認識できているようですが孤独や拒否なら確かにそれは出来ませんね。 さらにそれでいて自分を判ってほしいなんて支離滅裂な態度だと困ります 若い頃の青臭い孤独なら内面の清らかさも予感できますが大の大人だとどんなモンでしょうね。 多かれ少なかれそんな側面のある人は多いというよりも、殆どがそうですが、その場合愛がどうのと言うよりも、何より自分自身を知らない状態です。 良きにつけ悪しきにつけ、迷っている、またはさまよっているだけなら、自らの行いの意味を自覚できるように導くような話しかけ方をする事で、感謝されお互いが幸福を堪能することも出来ますが、きれいごと以外一切聞かない姿勢だと(または儲け話)いかんともしがたいです。 青臭い自分探しを中途半端にしたまま諦め顔でも困ります。 そのような場合は鬼軍曹みたいになって即刻行いへの還元を促し、しかる後にその成功をほめることで希望を育てることになります。

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  • hosiboshi
  • ベストアンサー率9% (15/158)
回答No.16

この世が夢か真実かわからないってことですよね。 それで信じれるものがおおよそ見つかりにくいから、とりあえず信じたいと。 それは置いておいて、自分の技量で信じれるものがありますか? あればそれを信じて磨いて、自分を信じることから始めることだと思いますよ。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 この世は夢だと明白に定義したのが今回の質問の発端です。 それどころかドグマであるとこき下ろしています。 それはさておきアドバイス有難うございます。

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noname#80116
noname#80116
回答No.15

 No.14です。  ほんとですね。《八百長試合》のごとき様相を呈して来ました。   はじめ 《愛》にかんしては 触れないでおこうとしていたのですが 二度目三度目で おもな主題であると分かり そこに 集中するようになりました。  《愛》に 多少は信じるに足るところがあるという議論のひとつをご紹介します。すでに投稿経験のあるものですが。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*1)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。   *1 (私註)《このようなもの》とは 端的には 情欲・情念・愛   情です。一般抽象化して 《理想のようなもの あるいは 理念と   その美 これらのたぐいを みづからに心地よい観念とすべく 想   像をとおして その表象に自分から依り憑いていく心の片向き つ   まりは その弱さ》です。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。  魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。  自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。  (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#117439
質問者

お礼

オコリザルです。 私はドグマ探索で何かが愛に昇華する瞬間というのも体験していますがそれはいわば地上に生命が発祥した瞬間にもなぞらえます。 それから子供の遊びで「お前はビックバンを信じるか」なんて謎かけで友情を確かめようとする行いが有ります。 はっきり言うと生まれた瞬間にもう何もかも判っているんですよ。

noname#117439
質問者

補足

妙な演出をすると判りにくくなるので補足です。 この世は心の世界です。 ただそれだけです。 心が枯れることはないのでドグマとこき下ろしても(私はドグマを箱庭のことといった覚えがありますが)脅かしただけです。 すみません。 罪悪は克服すると空文であったことがわかります。 心に内包する真実の姿はやはり愛です。 これはもはや疑問の余地がない。 そして現実と真実を一致させてこの世界を忠実にあらわす鏡がアラーヤ式の本分であり大円鏡知です。 マナ識はもっと判り易いです。 愛にもとづく感情は平等に采配を振るう。 不平等だと葛藤が生じることもありますが、平等性知とか言うありがたい智慧に例えなくても情動の起源は全て愛です。 自らの考え方がはっきりしすぎて質問になってない感じです。 もっともこれのここ何日かの思索の結果でしてこの世のドグマ化は言いすぎだと判りました。

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noname#80116
noname#80116
回答No.14

 No.13です。  ★ でも残念に思われるかもしれませんが、強いて我が事とは受止めません。  ☆ 仏教を出したのは この質疑応答の流れが あまりにも彼岸のほうへ傾いていきそうに思えたので でした。そういう余計なことも考えました。仏教も この娑婆世界こそが その活躍する場だと思います。  ★ 他力本願が今ひとつ私には理解できないんですが。  ☆ 《絶対他力》ということは 何においても どんなことについても この世界には 根拠がないという意味です。つまり 相対的なものごとの世界だという意味です。  もしそこに それでも 光が差し込むとすれば それは 《愛》であろうという見通しとその課題です。なぞですから 意味が分からないという言葉として 《霊》と言うのだと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  世界へのつながりは後回しなんです。したがってこれはいさめる形となりますが仏性を内包しているといっても、それは輝きを持たず、まず自分を救うことから始めないと誰も救えません。したがって信教の話は後回しにして内観の達人になることをお勧めしたいところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 同時並行して実践して いいと思います。  《自分》という存在には 《他者との関係》が すでに初めに 含まれているという見方からです。ひとは 孤独であって しかも同時に 孤独関係としては 社会的な存在である。つまりもっと言えば 《孤独》ということが 《わたしは 社会的に存在しているという自覚》なのではないか。こういう見方です。  《内観》と 外形的な関係 どちらも 同時に 取り扱ってまいります。《取り扱う》というのも 変な言い方ですが。  そのように 内と外との同時進行ゆえに 《愛》に喩えられるところの《こころの奥からの言葉》が 息づいているのだと思います。《外》と言っても その人の《内》なのですが。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 音頭とりが巧みですね仰るとおりだともいます。

noname#117439
質問者

補足

話の取っ掛かりをふやすための雑談です。 知性の暴走を経験し、鬼神とも対面した私の経験では、無意識は全ての本質が愛であると、かたくなに信じています。そしてこの世界の法則や原理も愛であるとの誘導です。 質問形式といっても八百長試合のような気がしてきました。 それから、無神論者さんもご登場になっているようですが、親切すぎて攻撃力が無く、愛想を振りまく挨拶を返している次第です。話が続かないのは私の対応の仕方もあるのですが。

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