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この世界に信じるに値するものは何か

質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.21

難しい議論にはついてゆけない(時間が無い)ので、 回答だけ もう一度書くことにします。 わたしの考えです。 「この世界」に信じるに足る真実とは、 と言えば、 (1)何かうれしいことがあれば伝えずに入られなくなる人と人との間の 素朴な人に見られる人間のそのような単純な本質です。 (2)そして、この存在(この世界)には、無限にうれしいことが人の心の奥に用意されプレゼントされている事、 この二点です。    短く書けば、それが私の中でいつしか「希望」の世界、あるいは闇の中の光となっています。 後は、そちらの直感(テレパシー?)で判断してみてください。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 心地よい文章ですね。 この世界を受け入れることが出来るのでしょう。 しかも手放しで。 私はおもちゃ屋さんに勤めていますが、子供に対して大人が出来ることは、一つでも多く幸せな体験をさせることだと思っています。 同じ見解ですよね。

その他の回答 (33)

noname#84124
noname#84124
回答No.34

どうもなあ?と思って、最初からスレ全体を読み直してみたんだけど、ある回答者さんのレスから、どうやらこっちは、やっぱりきちんと理解できていなかったんだなとわかりました。あまり深く考えてなかった。なるほど、これは、、焦るな。 >感情的であると予め前置きしました。文面から何がしかの思惑が見て取れるということです。 まあ、はじめから特定の人に横レスというべき投稿をやったのはワタシですから、そもそも感情的なものも含まれていて当たり前でした。しかし、それでも上記は質問者さん自身にも、お返ししなきゃならない言葉です。 「その感情に感情で答えるのは哲学ではありません。」 ところが質問者さんは現にこれをやってますよ。 >そうすると感情は幻とみなして字面と格闘することになります。 「感情は幻とみなして」というのは、「そういうのは置いといて」、という意味であるなら字面のみと格闘することに専念するということになりますか?でしたらこのサイトでは、むしろこれは本来の妥当な姿勢です。ましてワタシの書いた内容など、まさに字面だけで容易に解釈できる程度のものです。ところが、そうなると >そうし判断したところをかいたのが31のお礼です。私の理性では内容に理解が及びません。 こうなるとおっしゃる。つまり当方の投稿中、質問者さんの、まさに感情面に引っ掛かる面を取り払ってしまうと、残りはもう「内容に理解が及ばない」。何故ですか?質問者さんは、わざわざ「画素数」や「視神経」の話題に切り替えて再説明してくださった。こちらも、できるだけ乏しい知識から生理学的な話をしてみたりと、それに合わせてみた。だが、そういうところには質問者さんは全く触れておられない。「哲学ではない」感情に感情で答えるということだけやっておられます。いや、もうすでに、みたところずうっと、ここでそれを繰り返してきておられる。特定の人を相手に。むしろ当方のほうが、その思惑をお尋ねしたいくらいなんですよ。 ロボットじゃないんだから多少の感情の動きが感じられるというのは自然なことだと思います。皆むしろ、そういう部分を上手に楽しんでおられもする。それが取り合うに価しないものなら、本来の質問内容に沿っていると思われる部分にだけ反応すればいいのですよ。質問側の要注意点でもあるし。まあ質問者さんは、わりに最近、哲での質問を始められたみたいだから慣れておられないということもあるんだろうけど。 というよりも、こう言っちゃ何ですけども、あまりムリして哲学とかに関心持たれない方が、ご自身のためではないのかなという印象を受けてます。要らぬ心理的負担を背負い込んでしまって、元々適性のない脆弱な人がどうにもならなくなっているという現実もありますよ。それでなくてもややこしいからね、こっち方面は。いまのところ見逃してはもらえてるけど、これまでのように本来なら規約違反に問われてしかるべき遣り取りに溺れないでいけるという自信がおありならいいですが。 >「この世界」に信じるに足る真実、もっと穏やかな場所で、本来のご自分に見合った世界を見つけていかれた方がよろしいんじゃないかと思うんですがね。おっしゃるところの「この世」は「ネット空間」に置き換えても通りそうです。「愛は盲目」という言葉も聞いたような気がするけど少なくとも、とりすがったり確かめたりするようなもんではないように思うんです。

noname#84124
noname#84124
回答No.33

これまでの質問者さんの特定のお仲間との遣り取りを見てみると、他の人からも少々苦情めいた指摘があったようですが、どこが「哲学」と言えるのかサッパリわからんような遣り取りを延々続けておられる。この質問スレにおいても、なんだか「お礼」っていうよりは「褒めます」などと質問者さんが回答者を品定めしてる場みたいだ。 質問者さんのお友達も白状したようだけど、「承認欲求」を満たす場として利用しているそうな。まぁそんなところだろうと察しはついてたけど、ご自身はカウンセリングいや冷媒?をやっておられるつもりなのかしりませんが、結局言ってる内容は「神が」「愛が」「関係が」と、もったいぶってるが何のことはない、要するに他人のことをたびたび名指しであげつらって、いつも仏教やら何かしらの悪口だ。 まあいいでしょうよ、欲求不満の垂れ流しでも、もうちょっと上手に、最低限度は弁えてやるんならね。だけど、むやみに第三者を巻き込む形で、それこそ質問者さんが当方のレスに添え書きしたように、一般閲覧者にとって、なんじゃこりゃ??状態になってますよ。 例のお友達については参加を始められた初っ端から非常に忌み嫌って攻撃してた人がいて、なんだってそんなに警戒するのかと訝しく思ったもんだけど、今じゃ正直ああナルホドと思う。しかも、とりなした第三者に対してもお門違いの失言続きで、最後には他の人も呆れて少し厳しく注意した。当然まるごと消されたけど。いまだに根に持ってるみたいだが、そういう性分みたいだな。まあ、これは、ある種の人たちの特徴だ。 で、ご質問者さんは今異様なまでの熱心さをもってコンタクトをとり続けておられるけど、ご自身が何やら崇高な使命感みたいなものをアピールすることで、ご自身の内なるものを満たさんと求めておられるようにみえるんですがね、あなた→お友達→お友達の常連の古参会員さんと三つ巴ですでに「共依存」状態にもみえる。これ自体どうこう言うつもりはありません。お互いに求め合ってるんなら。ただ、ミョーな方向にリードしていく結果になるようでは、サイト全体に悪影響を及ぼします。こういう失敗やらかしてサイト全体潰れたとか事例は当方も、これまで見てきてます。 ここは、これだけ規模が大きいサイトとはいえ、基本的には本来、個人主催のサイトのはずだし、明らかにルール違反を犯しつつカウンセリングもどきやご託宣を述べる場所でもないはずですよ。いわば「他人のフンドシ」状態だ。 これじゃあ、あなたの内なる穴は広がっていく一方でしょうな。自分に対する自然な誇りは、こういうやり方で取り戻せるもんじゃないですよ。もちろん相手にとっても。 ま、削除申請しといてください。

noname#84124
noname#84124
回答No.32

ふむ。ご返事は拝見しました。 どこやらのご質問では、親しいお仲間との間で当方が「問題」にされていたようですがw「論旨が変わった」とか?そりゃそうでしょ、何度もモロ横レスばかりやっちゃおれません。てっきりこっちも削除かと思ってたら。そういや以前にも、たしかあなた絡みというか、あなたのお手伝いでというか似たような「事件」がありましたかなあw愛も変わらずあからさまに他人のネームをあげてああだこうだと人物批評をする人には「ネチケット」もないでしょうが。 >現実を認めることが出来ないと決め込んでいるきらいが有ります。その点は難解であり理解不能でした。 いいや「現実を認めることが出来ない」云々は、元々質問者さんが言い出したことですよ?で、当方が「決め込んでいるきらいがある」とは、何をもって決め込んでおられるんですかね?「感じ」ですか?w ワタシは、もう一度言い直しますが「できない」と言ったおぼえはないのです。正確には「したくない」ということだろうと思っています。「したくない」からには、もちろん前段階として否応なく「認め」ているでしょう。 あなたが自分サイドで「決め込んでいるきらいがある」ことを理解不能でも当然だと思います。 >要するに地獄の釜に蓋をつけて圧力釜みたいに煮えたぎらせているんです。それが哲学にこもる奇妙な情です。 信仰の対象に責任転嫁しないで我が事としてください。 信仰の対象?責任転嫁?我が事とする?おたくは誰に言ってるつもりかしりませんが、多分「感じ」だけで言ってるんでしょうか。 こちらも「感じ」を言わせてもらいましょうか。 埋め合わせるものを非常に求めておられて、同時に、内なる脆さを抱えておられるせいか文章の歯切れの悪さとひとりよがりさに出てしまっている。 >自分自身になる葛藤を引き分けにもつれ込ませて均衡を保っている。これが文面から感じる私の見解です。 文面からどういう「感じ」を受けたとしても、それはあくまで「感じ」である。そこから先には踏み込めない。 もちろん、このワタシ自身にも現に葛藤はありますよ。すでに過去になりつつありますが。しかし「引き分けにもつれ込ませて均衡を保っている」「引き分けにもつれ込ませ」ること、そういうことが何か質問者さんには問題として感じられたわけですね。ワタシが書いたことだからワタシのこととして受け止めておられるんだろうけど、わざわざ言っておく筋合いでもありませんが「引き分けにもつれ込ませ」るというようなことは、本来、直接にはワタシ自身の問題として、あなたに御託宣してもらうことじゃない。 質問者さんは、お仲間と組んで、このQ&Aサイトでいったい何をやりたいのですかね? 「文学的表現」などと気取らずに普通に主語をはっきりさせて説明していただけませんかね?「御託宣」はいりませんよ。

noname#117439
質問者

補足

ご説明します。 感情的であると予め前置きしました。 文面から何がしかの思惑が見て取れるということです。 その感情に感情で答えるのは哲学ではありません。 そうすると感情は幻とみなして字面と格闘することになります。 そうし判断したところをかいたのが31のお礼です。 私の理性では内容に理解が及びません。

noname#84124
noname#84124
回答No.31

質問者さんの文章は概ね簡潔であるにもかかわらず、当方にとっては読んでて首ひねりたくなることたびたびで、今回ご質問も手を出したくないというのが本音でしたが、いただいたお返事を拝見してみて、まずまずホッとしておりますwしかし >実に「あなたらしい」 と言われても、、、知り合いでしたかな??(汗 いやほんと、このスレだけでも、お互いいろんな文体の方がおられますな~実に壮観ですw ご質問について再説明の労をとっていただいたおかげで、本文に比べ、ぐっと分かりやすくなりました。なにしろ「愛」だの「魂」だのがヒュンヒュン飛び交ってると、ついヒキたくなる性分でしてねw >見える景色と手の取れる景色は一致するのか。 「見える景色」「手の取れる景色」、視覚と触覚ですか、「知覚の様式と事実の理解が齟齬をきたす問題」について、『モリニュクス・プロブレム』とかいうのがあるそうですね。ここの過去質にも、こうしたことの議題が挙がってるのを見かけたことがあります。 それより、「一致する」かどうか以上に「一致させる、させたい」「一致させない、させたくない」の方が厄介な問題みたいですね。 >ただこれだけを一致させるために人間は多くの嘘をついています。 世の中をうらんだり、目の前にある現実を受け入れることが出来なかったり。 実に恨むに相当するのか、目の前の現実ってなんなのか。恨むことで何かしら解決になるのなら恨むもよし、受け入れるも受け入れないもない。ただ、「目の前の現実を受け入れる」にしたって、ちょっとしたトリミングひとつでナンボでも影響を受ける。トリミングあるいはフレームとか、そういったものなしにはどうしようもない。このことは紛れもなく個人レベルの主観世界を抜きにした事実でしょう。No.26さんのご意見には当方も共感を覚えましたが「自分」という存在形式自体は、さしあたって問題にすべき当のことでないように思いますよ。もちろん、あらゆる問題の発生場には違いないんですが。 生理的知覚面においても精神的な面においても、マジックとしか呼びようがないような摩り替え現象やらいろいろと抗いようもなく起きてくるんですね。基本的には、せっかく本人が「見える」と思うとおり、つまりリアリティを感じるとおりでいいんでしょう。「メガネメガネ」と探し回って、ふぃと気づいたらすでに掛けていた。遅かれ早かれ、といってもあまりにも遅いと自他共に致命的だが、ま、なるべく早く気づけばそれでいい。うちのオヤジも粗忽者で、「ない!ない!」と血相変えて探してて「目の前にあるがな」とオフクロに呆れられるということがよくあった。そのオフクロは、おおよそ家内の片付けができない女だったですが、「どこに何があるかは、ちゃーんと自分の頭の中に入ってる!」と自慢してました。それはそれとして家族にとっては家内の片付けもやってもらいたかったんですがねwそれよりも何よりも一番の問題は、ここにしまったはずと思っていた物が見つからないと、「アンタが勝手に移したろ!」と転嫁することwもちろん真相が明らかになっても謝らないのはお約束ですw 昔から「素直が一番」という。「素直」って、どういうことなのかも、なかなか難しいことなんですが、更新可能性といったようなことも問われるんじゃないかと思います。 おのれの視神経を通して「見えてる」ようすと、それ以外のところを通して「見えてる」ようすが著しく一致しなくて周囲も自分でも困るしキモチワルイので一致するよう努力してみるとかいうのであれば、これ自体は極端な話ですけど、まあマトモな努力でしょう。鏡なんて、もとより完璧なものではないにせよ人間は鏡を見て身仕舞をする。その人物の脳によって再構築された像が、知覚表象である。ということなんだそうで、視神経のはたらき自体どこまで優位なものなのか、視神経のみで「見て」認識・判断ということができるものなのかなどについて当方が知ってることは殆どないですが、おのれの視神経を他人に張りつけて見せようとしたり、他人の視神経を乗っ取って見ようとしたりすれば、すごく困ったことになりそうです。 >確かに本当ならかんたんなことですね。 「確か」に「本当」というのも突っ込めば難しいことですが、ただ、単純だとなんかアリガタミ薄いなどというミョーな動機とかからゴチャゴチャ飾りつけして複雑にしてやろうというのはカンベンしてもらいたいですな。これも、その人のなかの何かと無理に一致させようとしてるんでしょう。 >閲覧している方向けのただし書きです。 あ、こりゃどうも。言われてみれば、他の閲覧者からみて何の話かと思われかねない書き方でした。急いでたせいかな。それにしても >心の中にある死の願望や死の予感らしき事柄を見据えた上でそれに関してメッセージを寄せています。 心の中の世界について今回の質問内容に沿ったお話です。 えっ、そこまで言ってましたかねワタシが?覗いたの??まあ「殺され」とか「死刑」とか使ってるもんね。辛うじて質問内容に沿っていたのならよかったです。 >人一人分の心の中の葛藤ですので和解が調和であり自分自身になることです。ちなみに妥協の無い真剣勝負の葛藤であるはずです。 誰しも大なり小なり葛藤くらい経験するだろうけど、自分と和解できないってのは、いかにも苦しいでしょう。藁をも縋りたくなるでしょうかね。口先だけで自分大好き愛が大事ってハシャいでおればいいというもんでもないし。自分が許せなくて世界が許せるのかというと、そうもいかなさそうだし。しかも許す許さないに関係なく回ってるし。なるほど「妥協の無い真剣勝負の葛藤」こう言ってもらうとなんかカッコイイことでもやってるみたいですがシンドそーですなあ。本人だけじゃなくて。ご愛顧ご愛顧、商売商売いつでも勝ち負けが基準だ。もちろん勝ちにまわりたいのは決まり。しかし負けるかもしれん。ぜーったい勝てると確信するまで様子見だ。それはそうと確信ってなんだーっけ?自分の確信って確信するに足るのだらうか?? 何でもかんでも拮抗してるから、どれもこれも捨てられないとか。出ると引っ込めるを同時にやらずにはおれないとか。まぁこちらにはわかりませんけども、たまにこういう人もいるってことで。 >哲学の場は知性を磨く場でしてその面では反則攻撃です。 哲学の場にとどまらない場外乱闘なんですよ。 褒めていただき恐れ入っておりましたが「知性を磨く哲学の場」として「反則攻撃」「場外乱闘」としか判断いただけない投稿を行ったのは残念なことでした、とにかくお詫びしておきます。確かに横ですから、こちらに非がある。質問者さんには今後も反則行為一般に対して、こうした端的、直截な指摘を心がけていただけるようお願いしておきます。 夢に関して話が出てますけど、少しだけ。どなたさんだったか「デフラグ作業」の一種と喩えておられてナルホドなと思いましたが、人間、あまりに怖れたり忌避しようとすると、かえって、その対象に接触と直視を強いられるということがある。強いているのが何者であるかはいざ知らず、夢でも現実でも起き得ることのように思われなくもないです。 それと、No.31さん消えちまってますから(消すことなかったと思うんだけどねw)今となっては一言だけ。 ははあ、ご自分のことを言ってると思いましたかね?アレとコレが違いますでよwま、ワタシはコンが続かんタチでしてねw以上! 骨髄バンクの話で思い出した、随分以前のことですが、お米絡みの話だったかな、(旧)厚生省のエラいさんが、廃棄処分するしかない大量の農薬汚染された古古米だかを東南アジアあたりの食い詰めてる人たちに寄付してあげたら無駄がないし喜ばれるだろうし、我ながらグッドアイデアだと思うんです、などと大マジメに言ったって、有名な女性作家(有吉佐和子さんかな?)が書いた批判を読んだ記憶があります。 自分の感覚、感性、判断、価値観、ライフスタイルその他、自分はまとも、健全、イイコトやってるんだと信じて疑わない。かえって不気味だ。まともじゃない健全でない、ワルイコトしたい、スレスレの自分をウリにされたって、これも扱いに困る。といって全く信じられないのでも困ったことになる。実際のところ我々のこの生活なんて、まさしく夥しいリスクと犠牲のうえに成り立ってる。そのことを他人視点からみんなの喜びとして表現したところが顰蹙もんですが、指摘したところで、ご本人は、「へえ?なんで?」って狐につままれたような顔をするのが関の山かなw

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 現実を認めることが出来ないと決め込んでいるきらいが有ります。 その点は難解であり理解不能でした。 自分自身になる葛藤を引き分けにもつれ込ませて均衡を保っている。 これが文面から感じる私の見解です。 理性的に振舞うとどうしても厳しい見解になります。

noname#117439
質問者

補足

ネチケットに反するかもしれませんが私だから説明できることです。 質問者様は要するに地獄の釜に蓋をつけて圧力釜みたいに煮えたぎらせているんです。 それが哲学にこもる奇妙な情です。 信仰の対象に責任転嫁しないで我が事としてください。

回答No.30

回答番号No22のarayata333です。 文学的表現も、心象の反映をそのまま文にする習慣も表現の自由ですし、それが善の真心(嘘とかその仮面とかでない心)で表現されるものであるかぎり、表現は自由であっていいことですよね。 まさにbrageloneさんの言われるような答責任は その心如何の問題ですから。(私の考えではです。…。) ただ、そちらの言わんのしている内容の深さを考えるとどうしても「これがもっと解かりやすい文学であったらな」^^と思えてしまうのです。 やっと解釈できた時には、たしかに そう思える、という感じだということなのです。   受けてのほうも、なかなか大変なことになってしまいます。 * では、 このような夢には、どのような感想を持たれるでしょうか? わたし自身の子供の頃見た夢なのですが、 こんなおばけの夢をみたことがあります。 ある親しい人が、夢の中に出てきたのですが、  なんとその人には足がなく浮かんでいました。 恐怖とは ありえないことまたは理解しがたいことが現実に起こっていると感じることで起こる感情です。   現実には 通常程度のありえない出来事が起こると それはたまたま自分の能力では理解できないにすぎない出来事だという頭が働き、ちっとも怖くない時もありますし、 ホラー映画なんて楽しいだけという人もいるでしょう。 しかし、夢の中では、よほど特別な人でないかぎり、そこを現実と意識しています。 そのため たとえば机がとつぜんグニャリと曲がってしまっただけで、その感情は恐怖の極地となってしまいます。 絵の中の足の無いおばけなんてたいして怖くないです。 でもそれが友だちであっても、 いやだからこそ、 そんなのが空中に浮かんで出てきたら とくに子供は夢の中でパニックを起こします。 ぎゃああああああああああああああっ(その時の私^^です。) 一目散に逃げ出していました。 そのはずでした。   でも途中で何かおかしいなとは思ったのですが、 ハッと 気がつくと 私はその人を抱きしめていたんです。 抱きしめたとたん私は その人の足を見ていました。  ちゃんとそれは大地に立っていたからです。 その瞬間私は目を醒ましました。 ほんとは、あまりにも一瞬の出来事だったので、足がちゃんと生えていた?のに気がついたのは目が醒めてからのことだったような記憶となっています。 隣にその人はスヤスヤと眠っていました。 私にとっては生涯でも最高にドラマチックな夢でした。 * これって心理学夢判断の人とかはどう判断?するのでしょうね。 私はフロイト以前の 大雑把な夢判断とか原型主義とかもほとんど当てにならない判断と思っていますが、 フロイトのように個人個人の分析をもとにそれと夢とを臨床的に探った夢判断にしても、  たいして科学的とは思いません。 通常の夢はすべて(たとえば上記のようなドラマチックな夢ですら)、その人のなんらかの心の反映を表わしているものではないと思っています。 通常の夢とは、そのぐらいボケた意識であり、それを無意識と呼ぶことはできてもその内容をなんら具体的につかめるような心象風景ではないと思っているからです。 でも、これが たとえばキリストとか釈迦がもし夢を見たとしたら、それはいちいち意味があるかと思います。 そのような架空かもしれない人物でなく、 ふかく感性が磨かれた人達も、  真に意味深い夢を見ることはありえると思っています。 が、通常の夢からは なんらその人の心の奥を判断する材料はいっさいといっていいほど得られないと思っているのです。 知的にはです。 けだし、それを文学には仕立て上げることはできますし、 また例えば上記のようなドラマチックな夢は、そこから人生を哲学する材料にはなるかと思います。 無償の愛で愛する時には、人は大地に立っている。  「この世」の悪の夢のような世界は、悪夢は消えている。 しかも 無償の愛で抱きしめられた人もまた、足がある。  《それが阿弥陀仏の意味だ。》 とかいったふうにです。 愛の中にも、たしかに悪人はいませんね。  ただ、心の奥がなんらかくるしんでいる人としか見えませんよね。   すべての人が友達ですよね。(文学的ひょうげんですけど^^。) ほんとうに抱きしめられたら、そう自覚できたら、 信仰も盲目ではないで笑。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 あまり役に立てませんが、今回の夢は存在の認知と現実と夢の邂逅に成功した小さな奇跡とでも言いましょうか。 幽霊じみた怖い怪談ではなくarayata333さんの心に形作られた物語そのままでしょう。

noname#117439
質問者

補足

友達に関する疑問点への謎かけです。 >無償の愛で愛する時には、人は大地に立っている。  「この世」の悪の夢のような世界は、悪夢は消えている。 友達は愛を受け取ったと答えたのでしょうか。 そしてその行いが「愛」であるとの解釈は本物でしょうか。 もしかしたらそれは慈悲ではないのでしょうか。 もし慈悲であるならやはり友達は人形だったことになります。 これはarayata333さん自身にしか判らない心の問題です。

noname#84124
noname#84124
回答No.29

ヨコですけど。まあ今急いでるんでとりあえず。 病みが激しい人にアタマから「常識」なるものを求めてもなwアンタの常識ワタシの非常識とかいうし。お互い様かw 「解決を見る」ことは殺されることだと思ってる人にとって無限に続く話し合いなんて死刑の前の拷問刑罰であり民主的どころか強圧強制そのものでしかないと思うかもなあ。 で、逃げ続けて、ますます開き直りと不信は積み重なっていく。本人が自分に対してだけど。 とにかく事情知らないとどうしてもズレたこと言っちゃうけどね。 最初から独特の見解を前提に話を始めても平行線になりやすいだろうな。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 閲覧している方向けのただし書きです。 noema_1970さんは心の中にある死の願望や死の予感らしき事柄を見据えた上でそれに関してメッセージを寄せています。 心の中の世界について今回の質問内容に沿ったお話です。 人一人分の心の中の葛藤ですので和解が調和であり自分自身になることです。ちなみに妥協の無い真剣勝負の葛藤であるはずです。

noname#117439
質問者

補足

私は感情のこもった点の「あなたらしさ」そのものはあくまでも褒めます。 でも哲学の場は知性を磨く場でしてその面では反則攻撃です。 哲学の場にとどまらない場外乱闘なんですよ。 でも次のご回答をお待ちします。 いつでもどうぞ。

noname#80116
noname#80116
回答No.28

 No.25です。  《自由》は 答責性を伴なうという意味です。説明責任がつきものであり 責任と言うからには すべての表現や行為が 互いに同等の内容であるというわけではありません。しかるべき内容やその自由の行使の仕方が のぞましいと考えられ 人びとの取り決めや共同の主観(常識)によって そのような現実情況へと 促されるものです。のぞましくない内容や振る舞い方については 遠ざかるように 促されます。  真実を言う場合も 勘違いなのだがその場では真実だと思って言う場合も うそをうそと知っていて言う場合も これらすべて 表現は 自由です。その自由は 想定の限りで 関係性と意志を内容とする《愛》にもとづくものであるゆえ 上に述べたように 答責性を 必ず 伴なっています。  つまり 特には 負の愛を内容とする自由な表現として 《うそ・いつわり 詐欺・あざむきの類》は 必ずしも 望ましいとは思われていません。一方で むろん それらもすべて その人の自由ですが そのとき当然 他方で 同時に 《自由》であるゆえの答責性を負うということです。  答責性を負うことは 愛の中身が負(マイナス)でない場合にも 同様です。太郎が花子に 今度の休みに一緒に映画を見にいこうと 真実を表現した場合にも もちろん 答責性が ついて来ます。  この責任は すべてが 愛から始まっているからには 関係性において 処理するのが よいでしょう。独立した存在である個人として 表現の主体であった太郎が 負うのですが その取扱いは 社会的に関係性の場で 花子との話し合いをとおして 処理していきます。  解決を見るまで無限につづける民主的な話し合いは 愛にその基礎を置き 愛は おのれの表現に自由とその答責性のあることをおしえて 人に民主的な話し合いを促す。この長期の視点において 愛は この世界において信じるに値するものであると 言えるように思われます。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 珍しくわかりやすいお言葉を使っていますね。

noname#117439
質問者

補足

書き込む欄が少ないので失礼します。 本当はA30のarayata333さんへ友情についての補足です。 wiki 唯識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 この内、 >末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。 これらと関係しています。記述ではこれらの煩悩は「随伴」と表現してあり実際に根をはった種子ではありません。(実体がない)アラーヤ識が真実を写し取る鏡としての特徴を備えているので、それにより見つめられている景色なんです。 散々お友達について悪口を書きましたが、お友達として抱き合えることをを子供のうちに達成できたのは成功なんです。それが出来ないと魔物や鬼の類として恐怖を集めます。さらに分かり合うと「さようなら」なんです。あくまでも人一人分の夢の中に入り込んだお友達なんです。

noname#84124
noname#84124
回答No.27

こりゃご質問そのものへの回答でもなくて申し訳ないが、そのおつもりで願います。 「この世界」「この世」「実在」「認識」「現実」「真実」「信じるに価する」「愛」非常に紛らわしいことがらばかりで、なかなか答え難い。多分ご質問の意図するところを理解できてないんでしょう。質問者さんが「現代人はそれこそが愛であると学んでいます。」などと断言なさるゆえんも知りませんし「その「愛」は確かめた上で信じているのか」というのも、何をどう確かめるんだか、自分には、さしあたって確たる考えもないことなので、いまは述べることを控えておきます。ただNo.25さんの回答を拝見して思ったのは「想定」だの「虚構」だのが「介入」という作用力を発揮するとみるのもこれまた実に奇怪なことなんですが 「うそ・いつわり 詐欺・あざむきの類も 自由だということになりますが」 どうですかね、早い話、「つけ込み」行為なわけですが、これらこそ不自由ゆえの「その場しのぎ」ではないんでしょうか。「その場しのぎ」であると本人自身が心底でわかっていてもうそをつかずにいられないとか、あるいは詐欺師にしても、そういうのは病気の類であると昔からよく聞くことですが、だから自由かどうかなんて問うべくもなく受け入れざるを得ない、そういう病気であるということを自他共にむしろ積極的に受け入れていく、このあたりになると自由と不自由の境もつけ難くなってくる。 「悟りきってる」という言葉は質問者さん独自の使い方なのか知りませんが、「考えあぐねる必要は」ないとかあるとかの問題も含めて、自由に「うそ・いつわり 詐欺・あざむき」の類をはたらいた、そういうことがあり得るとするなら、他人のそれも認められるはずですね。ところが自分の「うそ・いつわり 詐欺・あざむき」は自由に基づいてるが、オマエのはそうじゃないはずだ、と言う。自由だから、そうじゃないから。どこで区切ってんだかなと思うw 恐らく「私を殺せ」っていう往生際の悪い願いかな。 単純なことを複雑にしたがる人というのは、なかなか骨が折れるもんです。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 理性的な見解の中にも回答者様自らの情動を感じられる実に「あなたらしい」といえるご回答です。 質問の根本はこうです。 目、眼球についている神経組織は200万画素のデジカメとおんなじなんですよ。 ところが自分自身はもっと緻密に世界の景色を映し出している。 これは全部脳内の空間を認識する作用の働きです。 その見える景色と手の取れる景色は一致するのか。 そんな質問です。 哲学ですからそれなりに難しい話し合いもしていますが、確かに本当ならかんたんなことですね。

noname#117439
質問者

補足

考えを進めた上での補足です。 皆さんから意見を募集します。 >見える景色と手の取れる景色は一致するのか。 ただこれだけを一致させるために人間は多くの嘘をついています。 世の中をうらんだり、目の前にある現実を受け入れることが出来なかったり。 人間存在が本来の姿なら、それを愛と信奉しようとも、仏と信奉しようとも、肯定的に受け入れることが出来ると思います。

回答No.26

maimai.susです、度々で申し訳ないのですが。 >むしろ信仰する姿がすがりつく姿の醜態に見えていました。 そうなんですよね、それが全てではないと言う事は解っているんですけど、そう言う部分とか、何かあると神様のおかげみたいな感じがどうも美しさを感じられないですよね。なんつーですかね、そう言った事に何の疑問も持たない処が、不自然と言うか・・・表現のしかたが悪くて申し訳ないのですが、まるで、ある意味、其れがないと生きていけない中毒患者みたいで。 そう考えると、宗教しようって気にならないですよね。そう思うのは自分だけですかね。 それと、 >私には自我という言葉が不可解なんですが、我欲とでも言うんですかねそんな戒めを解こうとしています。 見ましたけど、自我が在るから愛を認識出来るのであって、自我が無くなったら愛と言う力は認識出来なくなりますよね。 primeapeさん流に言うと愛が根源と言う事ですよね、よって自我を構成している物も愛な訳ですから、自我を否定する事は、愛を否定するのと等と言えます。したがって自我を無くすと言うよりも、より美しい、もしくは、より純粋に愛に近い形の自我を創る。と言う方が理想に近づけると思いますよ。 まあ、自分的には、ある意味より多くの自我を持つ事が、より正確な世界観を認識出来るのだとも思ったりしています。 そして、より強い自我をもつ事が、この世界により影響を与えるのだとも考えています。 あまり、深く書くと難しくなるのでここら辺でやめときます。どうも。

noname#117439
質問者

お礼

いつもどうもご回答有難うございます。 無神論が一般的な日本で信仰を志す決意に秘めた物は本物のはずなんですが、なんといいますか幸福の追求全般がシャクに障ります。 自我の話は参考になるアドバイスといいますか励ましです。

noname#80116
noname#80116
回答No.25

 大澤真幸が 《愛》について 規定するところは たとえば 次のようです。  ● (大澤真幸:『性愛と資本主義』2004)~~~~~~~ ( a )  愛は あらゆる関係性の原型である。(p.244) ( b ) その《愛》には 究極的に解消できない原理的な不可能性が刻印されている。(同) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (a) は 人と人とのあらゆる関係――意志行為の関係 あるいは 縁起共生の関係――が 特に二者をつなぐという要素にかんがみて 《愛》であると言おうとしている。  ( b )は 反面において その愛について 普遍性を――《原型》であるからには――想定するのだけれど いかんせん 人間の愛は 神の愛に及ばないということを言おうとしている。  まとめて 言いかえると   ○ 人間にとって 絶対の領域にかかわる神の愛は 想定であり 虚構である。虚構であるが 想定行為として 現実であり その虚構として 経験的な人間の愛に あたかも 介入しているかに感じられる。  ○ 神の愛が 人間の愛に介入するそのあり方は ひとつに 意志およびその行為の自由ということである。  その例を 考えてみます。大澤の冒頭の物語を借りて 次のように。  ○ (人間の愛が自由であるという事例)~~~~~~~~~~  アンがボブに《あなた例の映画見たの?》と訊いたとき それに対してボブは無理なく自由に受け答えることが可能である。  まづ消極的な言い方をすれば。――  (A) 《例の映画》が《道》のことを言っているのか それとも《哀愁》のことなのか これが分からないからと言って いちいち考えあぐねる必要はない。  (A-1) アンの思惑を推理し 推理によってその中ですでに正解となるような応答を追い求めるという操作は 必要がない。  (A-2) あるいは逆に言って アンに直接そのどちらなのかを同じく尋ね返しもせずに 今度は推理を打ち捨てて自分勝手にどちらか一つに決めてしまい その上で《見たよ》とか《いや 見ていない》などと わざわざ答える必要もない。  この(A)は 答えを用意した場合にも ボブはまだ考えあぐねているのである。  そうではなく 従って積極的に言えば。――  (B) 単純に事実をもって答えればよい。  (B-1) たとえば《〈哀愁〉なら見たよ》とか 《いや見ていない。ただしロキシーでの上映作品は〈道〉から〈哀愁〉に変更されてるよ。知ってたかい?》などと答えればよい。   この(B)で 十分である。つまり すべてが 自由なのである。  ボブとアンとの人間関係は (B)の場合のように 応答の完全性が未実現であってもその具体的な問答の過程を進んでいくならば その関係過程は むしろこの《原型としての愛》を満たす。もしくは 《原理としての神の愛》によって支えられている。その――想定にもとづくものではりながら その――自由に すべてを ボブもアンも 無理なく ゆだねることができる。  この《原型》とその自由は 《あらゆる関係性の》それである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人間の愛は 相対的で 経験的ゆえ有限で可変的つまり 移ろいゆくものであると自覚した それだけで 自由の度合が増すと思われます。うそ・いつわり 詐欺・あざむきの類も 自由だということになりますが そのような《あらゆる関係性の 基底にはたらくと見られる原型》をとらえることによって 自由は洗練されていくものと考えます。  負の愛に対する措置としての道徳規範は その場しのぎのためだと考えます。その場しのぎが 千年・二千年も 続いています。宗教という幻想の要塞が消えないからでしょう。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 Aの愛は悟りきっています。 そのように表現できます。 Bの愛については聖霊の姿をした神様の伝言ゲームとして目の当たりにしました。 でもそれも過去の事でして自分自身がエスパー化又は新人類化しつつあります。無視識と交流できる能力をもって人間を理解する行為を共有する行いのことです。 私には自我という言葉が不可解なんですが、我欲とでも言うんですかねそんな戒めを解こうとしています。

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