• 締切済み

命が大事ならば

命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

みんなの回答

回答No.38

 ANo.35自我ではなく、単なる思いですよね。

shift-2007
質問者

お礼

私の読んだ書物によればそれは自我なのだそうです。 まあ名前はどうでもいいのです。それは通過点に過ぎないのですから。

noname#96295
noname#96295
回答No.37

18,19. 生体は生きた酵素を体内に必要としています。 人工酵素で人類が繁栄している日が来るとすれば、もはや別の世界で別の生命活動をおこなっていると断言できましょう。 生命は、栄養によるというよりは代謝によるのであり、この代謝のために酵素も栄養素も補充されています。 アニマティズムの信仰では生贄を捧げたり、また、生き血を飲んだり生きた心臓を食らったりするものがありますが、あながち筋の通らない思想でもありません。 「生命の素」という何かをいつか誰かがくれるとしたら、ぜひもらってみてください。 いや、丸薬や薬用酒ではなく。。。 それ自体が大事なものなのかどうか、shift-2007さんには判然としないかもしれません。 フレッシュな酵素や栄養素が、それを生き生きと回転させているあいだは、 それの宿主はじつにおいしそうなのです。 人間においしくなくても、他の生体にはおいしくて大好きなのです。 さて、 宿主をおいしそうにするのは、「生きた酵素」「栄養素」「生命の素」のどれなのか。 命を動かし守る器官もあります。表面的に大事さをうったえるのはこちらかもしれません。 中国数千年の歴史には、命だけを保持してあらゆる器官を傷つける拷問があることでしょう。 命は絶対にとらない、と約束された、器官なき命。 もちろん酵素は著しく消費されていますし、遺伝情報も損傷していることでしょう。 「命」「器官」「酵素」「遺伝情報」どれがいちばん「大事」なのでしょうか。 どれも宿主が他者や外界に関与することによって、他者や外界に変化をもたらすことがだきるものですが。。。 蝶には、「大事」というような形而上概念はないでしょうが、 恐怖という感情に似た電気量の限界値が走る神経は持っていることでしょう。 「恐怖」は何に反応する本能なのか。 魂と肉が乖離することへの恐怖かもしれない。 死の恐怖ははたして命を失うことの恐怖なのかどうか。。。命のない骸をも大事にする人間は、いったい何を大事にしているのか。。。 人間がうっかり蝶を踏みつぶしたとき、蝶のなかにある命について、 ああ、蜘蛛にもやれたのに、生きて卵を産めたのに、花の遺伝子も運べたのに、花の生息環境に、ひいては昆虫の生息環境に一役買えたのに、 と思うかどうかしりませんが、蝶の命が蝶にとってばかり大事なのではないことは自明です。 「命」において、ひとつの生体は変化を間断なく起こすことによって、一個体ぶんの遺伝情報を保っていますが、 「命の体系」において、多数の生体は変化を間断なく起こすことによって、総体の遺伝情報を保っているのでしょう。 大事なのは、変化を止めないことです。あなた自身の体の内でも。フレッシュな酵素と栄養素をお忘れなく。。。

shift-2007
質問者

お礼

命とは魂の座じゃないですか。

回答No.36

>「私」と「他者」の隔絶、差異といってもそれはレベルの違い、残酷な言い方をすれば主観的な価値の違いでしかないのではないでしょうか。私の命>私の子供の命>私の妻の命>・・・・・他人の命>・・・・ 「差異」と書いたので、「レベルの違い」、「主観的な価値の違い」と思われてしまいましたが、「隔絶」の方を重視してください。隔絶した差異と。比較もできない、それぞれが独立していて、尊重されると。「レベルの違い」でも、「主観的な価値の違い」でもありません。 >そもそも『命が大事』の『命』は自分ではなく他者のそれではないでしょうか。 そのとおりです。いわゆる、他者問題です。隔絶したものは比較できないので、先の不等号関係を作れない。これで矛盾が破綻します。 >言い換えれば、殺したくないのになぜ殺さなければ生きていけないのか。だと思うのですが。 本当に、害虫や家畜を殺したくないのでしょうか。では、なぜ結果的に殺しているのでしょうか。殺したくない気持ち・罪悪感を殺している(封殺している)、あるいは、自らの思考を停止しているのでしょうか。自己の問題のようです。内省すべきで、他者に聞くことではありません。ちなみに、僕の答えは「万事あるがままに生きるだけと納得せざるを得ない。捕食のほかに選択の余地はなく、嫌ならば、生きることを止めるだけとなる。苦の中で、生き続けよ。生の限り、それぞれが命を大事にしている。その上で、捕食者は、冷徹にその役割を果たす以外に自己の命を大事にすることを徹底できない。残酷な運命の中にいる。ゆえに、むさぼるな。」となります。

shift-2007
質問者

お礼

>隔絶したものは比較できないので、先の不等号関係を作れない。これで矛盾が破綻します。 この部分がよく分かりません。いつの間にか数学の話になってしまったのですか。 この質問には人の思い、気持ちが含まれています。それを無視しては回答にはなりません。 >自己の問題のようです。内省すべきで、他者に聞くことではありません 苦痛を感じこの質問をしているのは私ですが、これはそれを感じる人すべての問題です。決して個人的な話ではありません。 苦痛という気持ちをどう処理するかを聞いているのではないのです。

回答No.35

 ANo.34補足  聞きたいに質問がありました。昨日かな。  禅僧にもらった、書を読解してください。というのです。  生命ふ及=生命不及=所詮、人が知ることができることは及ぶことができない。というご回答でした。  蛙が池に何があるか知ろうとした。それで蛙は水を全部飲み干そうとした。そして蛙は不及、死んだ。  ヒンドゥではいろんな比喩の役者に蛙がでてきますね。  そして、不及に死ぬ話もいろいろありますね。  自分のことが分からないで飛んだことになる話は中国にもおおいけれど、ヒンドゥにまたくさんあります。  でも私たちには悩ましい問題で、こういう蛙たちとは正に今の私のことです。

shift-2007
質問者

お礼

>自分が根源になれ この方法論について伝承されたものはあるのですか? 私が昔読んだ本には コップは空のとき始めて役に立つ とありました。 コップとは精神を表し、コップの中のものは思考を示しているようです。 精神が思考から自由になったとき、あるがままのものがあるがままにその姿を現すのだそうです。 思考とは自我そのもので、自我の終焉がいわゆる悟りを意味するのだろうと思います。 私なりに解釈すればヒンドゥの蛙は私という自我になるのでしょう。 私が私である限り蛙の二の舞になるようです。

回答No.34

 ANo.28  唯一存在者(意識)が夢という遊び。その中の一瞬にもならない水滴にでもない者には、称することもイメージすることもできない無限の意識の表面に、流れ、吹いたものがある。そして無限意識の極く表面に凹凸が生じ、波ができる。その波、個と思っている波が、人間の個的存在意識の正体と根源だという話ですね。叙述やことば把握のできない状況世界ですから、神話的ないなります。  太極に凹凸ができ陰陽、両爻が生じ、四象、八卦となる。という中国の話に似てはいますが、非なるものです。  自覚のない神というより、根源意識に繋がりえないでいる通常の、wakeful、日常意識と言った方が近いと存じます。  創造は允に千変万化であるかのようで、結局は単純な原理の相似とfractalのようですね。だから子供の遊びも何か共通性(相似性)があるかも知れませんが、その残酷さから連想するのは、私はあまりいいとは存じません。  神遊びは、神という意識のなすことで、申し訳ないが、その一抹の泡が、早まって、憶測することも、窺知することも、的が外れるのではないかと存じます。  遊びというのは、仕事ではない。目的や報酬のためではない。  義務ではない、ということを意味しております。  そしてそれが悲惨になるのは、その中の一抹の泡の姿の描き方であり、その勝手に作るイメージだというのが、どうも説明のようです。  結局勝手に人間が不幸になっているのだ、ということみたいですね。  結局、ことば把握・表現が出来ない世界だという、口上がありまして、まぁそうなのでしょうが、頭で考えると矛盾やおかしなことはどこまでいってもある次元のことなのでしょう。  物理学や、地学などで、それを立証していくと、そういうことはないのでしょうが、大変な先のことでしょう。そしてその説明は相当な頭と知識でなければ、理解できないのでしょうね。  だから賢明な聖者は、ことばの説明は省いて、自分が根源になれ。  直感(為るという認識)せよ。というご自分の経験を語るのです。  だから、以上の説明は、何とか理解したいと思う凡人に対して、手がかりになるようにとの、聖者の少ない言葉の中の、更に極く一部です。  思うに聖者の認識を文字や言葉で表せば、宇宙全体が一杯になっても足りないでしょう。説明は対象の現物よりも多くのことを必要としますしね。  宇宙全体のそういう説明がないと、凡人はいつまでもおかしい、矛盾だ、分からない。これはどうなんだ、と問題を出してくるわけでしょうね。

shift-2007
質問者

お礼

なるほどです、最終的には >自分が根源になれ。直感(為るという認識)せよ。 これをするまで分からないのかもしれませんね。 だだ、もう少し私たちにはやるべき事があるようにも思います。 私は以前「私は死なない」という質問という名の主張をしましたが、 そのときにある部分で死についての思索をとめてしまいました。 つまりこれ以上考えても無駄だと思いました。偉そうにいえば悟ったんです。 それは単純な理屈の組み合わせだったんですが私にはそれゆえ新鮮でした。 なので、私は理解が及ぶまでのぎりぎりまでは思索しようと思います。

回答No.33

>要約すると『大切にする』と『殺す』ことは別次元で矛盾とはならないという事でいいでしょうか。 よくありません。違います。 No.31において、<「私」と「他者」の隔絶、差異をしっかり確認しておく必要があります。隔絶している他者の命を自己の命と同列に論ずること(類推適用、一般化、普遍化)の根拠を明らかにするべきなのです。>ここが、味噌です。「大事にする」と「殺す」の述語的な違いではなく、「私」の側から「他者」の命と同一視するという誤謬です。実感からも原理的にも「私」と「他者」は隔絶しているのに、どうして同等と考え得るのかということです。同等と言えないので、比較できず、よって、矛盾を構成することができないという意味です。

shift-2007
質問者

お礼

「私」と「他者」の隔絶、差異といってもそれはレベルの違い、残酷な言い方をすれば主観的な価値の違いでしかないのではないでしょうか。 私の命>私の子供の命>私の妻の命>・・・・・他人の命>・・・・ そもそも『命が大事』の『命』は自分ではなく他者のそれではないでしょうか。 言い換えれば、 殺したくないのになぜ殺さなければ生きていけないのか。 だと思うのですが。

  • start-x2
  • ベストアンサー率100% (1/1)
回答No.32

少々補足します。 >代替エネルギーによる生存は、永遠の命を思わせますね。 私もいつまでも行き続けたいと思って、今尚生きていますが、人間が論理上永遠の命をを謳っても何かしら保障された環境下にない限り保障はできないでしょう。 宇宙空間という極限られたスペース(とでも言うのかな)の中のさらなる一部の地球表面上で日々太陽からの無機質なエネルギーを原動力とし、それが源となって生命活動が持続されています。  課題として、他の生命を殺す事無く、いわゆる人間が考える平和的手段の理想実現により持続させ続ける事が出来たとしても宇宙空間の収縮(または太陽の寿命による事実上の地球上の生命活動の停止)等の将来課題が山済みとなっていますので、想定される範囲を絞っただけでも永遠の命の課題は難題です。 でもそれをあきらめる理由は何も無く、また生命はいつか絶たれると言う考え方が正しいとも言い切れないと考えます。  これまでの人間は生まれては死に、そしてまた生まれる。 の繰り返しでしたが、今後いつまでも同じことが繰り返されるとは保障がありません。(誰も保障できませんし)  具体的課題を掲げればきわめて壮大かつアホらしいと、殆ど取り合ってもらえないかもしれませんが、平和的にいき続ける方法を探し続けたほうが、よほど身の為世の為人の為?!(汗)になると考えます。 >しかし、食物連鎖を絶対のルールにしている生物がその枠から外れたときどうなるのでしょうね、興味深いです。  食物連鎖のルールは2008年8月27日20時頃(JST)現在の事実のようです。 明日以降また新たな発見、優れた技術が生み出されてくると思います。   最先端では、難病で視力を失った人の目の視力はCCDカメラがその基礎を支え、手足まで機械が代替する時代になりました。   もちろん課題も多いし、即日誰にでも利用可能というレベルではありません。  臓器器官の代替と生命活動に必要なエネルギー全般の完全供給とは別問題ですが、臓器移植や人身売買で議論され消費されるエネルギーと時間を考えれば、より良い技術、医療、化学の発展に力を注ぐべきことが当面の重要課題と考えます。   食物連鎖は今日現在のルールであり、私も先ほど焼きそばを食べてきましたので、材料にはブタさんから白菜まで様々な生命が入り込んでいますので、すぐには万全解決とはいかないと思いますが、過去のルールに問題が残されているならば、それを変えてはならない理由はどこにも無いと思います。  化(科)学が全てと申しているわけでもなく宗教を否定するものでもありません。   地球上の生命全てを食物連鎖から一度に抜き出すことは出来なくても、 食物連鎖の事実を「問題」と見ている人間自身がその枠から外れれば、とりあえず問題にならないと思います。  仮に人間が代替エネルギーにより生存可能とした場合でも、例えば食べる欲求など、肉が食いたい。 酒を飲みたい。 いわば今日現在の人間としての欲求を満たすための行動制御(脳を直接制御する)が必要になると思います。  その時に、自分の姿や社会を見渡したとき、平和で豊かだと言えるのかどうか、私の想像の範疇ではかなり疑問は残りますが、いずれにせよ、少なくても直近の課題である50億年程度以内に地球を脱出し地球外の空間で生存できなければ、現物理法則どおりに事が進行するならば、地球は火の中闇の中へと葬られてしまいバクテリアの1匹さえも生き残らないでしょう。  神だ仏だと、事実を確認する事が難しいことに時間をとられるよりも具体的解決策を探り出し、手の打ちようが無いところまでたどり着いたら、それこそ神だ仏だというのも手だと思います。    その時は神も耳を傾けてくれるのかもしれません。 悪事や不平を神や宗教の責任にしてはいけないと思います。 成しているのは人間なのだから。  私もまた 質問者の質問にある 「命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。」  この壮大な問いに対して、日々新たな考えを見出したいと思います。

shift-2007
質問者

お礼

私は農業の真似事をしてまして、農業というのは特定の作物を育てる行為なのですが、それと同時に不特定の害虫、雑草、病原菌を大量に殺す事でもあるのです。まあそういった罪悪感も質問の中に含まれていまして、命が大事は譲れないのです。 1年位前にも似たような質問をしましたので、答えが出ていなければまた1年後に同様の質問をいたします。 そのときはまたよろしくお願いいたします。

回答No.31

>命が大事ならば 誰もが、命を大事にしているので、この仮定に異論はありません。 >なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。 命が大事ではなく、死にたがっているようには思えませんから、質問者さんの設定は、当然です。「死の恐怖や不安」、生の執着の方が多数なので、人類は約60億人まで増加したわけで、死にたい人ばかりならば、絶滅していたはずです。 >なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 これ(有機物の摂取)は、生命の基本にして、変えがたい現実ですから、選択の余地が有りません。そもそも、「生」が一時的で有期の営みですから、これも受け入れるだけです。あらゆる生命体が、必ず命を失います。このことの方が、余程、残酷ですし、また、救いでもあります。 ちょっと哲学的に記述すると、「私」における「命の大事さ」と「他者」における「命の大事さ」を同一視する錯覚から、矛盾が生まれていますので、「私」と「他者」の隔絶、差異をしっかり確認しておく必要があります。隔絶している他者の命を自己の命と同列に論ずること(類推適用、一般化、普遍化)の根拠を明らかにするべきなのです。 その上で、「他者」の生死に関わり無く、「私」の命は大事であることは成立し、かつ、「私」の生死に関わり無く、「他者」の命は大事であることは成立していて、「私」と「他者」が命をかけた勝負(決闘)で生死が決した時も、互いに命を大事にしつつ、どちらかが最期を迎えただけで、大事にしていなかったわけではないように思うのですが。共に、「生」の限り、大事にし合っていたと思いますが。 ゆえに、同一視的な拡張をしなければ、矛盾はないと思います。

shift-2007
質問者

お礼

要約すると『大切にする』と『殺す』ことは別次元で矛盾とはならないという事でいいでしょうか。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.30

どちらかというと逆だろうと思います。 私たちは「他の命を奪わなければ生きていけない」ことから「命が大事」という発想が生まれてきたのだろうと思います。 例えば、の具体例ですが、 子供が、無意味に虫たちを遊びながら殺して育ったからこそ、大人になって命について関心を持つようになること。 あるいは、魚を釣り、魚の命をたくさん奪ったからこそ、川の汚染や環境問題に関心を持つようになること。 などが考えられます。 もちろん、そうでない場合もありますけれども。

shift-2007
質問者

お礼

順番については考えたことが無かったです。 この順番が何を意味するのか・・・ 逆は無いということですか・・・ 左右ではなく上下・・・ 車輪の両輪にたとえたのは失敗・・・ 殺すから命が大事なのが分かる。 ならば、 命が大事から何かを生めということかしら・・・ いいヒントをもらいました。 ありがとうございました。

shift-2007
質問者

補足

思うところがあるのですが、なかなか言葉にできません。 後ほどお礼を書かせていただきます。

  • start-x2
  • ベストアンサー率100% (1/1)
回答No.29

少々筋違い(質問要求に対して完全ではないという意味)かもしれませんがご意見を。 私の場合は、質問の回答 というよりは、多少その先の事を述べさせていただきます。 わかりやすく難しい話をせずに書きますが、それが逆にわかりにくくなってしまったらスイマセン(汗) >命が大事ならば >なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 >この矛盾について解答があればお願いします。 食物連鎖については説明するまでも無いと思いますが、現時点ではこれによって我々は生存が可能となっております。  「共存共栄」とか、「絶滅」などの論はさておいて、質問者の方の質問中に >なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 とありますが、これに対し 他の命を奪わなければ生きていけない「事実」を根本的に解決されたいのであれば、方法論としてなくも無いと思います。 この時点で馬鹿らしいと思われた場合は時間の無駄ですので下記は読む必要は無いと思います。  質問趣旨から少々それる形に(他のアドバイザーも含めそういう流れに)なるかもしれませんが、もしや少しでも参考になればと考えます。 生命活動=エネルギーの確保=殺戮の繰り返し  と考え、これを何とかならないのか とするならば 問題になるのはエネルギーの確保でしょうか。   生存の為、他の生物の命(継続の為のエネルギー)を必要とする現状で、外部よりエネルギーを供給し続けさえすれば生存は論理上可能と言う事になります。  人間の場合、脳幹に家庭用コンセントをそのまま接続するほど簡単にエネルギー供給はできませんが、バクテリアレベルであれば不可能とは言い切れない状況と認識しています。  一言で言ってしまうと、生命版 代替エネルギーが 解決の鍵を握るかもしれません。 ここを突っ込んで書きたいのですが、字あまりになるため、必要に応じてご自身でお調べください。   人間が作為的にこの質問者の質問(問題)を生み出したわけではないのに、世の中には実にこの多くの問題?疑問?課題?に悩まし、解決どころか自らの命すら絶つ人まで現れています。  過去の経緯を知ることは重要と思いますが、求めていることが質問の先にあるならば、より先を考えるという点で多少は役立つのではないかと思います。 >なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

shift-2007
質問者

お礼

面白いです。 代替エネルギーによる生存は、永遠の命を思わせますね。 しかし、食物連鎖を絶対のルールにしている生物がその枠から外れたときどうなるのでしょうね、興味深いです。

関連するQ&A

  • 命の尊さとは

    動物を特集した番組を見て考えたことです。 動物愛は人間愛にもつながり、教育的によく言われる「命の尊さ」の刷り込みに利用されている気がしました。 しかし、一口で「命」と言いいますが、それはどういう対象を指しているのでしょうか。 生物学的にはそれこそ、バクテリアも「命」の対象に入りますよね。それならばたとえば人間にとって害を及ぼす害虫、細菌のようなものまで、尊い命という風に考えなければ不徹底でしょう。普通の感覚では、犬はかわいがるが、蚊やハエは見るなり退治しようとします。もしかしたら蚊を殺すに忍びないと言う人でも、疫病の病原菌生物を愛護しようとは思わないでしょう。本当の「命」愛護家なら、自分の肉体を病原体微生物に与えるのでしょうか。 そう考えると、その線引き、尊い命とそうでない命のボーダーはどこにあると考えたらいいのでしょうか。 また、このような不徹底な人間中心主義的なおごった考えを、さも正論のようにかざす無神経さはなぜ批判されないのでしょうか。

  • 人間を殺すのは当然いけない事。それなら同じ命で・・

    「人間を殺すのは当然いけない事。それなら「同じ命」である魚や虫を殺すのも駄目でしょ?」 と聞かれたら場合、「そうです。殺してはダメ」と言う前提で答えたいのですが、どのように言えばよいでしょうか。 ある程度年齢を積んだ若者~大人相手なら、どのように言えば矛盾がなくなる(少ない)回答になりますか? あるいは、小学生高学年くらいの子ども相手には、どのように教えてあげれば納得してもらえるでしょうか? どちらの対象相手でも構いません。 この質問で厄介な事は、「同じ命」と言う点です。 例えば、「魚は食べるためなら仕方がない」と言う正論も、ならば「人間も飢えて仕方がない場合は、殺して食べても良いの?(ウミガメの話みたいな)魚も良いなら人間も良いはず。同じ命なのだから」という反論は厄介。人間は法律で守られているので・・・と言う話に持っていくと、「同じ命」と言う前提が崩壊してしまいます。 「同じ命」と言う前提を除外すれば、牛や豚は生産動物だから殺しても良い。虫は害をなすなら殺しても良い。魚も生態系に影響を強く及ぼさなければ殺しても良い。と言いつつも人間は基本的に殺してはいけない。っと言っても、矛盾はありません。何故なら人間と他の動物は違う命だからです。 と言う理屈で説明は容易になります。 質問よろしくお願い致します。

  • 同じ命でも…

    凄く疑問に思っていることがあります。 それは、同じ命でも人間とその他の動物で、なぜ命の扱いに差が生まれるのか?ということです。 人間の欲求を満たすため、犬や猫などのペットをお店で購入しておいて、「育てられなくなった」と言って、山の中に捨てたり、保健所に預けたりする。 人間に食べらるためだけに、生まれ、育てられ、屠殺され、加工された牛、豚、鶏肉で不要になったものは平気で廃棄する。 人間のために新薬を開発するため、動物実験をする。動物の住みかを破壊してでも、人間にとって住み心地の良い住環境を構築する。 に対して、人間はと言うと… 人権、法律、倫理、道徳なんていう、人間にとって都合の良い言葉を盾にして、しきりに「命は大切だ!」などと訴えてくる。多くの動物たちの命を犠牲にしたうえで、日常生活が円満におくられているにも関わらず。散々、命をぞんざいに扱っておきながら、虐待や窃盗、殺人など犯罪を犯した人間でさえ、のうのうと生きている。同じ「命」なのに、なぜこれほどまでに、扱いに差が出てくるのでしょうか?

  • クジラと鰯の命

     クジラの命も鰯の命も同じ命だと思います。 でも鰯の子どものいりこなら何十匹も一人でも食べるのに鯨の一つ命は何百人の人が食べることが出来ます。なぜ、環境保護団体はクジラの命だけを守ってクジラにも人間にも食べられる鰯の命は守らないのでしょうか?  鯨の命は大切で鰯の命は大切でない論理的な解答を教えて下さい。

  • ☆プライドと命はどちらが重要?・・・

    人間にとって、プライドを守ることと、命はどちらが重要ですか?・・・ 1.プライドを捨てるくらいならば死を選ぶべきだ・・・ 2.いや、命の方が大事だ・・・・・・ 3.その他の意見

  • 命より大切なものとは?

    テストで命より大切なものはあるか? という問いがでました。 反論はなしとして、肯定にまわるとし、具体例をのべろ。とのことでした。 解答はひとつではないものだとは思いますが、是非おしえていただけたらありがたいです。

  • 命は命で償うのなら

    日本人は 大半の人が死刑に賛成ですが、その根底には 人の命を奪ったら 自分の命で償わなければならないと という考えが根底にあると思います。しかし、中には “「自分の命を差し出せば、人を殺してもいい」ということですか?” と反駁する人もおりますが、それは「加害者の屁理屈」と言って良いかと思いますので、いくつも反論が可能です。 簡単なところでは、「罪」と「罰」は因果関係であって、「罪」が無ければ「罰」も存在し得ません。 言い換えますと、そもそも罪と罰には可逆性は無く、逆方向で考えること自体に無理があります。 あるいは、もっと判り易い話しで言いますと、「私の全財産を支払うので、この世で一番美味いモノを食わせろ!」みたいな、無茶な要求と考えてみて下さい。 即ち、「自分も死刑と言う膨大なコストを支払うのだから、何をしても良い」などと言う理屈は成立しませんし、「私の全財産」と「この世で一番美味いモノ」が等価かどうかも判らないのです。 「自分の命を差し出せば~」の場合、「自分の命」と言う、自分としては最大のコストを、一方的に支払ったところで、それは「捨てても良い命」であって、他人の命と等価では有り得ません。 せいぜい「自分は死刑になって良いから、死刑囚を殺させろ!」くらいじゃないと、等価じゃありません。 更には、所詮は「加害者の屁理屈」ですから、前提が「自分の命を差し出せば」である必要さえありませんね。 もっと値切って「無期懲役」とか、食い逃げ的な「バレなきゃ」「捕まるまでは」でも、何でもアリです。 「殺す」と言う動機に対して、加害者が「どういう屁理屈を付けるか?」に過ぎず、死刑の悪用にもなっていないでしょう。 みなさんは どう思いますか? この考えで 不備な点、矛盾している点を ご指摘ください。

  • 3人の命は、1人の命より重いか?

    3人の命は、1人の命より重いか? 瀕死の状態の4人がいるとします。 このまま放置すれば、4人とも死亡します。 1人の命を犠牲にすれば、他の3人を助けることができるとします。 (例えば、1人の血を抜いて、他の3人に輸血する等の状況とします。) 医師は、1人を犠牲にして、他の3人を助けたとします。 (4人の優劣は、付けられないので、ランダムに犠牲になる、1人は選ばれたとします。) それで、「多くの命を助けるためにこれがいいと考えた」と、言ったします。 この、医師の主張をあなたはどう思いますか? 3人の命は、1人の命より重いのでしょうか?  

  • いのちって何?生きてるってどういうこと?

    子供のころから知りたくてしようがなかったことです。 1.いのちって何?いのちは作れるの? 2.木は「生きている個としての細胞」の集合体?   それとも木全体でひとつの生命?   木が死ぬとはどういうこと? 3.屋久島の縄文杉は樹齢5~6000年というけど何が   「生きて」いるの?細胞?それとも木霊(こだま)? 要するに、生命というものの本質が知りたいのです。 コンピュータエンジニアは工学的に生命が作り出せると 本気で思ってるようですが、私には不可能と思えます。 この質問(理系の学問「生物学」)にも出しました。

  • 虫の命<人の命?

    我々は家でゴキブリを見ると、それを殺します。何の躊躇もせずに…です。何故か。病原菌を媒介するからです。 しかし、同時に我々は人間が死ぬのを拒みます。人が死ぬのは嫌です。たとえそれが自分に悪影響を与えたにせよ、人が死ぬのを拒むのには代わりありません。 同じ命なのにです。 つまり、これは虫の命よりも人の命の方が重いということでしょうか? なぜ、人の命が虫の命よりも重いのでしょうか? 感情を持っているから………ですか? 教えてください…。