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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏教各宗派の死後)

仏教各宗派の死後について

pojipojiの回答

  • pojipoji
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回答No.1

浄土真宗サイトからの引用です。宗派の公式見解かどうかは不明です。 「ということで、仏教の正統からいうと、「生まれ変わる事もないのでしょうか」とか、「地獄も無ければ天国もないのでしょうか」といったご質問に対しては答えないのが正しいと思いますが、あえて危険を承知でお答えしてみましょう。  そもそも、わたしたちが死後のことを語るとき、しょせん分からないことなので、何でも好きなことがいえます。しかし、逆にいうと、何を言ったところで「独断」にすぎません。われわれには、死や死後について有意味に語ることは不可能なのです。たとえば、「地獄にいく」というにしろ、「天国にいく」というにしろ、それらはいずれも、死への恐怖心や死後への願望の投影にすぎません。もっと言えば、「死んだらそれっきり」という言葉でさえ、「考え」にすぎないのです。実際はそれっきりかどうか分からないわけですから。もしかすると生まれ変わりは実際にあるかもしれませんし、要するに、これは死んでみなければ分からないことなのです。といっても、死んだらわかるという保証もないのですが。」 「ちなみに、浄土真宗では、「死ぬ」とは言わず、「浄土に生まれる」と表現しています。それが「生まれ変わり」と違うのは、わたしたちが死後に、よい世界もしくは悪い世界、いづれにしてもわたしたちが考えているような世界に行くという考え方の否定の上に成立しているからです。ということは、たとえば、死後よい所に生まれるために、この世でよい行いをしておこうというふうに、死後に向かって、この世の生活を律していくような生き方をやめようということでもあります。」 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html 「「往生」は本質的には「今・この現実」の問題です。『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」とあり、また親鸞聖人は「本願を信受するは、前念命終なり・・・即得往生は、後念即生なり」とあり、死後や臨終に往生を願うのは「不定聚・邪定聚の菩薩」つまり信心が開いていない未熟な信で、今ここでの往生こそ「必定の菩薩」つまり正定聚・不退転の菩薩として真実信心が開いた念仏者の信です。真実は「今ここ」での往生ですが、未信の人も排除しないので「死後」の往生を願う心も仮に受け入れているのです。しかしあくまで仮ですから、ここから早く真実の浄土に往生できるように導くのが如来の真意です。即得往生が真実の往生で、臨終往生は仮の往生なのです。」 「往生とは人生観が定まることをいい、諸仏の境地である覚りの世界が見聞きできるのです。行動はまだ未熟であっても、覚りの響きが聞こえた人が正定聚・不退転の菩薩なのであり、これを即得往生といいます。 「覚り」というと、私たちとは縁遠い高貴な世界、という観念が一般に広まっていますが、日本語に直せば「まごころがわかる」ということです。浄土とは、このまごころを通して見た世界の真の姿なのです。人が社会にあるまごころの響きを聞きわけ、「まごころのある人間に成りたい」と願う、そのことが即ち「往生する」という意味です。  ですから、往生は個人の能力に関係なく誰でもかなうのですが、人間はまごころが徹底せず、偽りを喜ぶ性質が抜け切りません。また、深いまごころを汲む活動を怠ると、浅はかな心や、硬直した価値観や、自己保身の理屈に縛られてしまいます。そこで、「往生した菩薩が、往生を願う」というのです。つまり「信じたら往生する」とか「願ったから往生する」という取引があるのではなく、願いと往生は即であり一体なのです。  願いは「場所的自覚」と申しまして、そうなった者がそう成りたいとまごころを起こす、例えば親であるから真の親に成りたい、教師であるから真の教師に成りたい、総じて言えば、人間であるから真の人間に成りたいと願う、その場所的自覚が往生なのです。  しかし、願いというのは実際には「これで成就した」ということはできません。もし「私は完成した人間だ」とか「私は親として間違っていない、悪いのは子どもだ」と言えば、それは傲慢な言葉であり、願いが朽ちた頑固者の態度に過ぎません。 「いつか本当の人間らしい人間に成りたい」とか「いつか本当に人を導ける教師に成りたい」という願いは、永遠に完成することは無いのですが、まごころの願いは取り下げることもできません。ですから「せめて死ぬ時までに」とか「せめて最期は先祖や有縁の人達に褒められて死ねるようになりたい」というまごころの言葉が出るのです。自分の身を恥じれば「往生は死後」と言わざるを得ないのです。  これは、願いの深さを「死後」と表現するのであって、本当に死後に往生するのではありません。言葉を丸のみして「往生は死後である」などと理屈で言ったのでは、言葉が抜け殻になってしまいます。経典はまごころ言葉であり、理屈だけで解釈してはならないのです。」 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/04_06_22.html

baka-hage
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  おぉ!!気持ちいいくらいの近代教学ですねぇ(これを書いた方は、大谷派さん系なんですかねぇ?)。私自身浄土真宗の人間ですから、清沢満之先生なんかの著作もずいぶん読ませていただきました。私も近代教学的な学問的解体は好みですねぇ。  ただ、この近代教学というものも問題点というものも感じます。それは、当時の親鸞聖人やその教えをいただいた方が、そのような現代的な解釈をしていたかどうか疑問を覚えることもあります。  有名な『歎異抄』の第九条には「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、また、いそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらん(念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土へまいりたいという心もおこりません。これはいったいどうしたことでしょうか)」と唯円が質問したところ、親鸞聖人は「浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか 所労のこともあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。(はやく浄土へまいりたいという心がおこらず、少し病気などすると、もしや死ぬのではあるまいかと心細く思うのも、煩悩のしわざです。)」と答えていることからも、結果的に「この世を生きていくため教え」であったとしても、先ほどの会話の中に出てくる「浄土」は普通に読めば死後であると思います。  ゆうなれば、親鸞聖人の教学における「往生」ということについては「現世における現生不退現生正定聚」と「後生における極楽往生」の二つの側面から見ていく必要があるのではないかと感じています。(個人的にどっちかじゃつまらないと思っているだけですが・・・)  ですから、他の宗派のかたがたはどのような教義に基付いて、通夜や葬儀の場でお話しているのかが気になり質問させていただきました。  どうもありがとうございました。

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