• ベストアンサー

「知らぬが仏」の正当性

なまじ知ったばかりに不幸に陥るということがあります。 自分では結構まともだと思っていたことが、客観的にみると劣っていることだったりした場合、その知識のために不幸に陥ったということもできます。逆に知らないためにたいしたものでないものをありがたがり、幸福の糧にできる場合もあります。 そう考えると、客観的には不幸なことでも本人にとって幸福なのと、その客観性を知ったばかりに不幸に陥ることは、どう考えればいいのでしょうか?まるで「知識」のせいで不幸に陥ったかのように思えます。「知識」が悪であるかのようです。 例: 後進国で情報統制してたために国民に世界的生活水準が知らされず、国民は結構これがいい暮らしなのではないかと錯覚している。 身体障害がある人がそれに慣れてしまって普通だと思っていたのに、健康体というものを再認識して不幸感に陥る。 子供で、自分の家庭が結構いい家庭なのではと思っていたが、ホームステイとかで他の家庭を垣間見て「ああ、おれは不幸だ」などと感じる。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • compequal
  • ベストアンサー率42% (61/145)
回答No.9

質問を整理することからはじめます 質問タイトルから類推するに <「知らぬが仏」には正当性があると言えるのか、あるいは言えないのか。その根拠は何か> ということだと考えると、基本的には次のように言えます。 1.人は、知らない情報があると知ったとき、それを知りたいと思う。 2.情報には、人を不幸にする情報と、幸福にする情報と、そのどちらでもないものがある。 3.人はその情報が不幸をもたらすか、幸福をもたらすか、そのどちらでもないかについて、知ることはできない。 3.1. 知った結果が不幸な場合、「知らぬが仏」という諺には一定の妥当性がある。 3.2. 知った結果が幸福な場合、またはどちらでもない場合、「知らぬが仏」という諺には妥当性がない。 この上で、おそらく3.1のような形での妥当性/正当性がある、という言い方はどこまで真にそう言いえるのか。そのような問いかけがgeorge-mさんの問いだと考えました。  今までの議論だと、ginga3104さんの回答が面白いです。「選択肢が無い方が可哀想」という発想をすれば、確かに3.1の議論に対する反論になります。そして、これは自由意志とか、選択前提とかそういう問題圏になるでしょう。  次のような対立項を立てられそうです。 A.選択肢を知った上で、自由意志があり、その上で選び取られた状態。これにこそ幸せを議論する価値はある。 ¬A.選択肢を知らず、自由意志がなく、選び取れない状態においても。幸せを価値を議論することはできる。  Aと、¬Aのいずれが正しいのかは、状況によって色々な議論をすることはできると思いますが、  800字以内にまとまるように、無難なお答えするとなると、  Aと、¬Aのどちらが絶対的に正しいのかを言いうることは難しい。  実際には人間が自分に関わる全てを知ることは不可能なことなので、Aは無意味。¬Aのような状況が圧倒的に正しいと言いうるかどうかも微妙。当人が「私は幸せです」という言明はおそらくできる。その意味で、¬Aは正しい。しかし、第三者から「あなたは私よりも不幸せです」と言われる可能性は常に存在する。なので¬Aの観点からのみの議論は常に他者から、覆される危険を帯びている。その意味で、¬Aの妥当性は常に、制限付きになる。  こんなところで。

noname#41852
質問者

お礼

詳しいご解説、ありがとうございます。 質問事態も混乱しているようでした。知らぬが仏は妥当性があってそのことをもっと噛み砕きたいと思ったということです。 整理していただいたとおりで、妥当だと思います。2つの場合があり、ひとつの「仏」のほうは脆弱性があり、まさにそのためにこの問題定義をした感じです。もうひとつの意思が関与するほうは、本当の幸せに近づけるが、困難も秘めているということですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (20)

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.11

かといって 知らぬが仏ということわざを否定しているわけじゃないからね。 時と場合によって。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#194289
noname#194289
回答No.10

知る知らないで言えば逆のことだっていくらでもあります。解釈によってどちらでも取れる場合に情報が多くなって今迄の解釈が成り立たなくなった場合のことですが、しかしこの格言は自分のことではないようにも思います。つまりある人がある人を利用しているときに利用されている人がその事に気づいていない場合その人は利用しているひとにとっては仏のように思えるということではないでしょうか。自分のこととして考えれば利用されていることに気がつかない法が幸せというのは相当がった見方をしないと納得できないようにも思います。

noname#41852
質問者

お礼

格言の解釈にとしてそのように考えることもできるのですね。利用されているというのは侮辱的なことですが、それに気づかない幸せもありうるのでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.8

質問の内容からすると 言ってる意味分かんないだろうな。。。

noname#41852
質問者

お礼

そういう含みがある回答はあまり親切じゃありませんね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.7

日本人の哲学は 表層的には相対的に見えても 内面的には絶対的なのかもね。

noname#41852
質問者

お礼

そこをもうちょっと噛み砕けませんか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.6

幸不幸の 客観性ねえ 比較級の幸せね。 相田みつおさん 幸せはいつも自分の心が決める。 この言葉 どお 思う?

noname#41852
質問者

お礼

相田みつおの言葉はどうも性に合わないんですね。 なぜか分析してませんが、奇麗事のベクトルを感じるということでしょうね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • ginga3104
  • ベストアンサー率23% (510/2208)
回答No.5

 幸福感の基準なんだろうと思います。その基準を公私のどちらに重きを置くか?にもよるでしょう。  例えば、チベットやモンゴルでも最近は先進国で勉強する若者が出てきました。そして、先進国での暮らしに慣れて結局故郷に帰らない者が居る一方で、そこでの暮らしに違和感を覚えてまた戻る者も居る。  一般的に幸せだと言われる価値観。と、自分はこれが幸せだという価値観。どちらが正しいのではなく、どちらを選択するか?と言うだけなのですね。 で すから、選択肢が無い方が可哀想なのです。  しかし、例のような、他の家庭を羨むようなのは、選択肢として間違っています。所謂、境遇だとか、身体的な特徴だとかの、自分の行動によって変えられないものは、極めて、個人的な事なので、それを一般的なものと比べて幸せ不幸せを論じるべきでないのです。  そこは、一般的なものに価値観を見出すのなら、それに近づくように出来るか否かが選択肢なんです。  例えば、同一性障害に悩む者が、手術を行えるか否か?また、法的に転換を認めるか否か?こう言うことが全くタブーの国で暮らしていれば、彼らはとても不幸ですし、日本のようにある程度の条件が整えば、思いが叶う事が判っていれば、彼らは幸せだと思います。  いずれにせよ、人の幸福・不幸せはその個が感じるものです。  『知らぬが仏』と言う言葉は、知らない方が楽だよ。と言う意味で、それが、幸せかどうかについては触れていません。  昔から一般的には知る事によって、さらに増える苦悩がある事は多々有ったでしょう。つまり、知ったからとて、そんな世界もあるという情報が増えただけで、何も現状が変わらない事から知る事による苦しみの方がケースとしては多かったのだと思います。  しかし、今はこのQ&Aサイトのような情報源があるし、知りたければ、かなりのところまで知ることが出来ます。そして、生活様式は個人に重きを置いているので、人様に迷惑を掛けなければ、どんな生活を送ろうが自由です。日の丸を掲揚しなくてもお咎めはありません。  ですから、今の我が国においては、『知らぬが仏』と言う言葉は、まさに個人に「貴方には知る権利が有るけれど、貴方はどうしますか?」と言う選択肢としての言葉だと思います。 

noname#41852
質問者

お礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。 日本では自由がある知る権利がある知ることもできる知った後でいろいろ講ずる手段もある、そういうものがないところと比べれば、確かに幸せなはずです。豊かな人生の可能性を閉じられることは苦しいですから。しかし一方、悟りの境地のようなものと、無知の安定というものがあれば、それはそれで別の境地に達せられるのではないかと思ったしだいです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#80116
noname#80116
回答No.4

知られるべきものは知られるようになるとまでは言いませんが 自分が知りたいかどうかだと思います。 知りたいと思ったら 知ろうとします。知りたくないと言っていても 知りたいときには 知ろうとします。 知ったあとに 幸福になるか不孝になるかは 本人の知ったことではありません。《知ることができてよかったけれども その内容は かえって 悪いものとなってしまった》というのは 人に対しての愛想です。 例示された場合は 単純だと思います。知られるべくして知られたで済むと思います。新たな知識を持って やっていけないようなら 知識を持つ前にも やっていけないような状態だったと考えられます。

noname#41852
質問者

お礼

そうですね。自我の脆弱性を払拭しなければならないという、当然の課題に突き当たります。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

「知って行った罪より知らないで行った罪のほうが重い」を考慮すると 知らない故の幸福は、主観は自由ですが、客観的には評価されないということでしょうね。

noname#41852
質問者

お礼

そういう言い方があるとは知りませんでした。 逆化と思っていました。確かに客観的には知るほうを評価しますね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.2

知識を持つことと幸福になることに関連性がないからでしょう。 知って、知ることができたことに幸せを感じる人もあれば、知ったことで今の自分に不幸を感じる人も居る。 知識を得ることはそれ以外に意味がないことで、その知識をどのように使うかはその本人しだいでしかありません。 幸せもその人のとり方しだい、同じ現象にあっても幸せに思う人も居れば不幸に思う人も居るからね。

noname#41852
質問者

お礼

そうですね。もしかしたら関係ないことなんでしょうね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • maxmixmax
  • ベストアンサー率10% (91/908)
回答No.1

「アルジャーノンに花束を」でも同じような事が言われてましたね。 知能が高い事が幸福に繋がるわけじゃない、と。 満ち、足る。満足を知る事が幸せの条件なのでしょうが、 贅沢や違う世界を知ってしまえば、満たさなければいけない 容量が増えてしまうでしょうから、 幸せは遠ざかってしまうのでしょうね。

noname#41852
質問者

お礼

容量が増えるということが問題なんですよね。それが幸福とは反対方向の動きになってしまうんです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 欠損家庭の子どもは両親のいる子どもより不幸が多い?

    両親のうち片方がいない欠損家庭の子どもは、両親がそろっている家庭の子どもより不幸な場合が多いでしょうか。 もし不幸であることが多いのならば、その理由を出来るだけ多く教えて下さい。 あっ、断っておきますが、「欠損家庭でも幸福な子どもはいる」という例をあげたりするのは止めて下さい。欠損家庭で幸福な子どもよりも欠損家庭で不幸な子どもの方が多いかどうかを知りたいのです。そしてその理由も出来るだけ多く知りたいのです。

  • 幸福な人ばかりvs.不幸な人ばかりvs.現実(人の不幸をだしに)

    人の不幸は密の味といいますが、言いえていると思います。 一歩考えを進めて、人類究極の総体的な幸福状態は、例外なく、全員が幸福であると言うことだと思います。そうすると、蜜の味はなくなりますが、そんなことは、大きな充実した幸福が全員に与えられ享受され維持されていると言うことの前にはどうでもいいことです。この状態が最もすばらしいでしょう? では、現実の、幸福な人もいれば不幸な人もいるというこの現状(密の味が可能)と、全員不幸でこれまた蜜の味がないという世界とは、どっちか総体的あるいは個々にとってよいのでしょうか?とりあえず思いつくのは、全員が不幸だと言う客観的にも主観的にも確証があるので(つまりどう考えても、どちらを向いても幸福なやつまともな人生のやつがいない)、自分への惨めさや嫉妬心に悩むと言うことは無くなります。しかし、世の中には何の幸福もない。それよりも、現状のうらみつらみ妬みがある世界のほうがいいのでしょうか?

  • 最近の高校生は自分が不幸だ!不幸だ!と言います。その反面世界では貧しく

    最近の高校生は自分が不幸だ!不幸だ!と言います。その反面世界では貧しくても幸福だという国もあります。その指標のしかたとしてGNH(国民総幸福量)というものがあります。これの代表国としてブータンが取り上げられます。ブータンは具体的にどのような取組みをしているのですか?また、今の日本の高校生がブータンに習うべき点はなんでしょうか?

  • 人の不幸で幸福を感じる女性とそうではない女性

    相手が男であろうと女であろうと、 他人の不幸を見て優越感と幸福感を覚える女性がいます。 他人の不幸を見て自分の幸福を感じる(幸福感が相対的)か、 他人の不幸と自分の幸福感があまり関係ない(幸福感が絶対的)かは、 個人差があるように思います。 しかし「育ち」だけでは説明がつかない気がします。 (遺伝による)先天的な脳の構造差があるようにも見えます。 皆様はどう思いますか?体験を基に教えてください。 (回答の際には性別と年代を教えてください。) ※若い頃は他人の不幸を喜んでも、 歳を取るとそうではなくなる女性もいる。 すると、これは優秀な子孫を残すための本能と関係あるのか。 他人の不幸を喜ぶ陰険なマイナス思考(悪人思考)は、 優秀なオスを見抜くための本能の名残なのか。 善悪の基準は人間が決めたものに過ぎず、 自然動物界では意味をなさないと言われる。 現実が今も善人ばかりではないということは、 他人の不幸を喜ぶ「悪」も自身の子孫繁栄に必要で、 善人が子孫繁栄に不利だった可能性もある。 幸福の感じ方に遺伝的情報が深く関連するならば、 些細な幸福を感じやすい男性の子を産むことは、 場合によって自身の子孫繁栄に不利になるのだろうか? お人好しの男性を友人として重宝しながら、 異性として拒絶する女性がいるのは、 女性の本能がそうさせているのだろうか? 詳しい方教えてください。

  • 人が信じられない…

    人間が信じられません。子供の時から人間関係に恵まれず、大学では私の不幸を笑うような人間ばかりでした。(実験などで毎日嫌でも顔を合わせます) だから人間はもともと悪だと思っています。他人が自分より少しでも弱かったり不幸だったりすると安心する… もともと自分より幸福な人間が不幸になると、助けるふりをしてざまあみろと思う。親戚もそんな人間達です。 自分がちょっと失敗すると、周りの人間にざまあみろと思っていると考え、相談しません。 私には味方がいないんです。 期待すれば裏切られる…裏切られすぎて惨めで死にたいです。 みなさんはちゃんと人を信じられているのでしょうか…?

  • 日本は後進国という意見になぜ反論あるのでしょうか?

    正社員の給料の中央値は350万円だそうです。 平均値は403万円ですが、中央値である350万とは過半数の正社員の給料は350万以下という意味です。 実質国民負担率(令和4年、政府公表の実績見込み)61.1%を引くと、136万円になります。 1ドル150円(本来は両替スプレッドがあり米ドルに換金すると155円くらいだけれど、150円で計算)で計算すると、9千ドル。 後進国の水準である1万ドル以下に該当します。 日本の正社員は3600万人しかいません(国民の約3割)。残りは非正規や無職です。 つまり大半の正社員は後進国の基準に該当していて、(正社員以外の7割の国民は)正社員より所得の少ない人が多いと推測します。 日本人の大半の実質所得は後進国の水準に該当します。 何か反論はあるのでしょうか? 〔経済大国と、後進国は両方ありえるようです。 中国は自ら発展途上国と言っていますが経済大国で、購買力平価ではアメリカをしのいで世界1位です。 日本の場合は経済後退してるので後進国となります。〕

  • トルストイの「アンナカレーニナ」のあなたの解釈は?

    すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。 という冒頭の言葉、あなたはどう解釈しますか? そして、どう自分の人生に生かそうと思いますか? ぼくのお気に入りの解釈はマンガであった「しあわせなヤツはつまらん。その人の不幸だった境遇にこそその人らしさが出る」です。 こう生かしたという実践までなさった方がいれば、なおお聞きしたいです。 はじめて聞いたという方もとくに正解はないので、気分でお答えくださいませ。

  • 養子(?)になりたい

    孤独な暮らしをしています。家庭のぬくもりがほしくて死にそうになります。 そこで、家庭を得るにはどうしたらいいかという話です。 私の場合、通常の結婚とかですと、妻子に親が与えるような愛情を求めてしまうでしょう。しおれは、双方に不幸であるのは分かっていますから、養子にいきたい(?)ということになります。 成人していますが、なんとかならないものでしょうか。 厳密な養子でなくてもいいのです。ホームステイのようなものでも。親のぬくもりが得られれば…。 なにか、こういう相談を持っていける機関はないでしょうか。

  • 自分自身の不幸がおもしろくて困ります

    閲覧ありがとうございます。 タイトル通り、自分の身に起こる不幸がおもしろいです。 自分自身をどこかで客観視しているためか、目標を達成できなかったときや、女性にふられたときなど、あらゆる不幸せな状況を面白く感じます。 「他人の不幸は蜜の味」の言葉にもあるとおり、自分のことでありながら他人事のように感じてしまいます。 友人に相談したところ「おかしい」と言われ、精神科への通院を勧められました。 しかし、自分には異常性がわかりません。 もしも異常であり、幸福を味わえないのであれば治したいと思っています。 さらにいえば、この性格のせいで、不幸なのに幸せといったバカバカしい状態が続き、本当に幸福であるということから遠ざかってます。 悲観的になることもしばしばありますが、心のどこかでは「どうにかなる」という根拠のない自信と、苦しむ自分への陶酔のようなものがあります。 決して悲劇の主人公というような陶酔ではありません。 一個人である自分自身が苦しみもがき、必死で藁をつかもうとあがく醜い姿への陶酔です。 どなたに話しても共感を貰ったことがありません。 やはり実際に精神科に通院したほうがいいのでしょうか? また、この性格の矯正方法を教えてください。 回答よろしくお願いします。

  • 病む思考?

     親戚のお子さん(といっても30歳近い)の事なんですがいつも意味不明な事を口にしているそうです。皆さんの意見も聞きたいです。自分にとっての絶対の幸福とは「生まれて来なかったこと」と・・・しかしもう自分は一身の呪いと不幸を持ち、生まれてしまったと・・・・俺が最後にできるのは、不幸な野良犬(子供)の増殖を抑え、一生独りを貫き通し、無縁墓地に入るのが最小限に災難を抑えることだと訴えているそうです。蜀悪の弱肉強食の世の中に生きることは苦しみに苦しみを重ねて不幸を得るだけでしかないのに強制執行で生かされてしまっている。自殺も何度も試みたができないと言っているらしいです。その人は今のところ普通に社会生活を営めていますが・・・何度も何度も聞かされていると・・・引っ張られます。そんなものなんですかね。そのような話をしょっちゅう聞かされていると、自分もそうなのかなと思ってしまう今日この頃です。確かに自分も親や先祖に対して感謝をする気にはなれない自分でもありますが・・・

無職期間中に何をしていたか?
このQ&Aのポイント
  • 35歳の男性が前職を辞めてから家庭不和になり、離婚調停を経て約1年間無職でした。
  • 無職ニート生活を送っていた彼は、離婚問題が解決した後に再就職活動を開始しました。
  • 応募先面接で無職期間について聞かれることが多く、正直に答えているが面接で落ちることが多いです。
回答を見る