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「知らぬが仏」の正当性
なまじ知ったばかりに不幸に陥るということがあります。 自分では結構まともだと思っていたことが、客観的にみると劣っていることだったりした場合、その知識のために不幸に陥ったということもできます。逆に知らないためにたいしたものでないものをありがたがり、幸福の糧にできる場合もあります。 そう考えると、客観的には不幸なことでも本人にとって幸福なのと、その客観性を知ったばかりに不幸に陥ることは、どう考えればいいのでしょうか?まるで「知識」のせいで不幸に陥ったかのように思えます。「知識」が悪であるかのようです。 例: 後進国で情報統制してたために国民に世界的生活水準が知らされず、国民は結構これがいい暮らしなのではないかと錯覚している。 身体障害がある人がそれに慣れてしまって普通だと思っていたのに、健康体というものを再認識して不幸感に陥る。 子供で、自分の家庭が結構いい家庭なのではと思っていたが、ホームステイとかで他の家庭を垣間見て「ああ、おれは不幸だ」などと感じる。
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質問を整理することからはじめます 質問タイトルから類推するに <「知らぬが仏」には正当性があると言えるのか、あるいは言えないのか。その根拠は何か> ということだと考えると、基本的には次のように言えます。 1.人は、知らない情報があると知ったとき、それを知りたいと思う。 2.情報には、人を不幸にする情報と、幸福にする情報と、そのどちらでもないものがある。 3.人はその情報が不幸をもたらすか、幸福をもたらすか、そのどちらでもないかについて、知ることはできない。 3.1. 知った結果が不幸な場合、「知らぬが仏」という諺には一定の妥当性がある。 3.2. 知った結果が幸福な場合、またはどちらでもない場合、「知らぬが仏」という諺には妥当性がない。 この上で、おそらく3.1のような形での妥当性/正当性がある、という言い方はどこまで真にそう言いえるのか。そのような問いかけがgeorge-mさんの問いだと考えました。 今までの議論だと、ginga3104さんの回答が面白いです。「選択肢が無い方が可哀想」という発想をすれば、確かに3.1の議論に対する反論になります。そして、これは自由意志とか、選択前提とかそういう問題圏になるでしょう。 次のような対立項を立てられそうです。 A.選択肢を知った上で、自由意志があり、その上で選び取られた状態。これにこそ幸せを議論する価値はある。 ¬A.選択肢を知らず、自由意志がなく、選び取れない状態においても。幸せを価値を議論することはできる。 Aと、¬Aのいずれが正しいのかは、状況によって色々な議論をすることはできると思いますが、 800字以内にまとまるように、無難なお答えするとなると、 Aと、¬Aのどちらが絶対的に正しいのかを言いうることは難しい。 実際には人間が自分に関わる全てを知ることは不可能なことなので、Aは無意味。¬Aのような状況が圧倒的に正しいと言いうるかどうかも微妙。当人が「私は幸せです」という言明はおそらくできる。その意味で、¬Aは正しい。しかし、第三者から「あなたは私よりも不幸せです」と言われる可能性は常に存在する。なので¬Aの観点からのみの議論は常に他者から、覆される危険を帯びている。その意味で、¬Aの妥当性は常に、制限付きになる。 こんなところで。
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- agrippa
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魔術的リアリズムの延長線上なのかな。 情報は漏洩する。 ああ 大学の教授が言っていた。 ○○○は何処にでもいる。 なんだか急にリアリズム。
- agrippa
- ベストアンサー率9% (5/51)
顔が浮かぶ。
みずからを、知れぬが仏、知れば修羅、か。。。 しかしどうにもならない。
- agrippa
- ベストアンサー率9% (5/51)
さて貴女はどちらの立場の人なのでしょう。 知らぬが仏と不幸な境遇であるにもかかわらず仏面している人を嘲笑う立場。 弱い立場の人間の心を解さない氷のような心を持つ無神経な貴女。もし政治家とか人の上に立つ立場の人であるならその下に住まう人はかわいそうだ。片寄っていて。 もう一つの見方は知ってしまったがために不幸感に陥った人の場合。 この場合文章は分裂している。 しかし 一つの解釈としては知れぬが仏という諺の本来の意味を知らなかった。ということで氷解する。 先に出ている質問と総合すれば僕自身の解釈では前者が妥当だと思う。 いずれにしても精神の濁りは見受けられる。
お礼
質問したいことが次々出てきて、しかし5問までしか質問できないというジレンマに陥り、そのために滞った回答へのお礼を書く動機になるという個々のシステムは、なかなかよくできているのかもしれません。心では、皆さんのご回答に感謝しつつも、実際行動になるとなかなか足踏みしてしまうことに意思疎通の難しさと疲労を実感します。 私は権力の側でもなければサディストでもないです。ただの好奇心と自称素直なために結果的に斜めに世の中を見ることになる悲劇に陥っています。 それに、論理的に徹する能力もないので、質問事態が混乱していて、知らぬが仏の実際において、それを肯定するでもなく否定するでもないもやもやっとした感慨を個々で披露させていただいているだけですね。
- agrippa
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僕の場合は教えているのではなく 訴えているのですが。。。
george-mさん、 あなた自身に痛みがある以上は、立場はひとつ。 痛みを超越するための俯瞰的な視点を得ようとしても、言葉はちぐはぐにならざるをえません。 それはなかなか、人に指摘されても、気付かない。 いまの世の中、いわゆる強者だの勝者だのの口から漏れる言葉というものが、 いかに横行しているか。 その重みや責任を失って、言葉だけ横行している。 知らぬが仏、と言う立場とは、何かの力を振るう側の立場であり、 地獄を見せる立場にあるものの言葉です。 地獄を見せる立場というものの、まねやふりをすることは、忌まわしい。 しかし、今の世界では、客観視という眼鏡をかけて、人の立場を模擬することができる。 自分の意志を述べるためにでさえ、そんな眼鏡をかけたままで、人に通じるはずだと、たくさんの人が思っている。 だが、あなたの痛みや、あなたの経験は、あなたの立場からしか言葉に乗らない。 地獄を見せる立場にないあなたが、おそらくむしろ地獄を見る心地で生きながら、 自分自身の発話にさえ、裏切られるとは、 なにかが引き裂かれている。 自己の発話の、清澄さは、防御の真髄です。 そこに、他の立場にある他者の言葉が侵入するということが、認識に最悪の事態を招く。 例にあるとおりの場合、自分は不幸だなと思う、そこまでは自分でいられるが、 知らぬが仏よ、との言葉が侵入すると、これは、地獄を見せている者に乗っ取られた心になります。 引き裂かれるのです。
お礼
言葉は内容と真意が伴っていなければ無駄であり有害です。しかし、そういうものばかりがあふれている。なんと言う堕落でしょうか。 「知らぬが仏よ」という心無い実感のない軽薄な言葉が入ってくると、これはとんでもないことになりますね。しかし、真意のある真心のある言葉だったらどうでしょうか。同じ「知らぬが仏」も生きてくるのでしょうね。
- agrippa
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ここも 哲学以前に幼稚になった とでも言えばいいのでしょうか。 どうなんでしょう? どうしたらいいと思われますか? ご相談申し上げます。
お礼
質の確保ができないのですね。哲学なんていうおこがましい言い方をしているからますますおかしい。
- agrippa
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近年の風潮は 教えるにも相手を尊重した言葉を使わなくてはなりません。 教育が地に堕ちましたね。 たとえ東大卒であっても真の意味がわからない知識馬鹿というのはありますから。 どうしたものでしょうね。 自分が安泰だと思っている内は のほほ~んとしてればいいだけなんでしょうけどね。
お礼
教師の尊厳がなくなったのは嘆かわしいことです。
- agrippa
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知らぬが仏のことわざの用法が微妙に違うような気がするのですが 僕の方が間違っているのかもしれませんが。 今のところ明確な共通認識となっていないような諺など使わず 知ることによってかえって不幸になることとしたほうが、その後に続く例3つは活きてきて一応質問としてはすんなり成り立つと思いました。 視点の位置を少しずらすともしかしたら全体がみられるようになると思います。もしくは立ち位置とでも言えばよろしいでしょうか。 表相的な面ばかりでなく内的なものも見えてくるというか。 本当の理解とでも言えばよろしいでしょうか。 そういう理解が訪れるというか。
お礼
はい。もっと高い地点に立たないと見えてこない問題なのかもしれません。何事もそうですけども。
- mijinco
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たしかにそういうことはあると思います。 知らなければ良かったと言うことも多いです。 ただ「「知識」が悪」というよりも、それをどう受けとめるかという問題が大きいと思います。 ですので、知識として知らせるときには、事実を知らせればいいというのではなく、知る側への配慮が必要になると思います。 例えば、子供に何かを知らせるのには、その成長段階を考慮しるというように。それがないと「「知識」が悪」になってしまう可能性が高いのだと思います。
お礼
大変、思いやりのこもったお考えです。私もそのことを大事にして実践できるようにしたいものです。
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お礼
詳しいご解説、ありがとうございます。 質問事態も混乱しているようでした。知らぬが仏は妥当性があってそのことをもっと噛み砕きたいと思ったということです。 整理していただいたとおりで、妥当だと思います。2つの場合があり、ひとつの「仏」のほうは脆弱性があり、まさにそのためにこの問題定義をした感じです。もうひとつの意思が関与するほうは、本当の幸せに近づけるが、困難も秘めているということですね。