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トルストイの「アンナカレーニナ」のあなたの解釈は?

すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。 という冒頭の言葉、あなたはどう解釈しますか? そして、どう自分の人生に生かそうと思いますか? ぼくのお気に入りの解釈はマンガであった「しあわせなヤツはつまらん。その人の不幸だった境遇にこそその人らしさが出る」です。 こう生かしたという実践までなさった方がいれば、なおお聞きしたいです。 はじめて聞いたという方もとくに正解はないので、気分でお答えくださいませ。

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回答No.4

幸福というシニフィアンは、その人の属する民族・文化圏の持つ集合的無意識(≒阿頼耶識)に依拠した幻想ですので、同じ集団に属する限り、そのシニフィエを共有していることから互いに似ています。 それに対して不幸という概念は、幸福の概念に当てはまらないあらゆるシチュエーションを含むために当然に多様なものとならざるを得ません。 例えば「アンパン」と「非アンパン」という概念を想起していただきたいと思います。 「アンパン」というイメージは、「こしあん」か「つぶあん」かといった程度の差はあれ、日本人ならほぼ同じイメージを擁きます。しかし「非アンパン」といえば、「ジャムパン」「クリームパン」はもとより「ご飯」「ラーメン」、さらには「茶碗」「なべ」、さらにさらに「アメリカ」「徳川家康」、「きれい」「あたたかい」・・・みんな「非アンパン」で、人それぞれです。 アンナ・カレーリナの「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」という下りはこのような構造を持っているのです。 当たり前の話であり、私の人生に影響を及ぼすほどの言葉ではありませんが、深みを感じさせるなかなか巧妙なレトリックだと思います。

回答No.3

ryo9143さん。こんにちは。 >すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。という冒頭の言葉、あなたはどう解釈しますか?  なるほどね。つまりこういうことだ。信仰に生きる者は幸福。神の掟を破る者は不幸。信仰に生きるべきなのか、それとも信仰を捨てて生きるべきなのかという問いを突きつける。言い換えれば、家畜として生きるのか野獣として生きるのかという問いだ。

回答No.2

 こんにちは。  世界一幸福な家庭にも たまには不幸がおとづれる。  宇宙一不幸な家庭にあっても その不幸ゆえに他人(ひと)にしあわせを与えることの出来る考えを編み出すこともある。  問題は しあわせ(仕合わせ)が どのような社会的因果関係の中でおのおのの家庭におとづれるかだと考えます。  一人ひとりの人間の行為がそれぞれ仕合わさって 歴史と社会とをとおして 一つひとつの結果が出て来ています。  ここで 社会の共同自治という基礎に立つところの縁起共生という命題が持たれます。  たいへん言いづらく申し訳ない気持ちですが  ★ 「しあわせなヤツはつまらん。その人の不幸だった境遇にこそその人らしさが出る」です。  ☆ という方向へすすめるのは 例によってルサンチマンの為せるわざではないのでしょうか。  上品に表現されていて 高級な対応としての態度であると思いますが 要は 上を見て下を見てその一つひとつを比べているということ ここに問題があると言えばあるのではないでしょうか。  おのおのの境遇を飲み込んで 引き受けなければならないのでしょうね。  家庭が望月の欠けたるなき幸せなる状態にあっても 一人ひとりは これを引き受けて おのれの自然本性からにじみ出る自己表現をおこなって生きるということでしょうから。  ♪ 花も嵐も踏み越えて・・・と言うぢゃないですか。ふたつを比べるのではなく――いや 実際には誰もが比べますけれど そこから考えを導こうとするのではなく―― また嵐のほうだけに 情けなさや悔しさを持ちそれを心にかこつのではなく 歴史と社会との全体を――そして花も嵐をも引っくるめて――おのれの精神の胃袋で消化しつつ いまの境遇をまづ引き受けるということ。   幸不幸を 豊かさと貧しさにそれぞれ充て あるいは精神と肉体(または物質)といったふうに対立する二項目に分けこれを比べるという思惟のかたち この物乞い思想から解脱しないなら いつまで経っても フシアワセでしょう。

回答No.1

社会は、お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン” で、自己チューな人をして社会性のコースを走らせる。 ゆえにゴールは1つになるし、そのゴールから外れる方向は 無限にある。 しかしそんな「幸福な家庭」=豊かな家庭も、「馬車馬の目の 前のニンジン」の虚構=物質的豊かさが、必ずしも精神的 充足量と一致しない事において、内なる不幸に陥る。 真の幸福は、それぞれの家庭のあり方(肉体的)にではなく、 認識する環境のあり方(精神的)に依存する。 我欲で争い合う社会で勝ち抜いて、苦しむ怨嗟の大衆の中で 勝ち誇る怠惰より、助け合う社会の中でその機能の最大化の ための資源の最適配置としての報酬を得て、健全に自己の 能力を発揮する方が、はるかに幸福なのだ。

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