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人生がむなしいです

人生がむなしいです。 人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。 このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。 【回答についての注意事項】 ・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。 ・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。 これが実感としてわからないなら、参加しないでください。 ・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。 ・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。 ・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。 ・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか? ・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

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回答No.78

私もその思考にはまりこんで、抜けなくなることがよくあります。 哲学者たちもみんな、同じ問いかけをしては、その人なりの答えを出しました。ですがどれも私にはしっくり来ませんでした。「とにかく自分の気持ちを成長させて、人生そのものを受け入れろ」というような答えが多かったですね。でも、それではなんの解決にもなっていないと思いました。 どうして生きているのか、どうしてわざわざ産まれてきて辛い思いをしなければならないのか、楽しいことがあっても死んでしまえば無くなってしまうし、そもそも広い宇宙の中で、塵みたいな私が楽しもうが苦しもうが、生きようが死のうが、意味などないのではないか。その答えにビシッと答えた人はいないんです。 けれど、だからと言って自殺をするかというと、そういうわけでも無いんですよね。生きる意味が見出せないからと言ってすぐに死ぬわけじゃないんです。生き物は死を恐れますから。 生き物は子孫を残そうとするし、すこしでも長く生きようとするし、意味が無いから自殺、なんてことはしないようにできている。それが本能です。 結局、私達が生きているのは「本能が生きたいと言っているから」なんだと思います。 意味なんてなくても、本能は生きろと言っている。何も知らないくせに私達に命令してくる。だから私達はついつい生きてしまうんです。 同時に、つらい経験も、本能が「もっとうまくやれ」と言ってくるからつらいんです。「有意義に生きたい」という気持ちもそうです。「もっと長く生きろ、たくさん子孫を残せ」という本能の声が、「このままじゃいけないんじゃないか」という気持ちを呼び起こすんですね。そこからいろいろ理性で考えてしまうと、理性が本能を追い越して「どうして?」と問い始めてしまうのでしょう。初めは生き延びるための知性だったのに、いつしか生きることへの疑問を生んでしまった。それが本能と理性の関係なのではないかと思います。だから、人間はただ単純に本能に従うことができず、本能がなんの疑問も持たないようなことに疑問を持ち、欲求と理性が矛盾してしまってむなしくなるのでしょう。 だから、私は仕方ないな、本能の声を聞いてあげよう、何にも考えてないお馬鹿な本能が、私に生きろと言っているから、それで私も生きたくなってしまうから、しょうがないから生きよう、と思うようになりました。 理由はきっと探しても見つからないと思います。何かのために生きているわけではないですから。ただ、本能がひたすらに生きたい、生きろと言っているだけです。でも、それだけで十分じゃありませんか?本能の望みが、自分の望みではないですか?理由なんてなくても、本能のお願いを聞いてあげたくなるのが生き物でしょう? すごく長くなってしまった上にわかりづらいですが、それが私の結論です。そう結論付けても有意義に生きられるわけではないし、つらいものはつらいしうまくいかないことばかりですが、とりあえず生きることを疑問に思うことはなくなりました。参考になったら嬉しいです。

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回答No.26

私の結論は 『自分の人生に意義、意味、結果、成果を見出さない』です。 私の『人生』は私で構成された私の世界です。 一方『意義、意味、結果、成果』は、私の世界を外側から見た 顛末の評価だと思います。 終結してないものを評価しようとする行為に無理があるのでは? と思うようになりました。 この理論を展開していくと 『今は意味が見出せないけれど、結果的は未知数である』 となり、『むなしさ』も時に、『心の拠所』に感じるように なりました。空回りの自分を許せるようになりました。 もう刹那の幸福の隙間で『むなしさ』に悩ませされることは ありません。 わたしも、質問者さまと同世代です。 少しでもお役に立てれば幸いです。

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回答No.25

 いつもなら、自分で選んだ「テーマ」について繰り返し考え、その結論部分を、読む人によく伝わるように言葉を選びながら「拙い文」を綴るのですが、どうも今回は考えがまとまらないようです。意図しない失礼がありましたらお許しください。  「むなしさ」について・・・  大学生のころですからもう随分昔の話です。目の前にぱっくりと口をあけた漆黒の暗闇のような「空虚感」に悩まされていたものです。「いたものです」と過去形で書いたものの、すぐ後で述べるように「現在形」でもあります。  その「むなしさ」は何であり、それを解消するにはどうしたらいいのか、ということをその時の自分のレベルで必死に考えたものです。  好きな読書に熱中していてふと気がつくときがあります。友人と談笑していて言葉が途切れたあわいにふと気がつくことがあります。春の麗らかの一日、緑が萌え文字通りの「薫風」を頬に感じ、身の回りの総てが春を「謳歌」しているようなとき。ふと自分の後ろに、背中にペタリと貼り付いていて息を潜めている「むなしさ」に気づくことがあります。夜中に目覚めて真っ黒な深淵の中に落ち込んでいく恐怖に声を殺してただ耐えて、時間をやり過ごし、へとへとに疲れきって泥のような眠りにこれもまた「引きずりこまれていく」。 「むなしさ」はいつも自分の呼吸のように、気がつかなければやりすごし、気がつけば自分の皮膚のようにぺったりと意識に薄いベールとなってはりついているようです。  子供のころからどうも現実感覚が希薄だったようです。現実と上手く折り合いをつけられない自分がいました。人はなぜ、あのように楽しそうに笑い、目標を持ち、何かに熱中し、このやりきれない「時間」をすごすことが出来るのか。いつも不思議に感じていました。他人にこのことを率直に尋ねても、だれも「納得させてくれる回答」を与えてくれませんでした。  ふと、思いました。これは「決して癒されることのない宿疴(しゅくあ)」ではないのかと。  生きている限り、この骨と肉と出来、皮膚でつつまれた身体の中に閉じ込められた「こころ」の足掻きは、自分の本当の顔を仮面だと思い込み、必死で顔から引き剥がそうと顔中血まみれにしているようなものではないかと。この「こころ」は何によって満足を与えられるのか。何によって「安心し、その奥底から本当に安らぐことがあるのか」と、眠れないまま幾晩も輾転反側し答えの出ない問いを延々と繰り返していました。  この「むなしさ」から開放される手段として、(ありがちなことですが)「自殺」も魅力ある一つの手段だと思いました。この身をすぐにでも滅ぼさないではいられない、という緊急性のない「悩み」(その意味でわたしの病は軽かったのかも)でしたから、自分の手で自らに手を下すという、実に「魅力的な手段」はいまだ採用せずに現在に至っています。  さて、お示しの「むなしさ」は、わたしとって自分の人生の全篇に亘って幽かに響き渡る『通奏低音』なのだと諒解しています。つまり、このろくでもない人生の基底にあたる「寄って立つ安定しない大地」なのだと。だから、見たくなくても、「むなしさ」はぱっくりと黒い口を開けている奈落のようにいつも側にあります。「ある」という「感触」だけで十分です。 そして若者にありがちな「結論」へと自分を導いていきました。すなわち、「わたしの心はこの世では満たされることがない」と。  では、そのいてもたってもいられない不安とどう折り合って生きているか?  ただ時を「やり過ごす」だけがその方法です。自殺しない身であるならば、この脱出不能の牢獄たる肉体が朽ちるその日まで、何かに気をとられ、何かで気を紛らわし続けるのみなのです。  しかし、人間とは「不遜」なものです。生き続けていると、他人と交わり、好きな人が出来、すきな事ができ、物を集めることが楽しみになり、その集めた物への拘りが、すなわち自己目的たる「やり過ごし」に大きく貢献し、それに気づいて「苦笑する」自分を見出します。  ですから、質問者さんへの「アドバイス」などありようもないのです。延々と無限に続くかと思われる時間を「創意と工夫」でやり過ごすのです。  その昔、解答を示してもらえるだろうという期待から「宗教」への帰依も大真面目に検討しました。生来の「なまけもの」だったのか、またそういった「負の情熱」ではこられた「宗教」も困るのか、はたまた、単に出会いという「縁」に恵まれなかったのか、自分の日々衰え続けていく拙い脳細胞で考え続けるという道を選びました。  はっきり申し上げて、「有意義な人生」などという「まやかし」を期待されているだけこれからの苦労も多いのでは、と思います。でも、ひょっとして何かの拍子に、「あっ、これだ!」というものに巡り会う僥倖が訪れないとも申せません。しかし、直面すれば一歩も身動きのとれぬ呪縛たる「むなしさ」は、「有意義」などという薄っぺらな価値観を吹き飛ばすような「純粋な負のエネルギー」たるものです。あるいはもっともデリケートな部分を非情にも蝕み人生の蓄積も歴史も奪い去る「がん細胞」のようなものです。  「有意義な人生」を諦めることはないでしょうが、「期待」もしないほうがよほど賢いというものです。でも、思わず「期待してしまう」のも人生であり人との関わりですから、悪戦苦闘の果てに何があるか追求するのも「一つの人生」ではあるかも知れません。その努力に見合う「何か」が見い出されれば、是非ともこういった場でご紹介して頂きたいものです。  「むなしさ」は現在形です。気を許せば落ち込んでしまう奈落です。そして多分、気を許して落ちてしまうことを許されない「宙吊り状態」が「むなしさ」の実態なのでしょう。  ただ、最後に一言。「むなしさ」は「絶対無への脅威」ではありますが「絶対無」そのものではありません。考えに考えることで、「むなしさ」を直接克服するという「特効薬」は見つからないものの、世の中を自分なりに解釈する手立てを生んでくれるものだと思います。  そして、「むなしい、むなしい」と呟き呪詛し続けることからは何も生まれないようです。それはさんざんやりつくした人間である当方が自信をもって「断言」します。  ですから、「グッドラック」としか言いようのない気分ですね。「そのうちいいことあるよ」てなもんです。太宰治の『トカトントン』に出てくる主人公を悩ませるあの音のようなものです。  ご自愛くださいますように。  哲学カテということですが、「文学的」な表現を撒き散らしました。意図あってのことです。お汲み取りください。

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  • 333mol
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回答No.24

ご質問者様が感じているのは死への恐怖ではないでしょうか? 確かに死は無に帰ります。 聖書には「罪から来る報酬は死です」とあります。 罪(原罪)を悔い改めることで死の恐怖から逃れることが出来ます。 また死が本当の無ではないことを知るべきです。 レオナルド・ダ・ビンチ、モーツアルト、写楽、リンカーン、昭和天皇、あなたの祖父母 死してなお生きる人に影響を与えている人の存在をどう思いますか?

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  • kobarero
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回答No.23

「むなしさ」が、情緒としての「むなしさ」なら、それを商品として流通させることで、社会的満足を得ることができます。また、概念としての「むなしさ」、すなわち、「神もいない、仏もいない、人生に意味も目的もない、人は必ず死ぬ、死ねば何も残らない」ということなら、それは、正に自由な精神による創造の出発点だと思います。

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回答No.22

『意味』っていうのは『求める』ところから発生する 『求める』ということは『不満』や『不安』があるからある 生きていれば喉が渇く 喉が渇けば水が要る だから水には『意味』がある 『不満』や『不安』があって 『~したい』『~すべきだ』と思うところに 『意味』が生まれてくる 世界は公平じゃない、人間は自由じゃない 生きる事は苦痛に満ちている 死はいつも近くにいる だから人間の世界は『意味』で満たされる 人はひとりではいられない 人は自分に『意味』がないことにたえられない だから人は人に求められることを求める 人は人を求める、人は互いを求め合う だから人が生きることには『意味』がある

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回答No.21

生きたいと思えない『生きたくない』 だけど『死にたくない』 生きるというのは結局 『死からの逃避』にすぎないんだ だけど無意味なことを受け入れながら 生き続けられるほど人間は強くない だから生きる事に価値があって 自分は『生きたい』と思ってるかのように 自己欺瞞しながら死を遠ざける事で 生をつないでいってしまう だけどそれは結局欺瞞にすぎなくて 結局いつかは死に追いつかれる 死に追いつかれて、生きる事が結局 『死からの逃避』に過ぎなかったことを 認めざるを得なくなる時を 自ら迎えるのか、逃げ続けようとしてつかまるのか その訪れが遅いか早いかに過ぎない …こういう考えは結局 いろんなフランストレーションを 解決できない故の欺瞞なのかもしれない 生きるとは何かを求め続ける事 意味は求めるところから発することを 知っているというのに、全てが無意味だと 思い込むことで、自分は何も求めていないと 思おうとすることで、自分はなんら 解決できない不満も不安もないのだと 思い込もうとしているだけなのかもしれない ただ無力な自分を正当化したいだけなのかも… だけど、ならばなおさら 欺瞞しているのだと欺瞞することで 己の無力を欺瞞する欺瞞に満ちた私は 生きていていいのだろうか? 死ぬべきではないだろうか?

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  • marpull40
  • ベストアンサー率11% (10/87)
回答No.20

>人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。 人は他人に必要とされることにより、その存在を認められます 不必要と判断されれば、存在を否定されます。 よい例が死刑です あれは、その人間を不必要と判断し処分します。 生と死については、人生はゲームと違うのです リセットが出来ません、かならず今の時点からの始動になります。 死は終了ですその後は何も感じません(無です) ですから人間は、社会に貢献しようとします 自分の存在を示すため、周りの人に自分がいなくなったあとも 覚えてもらうために生きている間に と思います。

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  • gcat
  • ベストアンサー率28% (24/83)
回答No.19

回答ありがとうございました。私はむなしさに直面し感じながら生きています。なぜこんなに給料が低いのだろう。なんで人のために仕事をしたり正論を言っても理解されるどころかいじめられるのだろう。なぜ勉強してもお金持ちにならないのに、勉強しない人がお金持ちになっているのだろう。そしてそのむなしさというのが楽しさや多幸感と表裏一体であり、本質的には同一のものであるという真理に気づき、よりいっそうむなしさから永久に逃れられない。つまり「あの世」にいけば「無」むなしさの世界が広がるという諸宗教の教えが正しいのだと気づき、人間の哲学思考が神を超えられないという真実に再びむなしさを感じるのです。現世での人間の存在そのものがむなしさなのです。

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  • pi--co
  • ベストアンサー率38% (5/13)
回答No.18

はじめまして。 『人は何のために生きるのか。』 これはもう単純に「DNA(遺伝子?)がそうさせているから」と考えます。 そして人間は所詮DNAが生き延びる為だけの乗物でしかないと考えたとき、私には質問者様の叫びはそのままDNAの叫びのように思えました。 DNAは種を存続させるためだけにヒトからヒトへ宿主を変えながら今もなお生き続け、これからもずっと生き続けていくでしょう。 ゴールもなく目的もなくただ生きるだけ。ヒトが絶滅しないように。 質問者様をはじめ、人生がむなしい・・と感じている人は、古代から生き続けているDNAの血がそう感じさせているのかもしれないな、とちょっと思いました。 『あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか』 主語が「あなた」なので私の独断と偏見に満ちた意見を述べます。 人間には他の動物にはない「自意識」または「心」という素晴らしく厄介なものがあります。 むなしいと感じるのもまさに心があるからで、このむなしさを少しでも忘れさせるのもやはり心(感情)しかないと思います。 ヒントとなったのは散々「むなしい」を連呼していた質問者様の一言です。 >率直に言って、涙が出そうになりました。なぜか。 「なぜか」と書かれているように質問者様はこの時自分がどういう気持ちになったのかうまく説明はできないと思います。 でも涙が出そうになるほどの激しい感情が一瞬にして沸きあがった。 一瞬かもしれませんがこの時には「むなしい」なんて感情は消え去ったのではないでしょうか。 楽しくなくても笑顔なんてすぐに作れますが、正体不明な涙なんて早々流したくても流れません。 この涙は一般的に言う嬉し涙とか感動の涙とかではなく、何と言うかもっと深く高尚な涙です。 このような涙が流せる場面に多く出くわせば出くわすほどむなしさからは少し離れられるような気がしました。 >でも、子どもができたら変化しそうな予感はあります。 私も子供はいませんが、その予感は間違ってないと思います。 専門外の身で好き勝手発言しました。あくまで参考程度に読んでいただければ幸いです。 気を悪くされましたらすみません。

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  • 333mol
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回答No.17

結婚して仕事を持っていて収入もあって趣味が楽しくてむなしいはないでしょう。 むなしいとは、何もないことです。 失うものが何もないとき、むなしいと思ってください。 さて、今の状態がむなしくないはずなのにむなしいと思うときに、どうすればいいか。 感謝してください。 ありとあらゆるものに感謝しましょう。 朝起きれたら感謝 ご飯を食べたら感謝 歯を磨くのを思い出したら感謝 バスに間に合ったら感謝 お釣りを貰ったら感謝 お給料の振込みがあったら感謝 あなたは現状をあたりまえと思うからむなしいのです。 すべて神様から与えられたものだと気づけば(と理解すれば?) 何事にも感謝できます。 と思うようになりました。クリスチャンになってから。

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