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人生がむなしいです
人生がむなしいです。 人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。 このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。 【回答についての注意事項】 ・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。 ・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。 これが実感としてわからないなら、参加しないでください。 ・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。 ・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。 ・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。 ・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか? ・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。
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私もその思考にはまりこんで、抜けなくなることがよくあります。 哲学者たちもみんな、同じ問いかけをしては、その人なりの答えを出しました。ですがどれも私にはしっくり来ませんでした。「とにかく自分の気持ちを成長させて、人生そのものを受け入れろ」というような答えが多かったですね。でも、それではなんの解決にもなっていないと思いました。 どうして生きているのか、どうしてわざわざ産まれてきて辛い思いをしなければならないのか、楽しいことがあっても死んでしまえば無くなってしまうし、そもそも広い宇宙の中で、塵みたいな私が楽しもうが苦しもうが、生きようが死のうが、意味などないのではないか。その答えにビシッと答えた人はいないんです。 けれど、だからと言って自殺をするかというと、そういうわけでも無いんですよね。生きる意味が見出せないからと言ってすぐに死ぬわけじゃないんです。生き物は死を恐れますから。 生き物は子孫を残そうとするし、すこしでも長く生きようとするし、意味が無いから自殺、なんてことはしないようにできている。それが本能です。 結局、私達が生きているのは「本能が生きたいと言っているから」なんだと思います。 意味なんてなくても、本能は生きろと言っている。何も知らないくせに私達に命令してくる。だから私達はついつい生きてしまうんです。 同時に、つらい経験も、本能が「もっとうまくやれ」と言ってくるからつらいんです。「有意義に生きたい」という気持ちもそうです。「もっと長く生きろ、たくさん子孫を残せ」という本能の声が、「このままじゃいけないんじゃないか」という気持ちを呼び起こすんですね。そこからいろいろ理性で考えてしまうと、理性が本能を追い越して「どうして?」と問い始めてしまうのでしょう。初めは生き延びるための知性だったのに、いつしか生きることへの疑問を生んでしまった。それが本能と理性の関係なのではないかと思います。だから、人間はただ単純に本能に従うことができず、本能がなんの疑問も持たないようなことに疑問を持ち、欲求と理性が矛盾してしまってむなしくなるのでしょう。 だから、私は仕方ないな、本能の声を聞いてあげよう、何にも考えてないお馬鹿な本能が、私に生きろと言っているから、それで私も生きたくなってしまうから、しょうがないから生きよう、と思うようになりました。 理由はきっと探しても見つからないと思います。何かのために生きているわけではないですから。ただ、本能がひたすらに生きたい、生きろと言っているだけです。でも、それだけで十分じゃありませんか?本能の望みが、自分の望みではないですか?理由なんてなくても、本能のお願いを聞いてあげたくなるのが生き物でしょう? すごく長くなってしまった上にわかりづらいですが、それが私の結論です。そう結論付けても有意義に生きられるわけではないし、つらいものはつらいしうまくいかないことばかりですが、とりあえず生きることを疑問に思うことはなくなりました。参考になったら嬉しいです。
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- shirouneko
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下に、自分を喜ばせることをやると書きましたが 自分を喜ばせることが何かを一生懸命に考えたところ、何か違うと思えることしか出てこなくって 結局わからなくなってしまいました。 そうしたら、色々と読んで行くうちに自分は自己愛性パーソナリティ障害かも知れないと思いました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/自己愛性パーソナリティ障害 ↑の一部を抜粋しますが、 過敏型 (過剰警戒型) hypervigilant type 1. 他の人々の反応に過敏である 2. 抑制的、内気、表に立とうとしない 3. 自分よりも他の人々に注意を向ける 4. 注目の的になることを避ける 5. 侮辱や批判の証拠がないかどうか他の人々に耳を傾ける 6. 容易に傷つけられたという感情をもつ。羞恥や屈辱を感じやすい これが丸々自分そのものでした。 依存性+自己愛性と他にも気付いていないだけであるかも知れませんが。 こういう症状をなおして行く為には、まず気付く(気付いて行く)ことが必要なのかなと思います。 他にも、以下引用です。 誇大的自己が意識にのぼっている時にはエネルギーに満ち、軽躁的な活動性を示す。それに対して無能的自己が持続する状態に陥った時には、深い無力感、空虚感にとらわれ、絶望的な抑うつの海へと沈みこむ。自己愛性パーソナリティ障害の人格構造は、誇大的自己と無能的自己のあいだで振幅運動を繰り返すところにある[35][37][5]。こうした2つに分極した自己構造を持ち、中間にある等身大の自分が存在していない。失望や失敗をきっかけに無能的自己へと転落して激しい抑うつの感情を体験する一方で、自己評価を高めるような出来事を体験すると誇大的自己へと復帰する。適応が上手くいっている時には問題がないが、現実が思う通りにならず破綻をきたし、無能な自己が持続する状態になった時には抑うつを呈する。その時に露呈する感情は、激しい怒り、強烈な羨望、無力感、無価値感、空虚感、孤独感であり[38]、それは自己不信にまみれた人間の抱く感情でもある。 ここまでが、引用です。 何だかもう気付く前というものは、モヤモヤ居た堪れない状態が続くもので 何かに気付かない限りそれが永遠と続くので、無視できなくて 色々と検索する羽目になります。 他にも参考になれば読んでみて下さい。 http://iyashi.find21.net/column/c009amayaka.html http://iyashi.find21.net/column/c004shinkeisho.html http://iyashi.find21.net/column/c008tottemo.html http://www.geocities.jp/yanbaru5555/jikoai.htm もう無理に自分を喜ばせようとしないで・・、肩の力を抜いて 生きて行こうと思います。 そもそも自分を喜ばせるって何だろう?って思います。 別に喜ばせなくとも、ただやりたいことをやりたいようにやればいいのかな。
- 参考URL:
- http://yusb.net/man/765.html
- shirouneko
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サイストリーというものがあるみたいです。 そのサイトさんの、 http://iyashi.find21.net/psystory/psect25b.html こちらのページに書かれている一番下と下から二番目の項目が 鍵ではなかろうかと思います。 このサイトさんを最初から読んでみたのですが、 (途中は面倒になってしまって読んでいません・・・) http://iyashi.find21.net/psystory/psect11b.html このページの上から2番目とかも。 全部読めたら全部読むのがいいのかも知れませんが・・・。 もっと言ってしまえば、サイストリーを実践するのが一番いいのかも知れません。 私はやっていませんが…。 私は親に感謝が出来ません。 というか全てに対して感謝がわかりません。 それが虚しさと何か結びついてしまっているのかも知れません。 この世に対する虚無感も、親に対して感謝出来ないところと 何か関係があるのかも知れません。 親に自分の思ったことを言えずに閉じ込めてきた人生を送ってくると、 虚しさを感じてしまうのかも知れませんね。 うちの場合は、言っても無駄だったので・・・。 誰にも心から頼れる人は居らず。 存在自体が居る意味があるのかもわからず。 親とは常に平行線で・・・・・。 多分鏡なのだろう・・私が何かに気付くまで いつまでも続くのかも知れません。 それでもとりあえず生きますね。 何かに気付くまで。 サイストリーをやるべきか否かは、 出来たらやってみようと思っています。 昔、親を手伝ったら批判されたり怒られたりした経験が(ことごとくそうなった気がします) 誰かを手伝ったり誰かの為にやろうとすると 昔に親を傷つけてしまったことがあった為に 誰かの為に何かをやろうとしたり、社会の為に何かをやろうとすると 虚しさを感じるようになってしまったのかも知れません。 結局自分が何かをしても「誰かを(親を)傷つけてしまうだけだと」 だから何をしても虚しさしか付き纏わないのかも知れません。 そこから、親や周りや頼る心から自立させないといけないのかなと。 自立って何となく孤独ってイメージが付き纏うんですよね。 孤独に対する闇というか・・孤独恐怖症というのか・・・。 孤独で善かったことが無いのかも知れません。 だから他に依存してしまうのかも。 いや・・良く考えると、孤独の方が傷つかないし苦しまないような気が。 自分だけの為に何かをする…。 その方が楽といえば楽なのかも知れません。 誰かの為にしようとすると評価されなければ虚しくなりますし。 自分の存在している意味や価値や理由が無くなるかも知れません。 でも自分の為だけにする生き方だったらどうなのだろうか・・・。 誰かに自分の価値を求めるのは虚栄心を育むだけだろうか。 その虚栄心が虚しさなのか。 自分が喜ぶためだけのことをする…。 他人何か一切関係ない! 自分が喜ぶこと、自分の心だけが生き生きすることだけをする! 自分の心だけが望むことをする! 周り何か関係ない。 自分の心に素直になって生きる。 自分の心を素直に知る。 周りの心はわからないが、自分の心だけならわかるはず。 ならば、そのわかるものだけを知ればいい。 周りや他人のわからないものを無理に知ろうと奮闘しないでも。 まずは自分の心をしっかりとわかってあげなければ ならないのかも知れませんね。 まずそこが出来ていないのに、他人をわかろう親の為に!だとか思ってきたのが いけなかったのかも知れません。 礎が基礎が無いうちからそれは無理というものだったのかも知れません。 まずは自分の心の礎(基礎)を築き上げる。 そこから人生を展開させて行く、それが道筋といえるものかも知れません。 虚しさを感じてしまえる人は、周りや自分との二つの間で迷いバラけ バランスが取れなく苦しんでいたのでしょう。 ならば、中心にある自分の心をしっかり育てる。 親を満足させる前に、自分を満足させる。 周りを満足させる前に、自分自身を満足させる。 いつも周り周りで、自分をおろそかにして生きて来た者達が 迷い苦しみ何も出来ず虚しさを感じ、人生に意味を見出せなくなって来てしまっていたのかも知れません。 まずは自分を育てましょう。 周りに頼らず、自分自身で育てあげましょう。 幼い頃親の愛情を上手く与えられずに育った者達は、 自分自身で自分を育て上げるしかないのかも知れません。 自分自身で自分を育てる栄養を補って行くしかない。 自分を自分で知って行く。 自分を自分で作り上げて行く。 あやふや、ふやふやで自分が全く無かったけれども それを自分自身で作り上げる。 確固となる自分を自分で作り上げる。 それはまるで常に自分が自分の親になり、自分に必要なものを与えるような感じなのでしょうか・・・・・。 一人で自分が親になり子になる・・・・・。 自分が親だったらこうする、親から貰えなかった言葉を自分で与える。 でもまたどこかで虚しいと思ってしまうかも知れないけど。 自分で自分を育てる・・それが俗に言う “勇気” というものなのかも知れませんね。 もしかすると普通に他の人はこうやっているのかも知れません。 私が周りに頼り過ぎたばっかりに、出遅れてしまっただけかも知れません。 確かに周りに頼るよりは、自分で自分の心を育てる方がはるかに楽です。 誰かに自分が喜ぶことをして貰うのを待つのでは、いつそれが起きるかわかりませんし。 ならば自分自身で自分を喜ばす。 自分自身を喜ばせることを、自分自身でやって行こう! 自分自身が嬉しい(やられたら喜ぶ)ことを一覧にして書きとめて、 それでどれをしたら自分が特に喜ぶかを見て それから徐々にやって行ければいいのかも知れませんね。 相手が主体だと見失ってしまうかも知れないものも、自分が主体ならば見失わないかも知れません。 ここで注意が必要なのが、自分だけではなくて誰か周りや相手が少し(ちょっと)でも含まれることは 除外して行くべきかなと。 あくまでも自分が喜ぶことかな。 もう全ての余計な考えや余計なものをそぎ落として、自分の喜ぶ事柄だけに集中する・・これが必要なのかと。 それが自分に対して素直になることかも知れません。 参考になるかはわかりませんが、一応書きたくなったので書いておきます。 色々な雑念を排除し、自分の喜ぶことだけに集中し 心静かに生きる(過ごす) 自分の喜ぶことだけに集中するとは、結構な集中力がいるかも知れませんが。 もしかするとその集中こそ、自分の本当に望む幸せに気付く道筋かも知れません。
- shirouneko
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度々失礼します。 参考URLを載せておきます。 このブログ(参考URL)さんの考え方は、ヒントになりますでしょうか…。 たまたま昨日か今日発見しました。 もし塞ぎ込んでしまっている場合、「黒にんにく」を食べると色々と回復できるかも知れません。 この間諦めたと書きましたが・・しかしまだ、永遠の暗闇とか消滅とかになることを諦められているのか・・が微妙です。 以前この永遠の暗闇(孤独)に対して嵌っていた時に、ヤバイ時がありましたが。 この世と何かとの隙間に嵌りそう(陥りそう)な感覚です。 皆その隙間を見ないようにして暮らしているのかな~?と一時期思っていました。 そんな隙間を見てしまっては、普通には暮らせないとは思いましたが。 そこに己を引き込むと、精神が死ぬような感覚に陥る感じでしょうか? 精神的窒息なのでしょうか。 肉体を通り越して、精神が窒息(死んだら)したらどうなるのかが恐くてそれ以上近づけません。今はもうこんな隙間を感じることさえしたいとは思えません。 やはり永遠の死(消滅)に対する恐怖はあります。 後、永遠の生(限り無く存在し続ける何か)に対する恐怖も。 でも今はそれに対する(恐怖への)執着も薄らいでいますかね。 参考URLにあるブログさんを読んでさらに薄らいだような気がします。
訂正です。 読み返してみて、《永劫回帰》のニュアンスが違うような気がしました。 》瞬間の永遠性=未来と過去の谷間、凝縮された瞬間といえるような気もします。 》未来と過去が出会うなら、瞬間は全てを有する。 ↓ 瞬間の永遠性=未来と過去の谷間、凝縮された瞬間といえるような気もします。 未来と過去の谷間に、瞬間は全てを有する。 ※永遠の未来と、永遠の過去の狭間にある瞬間に、全ては有するという意味です。
>人生がむなしいです。 >人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。 >なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか。 少し前に、こちらの質問を目にしました。 着地できているわけではなく、回答することに迷いました。 私のなかの片隅にあるのは、無限への「虚無感と恐怖感」ですが、質問者さんの「むなしさ」と重なるものがあるでしょうか。記憶を反復しながら、質問を自問しました。(ニーチェとどのように向かいあったかという振り返りになりましたが・・) 「虚無感と恐怖感」は、日常的に苛まれはしないけれど、目を向けない隅っこにあるもので、十代の頃、一時期向かいあおうとし、成人以降は置き去りにしています。 こどもの頃、夜空を眺めていて、星空の美しさと同時に、その向こうにある無限の闇に恐怖を感じたのが始まりでした。「存在」の漠然とした不安。思春期の頃は、勉学や交友を楽しむ学生生活を送りましたが、「存在」について考えると、無限の空間と時間ののなかで、終わりなく宙を浮遊しているような空虚感と恐怖感が襲いました。この恐怖感は、その頃、美術の教科書で見た絵画《叫び(ムンク)》の気が狂いそうな感覚に似ていました。 虚無や不条理、恐怖感や絶望感といった、落下するものを掌で受けとめてくれる存在《神》を、古来の人たちは、救済的な宗教に求めたのかもしれません。 大学時代に、講義でニーチェの思想を学び、「人間的あまりに人間的」をゼミで読み、ニヒリズムな斜め視線的洞察を知りました。ゼミの先生が参禅会の顧問もされていて、ニーチェやショーペンハウエルの思想は仏教の影響もあるとのことで、一時期、座禅に通いました。(ショーペンハウエルは仏教の影響が大きく、ニーチェはショーペンハウエルを通して仏教を知った。ニーチェと仏教では、苦しみとの関わり方が違う)学部で専門的に学んではなく、深く理解しているわけではありませんが、ニーチェの思想には大きな影響を与えられました。 人間存在に意味はないというニヒリズムの世界で、どう生きていけばよいのか。 質問者さんの「むなしさ」と、このニヒリズムは似ているでしょうか。 19世紀、キリスト教が形骸化され退廃しつつあったヨーロッパで、「神は死んだ」とニーチェは言い放ちました。それは、イデアを求めるプラトン以降の価値観を覆すもので__科学や文明が発達した現代は、《神》を失ったまま、虚無も不条理も、恐怖や絶望も自分自身が引き受けなくてはならなくなった。科学や文明の発達では解決されないものを・・。 ニーチェの視線はニヒリズムだけれど、その姿勢は、神なき世界に、《神》を真摯に探しているようにも感じました。そう感じたのは、私自身が高校時代に、キリスト教の信仰と疑問の間で揺れていて、恋愛の板挟みで、引き裂かれるように神との関係を絶ってしまったこと、信者が唯一神を失うのは、死んだまま生きるようなもの__そのことを重ねたかもしれません。 ニーチェは、《運命愛》と《永劫回帰》の思想のなかに、ニヒリズムの克服を見出そうとしましたが、体系化されたものは遺されていません。ひとつの風景を撮影するのに、カメラマンの感受性によって構図や光の調整が違うように、ハイデッガーなど後世の哲学者たちが、遺されたものを自身のフィルターを通して網膜に映しだし、研究解釈したり論じたり深めたりしてきた印象を持っています。 《永劫回帰》は、今だにわかりにくいですが、円環として繰り返す永劫回帰というよりは、瞬間の永遠性という捉え方が、私的にはしっくりきます。過去は未来を、未来は過去を有していて、全ては運命の連鎖にあること。未来は過去と出会い回帰する。瞬間しかなく、瞬間は、生成と没落が重なりあう厚みのない断面のようなもの。 《永劫回帰》思想の「永遠」は、エンドレスに繰り返す物語ではなく、瞬間の永遠性=未来と過去の谷間、凝縮された瞬間といえるような気もします。未来と過去が出会うなら、瞬間は全てを有する。「ツァラウストラ」が体系的な論理として書かれなかったのは、《永劫回帰》思想が言葉では描きにくく、行間から直感で感じ取るような表現を試みたような印象を受けます。 ニーチェの思想軸にある《運命愛》とは何か。 ニーチェの説く愛は、〈神への愛〉ではなく〈超人への愛〉ですが、ツァラウストラが何度も山から人間のもとに降りるのは、〈人間への愛〉が底流にあるように感じました。生成と没落の瞬間にしか存在しえない人間への・・。 ニーチェの言わんとした《運命愛》とは微妙に違うとも思いますが、散策している時や電車の移動中に、ふっと降りてきて通り過ぎる感覚のように、断面的な風景記憶と共にあります。 学生寮近くの森林公園を通りぬけ、はずれの散策路ベンチから眺める。 北アルプスの山々から安曇野にかかる空雲の残照に、絵具の色水のように蒼みが深まっていく。篠ノ井線と大糸線を電車が音を立てながら走り、帰路の安堵感を乗せているようだった。安曇野の盆地に、灯がぽつりぽつりと点き始める。宝石のような夜景ではなく、生活の息遣いを感じる夕暮れの風景だった。 ひとつひとつの灯りの下には、無垢な乳児もいれば、臨終を迎えようとする老人もいるだろう。喜びも悲しみも、孤独も無機質でないような気がした。 百年後の風景には この世界の人たちも私もいない。 百年後には、まだ生まれてない人たちが日々を営んでいるのだろう。 目前の世界が愛おしいと感じた。 瞬間の世界であるからこそ、この世界は愛おしい。 運命の連鎖のなかにある、ひとつの小さな運命のなかの人間。科学が発展しても高度な文明を築こうとも、人類も地球もいずれは宇宙の塵となる運命。 涙するのは、嘆きでも悲しみでもない。 >あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。 >場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか? 人間がこの世界のひとつの細胞(運命の鎖のひとつ)であるならば、観念の世界からのみ、この世界を眺めるのではなく、行為者=生産する者としてこの世界に生を没入するのが人間の生き方という価値観は、十代の終わりから変わりはありません。個々人がどのような生き方をするかは、そこから始まるという気がしています。 思秋期の年代になって、焦燥感は少なくなってきたけれど、根本的には乗り越えたわけでもありません。身につけた属性を削ぎ落としていくと、置き去りにしたままの少女がいます。ワッツの絵画にある少女のように、目隠ししたまま、一本の弦を残すだけの竪琴の音に耳を澄まそうとする__静かな孤独のなかへの沈潜が必要な気がします。 長々と独りごとのような回答で、ごめんなさい。 そこに居た証のように、記憶を残したかったのかもしれません。
- shirouneko
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>何故生きるのか?何故必ず死ぬのに生きるのか? それはもしかすると、死ねない世界に住んでいる何かの物体(存在?)が、死んでみたいってことで作ったのかも知れませんね。 苦しむことの無い世界にいる何か(存在)が…、苦しむってことをしたくて作った世界なのかも知れませんね。 そうして作った世界何だけれども、多分作ったという記憶(意識)は消してこの世を体験しているから、いざその苦しみを体感してみたら「こんな苦しみは嫌だ!」「いずれ必ず死ぬのに、生きているの何て無意味だ!」等思っているだけかも知れません。 そんな苦しみの中で、苦しむのは駄目だ!苦しむのはいけないことだ!という思い込みがある場合は、とっても苦しいかも知れません。 そして、その苦しみからなっかなか抜け出せないかも知れません。 なので、苦しむだけの人生でもいい。苦しんでもいい。そう思ったら何となく苦しみが幾らか薄くなるような…。 とりあえず、もし苦しみは駄目なことだという執着が心の中にある場合、苦しみを一番に感じさせてくるのかも知れません。 気付かずに執着している場合は、その気付いていないまま苦しむことが駄目だと執着しているかも知れません。 苦しんでは駄目だから、苦しんでもいい。苦しむだけの人生ってのも、それはそれで素敵(あり)かも知れない等と思ってみては如何でしょう? この世はもしかすると、苦しみと幸せのどちらも本質ではないのかも知れません。 しかし本質は、そのどちらも欠けては見つからないものなのかも知れません。 だから苦しみや幸せのどちらかに執着することってのは、本当に苦しいんだと思うのですよ。 この世とあの世のどちらかに執着するのも、苦しいのかも知れません。 この世とあの世で両方で何かを知る(気付く)為に、私達は生きているのかも知れません。 そして死ぬのかも知れません。 つまりは、どちらともにも執着をしない。 本質に気付くまで、繰り返されるのでしょうか…。 本質が、苦しみとか幸せとか(等)の言葉では説明が出来(つか)ない場合…。 多分誰にも教えることが出来ないもので・・・各々が自分(自身)で気付くしかないのかも知れませんね。 見えなくて、言葉にも表せられなくて、形でも説明が出来ないのかな? もしかするとそれが愛なのかも知れないし、愛すら越えた何かかも知れないし。 そして人々は既にそれを感じ取っているのかも知れないし…。 ただ・・それを表現することが出来ないだけで。 この世にそれを表現する領域?が無いのかも知れないし。 そもそも表現するようなものでは無いかも知れません。 まあとりあえず、苦しむことから逃げないで、ってことだと思います。 私も毎日苦しくって、夜になると呼吸が苦しくなったりすることもあります。 徐々にその苦しみを、許容して行こうかなって思っています。 たまに死にそうになることもありますが、それがずーっと続く訳では無いのでね。 どちらにも執着しない・・それは難しいことですが。 昔は良く、お風呂で息を止めて遊んでいたものですが、自分でやろうしてして苦しむ分には全く苦しく感じないのに(むしろ楽しいかも知れません)、自分が予期しないで苦しむことになると途端に、苦しみにもがき苦しむ羽目になりますからね。 予期しない苦しみは、より苦しめますし…。予期しない喜びは、より喜べます。 予期した喜びは薄れます(逆に苦しむ?)し、予期した苦しみも薄れます(逆に楽しめる?)。 悟ろうとして悟るよりは、悟ろうとしないで悟った方が本当に実感出来るのかも知れませんね。 求めて手に入ったものよりは、諦めた時に手に入ったものの方が何倍も嬉しさを感じられるかも知れません。 とりあえず、どちらにも執着しない。 諦めても手に入るものこそ、本質なのだろうか…。 私もそろそろ、楽しもうとすることや幸せになろうとすることに・・、夢を叶え様とする思い等を諦めようかな。 苦しんでは駄目だとすることも諦めよう。上手く行かせようとすることも諦めて、人生を諦めようかな。(死ぬとかの意味ではないです。色々な望み(希望)を諦めるというか) 多分周りの人って色々と諦めるな!って感じで言って(教えて)くると思うんですよね。 諦めてもいいのかも知れません。執着しないって点ではね。 色々と諦めないで居ようと思うとなかなか苦しいんでね。 諦めてはいけないっていう思いの執着を手放そうと思います。 人生諦めてもいい。何となく、苦しみや重さが軽減されそうです。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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回答:No.100さんの回答が適切です。 私からは、私のお姉様がつくった、何気ない「詩」を贈ります。 ーーーーー「お姉様の詩」 じょうずになんてならなくていい うまく泳ごうなんて思わなくていい たくさん身につけたのなら それをひとつずつ忘れていけばいい わたしというからっぽの湖を ゆっくりと満たしていく水の音 その透明な きれいな音を 耳を澄まして 静かに聴いているだけでいい どんな言葉からも 観念からも遠く 静かな 明るい空の下で わたしが少しずつ満たされていく やがてその水はわたしのふちからあふれだして 別の誰かを満たしはじめる それがいっぱいになれば また別の誰かへ そしてまた 別の誰かへ きこえない時は 何もきかなくていい かわりに何かを 考えようとしてはいけない きこえなくても 水はたえまなく注いでいる 何のためでもなく ただ わたしとあなたを満たすために
- 雪中庵(@psytex)
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他人や社会によって生かされ、外に生きる意味を求めるが ゆえに、それが得られなかったり、認められなかったりした 場合に、自我が不安定になる。 宇宙が存在するのは、認識されるがゆえにであり、それは 自己の内なる生きる意志の投影に基づく。 自己が成立するための必要(自我仮説と時空仮説の相補 分化)として生じている環境が、生きる意志を充たさないな らば、それはあなたがいるのは戦場であるという事だ。 どんなに周りのものが優しく、美味しそうな餌に見えても、 それはあなたの生きる意志を削いで、自己チューな意識に 留めて他律的に操る拘束衣に過ぎない。 期待してはならない。戦場に甘える相手はいない。 座右の銘は「常在戦場」である。
- shirouneko
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下のANo.98の続きのようなものです。 心の自立と言ってもどういうことなのか?ということが書かれていませんでした。 お絵描き添付もしてみますので、そちらも参考にして下さい。 心の自立をしなければいけないと思っても、どうやればわからない状態で 辛く苦しく孤独でどうすることも出来ない状態から抜け出せないかも知れません。 常に不安定で「フラフラ」な状態かも知れません。 そこで、これは極論?かも知れませんが 上下(地面)が無い状態だと思って下さい。 地面(上下)がある状態ですと、倒れるのがいけないことだと何となく思ってしまいます。 そこでフラフラしてしまうのですが・・・・・。(そこで支えを常に求めてしまう気持ちが生まれかねません) 倒れるのを阻止しようと何となく思ってしまって、常にフラフラ状態となってしまうのです。(倒れるのを阻止しようと何となく思ってしまって、常に支えを探してしまう(求めてしまう)状態となってしまうのです) そこで地面が幻想だと気付けば、倒れることは一生出来ないのです。 つまりは人々は棒状のような不安定な物質ではなく・・・、 つまりは円そのものだったということに気付けばいいというか。 円だったら倒れられませんよね。 円だったら別に誰かの支えとか必要ありませんし。 円ならば、誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられる心配もありません(不安も必要ありません)。 そこで何となく「えー?ずっと廻り続けるの??」っていう不安が出てきてしまいましたが そこで軸を地球にしてみるんですよ。 地球自体は、自転も公転もし続けています。 それに乗っかってしまうんです。 自分が幾ら悩もうが辛かろうが苦しかろうが、地球は私達人間や生命が何を考えようが・・・ ずーっと廻っているんです。 地球の廻りに同化してしまおう! 私達一人ひとりの悩み等・・地球の存在に比べればちっぽけかも知れない。 そんな地球に軸を合わせ、乗っかってしまうんです。 私達が幾ら歩みを止めようが、動けなかろうが…地球は動き続けているんです。 それに乗っかってしまうんです。 何となく虚しさや辛さを感じ、生きていても止まっているような錯覚を覚えてしまうかも知れませんが。 地球の動きに合わせる。私達が幾ら悩もうが止まろうが、地球は動き続けている! ならばそれに合わせよう。合わせて生きよう・・それだけです。 ちょっと極論過ぎますかね??? これは地球に依存しているのでは?と思われるかも知れませんが、 主軸は自分です。 自分の主軸と地球の主軸とを合わせるような感覚かな?と。 別にこうで無くってもいいとは思いますが、とりあえず私の今の結論はそんなところに行き(辿り)着きました。
- shirouneko
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この世は「心の自立」を計る為にある世界なのかなと思いました。 私の見方からすれば、この世はエゴで全てが作られています。 今のところエゴ=愛だと勝手に考えています。 そうでは無いかも知れませんが。 愛を知る為、苦しむ為にこの世があるのならば、 エゴという存在はもってこいの存在です。 働くことも、恋愛も、その他全てのことがエゴから起きている(作られている)ものだと思います。 エゴを別の言い方で言い換えると、「確固の無い自己」かな~と…。 それはあやふやで脆く崩れやすい。 その結果人は色々と苦しんでいるんだと思います。 そこで最近気付きましたが、私はどうやら依存性人格(パーソナリティ)障害かな?って思い至りました。 しっかり当てはまる訳ではございませんが、この傾向が自分の人格には見られます。 この世にいる人々は、何かしらのパーソナリティ障害を少なからず持っている(抱いている)様にも見受けられます。 その作用が強いか弱いかの違いではないかな?と…。 これは私の見方なので、違うかも知れませんが。 一度パーソナリティ障害が何かを、調べてみると良いかも知れません。 私の場合は、他者や周りに自分の存在価値(存在の是非)を委ねておりました。 だから周りから思った様な結果が得られないと、苦しくなり居た堪れなくなり死にそうになりました。 幼少期か何かに、母から否定されたりするとそういう傾向になるらしいです。 (原因はそれだけではございませんが、親がアルコール依存症だったり虚弱体質だったり等など) そこで自分の存在は周りによって決まったり、濃くなったり消えたりするものではないと思い至りました。 最初から何を周りに否定されようが拒否されようが批判されようが(逆に受け入れられようが評価されようが)、自分の存在は薄くなったりも濃くなったりもせずずっとそのままだったことに気付きました。 虚しい気持ちというものも、他人や他者や周りに「自分の存在の価値(是非)」を委ねてしまっているところから来ているのでは無いでしょうか? 違うかも知れませんが。 この世では、結婚したりして親元を離れる自立はございますが…。 それが出来ていても、心の自立が出来ているが=になるとは思えません。 人々の目標は、何をしていようが「心の自立一点」に絞られるのでは無かろうか?とも思います。 心は見えません…。 だから心の自立はより難しいものなのかも知れません。