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和歌を理解するのに仏教知識は必要でしょうか?

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.3

「お礼コメント」をありがとうございました。 >ご紹介いただいた4首をありがたく日々思いめぐらし、過ごそうと思います。 ⇒「スレ違い」にもかかわらず、優しいコメントをありがとうございました。 ところで、あちらでも、こちらでも、「三部合唱」の観がありますね。お互い、周波数が近いからでしょうか。ま、それはともかく、以下のとおり、このお尋ねにお答えします。 >和歌を理解するのに仏教知識は必要でしょうか? ⇒確かに、仏教を考えることは、西行の歌や当時の世情・歌集を理解することはむずかしいと思います。しかしそれは必ずしも、仏教がすべての和歌の心に通底するという意味ではないかも知れません。 そうでなく、「和歌を味わうためには」、あるいは、さらに敷衍することが許されるならば、「よく生きるためには」その時々の特有の背景を知ることが求められる、ということではないでしょうか。それは、今の自分に引き寄せて考えれば、現代の我々もまさに現下の実情を等閑視しては、複雑奇怪な現代を生きることもままならない、ということを教えていると思います。 さて、西行のことです。 西行の出家事情は、自然に問うて、瞑想し、自省し、求道し、哲理・理法を探訪したいという願望から出たものと思われます。当時、人々は戦乱と災害に打ちひしがれ、末法の感を強くし、「仏教による救いを願い、社会全体が仏教帰依を求めていた」、ということを考え合わせれば、「うべなるかな」ですね。 旅の途上で和歌をたくさん(2100首とされる)詠んだのも、瞑想のincarnation(具現)のためであり、その結果でもあった、と言えるのではないでしょうか。 「さびしさは秋見し空にかはりけり 枯野を照らす有明の月」(山家集) は、どことなくそれを示唆しているように思えてきます。 彼の歌は、新古今和歌集(旅の部)にも多く採られていますが、上記の世情はこの歌集の特徴とも呼応していますね。つまり、一般に、「夜明けの美」(万葉集)や「白日の美」(古今集)に対し、「落日・たそがれの美」とされるのがこの新古今集に他ならない、と言われるからです。 西行の苦悩がおもに戦乱と災害に起因したとすれば、現代のそれは、おそらく、災害と人心の腐敗といったところではないでしょうか。このコロナ禍の時代に求められるもの、それは、 「科学+国際協調+共存・共生の哲学=総合人間学」 といった図式ではないか、と勝手に推測する次第です。 西行は、辞世の句とも見えるこの歌を詠みました。 「願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」。 このように安心立命を願った西行に呼応して、私は空想の恋人に「安心活命」を託して、こう詠んでみました。 「いつまでも君と花のを駆けばやな 君がおぐしに野菊を添えて」。

lived_in_room13
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 こちらのままでも、打ち間違いには気が付いておりましたので、大丈夫でしたが、わざわざありがとうございます。 またよろしくお願いいたします。

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