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【(元も含む)クリスチャン”のみ”】にお伺いします

cincinnatiの回答

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.4

>それによって私の気付きなどの類いを促す目的も含まれているのか。あるいは全く他の何かか。 再度ご質問がございましたので、回答をしたく願いましたが、範囲が広範囲に及びまして、個々に解説を述べることは不可能と思いますので、マタイ7章の13-14節「14狭い門から入りなさい。滅びに至る道は広いからです。そして、そこから入ってゆくものが多いのです。14命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出すものはまれです。」という箇所のみについてコメントをしたいと思います。 私どもクリスチャンの基本的な願いは他の人たちに自分と同じようになっていただくことに尽きると思います。ご指摘のそれぞれの箇所はある意味で人々を神の最終目的地に私どもを導くための目印にすぎません。一つ一つの文章を吟味していただきますと、人々は罪にけがれており、それゆえに完全に正しい神と友好関係を持つことが出来ないと述べています。しかもその道に至る門は見つけるにも入るにも難しいと述べて、読者に探索のための決意を促しております。 ご質問者さんがお礼の箇所で述べられましたように、回答者はご質問者さんに「気づいてほしい」と願って書き初めました。それ以外の意図はございません。以下に述べることも同様に神の存在に気付いてほしいと言う願いから一歩も外れておりません。 この聖書箇所は有名な箇所で、小説の題目になったり、スピーチや普段の会話の中にしばしば出現します。この狭い門は新約聖書をある程度読み進めてゆきますと、イエスキリストへの道であり、永遠の命の道であり、聖書が述べる真理に至る道です。なぜこの道から入らなければならないかは明白です。つまり聖書にある通り、「人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ない」。その結果人は不必要に不幸な人生を送っていると述べています。その不幸の中身は自分の内にある罪の奴隷状態、無目的な人生にある不安、価値を見出せない人生にある焦燥感などなど際限なく上げることができると思います。そのような不幸の元凶からの解放に狭き門は通じています。あなたは意味のある目的のはっきりした、悔いのない人生を歩んでいますか。広い道を歩いてしまって、狭い門に至る道に入っていないのではありませんかと述べています。 神の国は選択をし終えるまで、その門をくくりぬけるまでわかりません。しかしその門を抜けて振り返ると、その門には「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだのだ。ヨハネ15章16節」と記載されています。つまり決断して飛び込んだ者だけが神の国の様子がわかると言う順番になっています。 神はあなたに将来と希望と平安を与えると述べています。今日は教会で1日過ごしており、少々疲れておりましたので、思いつくままに記載させていただきました。

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答を拝見した率直な感想を以下に記しますので、誤解や私の無自覚など指摘すべき点がありましたらどうぞ遠慮なくご指摘ください。 だんだん摺り合わせていけば良いと考えております。 先ず、cincinnatiさんは私をノンクリスチャンだとお考えなのでしょうか。 そうだとすれば、私は教会には通っていませんが、クリスチャンでいるつもりだということは申し上げておきます。 さて。 以前に教会に行っていた頃、一緒に居た教会員の方とこういうやりとりをした事があります。 教会員「我々の目的は自分たちと同じ様にイエス・キリストを信じる者になってもらう事だ」     ※この時言葉には表現されていませんでしたが、(我々が精進するのはもちろん、いくつかあるクリスチャンの目的の一つとしては)という旨が含まれている程度の良識は信じて聞いていました。 cinchinnatiさんと同じでしょうか。 私「キリスト=真理」ですから、イエス・キリストという形式を必ずしも信じる必要はなく、仏教でも他の宗教でも、もしかしたら宗教ではなくても真理を信じている者はキリストを信じている事と同義の可能性を否定できない。 そうでなければ、私たちが日常お付き合いしているほぼ全員に対して「あー。この人たちは将来滅びて永遠の火の中で苦しむんだなー」と思いながらお付き合いしているという事になりはしないか? というものです。 時間の都合でこれ以上は話せませんでしたが。 私としてはクリスチャンでもちょっと疑問に思う人を見聞きしますし、クリスチャンでなくても尊敬に値する人は居ます。クリスチャンの観点からです。 私は「そう感じる事はあっても」、そうだと知っている訳ではありませんから、自分の罪が赦されていると感じても、それをもって絶対とする事はできずに居ます。 ※私に向かって主よ、主よと呼ぶ者が天に入るわけではなく、父の御心を行う者が天に入ると言われていますね。 ですから、上記の様な心の姿勢は私から見て思考の足りていない傲慢に映っています。 いかがでしょうか。 例えば、ハーバード大学を主席で卒業するのは狭き門でしょうか、広き門でしょうか。 世界の人口に対する割合で言えば大分狭き門と言えると思いますがいかがですか? でも、それがクリスチャン的に何か意味がある事でしょうか。 ハーバードを主席で卒業となれば世間一般の価値感としては「お~!」という位の反応は最低でも出るでしょう。 でも、クリスチャンとしてはそれ自体だけではほぼ何の意味もありませんよね? ※「この建物を素晴らしいというのか。この建物の石の一つでさえここに残る事はない」のと同じです。 つまり、狭ければ良いという問題では無い様にも思います。 ハーバードを主席で卒業するにも並大抵の努力では行けないと思いますし。 また、仕事のできる人ほど内心狭量だったりというのはありがちな事です。 仕事ができる様になるためにもそれ相応の狭き門を通らねばなりませんから、小さな事に注意を配り、微細な動きの行く末を読まねばなりませんから、”デキナイ人”の鈍さなどに内心イラつくのもわからないではありません。 でも、この狭量はクリスチャン的な観点からどうでしょう。 cincinnatiさんの狭き道が本当の意味で狭き道なのかどうかは私には解らないという事です。 cincinnatiさんもクリスチャンとしての良識はお持ちでしょうから、クリスチャンになった後もその前に持っていた傾向が完全に消えてなくなる訳ではなく、日々改めと修正が不可欠なのはお分かりですよね? ※「一度救われた者が再び罪に立ち返るなら、そのものにはもう手だてがない」をどのように受け止めていらっしゃいますでしょうか。 ですから、教会に行った際に「キリストを信じている事をもって既に救われていると考えている」クリスチャンを見る時、やや抵抗があるのです。 もちろん、そういう信念を持つ信仰が不可欠ですから、言葉に表現できる範囲でこの違いを描写するのは困難です。 「キリストを信じている事をもって既に救われている」 これは信仰の見本とも言えるのですが、反面手本というよりはどちらかというと単なる怠慢による傲慢と言えるケースもあるのかもしれません。 いかがでしょうか。 このように、私は日々深い自省をしながら快楽無法主義の現代社会人たちとの付き合いに、いまだ答えを出せておらず、自分がどうあるべきなのかが解らないでいるのです。 正直、この2回のご回答を拝見した限り、現段階ではおそらく私の方が色々と考えも回っているし、信仰に対する気合いの入れこみも恐らく劣ってはおらずなどと思ってはいますが、それを自分で決めても何にも意味がありません。 決めるのは神様だけですから。 考えが回っていれば良いと言う問題でもありませんし。 ただ、参考意見として吸収するか、不明瞭な発言としてどうとらえるべきか解らず目の前を浮遊する事になるかは私によるところです。 と失礼を承知でここまで申し上げましたのは、私から見てchinchinnatiさんの仰っている事は私としては既に百も承知でそれを踏まえた上での質問なので、その段階のご回答をお願いしますという気持ちがあるからです。 もし私の読み違えならご指摘を頂き、私の見解が合っていればそれ相応の改めを伴ったご回答をお願いしたく存じます。 重ね重ね、失礼を深くお詫び申し上げます。 何卒、よろしくお願い致します。

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