• 締切済み

【(元も含む)クリスチャン”のみ”】にお伺いします

こんにちは。 気分を晴々とさせたいが今ひとつできないでいる自身故の素朴な質問です。 初めにお断りする事自体がナンセンスな部分もあろうかとは存じますが、このカテゴリでは程度の低い回答(人格を欠くもの、軽率なもの、知性を欠くもの等)が横行していますので、ナンセンスを押してあえてお断り致します。 【以下の質問について、相手を責めているつもりは全くありませんので、勝手に気分を害したり、自責の念が生じた怒りの矛先をこちらに向ける等して噛み付いてくる様な回答や、上記致しましたような程度の低い回答の相手をしない事はご容赦下さい。】 さて、質問の本題です。 (元も含む)クリスチャンのあなたは、マタイによる福音書23章23節~28節を読み、現状の日本(あるいは世界)と自身との関係性の中、自身をどのように捉え、周囲の人々をどのように捉え、どうすれば良いとお思いでしょうか。

noname#208045
noname#208045

みんなの回答

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.5

再度ご質問をいただきましたので、しかしながらご質問が多くの方向を向いておりますので、今回は以下のご質問にお答えすることで、お許しいただきたいと思います。 >先ず、cincinnatiさんは私をノンクリスチャンだとお考えなのでしょうか。 >そうだとすれば、私は教会には通っていませんが、クリスチャンでいるつもりだということは申し上げておきます。 ご質問者さんをクリスチャンであるとかないとかということは、神がすでに決めていることですので、1-2の文章を読んで軽々に判断することは避けたいと思います。ただしかし次にような子供は確かに神の子供と言えるように思います。 この子供の名を仮にジョンと言う名だとします。また彼自身は孤児院に入っており、知的にも障害を持っていた子供だったということを記憶しております孤児院ではいつも週の初めの日、つまり日曜日には牧師が来て、聖書の話が語られていました。その日も牧師が来て、神は愛であるなどどいうことが語られました。数十年前に読んだ本ですので、記憶がかなりあいまいですが、整合性を持たせるために不明部分は回答者が適当に作文をしております。その日牧師は愛とは結局は「その友のために命を捨てることだ」と述べ、イエスキリストが私どもの罪のために十字架で、私どもの身代わりとなって死んだと言う聖書の中心ともいうべきお話をされました。 少年ジョンはその話を聞きながら僕もイエスに従ってイエスのように生きようと決心しました。ある時彼が乗っている船に事故が起こり、船底に丸い穴が開いて水が流れ込んできました。そのまま放っておけば船が沈んで人々がなくなるのは時間の問題でした。次の瞬間かれは自分の足を穴に突っ込みました。確かに水の浸水の速度をかなり抑えることが出来ましたので、多くの人が助かりましたが、結局は彼は船もろとも海底に沈んで命を落としてしまったのです。つまり彼は自分の命を捨てて人々を助けたのですす。まさに「その友のために命をすてる」という神からの命令を守ったのです。 キリストに従うものあるいはキリストに属するものという意味がクリスチャンと言う意味だと思いますが、この少年こそクリスチャンであったと言うことが言えると思います。とは言え、ご質問者さんに人々のために命を捨ててくださいと述べているわけではございません。キリストに従うと言うことを述べているのであって、そのような決断をすることによってむしろ命を得てくださいと申し上げたいと思います。 突き詰めれば、自分がクリスチャンであるとか、洗礼を受けているとか、教会員であるとか、聖書を読んでいるからということは意味のないことではございませんが、聖書の中心ではございません。聖書は重要なことは多くない、むしろ一つだけであると述べています。その一つを今後も求めていただければ幸いです。

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 私がクリスチャンであるかないかを決めているのは確かに神様ですね。 ただ、私はそういう大層な意味でクリスチャンという言葉を使った訳ではありませんでした。 軽率でしたね。 あなたに謝っても意味のない事ですが、他に相手が居ないのであなたを神の代理としてあなたに誤っておきます。 軽率な発言をしました。 申し訳ありませんでした。 さて。 相変わらずすれ違っている様です。 どこをどうすれ違っているかお気づきですか? あなたに特に特筆すべき問題点があるわけではないのですが、このカテゴリでは知能レベルが常軌を逸して低い方が珍しくありません。 すれ違いすら修正できない事ももう慣れました。 あなたはすれ違いを直す気はありますか? 私はあるのであなたがあるならお互いにすりあわせませんか? 一方通行では会話の意味があまり生じませんから。 もし摺り合わせる気がお有りでしたら、次回答ではぜひその一歩をお見せ頂ければ幸いです。 私の方は質問に現れている通り、あなたへの応答で書いている通り、あなたの言葉を借りれば無定見な人たちとの向き合い方に迷っているだけで、その参考意見をお聞きしたいだけです。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.4

>それによって私の気付きなどの類いを促す目的も含まれているのか。あるいは全く他の何かか。 再度ご質問がございましたので、回答をしたく願いましたが、範囲が広範囲に及びまして、個々に解説を述べることは不可能と思いますので、マタイ7章の13-14節「14狭い門から入りなさい。滅びに至る道は広いからです。そして、そこから入ってゆくものが多いのです。14命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出すものはまれです。」という箇所のみについてコメントをしたいと思います。 私どもクリスチャンの基本的な願いは他の人たちに自分と同じようになっていただくことに尽きると思います。ご指摘のそれぞれの箇所はある意味で人々を神の最終目的地に私どもを導くための目印にすぎません。一つ一つの文章を吟味していただきますと、人々は罪にけがれており、それゆえに完全に正しい神と友好関係を持つことが出来ないと述べています。しかもその道に至る門は見つけるにも入るにも難しいと述べて、読者に探索のための決意を促しております。 ご質問者さんがお礼の箇所で述べられましたように、回答者はご質問者さんに「気づいてほしい」と願って書き初めました。それ以外の意図はございません。以下に述べることも同様に神の存在に気付いてほしいと言う願いから一歩も外れておりません。 この聖書箇所は有名な箇所で、小説の題目になったり、スピーチや普段の会話の中にしばしば出現します。この狭い門は新約聖書をある程度読み進めてゆきますと、イエスキリストへの道であり、永遠の命の道であり、聖書が述べる真理に至る道です。なぜこの道から入らなければならないかは明白です。つまり聖書にある通り、「人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ない」。その結果人は不必要に不幸な人生を送っていると述べています。その不幸の中身は自分の内にある罪の奴隷状態、無目的な人生にある不安、価値を見出せない人生にある焦燥感などなど際限なく上げることができると思います。そのような不幸の元凶からの解放に狭き門は通じています。あなたは意味のある目的のはっきりした、悔いのない人生を歩んでいますか。広い道を歩いてしまって、狭い門に至る道に入っていないのではありませんかと述べています。 神の国は選択をし終えるまで、その門をくくりぬけるまでわかりません。しかしその門を抜けて振り返ると、その門には「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだのだ。ヨハネ15章16節」と記載されています。つまり決断して飛び込んだ者だけが神の国の様子がわかると言う順番になっています。 神はあなたに将来と希望と平安を与えると述べています。今日は教会で1日過ごしており、少々疲れておりましたので、思いつくままに記載させていただきました。

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答を拝見した率直な感想を以下に記しますので、誤解や私の無自覚など指摘すべき点がありましたらどうぞ遠慮なくご指摘ください。 だんだん摺り合わせていけば良いと考えております。 先ず、cincinnatiさんは私をノンクリスチャンだとお考えなのでしょうか。 そうだとすれば、私は教会には通っていませんが、クリスチャンでいるつもりだということは申し上げておきます。 さて。 以前に教会に行っていた頃、一緒に居た教会員の方とこういうやりとりをした事があります。 教会員「我々の目的は自分たちと同じ様にイエス・キリストを信じる者になってもらう事だ」     ※この時言葉には表現されていませんでしたが、(我々が精進するのはもちろん、いくつかあるクリスチャンの目的の一つとしては)という旨が含まれている程度の良識は信じて聞いていました。 cinchinnatiさんと同じでしょうか。 私「キリスト=真理」ですから、イエス・キリストという形式を必ずしも信じる必要はなく、仏教でも他の宗教でも、もしかしたら宗教ではなくても真理を信じている者はキリストを信じている事と同義の可能性を否定できない。 そうでなければ、私たちが日常お付き合いしているほぼ全員に対して「あー。この人たちは将来滅びて永遠の火の中で苦しむんだなー」と思いながらお付き合いしているという事になりはしないか? というものです。 時間の都合でこれ以上は話せませんでしたが。 私としてはクリスチャンでもちょっと疑問に思う人を見聞きしますし、クリスチャンでなくても尊敬に値する人は居ます。クリスチャンの観点からです。 私は「そう感じる事はあっても」、そうだと知っている訳ではありませんから、自分の罪が赦されていると感じても、それをもって絶対とする事はできずに居ます。 ※私に向かって主よ、主よと呼ぶ者が天に入るわけではなく、父の御心を行う者が天に入ると言われていますね。 ですから、上記の様な心の姿勢は私から見て思考の足りていない傲慢に映っています。 いかがでしょうか。 例えば、ハーバード大学を主席で卒業するのは狭き門でしょうか、広き門でしょうか。 世界の人口に対する割合で言えば大分狭き門と言えると思いますがいかがですか? でも、それがクリスチャン的に何か意味がある事でしょうか。 ハーバードを主席で卒業となれば世間一般の価値感としては「お~!」という位の反応は最低でも出るでしょう。 でも、クリスチャンとしてはそれ自体だけではほぼ何の意味もありませんよね? ※「この建物を素晴らしいというのか。この建物の石の一つでさえここに残る事はない」のと同じです。 つまり、狭ければ良いという問題では無い様にも思います。 ハーバードを主席で卒業するにも並大抵の努力では行けないと思いますし。 また、仕事のできる人ほど内心狭量だったりというのはありがちな事です。 仕事ができる様になるためにもそれ相応の狭き門を通らねばなりませんから、小さな事に注意を配り、微細な動きの行く末を読まねばなりませんから、”デキナイ人”の鈍さなどに内心イラつくのもわからないではありません。 でも、この狭量はクリスチャン的な観点からどうでしょう。 cincinnatiさんの狭き道が本当の意味で狭き道なのかどうかは私には解らないという事です。 cincinnatiさんもクリスチャンとしての良識はお持ちでしょうから、クリスチャンになった後もその前に持っていた傾向が完全に消えてなくなる訳ではなく、日々改めと修正が不可欠なのはお分かりですよね? ※「一度救われた者が再び罪に立ち返るなら、そのものにはもう手だてがない」をどのように受け止めていらっしゃいますでしょうか。 ですから、教会に行った際に「キリストを信じている事をもって既に救われていると考えている」クリスチャンを見る時、やや抵抗があるのです。 もちろん、そういう信念を持つ信仰が不可欠ですから、言葉に表現できる範囲でこの違いを描写するのは困難です。 「キリストを信じている事をもって既に救われている」 これは信仰の見本とも言えるのですが、反面手本というよりはどちらかというと単なる怠慢による傲慢と言えるケースもあるのかもしれません。 いかがでしょうか。 このように、私は日々深い自省をしながら快楽無法主義の現代社会人たちとの付き合いに、いまだ答えを出せておらず、自分がどうあるべきなのかが解らないでいるのです。 正直、この2回のご回答を拝見した限り、現段階ではおそらく私の方が色々と考えも回っているし、信仰に対する気合いの入れこみも恐らく劣ってはおらずなどと思ってはいますが、それを自分で決めても何にも意味がありません。 決めるのは神様だけですから。 考えが回っていれば良いと言う問題でもありませんし。 ただ、参考意見として吸収するか、不明瞭な発言としてどうとらえるべきか解らず目の前を浮遊する事になるかは私によるところです。 と失礼を承知でここまで申し上げましたのは、私から見てchinchinnatiさんの仰っている事は私としては既に百も承知でそれを踏まえた上での質問なので、その段階のご回答をお願いしますという気持ちがあるからです。 もし私の読み違えならご指摘を頂き、私の見解が合っていればそれ相応の改めを伴ったご回答をお願いしたく存じます。 重ね重ね、失礼を深くお詫び申し上げます。 何卒、よろしくお願い致します。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.3

プロテスタントのクリスチャンで、昔、聖書に帰ろうという運動を起こしたマルチン・ルターという方の考え方の中におります。ご指定の箇所を読んでみますと、概要はイエスは律法学者やパリサイ人に外見ばかり正義の使者のような顔をしているけれど、心の内側は罪にけがれていると述べていると思います。 ここで気が付かされたことは自分もしばしば律法学者のようであり、パイサイ人のようである時があるという自覚です。つまり律法学者は正しい生き方を人々に勧めておりながら、自分では実行していない。パリサイ人は自分は正しい行いをしていると見栄えだけを追求している人々です。しかし自分もその部類に入る可能性があると言う自覚を持たされました。 実際問題として、自分の心をのぞいてみたときに明確にわかることは、立派なことなど一言も言えないほど、それこそ立派な罪人で、新聞やテレビの報道で見聞きする犯罪者顔負けの自分がいると言う自覚を持っております。ご指定の箇所の27節では: 23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 とイエスは述べています。私どもは内なる世界において、自己の問題、言葉を変えますと、自分の内にある罪の性質を知りつつ、人を愛するはるか以前にまず自分を愛し、人の利益を図る前にともあれ自分が利益を得ることを考えます。どこまで行っても自分、自分の世界を抱えつつ、ご質問にありますようにこの社会と対峙しております。その結果が国家間であれば、戦争があり、国内においては何らかの紛争があり、会社や学校においては小競り合いやいさかいが絶えないということになります。このようなことの原因の多くが実は一人の人間の罪から始まっています。 このような社会において、聖書は現実的な回答を与えてくれています。長くなりますので、2点ほど記載したいと思います。 1)聖書で、イエスは「私の弟子となりたいものは十字架を背負って私にしたがってきなさい。自分の命を救おうと思うものはその命を失い。私のために命を捨てるものはまことの命をえるであろう。」という趣旨のことを述べています。つまりイエスキリストがご質問者さんの主となってしまいましたら、この世の権威やはたまた周りの人々の無定見なご意見に惑わされることなく、百万の敵がいようとも我ゆかんという気概を持つことが出来ると思います。何はともあれ神が自分の権威になってしまいましたら、この世に怖い事柄の多くは消えてなくなると思います。 2)また上の記載事項以上に重要なこととして、キリストが自分に従うものに与えられることの一つに、神の目にご質問者さんの罪がゆるされると言う宣言があります。これは行いでもなく儀式でもなく宗教でもありません。ただ一つ聖書を神の言葉と信じることによって即座に達成されます。さらに正確に述べれば、イエスキリストの十字架上での死とその後の復活を信じるならば、すべてをその時点で即座にご了解いただけると思います。 つまり聖書を読むことにより、この回答者は社会といつも対峙しております。

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 申し訳ありません。 今ひとつ仰っている事の要領を得る事ができませんでしたので、念のため確認なのですが。 このサイトでは多くの場合「相手に対して働き掛ける意味の強い(概ねそれのみ)発言が多い」のですが、cincinnatiさんはご自身のスタンスの表明をなさるに留めていらっしゃるようにも見受けられます。 ただそれだけをするためか、それによって私の気付きなどの類いを促す目的も含まれているのか。 あるいは全く他の何かか。 マタイ7:1~27 マタイ25:14~30 マルコ16:15 コリント一9:19~22 ローマ13:01 これらを踏まえた上で、現代社会に生きるクリスチャンとして社会に対峙するとき、具体的にどうあるべきだ思われますでしょうか。 一旦私の見解は置いておいて、純粋にcincinnatiさんのお考えを聞かせて頂ければ幸いです。

  • veradico
  • ベストアンサー率44% (11/25)
回答No.2

 ご提示の聖句は,大変厳しい問題を扱ってはいますが,クリスチャンで有る無しにかかわらず重要な意味を持つと思います。 なぜなら,まず,聖句に登場する「律法学者、パリサイ人たち」(日本聖書協会1954年口語訳)は,クリスチャンではなかったわけですが,「神の名を唱える者」ではありました。また,人に強い影響を及ぼしていたことは明らかです。  イエス・キリストは,特に上記のような者たちの行いに対して「律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」「杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。」「外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」と述べ,価値判断をはっきり示しました。これは,要するに「神の名を唱える者」でありながら,「無価値」な心の態度,行為,,生き方・歩み方をしている,それゆえ,強い非難に値するという趣旨ではないでしょうか。  そうしますと,この種の問題は,クリスチャンだけに関係したことなのでしょうか。およそ人間社会において,公平や忠実の無視,偽善,欺まんなどの態度と行動が,例えば法的に価値があるとされるような世界はないでしょう。そのような態度と行動を続けるなら,いずれは破綻するでしょう。  では,「どうすれば良い」のでしょうか。少なくとも,次の二つの点に注目できると思います。  一つは,イエスは,ただ非難しただけでなく,どうすべきかについても,ある程度告げている点です。例えば,「まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。」(マタイ23:26)という点です。「内側」とは,どう考えても,心の態度,日頃持っている動機や目的などのことではないでしょうか。それは,通常は他人の目には見えず,内側に隠されていますが,口で語ったり,行動したりすることで外側に現われます。  もし,上記の聖書ことばを十分に守りたいと思う場合,どうすれば良いかは明らかです。自分にそうした態度があるか反省し,ある場合は捨てる・やめる,さらには,そうした人々と価値観を共有したりしないようにするのではないでしょうか。もちろん,現実には,偽善のない世界はないわけですが,結局,上記の聖書ことばに対して,各自が「自分として,どうしたいか」に帰着すると思います。要するに,上記の聖書ことばに接した場合,自分はどんな生き方をしたいか,自分は何を求めるのか,自分は何が「価値がある」とするのか,という点で試みられるのではないでしょうか。  もう一つは,当時の「律法学者、パリサイ人たち」が,その後「どうなったか」という点です。  確かに,当時の「律法学者、パリサイ人たち」がどうなったかは,直接的・個別的には書かれていませんが,考えさせられる重要な「状況証拠」とも言えるものがあります。ご存じの通りですが,(名称はともかく)ローマ軍によるエルサレム攻囲戦において,「後世にこの場所を訪れる者が、この地に人が住んでいたことを信じられなくなるほどに破壊され」,ティトゥス(将軍)は,「自分たちの神に見捨てられた民を征服しても、何も得るものはない」と語ったとのことです。(Wikipedia:「エルサレム攻囲戦 (70年)」の項)  しかし,もっと重要なのは,聖書の記述です。例えば,イエス・キリストは,福音書において「それは,聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日である」(ルカ21:22),「この民にはみ怒りが臨(む)」(同23節)と述べています。また,「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言し…,悪霊を追い出し…,多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイ7:22,23) と書かれています。それで,偽善・欺まんを働く者たちが「ただ」で済んだはずはありません。「み怒り」の対象となったと考えるのは自然だと思います。  結局,(1)上記の聖書の言葉を自分として,どのように聞き,どのように守り行うか,(2)イエスの言葉がそのとおりに実施された(実現した)という点をどのように評価するかが重要になるのではないでしょうか。

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 神が創造主なのだとすれば、神によって造られていないものは何一つない。 そうだとすれば、ノンクリスチャンであっても真理が適用されるのは言うまでもありませんが、程度の低い発言者が多いこのカテゴリの中でノンクリスチャンにそれを言っても無意味な時間を過ごす事になる場合が多いので、回答権はクリスチャンに限らせて頂いた次第です。 ご指摘頂いた「二つのどうすれば良いのかの内の先の一つ」こそ私がこの質問でご意見をお伺いしたかった主な箇所の一つです。 >内側とはどう考えても心の態度~ ここです。 会堂でイエスが恵みに満ちた言葉を言う時人々は感嘆しイエスを慕いました。 ところが、イエスは厳しい事も言うし、両替人が仕事をしているテーブルをひっくり返すし、鞭まで作ってそれらの人を追い出しています。 昨今の人々の「内側」の定義が、品行方正に振る舞う事にかなり加重がかかっているように思います。 品行方正は内側の自然な現れとして出て来ているのであればそれはとても美しい事ですが、内面が忍耐しがたいいやらしい精神でも品行方正に見せる事は可能です。 そんなものはすぐにバレるとお思いの方もいらっしゃると思います。 ところが、ステレオタイプ的に何も迷いなく歪んだ価値感や世界観を受け入れ、物心つく前からそれに慣れ親しんだ人がそれが「いやらしい」と気付く事ができるかどうか。 本人は自分は正当な意味での品行方正(と言って良い部類に属す)と考えているでしょう。 だから「あなたたちを殺すものが自分は神に奉仕していると考える」事ができる心理構造が成立すると思うのです。 ですから、お互いに正反対に見える価値感や世界観をいざという時に敵対してしまわない様に常日頃から対話する機会をもって認識をすりあわせておくのはイエスのような非凡な存在ではない凡人である我々がすべき事ではないかと思っています。 ところが、多数派は「自分たちが大勢いるから自分たちが正しい」と自動的に考える様になります。 特に日本ではその傾向が強いでしょう。 ご存知の通り「その声を聞くものは大通りにはいない」のですが、これをこうした思考停止のノンクリスチャンに言っても何も始まりません。 私は非常に小さいものですが、クリスチャンとしての人生を全うするためには今のこの法治国家の日本でさえ皆の嘲笑を受けながら命を落としたり、あるいは投獄されるような覚悟がないと全うできそうもないと思っています。 その位頑迷で野蛮な民族に私からは見えています。 どうにもこうにも自分一人があるく事位はできますが、他人を巻き込むような事態も避けたく、どうしたものかと日々思っています。 二つ目についてですが、イエスの言葉がその通り実施されたのかどうかは私には解りません。 私はこの箇所については未来の事だと思っていました。 本当に世が終わる「一瞬の内に変えられる」手前の直前の出来事なのかと。 若干本題からは逸れますがいかがでしょうか。

回答No.1

 クリスチャンもけっこういると思いますが、質問がたぶん抽象的でよくわからないです。  まずは、自分がその章節のどこに着目し、どう解釈しているかを書いて、それを問うべきです。聖書のある一節をどう解釈するかは、クリスチャンでも難しいですし、その人の状況によってさまざまなとらえ方ができます。(それぞれのとらえ方でいいはずです。)  私がこの節で気になったのは、「偽善」ですが、社会的には、「偽善」は普通です。が、様々な問題を含みますので、それをどう考えるかは、自分も悩み中です。たぶん「偽善」について程度の高い回答をできる人はなかなかいないような・・・たとえば、表裏があってはいけないのか?人のためと言いつつ自分のためじゃないのか?など、友人関係でも家族でも偽善はありますし。もっと広く一般的に問えばいいと思います。善なる回答と偽善の回答の区別すらつかないかもしれませんし、もっといえば自分の善が偽善かもしれません。何が基本かは知りたいですね。  

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 別の質問でもご回答頂いていましたが、こちらでも回答下さっていたのですね。 しかも気付かずに無視してしまっていました。 申し訳ありません。 クリスチャンなのですか? 私の解釈を書いてから問うべきというのはある筋に於いてはそうだと思うのですが、別の筋に於いては必ずしもそうとは思いません。 バイアスを掛けてしまう事になる場合もありますし、色々な理由からです。 質問の仕方は一つではないという事です。 さて、その後のご意見ありがとうございます。 頂いた内容に私なりの意見を言いますとこうなります。 >偽善について程度の高い回答をできる人はなかなかいないような これは敷居を高くして不注意な発言を控えて頂くための意味合いが強い(もちろんそれだけではありませんが)表示なので、誠実に注意深く語られたご意見であればそれが程度の高いご意見という事になります。 >表裏があってはいけないのか? 何も問題ないと思います。 >人のためと言いつつ自分のためじゃないのか? 人のためになる事が自分のためにもなる。自分のためになる事が人のためにもなる。 これは何も悪い事ではないと思います。 論外事項は沢山ありますが省きます。 キリスト教徒であれば、「自分の命を守ろうとする者はかえって失い、キリストのためにそれを捨てる者はかえって得る」事を知っていると思います。 そういう訳で、「何が基本か」は”自然の人”どっぷりでは多分解りません。 山に登った後は麓に戻らなければならないかもしれないが、とにかく一度は上らないと行けない。

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    無宗教の女性に質問です。今、自分は婚カツしていますが、実はクリスチャンです。結婚相手がクリスチャンだとした場合、あなたはどういう行動を取りますか? なお、自分自身は熱烈とまでは行きませんが、親戚は父親の弟夫婦を除けば親戚中がクリスチャンという状態。また、母親の健康が良くなく結婚したら親とは別居は考えているものの実家から極端に離れられないという事情(入退院繰り返しており介護の必要可能性もあるため)もあります。しかも、母親の姉の旦那が牧師でもあるためクリスチャンになることをごり押しされないかと心配しています。クリスチャンをやめて駆け落ちも考えたこともありますが、母親の状態を考えるとそれも難しいかなと思っています。 結果、自分自身が折れれば済むだけのものならともかく、一般の人と婚カツして仮にいい人がいたとしても家庭の事情を2つ(クリスチャン家系と母親の介護関係)も理解してもらえないと苦しいわけですが、1つだけならともかく2つも理解してもらえる人って一般の人でそう簡単に理解してもらえるものでしょうか? なお、キリスト教というと中にはミサだとか華やかなものを想像される方もいますが、実際はそれほど華やかなものではありませんのでその辺もご注意を。日本だとキリスト教人口が1%にも満たないためそこまでのことができないのが実情です。

  • 中立の意義

    このQ&Aサイトでは、しばしば質問者と回答者とが争ひをする場面を見かけます。内容的には、感情的になるほどのものとは思へないのですけれど。本当に大切なものを守るときにこそ、真剣になるべきです。 私はさういふとき、双方をなだめるのですが、火に油で、事態が悪化し、仲裁に入つた私が双方から攻撃を受けることになります。 聖書には、中立を否定することばがあります。 では、中立に意義はあるのでせうか。 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。 」     新約聖書 マタイ福音書12章30節