• 締切済み

【(元も含む)クリスチャン”のみ”】にお伺いします

ノーバン(@nobound)の回答

回答No.1

 クリスチャンもけっこういると思いますが、質問がたぶん抽象的でよくわからないです。  まずは、自分がその章節のどこに着目し、どう解釈しているかを書いて、それを問うべきです。聖書のある一節をどう解釈するかは、クリスチャンでも難しいですし、その人の状況によってさまざまなとらえ方ができます。(それぞれのとらえ方でいいはずです。)  私がこの節で気になったのは、「偽善」ですが、社会的には、「偽善」は普通です。が、様々な問題を含みますので、それをどう考えるかは、自分も悩み中です。たぶん「偽善」について程度の高い回答をできる人はなかなかいないような・・・たとえば、表裏があってはいけないのか?人のためと言いつつ自分のためじゃないのか?など、友人関係でも家族でも偽善はありますし。もっと広く一般的に問えばいいと思います。善なる回答と偽善の回答の区別すらつかないかもしれませんし、もっといえば自分の善が偽善かもしれません。何が基本かは知りたいですね。  

noname#208045
質問者

お礼

こんにちは。 別の質問でもご回答頂いていましたが、こちらでも回答下さっていたのですね。 しかも気付かずに無視してしまっていました。 申し訳ありません。 クリスチャンなのですか? 私の解釈を書いてから問うべきというのはある筋に於いてはそうだと思うのですが、別の筋に於いては必ずしもそうとは思いません。 バイアスを掛けてしまう事になる場合もありますし、色々な理由からです。 質問の仕方は一つではないという事です。 さて、その後のご意見ありがとうございます。 頂いた内容に私なりの意見を言いますとこうなります。 >偽善について程度の高い回答をできる人はなかなかいないような これは敷居を高くして不注意な発言を控えて頂くための意味合いが強い(もちろんそれだけではありませんが)表示なので、誠実に注意深く語られたご意見であればそれが程度の高いご意見という事になります。 >表裏があってはいけないのか? 何も問題ないと思います。 >人のためと言いつつ自分のためじゃないのか? 人のためになる事が自分のためにもなる。自分のためになる事が人のためにもなる。 これは何も悪い事ではないと思います。 論外事項は沢山ありますが省きます。 キリスト教徒であれば、「自分の命を守ろうとする者はかえって失い、キリストのためにそれを捨てる者はかえって得る」事を知っていると思います。 そういう訳で、「何が基本か」は”自然の人”どっぷりでは多分解りません。 山に登った後は麓に戻らなければならないかもしれないが、とにかく一度は上らないと行けない。

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