聖書についての2つの疑問
- 聖書にはなぜ番号が抜けたり、重複したりする箇所があるのか?また、番号が付けられるようになった経緯は?
- 新約聖書の4福音書がマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順番なのはなぜ?詳しい理由について教えてください。
- クリスチャンが疑問に思う、聖書についての2つの疑問について解説します。
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聖書についての質問です。
私はクリスチャンですが、聖書について、どうでもいいような事ですが疑問に思うことが2つあるので、質問させてください。 1、先日、ローマ書16章を読んでいたときに気付いたのですが、23節の後になぜか24節が無くて、25、26節と今度は番号がダブっていることに気付いたのですが、どうしてこのようなことになってしまったのか?聖書には旧約、新約ともに、何章何節と番号がふられていますが、そもそもあの通し番号は、いつ付けられあのでしょうか?そして、聖書の他の箇所にも番号が抜けていたりしている箇所が存在するのでしょうか? 2、新約聖書の4福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという順番になっていますが、この順番はどのうな理由で決められたのでしょうか?書かれた順ならば、マタイよりもマルコの方が早いと聞いていますが、どうしてでしょうか? 以上、ご存知の方教えてください。宜しくお願い意します。
- tokkey
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1、 以下ページをご覧ください。 http://www.bible.or.jp/vers_search/taisyou_hyou.html このページが何を意味するか判らないかもしれませんが、要は「色んな言語に訳すときに、章や節の番号が、振り直しされてしまっている」って事です。 つまり「他の訳の聖書だと、章と節の番号が、質問者さんが見ている聖書と違っているかも知れない」って事です。 で、聖書の原書には、何章何節っていう番号は付いてないですから、訳す人が「ここを区切りにしよう」と、勝手に区切りを変えてしまい、訳すバージョンによって番号がバラバラになってしまったのです。 これでは「○○書の○章○節によると」などと引用する時に統一が取れなくて困りますから「これを基本にしよう」と統一が図られたのですが、どうしても整合性が取れない場所が出て来て、節番号が抜けたり重複したりしています。 元々番号の無いモノ、区切りが明確でないモノを、無理矢理に区切って、無理に番号を付けて行ったので、どっかでツジツマが合わなくなるのは仕方が無い事です。 2、 近代研究においては、それぞれの福音書の成立時期は、以下のようになっていると言われています。 マタイ:70年~100年ごろ成立。 マルコ:68年~73年ごろ成立。 ルカ:80年~100年ごろ成立。 ヨハネ:90年~110年ごろ成立。 しかし、保守的な学者は、マタイは70年以前の成立だと主張し、マルコが最初に成立したという説を認めていません。 初代教会の時代から福音書のならびを成立順とみなす見方(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順で成立した)があり、これが定着しています。 近代の研究では、これらの説は伝承にすぎず、実際の成立順とは違うという結論に達しています。 つまり「こっちの説ではこの順番で書かれて、あっちの説ではあの順番で書かれたと言っているに過ぎない」のです。 どっちの説を採用するとしても「書かれた順番が福音書の順番である」って事に違いはありません。
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- kraftkraut
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章、節の割り振りは13世紀のカンタベリー大主教 ステファン・ラングトンによる発案といわれています。 膨大なページ数の聖書から探したい句を見つけやすくする意味と、 多国語に翻訳された聖書の整合性を取るためと思われます。 新約聖書は16世紀に印刷業者のロベール・エティエンヌが節を振ったとされています。 それから長い年月を経て、版を重ねるうちに 一部節が抜けてしまったり、重複してしまったのではないでしょうか。 福音書の順番は、古来よりマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順番で書かれたと伝わっていました。 その為伝統的に古い順に収められていました。 後年の研究でマタイよりマルコの方が古い可能性が高くなり 今ではマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの順で書かれたという意見が大勢を占めています。 年代順と収録順の違いはここにあります。 尤も2000年近く前のものですので、正確なことわからず 書かれた時期の異論は多数ありますね。
お礼
回答有難うございます。 いろいろ教えていただけて嬉しい限りです。 感謝です。 お礼が遅くなり大変失礼しました。
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