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善人と善意とはどのようなことなのでしょうか?

noname#632の回答

noname#632
noname#632
回答No.7

>『善意』とは、ボランティア精神見返りを求めない気持ち 見返りを求めない気持ちですか・・・。私はそんな気持ちはただの見かけ上のことだと思います。あるいは本人や周りの人間が気づいていないだけか。 どんなに「私は見返りを求めていない」(あるいは「あの人は見返りを求めていない」)という人でも、その見返りを求めない行為がその人にとって苦痛以外の何ものでもない、という状態は有り得るのでしょうか? 「あの人を助けたい」、その気持ちが苦痛を和らげるための「見返り」そのものだとは言えないでしょうか? 「善意」は見返りを求めない気持ち。それでいいと思います。 なんだ話が違う!、と言われるかも知れません。 確かに哲学という観点から見れば「善意」は見返りを期待した行為と言えると思います。しかし、実生活における「善意」とは、やはり見返りを期待しない行為と言えるのでは? もし見返りを求めると「善意」の中身は変わるのですか? 「この人は見返りを求めていない」という認識でいた方が人間関係が円滑にならないでしょうか。 littlekissさんの求める回答ではないだろう、と言う事は重々承知ですが、これは大事なことです。 「善意」を疑うという行為はいずれ人間不信へと導かれてしまいます。 もし、御自分の人格が未完成だと思われるのでしたら、この問題を扱われるのをもう少し後に延ばされた方がいいのでは。心に暗い部分を持って他者と向き合わなければならなくなるでしょうから。 最後に >善人と呼ばれるひともなんだか実は悪人だったりするのではなかろうか 「絶対善」や「絶対悪」というものがあると考えておられるのなら、それは宗教で扱われる問題です。 「善」と「悪」というものは常に相対的なものだと思います。「わたし」にとって「善」でも「あなた」にとって「悪」であること、またその逆も然りです。 「善」または「善意」ということを考えたとき、「わたしにとって善いこと」を優先させる人間は未熟だといえるでしょう。出来る限り、所詮分からないことだとしても「あなたにとって善いこと」を考えつづけること。 その気持ちが人間の価値の一部になる、と私は思います。 的外れな回答が多くなりましたが、littlekissさんの求める回答の一部にはなれたのでは、と思います。

littlekiss
質問者

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