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善人と善意とはどのようなことなのでしょうか?

north073の回答

  • north073
  • ベストアンサー率51% (536/1045)
回答No.8

補足要求ありがとうございます。補足するほどの能力もないのですが。 私の考えているのと同じようなことはoni_ocさんが短くわかりやすくまとめてくださいました。 「善意」はその人が「よかれと思って」という考え方であって、他の人が「善い」と思うかどうかは別問題だということでしょう。 それから、spaceboyさんの御回答にもなるほど、と思いました。 「あなたにとっても善いこと」をよく考えることによってこそ「善意」が生きてくるのかもしれません。 で、つらつら「善意」について考えてみたのですが、抽象的な思考が苦手な悪い頭なもので、単刀直入に補足をいただいた事項について考えてみましょう。 >*質問者が頂いた回答を否定することを禁止します。仮に期待とは違う回答が来たとしても回答者の善意を否定することは認めません。  一文と二文で言っていることが違います。「善意」を否定するな、というのは一つの社会的コードとしてあるように思います。「悪意」でやっていることを否定するときは「すっぱり」でもいいけれど、「善意」でやっていることを否定するときは「善意」は感謝しつつも、その行為は否定する、というような。でも、行為を否定するな、ということは別の規律です。  で、このサイトの在り方を考えると、知りたい人と「善意で教えてあげる人」がいる、というより、知りたい人と「教えたい人」がいる、という構造に近くなっているのではないでしょうか。  もちろん、知りたいことを教えてもらったから、そのお返しに、その人や他の人に「善意」で教えてあげる、という人もいるでしょう。でも、ポイント制をとっているということは、参加者の「教えたい」欲を引き出すことにより、回答のインセンティブを得ようとしているわけでしょう。ランキング上位の方の質問回数が少ないのは、何でも知っているから、というより、「教えたい」から、だと睨んでいるのですがどうでしょう。  それとも、ネット上でいろんな人と知り合うのが楽しいから? コミュニケーション欲、とでもいいましょうか。  「善意」と「教えたい」欲と「コミュニケーション」欲とその他いろいろな「見返り(お礼とかポイントとか)」が欲しい欲で、このサイトの回答は支えられているのだと思います。それ自体は、一つのビジネスモデルとしても、コミュニティの設定方法としても正しいことだと思います。  それならそれで、「そーいったインセンティブが萎えるとコミュニティが壊れちゃうんで、あんまり否定的な補足をつけないでね☆」と言えよ、と思わなくもないですが、そう言ってしまうと身もふたもなさそうだから、「善意云々」と「善意」ですべてを代表させているのでしょう、きっと。 もちろん、ここの回答のほとんどには、「善意」が少しはあるんだと思います。でも、それだけではない。 littlekissさんが違和感を感じた「善意」というのは、実はかなりの夾雑物を含んでいるのではないか、それはたぶんボランティアとか募金でさえも同じような気がするのです。 じゃあ、その夾雑物がなくなれば、純粋な「善意」が現れるか、というとそうでもないような…。 一応の結論 (1) 「善意」と書かれていても、中身が「善意」だけとは限らない。 (2) 「善意」だからと言って、それに基づく行為が「善」だとは限らない。 (3) まあ、それでも具体的な想像力によって磨いていけば「善意」が「善」に結びつく確率もあがるかもね。  

littlekiss
質問者

お礼

再度お答えくださってありがとうございます。 やはりそういった答えになるんですね。 この前から『ルサンチマンの哲学/永井均』の本を少し読んでいました。 その中で、序章『星の銀貨』の主題による三つの変奏というお話がありました。 それを読んでから沸々とある想いがこころに引っかかっていました。 わたしがおもうことと私が思うあの人たちのおもうことはわたしのおもうことと違うと思いながらでも、『星の銀貨』の三つの変奏というお話を読めば読むほど違いがないことに思えてきます。『同じ』その違いをいっても意味のないことのようにおもえます。しかし、愚かかもしれませんが何か違うと感じずに入られないという私も私のうちに内存しています。これが、私の心の中に棲む天使と悪魔なんでしょうか?

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